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2014年3月4日火曜日

映画「ゴットファーザー」の構造解析のついでにコルレオーネ一族の失敗をかえりみる


ボナセッラの娘は顔をぐちゃぐちゃにされた。ドンは報復をした。
→ドンの息子(ソニー)は全身をぐちゃぐちゃにされた。ボナセッラは修復した。


ドンはパン屋の娘の恋人がイタリアに帰るのをストップさせた
→ドンの息子はイタリアに逃げた


コニーの結婚式では神父がおらず、卑猥な歌が歌われていた
→アポローニャの結婚式では敬虔な儀式が行われた


コニーの結婚式では新婦は父と踊る
→アポローニャの結婚式では新婦は新郎と踊る


ドンのお願いを拒絶した映画プロデューサーは、馬の首を切られた
→ソロッツォのお願いを拒絶したドンは、ルカの首を絞められた


ドンは小さなバーの会議で麻薬取引を断った
→ドンは大きく豪華な会議室で麻薬取引を了承した


ドンは車の外で撃たれた。外にはオレンジ
→ポーリーは車の中で撃たれた。中にはお菓子


ドンはオレンジを買おうとして後ろから銃で撃たれて倒れる
→ドンはオレンジを口に含んで孫を驚かし、後ろから水鉄砲で撃たれて死ぬ
(鉄砲=水鉄砲)


マイケルは病院の玄関の階段の上で頑張った
→バルジーニは階段の上から転がり落ちた


カルロがだましてソニーは車ごとぐちゃぐちゃになって殺された
→マイケルがだましてカルロは車のフロントガラスを割りながら殺された




という感じで対句で組み立てている。
それで、そもそも問題が難しくなって、
ドンもソニーもカルロもテッシオも死ぬはめになったのは、
最初にルカが殺されたからである。
コルレオーネファミリーは、最大の戦闘力を喪失して、
一気に戦いが苦しくなった。

ではなんでルカが殺されたかというと、
対句表現的には、トム・ヘーゲンが
プロデューサーの馬の首を切ったからである。
馬の首を切ってベッドに入れたのがまずかったのである。

例えば馬の尻尾を切って布団の中に入れておく、
とかだったらよかったのに、
ルカも手をナイフで刺されるくらいで済んだのに、
だったらタッタリア、パルジーニとの抗争も有利有利にことを運べただろう、
という奇抜な答えになる。

(「ゴットファーザー」の原案とも言えるドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」では、
トムに該当する人物はスメルジャコフといって、西洋に訪問したことのある、去勢手術を受けたらしい人物である。
トムのみがアイルランド-ドイツ系の人物であるのと同じように、
一人だけ異質の人物として描かれており、実際スメルジャコフが悲劇を生産してしまう)

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2013年8月20日火曜日

カラマーゾフの兄弟をよみとく 追加2

蛇足でダラダラ書く。
カラマーゾフの兄弟は、全13章ある。
単純計算で中心は第7章になる。

第7章のタイトルは「アリョーシャ」。
ゾシマの死体が腐臭を発するなかで、
アリョーシャは「カナの婚礼」の夢を見る。
新約聖書ヨハネ伝の一節を、夢の中で再現し、
イエスの姿と、死んだはずのゾシマの姿を見る。
夢から覚めたアリューシャは、
外に走りだして、大地につっぷして涙を注ぎ、
立ち上がった時に「一人前の男になっていた」。


中間すっとばして結論を述べる。
西洋文明には2つの源泉がある。
ヘブライズムとヘレニズム。
言い換えれば聖書文明と、ギリシャ文明である。
聖書文明の代表的存在は無論イエスキリストである。
ではギリシャ文明の代表は。
ドストエフスキーがここで代表として取り上げたのは、
ソフォクレスの「オイディプス」である。
運命により、知らずして父を殺し、知らずして母と性交してしまい、
のちにその事実を知り、絶望の余り自らの目を潰してしまう王の話である。

カラマーゾフはそのまんま、父殺しの物語である。
そしてアリューシャがつっぷして涙を注いだのは、母なる大地である。
無論ここは、母なる大地と性交して射精した、という意味である。
だから一人前の男になった。
その性交の直前に、父のように慕っていたゾシマのなきがらに側におり、
夢にイエスとゾシマを見る。

マクロな意味でのカラマーゾフの主題、というか達成課題は、
ヘブライズムとヘレニズム、2つの文明の融合である。
同様のことはゲーテがファイストでやろうとしたのだが、
ファウストはぶっちゃけ成功していない。バラバラ感丸出しである。
対してドストエフスキーは成功した。
だが成功しすぎたせいで、このような構造が余り評価されていないのかもしれないから、
難しいものである。


さらに蛇足を。
映画の名作「ゴットファーザー」は、「カラマーゾフの兄弟」のパクリである。
父は死ぬ。長男は血の気が多い、次男は陰気、三男は堅実に生存して次の物語に続く。
ご丁寧にスメルジャコフ役として、トムヘーゲンという養子まで用意している。
だから名作なのだ、とも言える。

ゴットファーザーでの暗殺シーン、
バルジーニは銃で撃たれて階段を転げ落ちる。
明らかに「戦艦ポチョムキン」のパクリである。
それが証拠に、パーツⅢではコルネオーレ一族が階段を転げ落ちて、
マフィア世界の王座を転落する。
権力からの転落を、階段からの転落として表現している。

ということで、「ゴットファーザー」は、
文学の最高傑作「カラマーゾフの兄弟」と、
映画史最初の芸術映画「戦艦ポチョムキン」を、
ドッキングさせた、非常に大きな構想を持った作品なのである。

似ている、ヘブライズムとヘレニズムをドッキングさせた「カラマーゾフの兄弟」に、
あるいは、荒事と和事をドッキングさせて、
終幕に「堀越二郎と堀辰雄に敬意を込めて」としるして、
そのドッキングを暗示した「風立ちぬ」に似ているのである。

2013年8月11日日曜日

2010年2月6日土曜日

「カラマーゾフの兄弟」をよみとく 11

このように見てゆくと、カラマーゾフの兄弟には結局3名しか登場人物が居ないということになる。というより3つ程度のキャラクターを立てれば人類のドラマは語れるということになる。だから「童(わらし)」なのである。
ミーチャは夢で見た焼け出された童を強く記憶にとどめ、最終的に「俺は無実だが、あの童のために懲役に行く」と言う。
そう、人類が3種類しかいないならば、ミーチャがゾシマであってイリューシャでもあるならば、焼け出された童もミーチャであり、全ての人間は同一の存在であり、他人が存在しないゆえに、自分に責任のないことも自分の責任であり、自分を愛するが如く隣人を愛するべきであり、自分が罪を背負うことがすなわち隣人の救済にむすびつくのである。万物斉同。
3種類、というのはおそらく、キリスト教の三位一体教義の影響だろう。

2009年7月3日金曜日

「カラマーゾフの兄弟」をよみとく 10

最後に主要登場人物対応表を掲載しておく。
なんとも上手な、小説技法ではありませんか。

2009年7月2日木曜日

「カラマーゾフの兄弟」をよみとく 9

もはや最後のパーツになった。
少年たちの中で、アリューシャに該当するのは、
コーリャであろう。
アリューシャがミーチャを救出するがごとく、
ゾシマの兄の記憶が決闘に向かうゾシマの魂を救出するがごとく、
コーリャは犬のジューチカを救出する。
そしてこれで、カラマーゾフの兄弟が、
都合4セット完成したことになる。

1)本来の兄弟
2)僧院での女性信者
3)ゾシマの過去語り
4)未来のカラマーゾフたち

僧院で女性信者はおそらく、
神の世界でのカラマーゾフの描写であろう。
現在、過去、未来、カラマーゾフは繰り返し存在する。
この構成の背後の思想を性急に類推しても、成果はすくないであろう。
ただこの構成をより詳細に検討することからのみ、
カラマーゾフというこの、
おそらく世界中の文学好きの頭を、
重苦しく押さえつけてきた問題作品の、
言葉は悪いが、有効利用の方法が開けるのではないかと、
私は考えている。

2009年6月28日日曜日

「カラマーゾフの兄弟」をよみとく 8

それで問題は、
少年たちの中でミーチャに該当する人物は誰かということである。
やや奇抜な結論になるが、
それは犬のジューチカ・ペレズオンである。

共通点としては
ミーチャは恋人を乗り換えている。
ジューチカ・ペレズオンも、飼い主を乗り換えている。
この一点である。
ちなみにゾシマも、軍隊から僧院に乗り換えている。
ゾシマの信者の3番目の女性も、知人のアドバイスからゾシマのアドバイスに乗り換えている。
なんでそんなに乗り換えキャラなのか、いまだによく理解できていないが、
とにかくミーチャ(および彼の化身たち)は、徹底的な乗り換えキャラということで、
終始一貫しているのである。

2009年5月29日金曜日

「カラマーゾフの兄弟」をよみとく 7

それでは未来に対応したカラマーゾフ兄弟とは誰か。
当然ながら、コーリャと仲間たちである。

それで少年たちのキャラクターを仔細に見てみる。
やはり分かりやすいのは、陰湿なイワンキャラである。
僧院でも、過去の人物でもそうだった。
未来の人物の場合は、
イリューシャがそれに相当する。
過去の人物ミハイルのごとく、
あっさり病死するからである。
では彼は、何の罪を告発したか。
「ジューチカに針を飲ませてしまった」
という罪である。

イワン:父殺しを告白する。
僧院の女4:夫殺しを告白する。
ミハイル:女殺しを告発する。
イリューシャ:ジューチカ殺しを告発する。

となって、これも綺麗に並ぶのである。

2009年5月25日月曜日

「カラマーゾフの兄弟」をよみとく 6

ここで「ゾシマの過去語り」を整理してみる。


大変わかりやすい。
さらに、以前アップした、ゾシマの女性信者のまとめと並べてみる。


適当に登場の順序を入れ替えながら、
上手に素材を使いまわしているのがわかる。
ではほかに、このような書き方をしている人々はいないものか。

過去語りの中の3兄弟は、文字通り過去の3兄弟である。
僧院の女性達は、3兄弟を抽象的に表現している。
文中で進行するのは、3兄弟の現在である。

そう類推するならば、
3兄弟の未来対応した登場人物が、
かならず存在するはずである。

2009年5月24日日曜日

「カラマーゾフの兄弟」をよみとく 5

僧院の女性信者の分析から、
おそらくゾシマの過去語りの登場人物も、
カラマーゾフ兄弟に対応していることが検討つく。

ゾシマの過去語りの登場人物は、
四人いる。

1:ゾシマの兄。若くして病死。
2:ゾシマ自身
3:召使
4:ミハイル

このうちミハイルは、
殺人と、隠蔽と、告白から、
ほとんどまったくイワン・カラマーゾフと同一人物である。

1:ゾシマの兄も簡単である。
本文の中で「アリューシャにそっくり生き写し」と書いてある。
つまり病死したゾシマの兄は、
アリューシャ・カラマーゾフと同一人物である。

最後にミーチャがだれなのか、さえ確定すればよい。
ゾシマ自身か、召使か、となるが、
ゾシマと召使の関係は、ようするに、殴る、殴られるの関係である。

となればこれも簡単。
ミーチャは、自分の親父も殴り、
イリューシャの親父も殴り、
どさくさにまぎれて召使も殴った。
つまり、ゾシマの過去語りの中では、
ゾシマ本人=ミーチャなのである。

2009年5月23日土曜日

「カラマーゾフの兄弟」をよみとく 4


ということで、とりあえずこれまでのまとめである。
第二編「場違いな会合」での、
ゾシマの女性信者の5人は、
全てカラマーゾフ兄弟に対応している。
大変美しい構造である。

それで次に考えることは、
「この小説のほかの部分にはこのような構造はないか」
ということである。
このシーンでこのように美しい構造を見せた以上、
これがドストエフスキーの考え方なのだから、
他のシーンでもかならずあるはずである。

考えるポイントは恐らく「殺し」で、
四人目、イワンに対応するキャラクターである。

と考えると、すぐ出てくる。
「ミハイル」である。
ゾシマ長老の思い出話に出てくる、
昔殺人をして、それを隠しており、
ゾシマの決闘→出家話に触発されて、
自分の罪を告発する紳士である。
かれのキャラの、繊細さ、陰惨さは、
イワンは、僧院の四人目の信者に、
どこかかさなるところがある。

2009年5月21日木曜日

「カラマーゾフの兄弟」をよみとく 3

そこで僧院につどったこの5人の女性を、
もう少し詳しく見てゆく。

一人目は癲癇の女性。
二人目は子供が死んだ女性。
三人目は、失踪した息子に帰ってきて欲しくて、過去帳に息子の名を記載するかどうかゾシマに相談する。ゾシマに説得されてやめる。ゾシマは「近いうちに消息がある」と予言する。
四人目は夫を殺した女性。ゾシマに罪は許されると言われる。
五人目は元気な農婦。ゾシマにお金を渡して、ゾシマを喜ばせる。

居住地の僧院からの距離の区分により、
一人目と五人目は、ワンセットであり、
二人目と四人目はワンセットであり、
三人目は単独でセットをつくっていることが明らかになっている。
この3つのセットのそれぞれの属性を見てみる。

一人目と五人目のセットは、「癲癇もちで元気」
なんだかわからない。

二人目と四人目のセットは、「子供が死んで、夫を殺した」
これは確かにセットであって、ようするに陰惨組である。

三人目セットは、「迷っていたが説得に従う」

そして、カラマーゾフの読者ならば既にご理解いただけたと思うが、
どうも一つ目の「癲癇もちで元気」なのは、
アリューシャに近いキャラクターである。

二つ目の「子供が死んで、夫を殺した」は、
イワンに近いキャラクターである。
実際には母が死んで父を殺した、となるのであるが。

三つ目は恐らく、ミーチャなのであろう。
小説の最後でミーチャは、シベリア送りになるところを、
アリューシャの説得で脱獄してアメリカに行こうとするし、
そのとき「俺は必ず戻ってくる」と宣言する。

この、物語の比較的最初の部分に出てくる、
五人の夫人の描写は、実に、
小説における三人の振る舞いを巧妙に暗示しており、
全編の雛形、あんちょこ、あるいは要約に近いものになっているのだ。
なんというか、ドストエフスキーの恐ろしいまでの構成力、筆力である。

2009年5月19日火曜日

「カラマーゾフの兄弟」をよみとく 2

気になって第二編「場違いな会合」の、
長老と女性信者の面会シーンを詳しく見てみる。
長老は5人の一般女性と、
一人の貴婦人(とその娘)に面会する。
順を追ってみてゆくと、

一人目は癲狂やみで、ヒステリーを起こしている。
長老はストールをかけてやる。ヒステリーは治まる。
6キロくらい先の村に住んでいて、以前も来たことがあるらしい。

二人目は300キロ遠方から来た人で、
子供が死んでしまった悲しさに耐えられなくなり、
亭主をほうっておいてここに来た。
長老にさとされて、心が癒され、亭主が心配になって家に帰る。

そらきた。
いきなりこれだ。
これは絶対に臭い。
一人目が6キロ先に住んでいて、
二人目が300キロ遠方の人。
このキロ数だけでも、非常に意図的な匂いがプンプンする。
詳細すっとばして、
続けて住所から僧院への距離だけを注目する。

三人目はこの町の住民。
四人目は500キロ遠方。
五人目は6キロ。

ほら、完璧ではないか。
5人の庶民の女性信者たちの、
住所と僧院からの距離は、
意図的に対称的に設定されているのである。

一人目6キロ
二人目300キロ
三人目0キロ
四人目500キロ
五人目6キロ

300と500の違いこそあれど、
きれいに対称になっている。
一人目と五人目は対になっているし、
二人目と四人目は対になっている。
ちょっとしたエピソード的な目立たない箇所だけど、
ドストエフスキーはここまで考えて小説を書いていたのである。

2009年5月18日月曜日

「カラマーゾフの兄弟」をよみとく 1

高校生のころから何度も読んできた本なので、
何回目の通読かは覚えていないが、
おそらく10回目以上だったのだろう、
わたしがその、決定的なヒントらしきものに気が付いたのは、
第二編「場違いな会合」の中の一節を読んでいたときのことだった。

長老はカラマーゾフ家の会合を一時抜け出して、
信者の女性達に面会に行く。
そのなかの一人が、やたら暗く、陰惨で、印象的である。

「結婚生活はつらいものでした。
夫は年寄りで、それはひどくわたしを痛めつけしたものでございます、、、
そのとき、あの大それた考えが心に湧いたのでございます」

この女性は、自分につらくあたる夫を殺害してしまったのだ。
長老はまずいと思ったのか、声を低くさせる。

「待ちなされ」
長老は言うと、耳をまっすぐ彼女の口に近づけた。
女は低い声でささやきつづけたので、ほとんど何一つ聞きとれなかった。
「3年目になるのだね?」
長老はたずねた。
「3年目です」

長老は彼女を励まし、首の聖像を彼女にかけてやる。
彼女は無言のまま、地に付くほど低く一礼する。

なにかあるぞ、直感的にそう思った。
この小説は父殺しが主題であるし、
長老は「場違いな会合」の最後で、
ミーチャの足元に深い礼をする。
そのミーチャはつまり、父親殺しの容疑者になる。
この、長老と信者の女性達の面接は、
単なるエピソードでも状況描写でもなく、
カラマーゾフの兄弟全編を予言するかのように、
主題を暗示している箇所ではないだろうか?

つまりカラマーゾフの兄弟という小説は、
ロシア的にのんべんだらりんと長い小説ではなく、
緻密に構造が計算されたものなのではないだろうか。

そしてその構造の謎をとくヒントが、
第二編「場違いな会合」の中の、
この長老と女性信者たちの面会のシーンに隠されているのではないだろうか。