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2024年8月31日土曜日

太宰治「富岳百景」と人工知能

 NotebookLMという文章要約サーヴィスがあります。


NotebookLM (google.com)


テキスト内容を要約してくれます。質問には答えてくれます。「富岳百景」入れてみました。


作者はなぜ周りの人との関係で苦悩していたのか?


作者が人間関係で苦悩した理由
作者は、周りの人との関係において、主に以下の3つの理由から苦悩していました。
自己嫌悪と自己不信: 作者は、自分自身を「学問もない。才能もない。肉体よごれて、心もまづしい」と酷評しており、強い自己嫌悪を抱えています。そして、周りの人々が自分の内面や苦悩を知らずに「わがままな駄々つ子のやう」と誤解していると感じ、孤独と疎外感を味わっています。
理想と現実の乖離: 作者は、「素朴な、自然のもの、従つて簡潔な鮮明なもの」を理想として追求しており、富士山の雄大な姿にさえも、どこか「棒状の素朴」さを感じて閉口しています。この理想主義的な傾向は、人間関係においても、相手との間に理想と現実のギャップを生み出し、失望や苦悩に繋がっていたと考えられます。
コミュニケーションの困難さ: 作者は、自分の考えや感情をうまく表現することができず、誤解を生んでしまう場面が何度か見られます。例えば、おかみさんに「あしたは、天気がいいね」と唐突に話しかけて、戸惑わせてしまっています。このようなコミュニケーションの行き違いが、人間関係のぎこちなさや不安定さを招いていた可能性があります。

これらの苦悩は、作者が周囲の人々と心を通わせたいと強く願う一方で、自己嫌悪や理想主義、コミュニケーションの困難さが壁となり、真の繋がりが築けずに苦しんでいたことを示唆しています。

作者が吉田で出会った娘と結婚を決めたのはなぜか?

作者が吉田で出会った娘との結婚を決めた理由
作者は、吉田で出会った娘と結婚することを決意した理由は、 における 富士山頂大噴火口の鳥瞰写真がきっかけ だったと述べています。
作者は、井伏氏と共に娘の母親と見合いをしていました。井伏氏が「おや、富士」と呟き、作者も釣られて振り返ると、そこには富士山頂大噴火口の鳥瞰写真が飾られていました。その写真を見た瞬間、作者は「きめた。多少の困難があつても、このひとと結婚したいものだと思つた。あの富士は、ありがたかつた。」と述べています。
なぜ富士山の鳥瞰写真が結婚を決意する理由となったのか、本文中には明確な説明はありません。
しかし、いくつかの手がかりから推測することができます。
作者は、それ以前から富士山を眺めながら、自身の芸術観や人生観について深く考えていました。富士山は作者にとって、単なる風景ではなく、自身の内面や葛藤を投影する対象となっていたと考えられます。
の直前に、作者は理想の富士の姿を求めて、御坂峠や三ツ峠を巡り、様々な角度から富士山を眺めています。理想と現実のギャップに苦悩し、失望にも似た感情を抱いていたことがうかがえます。
そのような時に、娘の家で偶然目にした富士山の鳥瞰写真は、作者に新鮮な感動を与えたのかもしれません。 では「まつしろい睡蓮の花に似てゐた」と表現しており、これまでとは異なる富士山の美しさを発見した可能性があります。
また、作者は「学問もない。才能もない。肉体よごれて、心もまづしい」と自己嫌悪に陥り、人間関係に強い不安を抱えていました。娘との見合いにも、自信のなさから「娘さんの顔を見なかつた」と述べています。
しかし、富士山の鳥瞰写真を見た瞬間に「きめた」と決意していることから、娘に対する好意に加えて、 自己肯定感を取り戻させてくれるような、運命的な何かを感じ取った とも考えられます。
これらのことから、富士山の鳥瞰写真は、作者の心の中のモヤモヤを吹き払い、新たな希望を与える象徴として映ったのではないでしょうか。そして、そのポジティブな感情が、娘への愛情へと繋がり、結婚を決意させる決定的な要因となったと推測できます。

作者は吉田で出会った娘とどんな会話をしたのか?


吉田で出会った娘との会話
残念ながら、提供された文章からは、作者が吉田で出会った娘とどのような会話をしたのか、具体的な内容は読み取ることができません。
文章からは、作者と娘のやりとりとして、以下の場面が読み取れます。
作者が結婚の承諾を得るため、娘と母親に経済状況を打ち明けた際、娘は「それで、おうちでは、反対なのでございませうか」と尋ねています。
作者が「おまへひとりで、やれ、といふ工合ひらしく思はれます」と答えると、娘は「結構でございます」と返答しています。
娘は作者をバスの発着所まで送る途中、「どうです。もう少し交際してみますか?」と尋ねています。
作者が「いいえ。もう、たくさん」と答えると、娘は笑っています。
その後、作者が「なにか、質問ありませんか?」と尋ねると、娘は「ございます」と答えています。
そして、娘は「富士山には、もう雪が降つたでせうか」と質問しています。
これらのやりとりからは、娘が控えめで穏やかな性格であること、そして、どこか不思議な感覚を持った女性であることがうかがえます。
しかし、これらのやりとり以外に、具体的な会話の内容は記述されていません。


作者は旅先で出会った人々とどのように関わろうとしたのか?


作者と旅先で出会った人々との関わり
旅先で出会った人々に対し、作者は、自身の内面と重ね合わせながら複雑な感情を抱きつつも、距離感を保ちながら関わろうとしています。
井伏氏との交流: 作者は、尊敬する作家である井伏氏の仕事場を訪ね、共に過ごしています。井伏氏の前では、服装に気を遣わない姿や弱音を吐露する場面も見られ、心を開いていたことがうかがえます。しかし、井伏氏の言動を冷静に観察し、「放屁なされた。いかにも、つまらなさうであつた」と描写するなど、一定の距離を保っているようにも見えます。
茶屋の女将や娘とのやりとり: 作者は、長期滞在する茶屋の女将や娘との間にも、親しみと距離感の間で揺れ動いています。時には冗談を言ったり、悩みを打ち明けたりするなど、心許している様子も見られます。しかし、自身の結婚話や内面の苦悩を深くは明かさず、踏み込んだ関係には至っていません。
旅先で出会う人々への観察と批評: 作者は、ハイキング中の友人、吉田の青年たち、バスの乗客、遊女たちなど、旅先で出会う様々な人々を興味深く観察し、彼らの言動や行動に鋭い批評を加えています。時には共感や親しみを感じながらも、基本的には突き放したような態度で接しており、自身の内面をさらけ出すことはありません。
吉田で出会った娘への特別な感情: 作者は、吉田で出会った娘に対して、結婚を決意するほどの強い感情を抱きます。しかし、その後のやりとりからは、積極的に距離を縮めようとする様子はあまり見られません。娘の質問に対しても、本心を隠したような曖昧な返答を繰り返しています
これらのことから、作者は、旅先で出会った人々に心を開きたいと願う一方で、自己嫌悪や理想主義的な面、コミュニケーションの難しさから、真の繋がりを持つことに対して臆病になっている様子がうかがえます。


作者はなぜ月見草に惹かれたのか?


作者と月見草
作者が月見草に惹かれた理由は、以下の3点から読み取ることができます。
富士山との対比: 作者は、富士山を「俗」と感じる一方で、月見草の可憐さに惹かれています。 には、バスの中から老婆が見つけた月見草について「三七七八米の富士の山と、立派に相対峙あひたいぢし、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた」と描写されています。これは、雄大ながらも作者から見ると「俗」な富士山と、小さくとも凛とした強さを持つ月見草を対比にして、作者が月見草の持つ芯の強さに共感していることを示唆しています。
自身の境遇との投影: 作者は、当時の心境を「陰欝」と表現しており 、結婚問題や仕事に対する苦悩を抱えていました。 では、作者が娘の悲しみに気づかず無神経な発言をしてしまったことを後悔し、自責の念に駆られています。このような状況下で、作者は月見草を「けなげ」で「金剛力草」と表現しており、逆境でも力強く生きる月見草の姿に、自身の理想とする生き方を見出していたと考えられます。
再訪の約束: 作者は、茶屋の娘に「来年また来て見るのだからね」と、月見草への再訪を約束しています。これは、月見草が作者にとって単なる美しい花ではなく、未来への希望や、再起を誓う象徴として特別な意味を持っていたことを示唆しています。
これらのことから、作者は、月見草の持つ力強さや可憐さに、自身の理想や憧れを重ね合わせていたと言えるでしょう。

作者は旅先で自身の内面とどのように向き合っていたのか?

旅先での作者の内面との向き合い方
作者は旅先で、主に 富士山とそれを取り巻く風景、そして出会う人々を通して、自身の内面と向き合っています。
富士山への複雑な感情: 作者は富士山に対して、一般的なイメージである「秀抜」「すらと高い」「ワンダフル」といったものとは異なる、複雑な感情を抱いています。 作者は「俗な宣伝」 を抜きにして、富士山の真の姿を見極めようと、様々な場所から富士を観察し、その度に異なる感想を抱いています。 しかし、最終的に作者は明確な答えにたどり着くことはなく、富士山の雄大さや存在感に圧倒されながらも、どこか距離を感じている様子がうかがえます。 このような富士に対する複雑な感情は、作者自身の芸術観や人生観の葛藤を象徴しているとも考えられます。
自然や風景を通して自己を見つめる: 作者は、富士山の他にも、周囲の自然や風景に対して鋭い観察力を発揮し、それらを自身の内面と重ね合わせて描写しています。 例えば、甲州の山々の「起伏の線の、へんに虚むなしい、なだらかさ」 や、吉田の町の「ひよろひよろに伸びた茎のやうで、暗く、うすら寒い感じ」 など、風景描写を通して、作者自身の不安定な心情や孤独感が表現されています。また、月見草の「けなげ」 さに惹かれる様子からは、逆境の中でも力強く生きようとする作者の姿勢がうかがえます。
人間関係における葛藤と自己嫌悪: 作者は、井伏氏や茶屋の女将や娘、吉田の青年たちなど、旅先で出会う人々と一定の距離を保ちながら交流を試みています。 しかし、自身の内面をさらけ出すことには臆病になっており、真の心の繋がりを求めながらも、自己嫌悪やコミュニケーションの難しさから、結果的に孤独を深めていく様子が描かれています。 特に、吉田で出会った娘との結婚話においては、自身の経済状況や将来に対する不安から、素直な感情表現ができずに苦悩する姿が印象的です。
このように、作者は旅先で出会う様々な風景や人間関係を通して、自分自身と向き合おうとしています。しかし、明確な答えを見つけることはできず、葛藤を抱えたまま旅を終えています。


(引用終わり)

話になりません。全然全く読めていません。こういう人工知能使って、これからの戦争は進められるそうですし、各国軍隊はおそらく使い方研究しています。日本の自衛隊も多分研究しています。
しかし政治とか期待値とか、人々の感情が混ざる局面では、まるで無力ですね。省略している部分が読めないものだから、結論が真逆になったりする。部分最適は探れるようですが。
ウクライナ戦争でも、例えばロシア軍の動きは局面局面だけを見ても理解できません。おそらく2023年4月あたりで、ロシア軍は「アメリカの覇権を終わらせる」ことに最適化した戦略に切り替えているのですが、国際政治学者さんたちはそれが理解できなかった。 NotebookLM的な思考をしているのでしょう。頭はいいんですがね。

前回とりあげたMapifiで表を作ってみました。


こっちのほうが間違いがない分ましですね。「草枕」とかではひどい出来だったのですが、本作は相性が良いようです。

2024年8月18日日曜日

マイケル・ハドソン「超帝国主義国家アメリカの内幕(Super Imperialism The Economic Strategy of American Empire)」Mapifyによるまとめ

 マイケル・ハドソン「超帝国主義国家アメリカの内幕(Super Imperialism The Economic Strategy of American Empire)」は現在および今後の世界情勢を考える上で超重要な本です。重要過ぎて日本語翻訳がアメリカ政府の圧力で出版差し止めになったくらいです。その後簡約版が出ましたが、入手困難です。


幸い、原本は閲覧できます。


https://michael-hudson.com/wp-content/uploads/2010/03/superimperialism.pdf


しかし不幸なことに、私に英文読解力がない。仕方がないからコマ切れにして翻訳ソフトにかけて日本語化して読んでいましたが、翻訳ソフトは日本語が不自然です。私は実は文学好きというより、ある程度以上の質の文章でなければ頭に入らない欠陥脳みその持ち主でして、読んでて苦しいったらありゃしませんので、途中まで目を通して放置しておきました。しかし今回

Mapify

なるAIに遭遇しまして、やってみたらたいそう分かりやすいです。とりあえずアップロードします。細かいところは気にしないでください。視覚的に、直感的に理解できます。

















日本で覇権の交代と通貨発行の交代は、
1、豊臣から徳川への政権交代、それにともなう通貨発行交代
2、明治維新

の2回しかありません。いずれも直接戦闘の末に通貨発行主体が交代していますから、わかりやすい。しかしイギリスからアメリカへの覇権の交代は非常にわかりにくい。第一次世界大戦から第二次世界大戦の長い時間をかけて、徐々に主導権はアメリカに移ってゆきます。

2024年5月1日水曜日

行動規範としての日本の物語の系譜

お釈迦様、孔子様、イエス様のような偉人たちは、我ら凡人に人間はどう行動すればを教授した。それらの教えは、それぞれ仏教、儒教、キリスト教と名付けられている。では神道はどうだろうか。

実は神道は元来行動規範がない。読んで字のごとく神の道である。人間の行動などどうでも良いのである。とはいうものの日本にも一応人間は住んでおり、一応社会生活を営んでいた。行動規範なしに社会を成立させることは不可能である。過去の日本人達は仕方がないから、物語の中の登場人物の行動で、規範を示してきた。誰それの生きざまは好ましい。よってそのように生きるべきである。誰それの人柄は好ましくない。よって誰それのような人間になるべきではない。そんな事例の積み重ねで行動規範を成立させてきた。他の宗教規範とはだから、少々異なる。


今井四郎

今井四郎は木曽義仲の家臣である。子どもの頃から共に育ち、主人と一心同体になっている。義仲は一時期京を制圧したが、やがて義経たちとの戦いに敗れる。木曽義仲もさすがにヘコむ。

「日ごろは何とも覚えぬ鎧が今日は重うなつたるぞや。」

今井四郎はこれ以上戦うのは無理とみて、主人を自害させようと説得する。

「御身もいまだ疲れさせ給はず。御馬も弱り候はず。

~(私が居れば千騎分の戦力です。しばらく防御できますから)~

あれに見え候ふ、粟津の松原と申す、あの松の中で御自害候へ。」

ところが義仲は今井と別れたがらない。

「これまで逃れ来るは、汝と一所で死なんと思ふためなり。所々で討たれんよりも、ひと所でこそ討ち死にをもせめ。」

すると今井は馬から飛び降りて、義仲の馬の口にすがって言う。

「御身も疲れさせ給ひ候ひぬ。御馬も弱って候。(小物に打ち取られて自慢されるのも悔しいから)ただ理をまげて、あの松の中に入らせ給へ」

数秒間まで「御身もいまだ疲れさせ給はず。御馬も弱り候はず」と言っていたのに、数秒後には「御身も疲れさせ給ひ候ひぬ。御馬も弱って候」である。いったい義仲とその馬は、疲れているのかいないのか。

論理的にはまったく問題外のこの発言によって、しかし、今井四郎は平忠度とならぶ「平家物語」の最も魅力的なキャラクターとなり、歴史にその名を残した。論理的に無茶苦茶であるからこそ、今井の主人への強い感情が表現されていて、その感情が魅力となっているのである。

説得された義仲は松林に向かうが、自害する前に射殺される。それを見た今井四郎は、

「今は誰をかばはんとてか、いくさをもすべき。これを見給へ、東国の殿ばら、日本一の剛の者の、自害する手本」

と言って、太刀を口にくわえて馬から飛び降りて、自ら刃に貫かれて死ぬ。


平家物語

平家物語の作者が、今井四郎の死ぬ瞬間に立ち会った可能性は100%ない。死ぬ瞬間に立ち会った人の話を聞いた可能性も、100%ない。全部創作である。そして創作物としての平家物語は、出来が大変良い。

冒頭は皆さまご存じ、「祇園精舎」である。

「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす」

続いて平家の台頭を描写される中で、小さなエピソードが挿入される。祇王である。

祇王は白拍子(しらびょうし)である。男装の女性が歌舞を演ずる。祇王は人気の白拍子で、平清盛の寵愛を受けた。しかし仏御前という白拍子に寵愛を奪われ、悲しんで山の奥に庵を結んで、極楽往生を願い念仏にふける。そこに仏御前が訪ねてくる。彼女もやがて寵愛を失うであろうと考え、清盛の元を離脱したのである。二人は念仏に専心して、やがて極楽往生を遂げた。

このエピソードが挿入されているのは、平家全体の今後の運命を暗示するためでもあり、女性を無下に扱ったから天罰当たって没落したという、因果を示すためでもある。冒頭が「祇園精舎」という仏舎名から始まり、続いて「祇王・仏御前」が全体の今後を暗示する。両方合わせて漱石などがよく使う、冒頭集約である。こんな都合の良い名前の女性が実在したとは、ちょっと考えにくい。創作であろう。創作者はご丁寧にも祇王の今様まで掲載している。

仏も元は凡夫なり

凡夫も終には仏なり

共に仏性具せる身の

隔つるのみこそ悲しけれ

ちなみに今様とは七五調の歌で、平安末期から流行しはじめた。「いろは歌」も今様の一種である。

色は匂へど 散りぬるを

我が世誰ぞ 常ならむ

有為の奥山 今日越えて

浅き夢見し 酔ひもせず

平家物語の冒頭もリズムは今様である。最後が字余りだが。


曽根崎心中

話は江戸時代に飛ぶ。初演は1703年だから今井四郎が死んだ1184年から500年以上経過している。金銭トラブルで絶望した徳兵衛二十五歳は、恋人のお初十九歳と心中を敢行する。二人が死に場所へ向かう道行は、日本文学史上屈指の名文とされている。

この世の名残り、夜も名残り、

死にに行く身をたとふれば、

あだしが原の道の霜

一足づつに消えてゆく

七五調である。今様である。500年経っても今様スタイルである。「今様」とは「現代風」という意味である。500年の永続性を持つ現代風スタイル、わけがわからないが探求しない。

話を戻して、恋人二人は松と棕櫚が並んで立っているところに行って相談する。

「(今わの時の苦しみで、死に姿が見苦しいといわれるのも悔しい。)この二本の連理の木に、体をきっと結ひつけ、いさぎよう死ぬまいか。世に類なき死にようの、手本とならん」

またも「手本」である。「日本一の剛の者の、自害する手本」と言って死んだ今井と一緒である。

「あとで色々言われるのが悔しい」「手本になる」、今井四郎と徳兵衛お初は500年経過しても同じである。近松がその時木の陰に潜んでいて二人の会話を聞いていた可能性は、100%ない。全部創作である。そこも同じである。

二人は剃刀で死に、作品は「手本」で締めくくられる。

「誰が告ぐるとは、曽根崎の森の下風、音に聞こえ取り伝え、貴賤群集の回向の種、未来成仏疑いなき、恋の手本となりにけり(終)」

つまり日本においては、倫理、行動規範は聖人君子神の子などが定めるものでは無い。一般人、敗者が死ぬ間際に定めるものである。無論実際には死ぬ間際に人とコミニュケーション取れる可能性は低いから、作者が創作するのだが、作者の創作動機は観客の支持を当て込んでのことだから、人々がそう考えていたと見て間違いない。死に際民主主義とでも言うべきか。


仮名手本忠臣蔵

タイトルそのまま「手本」である。四十七士をいろは四十七文字に当てはめて仮名手本としているのだが、無論人間としての手本という意味を含ませている。彼らは別にお家再興に成功したわけではない。吉良を殺したというだけである。吉良を仕留めて、その後(仮名手本には描写されないが)四十七人は切腹である。割りが悪い。客観的に見れば敗者である。しかしだからこそ、今井四郎や徳兵衛お初と同じく人々の手本になった。

こういうのはポトラッチの一種だと思われる。ポトラッチとはアメリカ先住民の習俗で、相手を歓待する際に自分の財産を破壊する行為である。財産で接待もするが、重要なのは接待ではない。浪費そのものである。財産を大規模に浪費することが、自分の正統性を証明し、相手への威嚇にもなる。実は似たような話が中国の春秋時代にある。

呉王闔廬聞允常死,乃興師伐. 越。越王勾践使死士挑戦,三行,至呉陳,呼而自剄(呉王の闔廬は越王の允常が死んだと聞き、越を討つ軍を起こした。越王の勾践は決死隊で挑ませ、歩兵を三列進ませ、呉の陣地にいたって声を上げさせて自分で首を落とさせた(史記・越王勾践世家))

この越の習俗も、ポトラッチの戦争バージョンであり、自殺の姿を敵に見せることにより、大幅な財産毀損で敵を圧倒する意味があったのではないか。その直後越軍は呉軍を攻撃し、大いに敵を破っている。自剄によって既に呉軍は圧倒されていたからである。

歴史家の落合淳思などはこの事件の実在を否定しているが、(私は彼の大ファンなのだが)私は存在しておかしくない事例だと思っている。そして越の人々は断髪文身、つまり倭人によく似ており、越軍が自死によって敵軍を圧倒したように、倭人の末裔も自死によって行動規範に自分で文言書き加えようとするのである。

もっとも、忠臣蔵の人気はポトラッチ的古俗にあるだけではなく、政権批判の意味もあるのではないかと考えている。浅野内匠頭の「浅野」とは、広島の浅野家の分家であり、浅野家は元来ねね、北政所、つまり豊臣秀吉の妻の実家である。であるならば赤穂浪士の活動は意味としては、徳川政権への批判である。赤穂浪士は将軍家の裁きに異議を唱え、自分たちの考える正当な処分を実現した。それを江戸庶民は支持した。明治維新は忠臣蔵から始まっているのではないかとさえ思われる。頃は元禄、好況である。織豊政権に近い社会の雰囲気だったはずである。


「壁と卵 – Of Walls and Eggs」

時代は一気に飛ぶ。2009年、村上春樹はエルサレム賞を受賞した。受賞者のスピーチは「壁と卵 – Of Walls and Eggs」という題で行われた。

当時村上春樹は、ノーベル文学賞の有力候補だった。賞金1億円と、文学者としての最高の栄誉が手に入る目前だった。しかし彼はあえて、ポトラッチをやりに行った。全てを捨てに行った。その後も有力候補としてマスコミに名前は上がり続けるが、私に言わせれば政治的によほど大きな変動がなければ、彼の受賞の可能性はない。このスピーチで可能性がなくなったのである。

https://murakami-haruki-times.com/jerusalemprize/


精読していただきたいのは後半である。

「我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにとっての硬い大きな壁に直面しているのです。その壁は名前を持っています。それは「システム」と呼ばれています」

イスラエル人がどんな顔をして聞いていたのかは想像しかねるが、村上はここで、イスラエルを単純に批判しているのではない。イスラエルの背後にある英米を批判している。彼らならこの文言の意味が理解できるだろう。批判相手を信頼してこの言葉を述べている。ウィストン・チャーチルが受賞するのがノーベル文学賞である。元来戦勝国サイドのシステムなのである。村上はそれに盾突いた。目の前にぶら下がっているニンジンを手で払いのけて、自分は敗者の側に立つと宣言した。

思えば日本近代文学も、敗者のための文学だった。幕府の人々の心境を代弁した漱石、敗戦の中で天皇と日本を擁護した太宰、戦後の対米従属の再考を促し、今井や徳兵衛のごとく自死した三島。村上はこのスピーチの瞬間、日本近代文学の正統後継者の地位を確立したと言える。

といって村上は戦争をしようとしているのではなく、批判相手と対話をしようとしている。礼儀を尽くして、一方的な非難にならないようにしている。これらは日本人的には十分手本になる行為なのだが、他の文化圏の人々にとってどうかはわからない。

しかし2024年5月初旬現在、既にシステムの製作者たちの凋落が明らかになり、システム自体の崩壊の日も視界に入ってきている。英米の人々特にアメリカ人は、覇権が長かったから敗者である自分たちの境遇を受け入れられずに悶絶しつづけるだろう。そんな時、敗者たちを理解し、語らい、寄り添ってあげる能力が一番高いのは日本人ではないか、ということを言いたくて本稿を構想した。年季が入っているからである。