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2014年10月30日木曜日

風立ちぬ・解説28

神曲煉獄編、魔の山、堀「風立ちぬ」と宮崎「風立ちぬ」の、
共通要素の一覧である。










もはや、いちいち細かい説明はしない。
この映画が傑作であるという証明は、
この一覧だけで十分である。


ダンテのこだわった「7」という数字は、
聖書由来のものであるが、
淵源をたどればメソポタミア文明にゆきつく。
メソポタミアは海から上がってきた7人の賢人が、
7つの都市を建設してから始まった、
という伝説があるらしい。
宮崎駿がそこまで意識したものかどうかは不明である。


文化とは連続である。
物語を要素に分解して、
「これでどんな物語も自由に創造できる」
とよろこんでいた時代もあった。
(お気づきだろうか、
物語を要素分解して、組み合わせを変えて再創造というのは、
遺伝子組み換え作業に酷似している)


だがそれは創造ではなく、
順列組み合わせの羅列でしかない。
人や民族や国と同じく、
物語も時間の上に連続して存在するものであり、
南北朝の楠→大阪の陣の真田→太平洋戦争の神風
のように、連続してひとを動かすものである。


そのような物語の連続性を描写しつつ、
宮崎終生の主題である、
テクノロジーと人間の相克を描いたのが本作である。
宮崎駿「風立ちぬ」の解読をこれにてひとまず終了する。



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2014年8月2日土曜日

風立ちぬ・解説27

映画「風立ちぬ」の参照する文学作品は、3つある。
前回触れたダンテの神曲・煉獄編
堀辰雄の「風立ちぬ」
そして作中カストロプの言う「魔の山」である。

魔の山はサナトリウム小説と言う意味で、
堀辰雄「風立ちぬ」の元になった小説である。

堀の小説「美しい村」がフーガの章を持つ教会ソナタ形式であり、
マンの名作「トニオ・クレーガー」がソナタ形式であることからも、
この時期の堀がトーマス・マンを尊敬し、目標としていたことは間違いない。

「魔の山」で主人公は、
友人を見舞う為にサナトリウムに行き、
そこで自身も結核に罹患していると診断を受け、
数年間をそこで過ごし、
やがて快癒し、山を下りる。
その間様々な人間と出会い、語らいながら、
自身の人間性を高めてゆく。
そのうちの代表的な人物は「セテムブリーニ」というイタリア出身の文士である。

神曲:主人公はウェルギリウスに導かれる
魔の山:主人公はセテムブリーニに導かれる
映画「風立ちぬ」:主人公はカプローニに導かれる

となっており、導く人間は全てイタリア人である。
堀の「風立ちぬ」はだれにも導かれないが、
「魔の山」も「神曲」あるいは二つの「風立ちぬ」との関連を、
十分考察する必要がありそうである。

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2014年7月30日水曜日

風立ちぬ・解説26

鈴木Pの「最後の平原はダンテ神曲の煉獄である」という発言から、
全体を見直してみる。

ダンテの神曲「煉獄編」は、
地獄編、天国編と同じく33章からなるが、
主題になっているのは7つの大罪の罪科のつぐないである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%9B%B2
より

第一冠 高慢者 - 生前、高慢の性を持った者が重い石を背負い、腰を折り曲げる。ダンテ自身はここに来ることになるだろうと述べている。
第二冠 嫉妬者 - 嫉妬に身を焦がした者が、瞼を縫い止められ、盲人のごとくなる。
第三冠 憤怒者 - 憤怒を悔悟した者が、朦朦たる煙の中で祈りを発する。
第四冠 怠惰者 - 怠惰に日々を過ごした者が、ひたすらこの冠を走り回り、煉獄山を周回する。
第五冠 貪欲者 - 生前欲深かった者が、五体を地に伏して嘆き悲しみ、欲望を消滅させる。
第六冠 暴食者 - 暴食に明け暮れた者が、決して口に入らぬ果実を前に食欲を節制する。
第七冠 愛欲者 - 不純な色欲に耽った者が互いに走りきたり、抱擁を交わして罪を悔い改める。

山頂 地上楽園 - 常春の楽園。煉獄で最も天国に近い所で、かつて人間が黄金時代に住んでいた場所という。


鈴木Pの言う平原は、山頂のことであろう。
そして風立ちぬは、
場所も章立ても7つに分かれている。


7という数字について、私はヨハネの黙示録の影響と考えていたが、

直接的には「煉獄編」の影響と考えたほうが確からしいだろう。

そこでさらに、以前考察した「タバコを7回すう」「鉄道に7回乗る」などを当てはめてみる。



七つの大罪がそれぞれ七回出現する、マニアックな構造になっている。
鉄道など菜穂子搭乗と混ざって私は考えていたのだが、
次郎の物語だから行動は全て次郎のものである。

なんでここまで細かく考えなきゃいけないのかと思われる向きもあるだろうが、
宮崎駿は普通に人類史上有数の芸術家である。
バッハやベートーヴェン同様、細かく解析できる作品を、作れるひとなのである。

タルコフスキー「鏡」の解析想起いただきたい。
ダンテの神曲、「地獄編」を参照しているが、
タルコフスキーは「3」にこだわって映画を組み立てた。

http://yomitoki2.blogspot.jp/search/label/%E9%8F%A1

宮崎は同じ神曲だが、煉獄編の主題である七つの大罪である「7」にこだわって、
映画を組み立てたのである。

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2014年6月5日木曜日

風立ちぬ・解説25

以前書いた飛行機と菜穂子の関係を再掲すると、

「菜穂子が油を吐いたとき、次郎は死を観念したに相違ない。
当時の日本のエンジン開発能力では、結核で油を吐いたらまず墜落なのである。
でもそのエンジンでも結果を残さなければならないから、祝言を挙げた。
機体そのものは花のように美しく、何度も口付けをして、愛した」

である。
広く言えば女性と戦争を結びつける、
和事と荒事を結びつける物語技法は、
古くから存在した。
西洋ではイーリアスが典型であり、
女性関係のトラブルからトロイの大戦争に発展してしまう。

中国では不思議なことに見当たらないのだが、
日本では例えば平家物語。
物語冒頭の「祇王」という白拍子の話が、
全編をコントロールしている。
平清盛が祇王という白拍子の愛人を、
粗略に扱ってしまい、祇王は山の奥に庵を結んで、
ただ西方極楽へ行くことだけを祈念しつづける。
平家の悲劇は、この女性へのつらい仕打ちが原因なのである。

あるいは「仮名手本忠臣蔵」。
鶴屋南北が忠臣蔵を上演したときには、
「東海道四谷怪談」と場面を交互に入れ替えて上演したらしい。
つまり、忠臣蔵と四谷怪談を合一しようとしたのである。
忠臣蔵は男の面子がつぶされる話、
四谷怪談は女の顔がつぶされる話、
同じと言えば同じである。

画像

だから戸板返しのシーンがある。
男世界も女世界も、
一枚の板の裏表であるという主張であろう。


さらに現代では、
「艦隊これくしょん」もある。
艦娘と一緒に戦い、あげくに「ケッコンカッコカリ」というシステムがある。
要は「結婚(仮)」という意味だと思われるが、
ゲームの目的が戦争の勝利なのか結婚なのかさっぱりわからない。
かなり強引に荒事と和事を合体させている。
そういう意味では、
「風立ちぬ」と「艦これ」は同じ趣旨のものである。


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2014年6月4日水曜日

風立ちぬ・解説24

そろそろ「風立ちぬ」の解説を再開したい。
堀辰雄の「風立ちぬ」のアウトラインまでを説明した。

堀の「風立ちぬ」のもっとも優れた点、
それは主客の合一が見られる点である。

主人公が風景を見ている。
風景が心にしみる。
なぜしみるか。
それは主人公の背後から同じ風景を、
婚約者が見ているからである。


「そうだ、おれはどうしてそいつに気がつかなかったのだろう?
あのとき自然なんぞをあんなに美しいと思ったのはおれじゃないのだ。
それはおれ達だったのだ。
まぁ言ってみれば、節子の魂がおれの眼を通して、
そしてただおれの流儀で、
夢みていただけなのだ」

仏教的とも言えるエゴの喪失、主体客体の合一が、
同時に宮崎駿の「風立ちぬ」のクライマックスになる。
それは主人公が菜穂子の隣でタバコを吸うシーンである。

「上手くいきそうだよ、
5匁くらい軽くなりそうだ」
「そう、よかった」
「30本で150匁だ」
「多すぎますわ、二人分だったらその半分でいいわ」

なんで肺結核で寝ている女性がリベットについて、
「二人分だったら」といわなきゃいけないのか。
ここで、菜穂子は堀の作る飛行機に完全に一体化しているのである。

http://yomitoki2.blogspot.jp/2013/09/13.html

で見るとおり、タバコは女性と別れるイベントの象徴である。
しかし、ここでは女性と別れない。
菜穂子が菜穂子のまま、飛行機と一体化するのである。


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2014年6月2日月曜日

タルコフスキー「鏡」・解読18

翻って、第一部冒頭の母と医者との会話を考える。
植物にも意識がある、という医者の主張も、
ダンテの神曲由来のものである。
「地獄編」の中で、
自殺者が樹木になって苦しむ描写がある。

ところで
作中の医者はなんとなくドイツ系の雰囲気で、
作中自殺したのはヒトラーである。
冒頭のシーンはヒトラーのソ連侵攻を暗示していたのである。

では第一部の少年時代の描写、
母の印刷工場でのシーンはどうだろう。
一瞬だが、ポスターにスターリンの顔が映っているのが見て取れる。
ということは、鏡像としてそこに対応する、
第三部知人宅での頼みごとのシーンの鳥の首を切る行為は、
スターリンの虐殺を暗示しているとわかる。
同国人を殺傷するという、望まない行為を強制された時代であった。
全編のクライマックス、空中浮揚のシーンに続くことから、
スターリン批判、スターリンの同国人虐殺が、
この映画の隠された主題であると判断できる。

ソ連は、あるいはロシアは、
かつてモンゴルタタールの侵入を受け、
スペイン内戦に関与し、
ヒトラーの侵入を受け、
中ソ国境紛争に巻き込まれた。
内にあってはスターリンという虐殺王の支配を受けた。

しかし、その歴史は克服された。
母と、父と苦難を共有し、
主人公が鳥になることで。

全体の構成再び見てみよう。

(第一部)
1、草原と若い母と旅の医者(幼年時代)A-1
2、母の印刷工場時代(少年時代)B-1
3、別れた妻との会話・カラー(成人時代)C-1

(第二部)
4、戦争の時代の記録映画(幼年時代)A-2
5、イグナートの留守番(成人時代)B-2
6、兵役訓練(少年時代)C-2

(第三部)
7、別れた妻との会話・モノクロ(成人時代)C-3
8、母とたずねた田舎の家での営業(少年時代)B-3
9、草原と老いた母と主人公(幼年時代)A-3

となる構成にしたがって、私なりに読み解くと

1、侵攻を喪失したロシアに、ヒトラーが接近した。ヒトラーは去ったが、国土は焼かれた
2、その後、圧制の時代になった。一言半句の間違いが命取りになる時代。
3、圧制も終わり、通常の生活の中でも、過去のスペイン内戦介入の残滓は引きずっている

4、スペイン内戦介入から始まる、全ユーラシアの戦乱の時代
5、思えばタタールの侵入以来のロシアの宿命はまさにそこにあった。全ての苦難を引き受けてきた
6、戦争で傷ついた教官が、両親を封鎖で亡くした少年に軍事訓練をほどこす。
苦しみの連鎖。少年たちは心の鳥(希望)を握り締めてしまう

7、一見平穏に見える現在の生活も、内実は非難と疲労で成り立っている。
涙の中から宗教への希求が立ち上がる。
8、強制されたとはいえ、最悪だったのは、スターリンの粛清の時代である。
だが、最悪の悲劇の中にも、意味は存在する。他者の苦しみを請け負うという意味が。
母なる大地の苦しみに、父なる神も寄り添う。子である人民も寄り添う。
9、歴史は克服され、ロシアの焦土化も回避される。
握り締めた希望は飛び立ち、主人公自身も鳥となり、希望を体現する


以上で「鏡」解説は終わりである。
映画史上屈指の難物といいえる作品だが、
ほぼアウトラインは描写できたのではないかと思う。

全編でダンテの神曲の影響が強い。
影響の最たるものは3という数である。
全編は3分割され、
それぞれさらに3分割される。
第一部と第三部は鏡像になっている。
地獄のような二十世紀ソ連にあっても、
なおも天上界を希求する姿勢の見える作品、ともいえる。
空中浮揚から希望へと続くストーリー構成は、
サクリファイスに大変近い。

「鏡」に対しては、
黒澤明の、
「脈絡が無いのが思い出なのだから、この映画は考えずに鑑賞すればよいのである」
という説明が有名である。
キリスト教の信仰や、スターリン批判を含んだ映画は確かに、
下手に細かく解説するとまずかったのかもしれない。
もうソ連で映画を作れなくなってしまう。

もっとも、本当に理解できずに、それでも感性だけは強いので、
感性だけで強引に鑑賞してしまったという可能性も捨てきれないのが、
黒澤の恐ろしいところである。

実際には、ガチガチの構成の作品である。
構成力のみで作られている印象さえ受ける。


同じように「神曲」の影響の強い作品、
「風立ちぬ」のDVDがそろそろ発売だから、
そちらの解析に移らなければならない。

「鏡」の冒頭に吹く風、あれはヒトラーの侵攻であった。
「風立ちぬ」の震災の描写はそれにそっくりだが、
象徴している内容も、似ている。


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2014年4月9日水曜日

タルコフスキー「鏡」・解読8

作中文学作品に関することが5回語られる。
うち4回はロシア文学である。

1、冒頭の棚に母が座っていたシーン。
チエホフの「6号室」が話題になる。

「6号室」は、チエホフの短編で、
精神科の医者が患者と仲良く知的な会話をしてしまい、
次第に「頭が狂った」とみなされ、病室に入れられて死ぬ、
という話である。
母にちょっかいをかけた医者は、
「植物にも記憶がある」ということを言ったりしたので、
母に頭を疑われる。
「あなた、ちょっと」
「いや大丈夫、私は医者だ」
「6号室は?」
「あれはチエホフの作り話だ」


2、母が印刷工場で非難されるシーン。
「悪霊」のマリア・チモフェーブナそっくりと言われる。
「悪霊」はロシアに革命をおこそうとした人々の動きを描写した小説である。
マリアは頭の狂った女性であるが、
狂人ゆえに正しいことを発言してしまう癖がある。

「6号室」、「悪霊」
ともに
「狂っているが正しいことを言う」
「正しいことを言う人が狂っているとみなされる」
という意味では共通している。

3、前述のプーシキンの手紙。

4、主人公が妻と語る2回のシーンの内、
後半のモノクロバージョン
「名前はドストエフスキーか?」
という。
これは嫌味で言っているので、特に意味はないと思われる。
ただし、ドストエフスキーは反体制運動をしていた人であり、
主人公はその場面で、
「われわれもブルジョア化したか」と、
当時の体制的な言葉で語っている。
かなり強い非難の声であるのと同時に、
主人公が(同様のシーンのカラーバージョンと異なって)、
体制的態度を持っていることが示されている。


5、印刷所でのシーン。
非難された母がシャワー室に逃げ込む。
非難した女上司はシャワー室を空けようとして、あけられず、
諦めてどこか楽しそうに立ち去る。
その際口にする言葉が、
「人生半ばにして我暗き森に迷い」である。

これはダンテの「神曲」地獄編の冒頭のセリフであり、
少し文学を知っているものなら誰でも思い出すセリフである。

宮崎駿「風立ちぬ」の、
主人公とカプローニが出会う平原が、
ダンテ「神曲」の煉獄をイメージしていると、
鈴木Pが言っていた。
つまりタルコフスキー「鏡」と宮崎駿「鏡」は、
ダンテの神曲という意味で共通している。

思い起こしていただきたいのだが、
まず「鏡」作中のモノクロの沼地のシーンは、
「腐海」を渡るシーンであった。
ナウシカの「腐海」を連想させずにはおれない。

http://yomitoki2.blogspot.jp/2014/03/1.html

そして「風立ちぬ」作中で「ピラミッド」という言葉が出てくるが、
まさに同じ用法でピラミッドという言葉が、
タルコフスキー「ノスタルジア」作中で出てくる。

そして「風立ちぬ」、というより宮崎駿自身が、
どれほどタフコフスキーから影響を受けているか指し示す「風」の映像がある。
以下リンクをクリックいただきたい。
映像小さくて見にくいが、
風に草が揺れる様を見ていただきたい。



「鏡」1分50秒から





「風立ちぬ」の風のシーン、それ以上に、震災のシーンに酷似しているのが理解できるだろう。


タルコフスキーが黒澤明から大きく影響を受けているのは、
有名な話である。

黒澤もタルコフスキーから大きく影響を受けている。

http://yomitoki2.blogspot.jp/2014/01/blog-post_3.html

宮崎駿は黒澤明から大きく影響を受けている。

http://yomitoki2.blogspot.jp/2014/01/blog-post_7236.html


そして「神曲」「腐海」「ピラミッド」「風」から明らかなように、
宮崎はタルコフスキーからも大きく影響を受けているのである。
特に「風立ちぬ」は最も影響を受けた作品と言えるのではないか。





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2014年2月27日木曜日

風立ちぬ・解説24

カプローニ「君はピラミッドのある世界とピラミッドのない世界、どちらが好きかね」
次郎「ピラミッドですか」
カプローニ「空を飛びたいという人間の夢は呪われた夢でもある」

岡田斗司夫はこのピラミッドを、美しさの象徴としている。
悪い解釈では無い。
しかしよりよい解釈は、
「理想の探求」である。


ピラミッドというシンボルの元ネタはタルコフスキーの映画、
「ノスタルジア」にある。

宗教的人類救済を志すドミニコという登場人物が、
ローマの広場で叫ぶ。

「誰かがピラミッド建設を叫ばなければならない、
完成できなくてもいい、
願いをもつことが肝心だ、
魂をあらゆる面で広げるのだ」

ドミニコはその後自分の体にガソリンをかけて火をつけ、
火達磨になった上で高いところから落ちて、
のた打ち回って死ぬ。
ここで言うピラミッドは、理想という意味であり、
そのようにとってはじめて、
「風立ちぬ」のカプローニの言葉の意味がきれいにつながる。



カプローニ「君は理想の探求のある世界と理想の探求のない世界、どちらが好きかね」
次郎「理想の探求ですか」
カプローニ「空を飛びたいという理想の探求は、呪われた探求でもある」

なぜ呪われているか。
それはヨハネの黙示録に書いてある。
天上、地上、地下と世界を分別し、
天上に上ろうと希求する気持ちが、
すなわち天からの墜落を発生させる。
上らなきゃ落ちないのは当然である。

黙示録には「落ちる」というイメージが頻発するが、
「風立ちぬ」にも墜落が頻発し、
ドミニコのように落っこちながら、火達磨になって滅んでゆくのである。

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2014年2月25日火曜日

メタレベル

メタレベルという言い方か正しいかどうか実は自信が無いのだが、
表面的な意味以上の意味を、作品全体で表現していることがある。

宮崎駿の映画で列挙する

千と千尋の神かくし(貨幣論・文明論)
ハウルの動く城(ネット社会と動力としての原子エネルギー)
崖の下のポニョ(遺伝子工学)
風立ちぬ(キリスト教、とくにヨハネのモクジロクへの異議申し立て)


小津安二郎ならば
東京物語(時間の静止と時間の再開)
浮雲(利得と損失のバランス)
秋刀魚の味(戦争(荒事)と恋愛(和事)の同一化)

すべての作品がそのような答えがあるわけではないし、
答えがあるから上等な作品というわけでもないが、
そのように読める作品も存在しており、
そのような作品はそのように読まなければならない。


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2014年1月29日水曜日

風立ちぬ・解説23

ヨハネの黙示録の簡単な説明

「風立ちぬ」でも「コミック版ナウシカ」でも、
宮崎駿はヨハネの黙示録を取り上げている。

聖書の中で、非キリスト教徒にとってもっとも問題のある文章は、
「ヨハネの黙示録」だからだ。

以下私の理解できている範囲内での解説。

イエス自身の考えは措いておく。
ローマ帝国がキリスト教を国教にしたのは、
1、ひとつの宗教で国家をまとめるため
2、強力な中近東文化に対抗するため
の2点の理由からである。

今日ローマが世界の中心であったかのような錯覚を持つのは、
歴史を西洋人が書いているからで、
モンゴル帝国まで、下手をすると産業革命までは、
人類の歴史の中心は中近東であった。
文化程度もずば抜けていた。
それに対抗するために、
ローマはキリスト教を国家の中心にすえた。
逆にいえばそのために、
キリスト教の「正典」を選ばなければならなかった。

初期キリスト教では、仏教で慢性的にそのような状況であったのおなじく、
多種多様な経典がやたらめったら製造されていた。
なかにはキリスト教とは名ばかりのものもあった。

ローマ帝国では、二ケア会議などの公会議を開いて、それらを分別して、
これぞキリスト教の本来の文章である、という決定をした。
仏教ではこういう決定をしていない。
なぜキリスト教では決定しなければならなかったというと、
最初から政治的要求にもとづく布教だったからである。

帝国内の各地方でまちまちの教義を信奉していたのでは、
国内はまとまらないし、
国外への対抗力も持ち得ない。

だから正統的テキストをまとめて、
従わないものは国外追放にした。
(そのうち一派は流れ流れて中国まで来たほどである)

しかし、ここで冷静に考えると、
いくらテキストをまとめて統一性を持たせても、
イエスの言行録、弟子の手紙や言行録では、
外部の敵に対して戦闘意欲は沸かないのである。
ペルシャ人に右頬を叩かれたら、左頬を差し出すのか。
ローマ帝国崩壊は必定ではないか。
本来外的に対抗するためにテキスト分別をしているのに、
採択されたテキストは品がよすぎるものばかり、
これではかえってまずいのではないか。

それで、公会議のメンバーたちは、
言行録の末尾に、
戦闘意欲を掻き立てるテキストを忍び込ませて新約聖書とした。
そのテキストが「ヨハネの黙示録」である。


この文章、はっきり言って新約聖書全体の中で浮きまくっている。
それまでの文章と全然関係が無い。
古今和歌集を読んでいたら、突然
「ラピュタは天空の城であり、かつて恐怖で地球を支配していた」と始まるような、
だいたいそんな感じである。

内容は一言で言うと、
「最終的に私たちは勝つ、そして敵は全部死ぬ」
である。
下品なこと極まりない。
おそらくまじめな公会議出席者たちにとっては、
この文章採択は苦渋の決断だったであろう。
背後にはローマ皇帝の強い影響力があったであろう。

というわけで、
かなり大人な事情で新約聖書に入れてもらえた文章なのだが、
明快に未来のビジョンを示す文章はこれしかないのだから、
どうしても影響力を持ってしまう。
宮崎の批判は正しいし、
キリスト教文化圏でも、普通に批判されている。
非クリスチャンの私としては、
新約聖書から削除していただけると、大変安心できる文章である。

ローマ法王さま、是非決断いただけないだろうかという意図を宮崎監督がもっているかどうかまでは、
定かではない。


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2013年12月29日日曜日

風立ちぬ・解説22

さて「幻想交響曲」は、その題の通り基本「幻想」の交響曲である。
主人公がアヘンを吸う。吸って幻覚を見る。
それが幻想交響曲である。
全5楽章は、すべてアヘンの夢である。
ということは、
堀辰雄の「風立ちぬ」という小説も、
全てが夢として創作されている、ということである。

全体が夢、全てが実態がないとすれば、
ここで描かれていることは、
この世の全て、世界の全てである可能性が高い。

(と、理論が飛躍しているように見える方をおられるだろうが、
芸術言語ではこういう思考回路はよくおこることなので、
そういうものだと思って先に進んでいただきたい。
世界の全て、宇宙の全てを描こうと思えば、
実生活からはまったくとりかかりの無い話なので、
全てが夢である、としか表現できないのである)

堀辰雄「風立ちぬ」の登場人物は基本3人で、
ほかにちょろちょろと数人人間登場するが、
父と娘、および作者である娘の婚約者(私)の3名の物語と見て大丈夫である。


さて、宮崎駿の「風立ちぬ」が、
はっきりとヨハネの黙示録を取り込んでいたことを思い出していただきたい。
おそらく堀辰雄も聖書を取り込んでいるはずである。
ならばおそらく、

父:主なる神
娘:子なるキリスト
私:精霊(言語情報として神の意思を伝える霊)ないし人類

という意味合いを持つことが類推される。

類推を補強するのは風立ちぬ(第三章)の記述である。
神経衰弱の患者が、縊死する。
縊死といえばマカベウスのユダである。
ユダも懊悩のあまり縊死した。

続く章、「冬」で、
娘は「私」が仕事にとりかかって娘との距離が遠ざかったこと、
および病態が悪化したことが原因で、
ふたりきりの生活をやめて、父の元に戻りたい、と言い出す。

そして娘はさらに病態を悪化させ、死にいたるのだが、
それはイエスの死である。
父の元に返るのである。
堀辰雄はここで、
日本の女性文学の伝統にのっとり、
イエスを女性として登場させているのである。

さらに全体の構造を考える。

物語は
「風立ちぬ、いざきめやも」で始まり、
娘が死んだ後、山奥の小屋で終わる。
「又どうかすると風の余りらしいものが、
私のあしもとでも二つ三つの落ち葉を他の落ち葉の上に
さらさらと弱い音を立てながら移している」
風が立って物語が始まり、
風が弱まりこそすれ、まだ残っている状況で物語は終わる。


ところで登場人物が父なる神とイエスならば、
これは世界の創造と発展の物語であるはずである。
風が立ち、世界が始まるのである。
風が弱まって、世界の終わりを暗示しながら小説が終わるのである。

http://tobifudo.jp/newmon/betusekai/hokai.htm

そう、風で世界が始まるのは、仏教思想である。

堀辰雄の「風立ちぬ」では、父は天地創造をしない。
天地創造のときに、若干自分の権利を主張するだけである。
(詳しくは
http://www.aozora.gr.jp/cards/001030/files/4803_14204.html
参照、
「もう二三日したらお父様がいらっしゃるわ」
というのがそれにあたる)


堀はここで、
仏教的天地創造神話のなかに、
新約聖書を入れ込む、という離れ業をやっているのである。
いわば仏教でキリスト教を包み込んでいる。
(ちなみに、離れ業をやっているから偉い、というわけではない。
私は依然として堀辰雄が嫌いである。
離れ業をやっている駄作なんぞいくらでもある。
「風立ちぬ」は駄作ではないが、万人に勧めたくなる傑作でもないと思う)


その意味で、太宰、坂口、あるいは遠藤周作などに先立ち、
キリスト教こそが西洋文明の根本であり、
西洋文明の克服にはキリスト教の超克こそが必要であると自覚した、
先端的な作家であったとは言えるだろう。

2013年12月28日土曜日

風立ちぬ・解説21

さてベルリオーズの幻想交響曲だが、
今日では「風立ちぬ」のような純文学にはふさわしくないような、
おおがかりで、少々B級な音楽と思われているが、
昭和初期だとそこらへんの感覚なくても仕方がない。
むしろ積極的に音楽を勉強している堀辰雄がほめられてしかるべきだろう。


「幻想交響曲」は5楽章に分かれる。
内容は、当時ベルリオーズが恋していた女優のスミスソンと、
出会い、再開し、野原で彼女への思いと猜疑にかられ、
結局刺殺してしまい断頭台へ送られ、
最終的に魔女の宴会で魔女の仲間になった彼女を発見する、
というひどい話である。

以下Wikiより
第1楽章「夢、情熱」 (Reveries, Passions)
彼はまず、あの魂の病、あの情熱の熱病、
あの憂鬱、あの喜びをわけもなく感じ、
そして、彼が愛する彼女を見る。
そして彼女が突然彼に呼び起こす火山のような愛情、
胸を締めつけるような熱狂、発作的な嫉妬、優しい愛の回帰、厳かな慰み。


第2楽章「舞踏会」 (Un bal)
とある舞踏会の華やかなざわめきの中で、彼は再び愛する人に巡り会う。


第3楽章「野の風景」 (Scene aux champs)
ある夏の夕べ、田園地帯で、
彼は2人の羊飼いが「ランツ・デ・ヴァッシュ」(Ranz des vaches)を吹き交わしているのを聞く。
牧歌の二重奏、その場の情景、風にやさしくそよぐ木々の軽やかなざわめき、
少し前から彼に希望を抱かせてくれているいくつかの理由[主題]がすべて合わさり、
彼の心に不慣れな平安をもたらし、彼の考えに明るくのどかな色合いを加える。
しかし、彼女が再び現われ、彼の心は締めつけられ、辛い予感が彼を突き動かす。
もしも、彼女に捨てられたら…… 1人の羊飼いがまた素朴な旋律を吹く。
もう1人は、もはや答えない。
日が沈む…… 遠くの雷鳴…… 孤独…… 静寂……


第4楽章「断頭台への行進」 (Marche au supplice)
彼は夢の中で愛していた彼女を殺し、死刑を宣告され、断頭台へ引かれていく。
行列は行進曲にあわせて前進し、その行進曲は時に暗く荒々しく、時に華やかに厳かになる。
その中で鈍く重い足音に切れ目なく続くより騒々しい轟音。
ついに、固定観念が再び一瞬現われるが、
それはあたかも最後の愛の思いのように死の一撃によって遮られる。


第5楽章「魔女の夜宴の夢」 (Songe d'une nuit du Sabbat)
彼はサバト(魔女の饗宴)に自分を見出す。
彼の周りには亡霊、魔法使い、あらゆる種類の化け物からなるぞっとするような一団が、彼の葬儀のために集まっている。
奇怪な音、うめき声、ケタケタ笑う声、遠くの叫び声に他の叫びが応えるようだ。愛する旋律が再び現われる。
しかしそれはかつての気品とつつしみを失っている。
もはや醜悪で、野卑で、グロテスクな舞踏の旋律に過ぎない。
彼女がサバトにやってきたのだ…… 彼女の到着にあがる歓喜のわめき声……
彼女が悪魔の大饗宴に加わる……
弔鐘、滑稽な怒りの日のパロディ。
サバトのロンド。
サバトのロンドと怒りの日がいっしょくたに。



以上ふまえた上で、幻想交響曲と風立ちぬを比較する

第1楽章「夢、情熱」(序曲)
特に共通点はない。
物語が始まるというだけである。

第2楽章「舞踏会」(春)
曲は快速な3拍子(ワルツ)である。
小説では主人公と婚約者はサナトリウムに移動する。
トニオ・クレーゲルでは第一主題が移動(行進)、
第二主題が踊りだったが、
ここでは同一ものとして扱われる。
堀はかなりトニオを参照している。
ちなみに、
トニオの邦訳が1927年
風立ちぬが1938年である。
いずれにせよ登場人物が活動的である、という意味では共通している。

第3楽章「野の風景」(風立ちぬ)
曲はゆっくりとした曲調。
小説もゆっくりしており、基本婚約者は寝たきりである。

第4楽章「断頭台への行進」 (冬)
行進なので、テンポはやめで、推進力をもって進む曲調である。
小説は、第三章で寝たきりの婚約者のそばに張り付いていた主人公が、
仕事(小説の構想を練る)ためにそこここらを散歩する。
ここも共通している

第5楽章「魔女の夜宴の夢」 (死のかげの谷)
曲はかなりグロテスク。
小説は大人しく、かなり共通していない。
ただ一つ注目すべき点は、
小説内で主人公が、リルケの「レクイエム」を読み始めることである。
曲のなかではグレゴリオ聖歌の「レクイエム」より、「怒りの日」のメロディーが流れる。
この点はあきらかに共通している。

というわけで、
対応関係はあまり明快ではないが
1、章の数が共通している
2、2,3,4章の性格が共通している
3、5章のレクイエムの部分が共通している。


ベルリオーズの「幻想交響曲」と、
堀辰雄の「風立ちぬ」は、
ほぼ有意な関係があると見てよいだろう。

もしも「美しい村」が明快な教会ソナタになっていなければ、
そこまで確信はもてないのだけれども。

2013年12月27日金曜日

風立ちぬ・解説20


風立ちぬ
さて話題は堀辰雄の風立ちぬに戻る。

堀の「風立ちぬ」は

序曲
春(移動する)
風立ちぬ(病室の中)
冬(歩き回る)
死のかげの谷

の5章に分かれる。

春と冬が対応している。
ということは、序曲と死のかげの谷が対応していると見て間違いない。

「美しい村」のような音楽的構成のような気もするが、
5楽章構成の曲で、このような内容の音楽がじつはあまりない。

バロックの組曲で

序曲
アルマンド
クーラント
サラバンド
ジーグ

というのはあるにはある。
が、致命的なことに、
三楽章クーラントの速度が速く、四楽章サラバンドの速度が遅い。

序曲
アルマンド
クーラント(急)
サラバンド(緩)
ジーグ(急)

序曲とアルマンドが、中庸のペース
という感じになることが多く、
風立ちぬのように、

序曲
春(移動する=急)
風立ちぬ(病室の中=緩)
冬(歩き回る=急)
死のかげの谷

という三楽章がもっともまったりとした曲、という構成にはならない。
堀辰雄の「風立ちぬ」は、
第三章風立ちぬが中心となるものなので、
どうしても第三楽章がゆっくりとしていないと、
対応しているとは言えないのだ。

ベートーヴェンの田園交響曲は5楽章構成だが、

「田舎に到着したときの愉快な感情の目覚め」
「小川のほとりの情景」
「田舎の人々の楽しい集い」
「雷雨、嵐」
「牧歌 嵐の後の喜ばしい感謝の気持ち」
という順序であり、
第三楽章はかなりアップテンポの曲になっている。

したがって堀辰雄「風立ちぬ」の雛形にはなりえない。

マーラーの交響曲第五番も同様の理由で却下。

唯一対応していると言えるのが
ベルリオーズの幻想交響曲である。
かなりグロテスク系の音楽(特に終楽章)なのでムード的には遠いのだが、
対応関係としてはもっとも近い。

次回は幻想交響曲と堀辰雄「風立ちぬ」対応関係について

風立ちぬ・解説19

映画「風立ちぬ」解読のために、
堀辰雄「風立ちぬ」を解読せねばならず、
そのために堀辰雄「美しい村」を解読するために、
トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」を解読しようとして、
トニオが準拠しているソナタ形式の解説をようやく終わったところである。


以下トニオの構造解説

提示部
A:主人公歩く(学校の帰り道、男の友人と)
B:主人公踊りを見る(好きだが手の届かない女の子の踊りを)
展開部
A1:主人公人生を歩む
B1:主人公自説をくるくる回転的に熱弁する(知人の女性に馬鹿にされながら)
再現部
A:主人公旅をする(故郷と、北海への旅)
B:主人公踊りを見る(提示部と男の子と女の子は結婚していた!)

小説としての出来はかなりよい。
個人的には読んで楽しくないのだが
(文体がくどくて重い)、
崇拝者が出現するのもよくわかる出来である。




ご覧いただきたいのだが、
芸術の言語は通常言語と音楽にはさまれた位置に存在する。

芸術言語は明確な意味がない。

言葉を多義的に、あるいは無義的にさえしようする。
だからどうしても形式が必要になるのである。

小説家、物語作家のいくつかは、
このことを十分に自覚し、
音楽に使用される形式を文学に適用できないかと考えた。

堀辰雄もその一人であり、
堀のような言語一つ一つを多義的に、使うひとならば、
(音楽に近い言語を使うということだから)
なおさら形式が重要になってくる。

重複になるが以下「美しい村」の形式

序曲:過去の女性への手紙、散漫な内容
美しい村:フーガ。村の中を歩き回る。
夏:新しい女性との出会い、まったりとした時間
暗い道:その新しい女性との道行きの短い描写

(参照、教会ソナタの典型)
1楽章:ゆっくりとして、自由な曲
2楽章:フーガ。テンポは速め。
3楽章:ゆっくりとした歌うような曲
4楽章:早目のテンポの曲

これほど形式を重視する作家ということは、
逆に言えばこれほど形式を重視しなければならないほど、
多義的な言葉遣いをする作家ということである、
ということを説明したくて、長々と音楽形式の説明をしてきた。

さてここまできて、
堀辰雄の「風立ちぬ」への解説に向かえる。

2013年12月25日水曜日

風立ちぬ・解説18

前回堀辰雄の「風立ちぬ」を解読しようとして、
堀辰雄の「美しい村」に話がそれた。
「美しい村」は教会ソナタという形式で書かれており、
音楽の形式を踏襲して書かれた小説であった。

さらに寄り道だが、
音楽の形式を踏襲してかかれた小説の代表作としては、
トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」がある。

「トニオ・クレーゲル」はソナタ形式で書かれている。
「トニオ・クレーゲル」の説明の前に、
まずはソナタ形式の説明をする。

まず書かなきゃいけないことは、
古い、バッハの時代の「教会ソナタ」と、
新しいハイドン・モーツアルト以降の「ソナタ」は、
まったく別物であるということである。
はっきり言えば言葉の意味が混乱している。

バッハ以前は「ソナタ」は器楽曲、くらいの意味である。

ハイドン以降は「ソナタ」は、ソナタ形式の楽章を含む曲、という意味である。
ソナタ形式は、バッハ以前はあまりかかれなかった。
ソナタ形式は、ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェンが発展させたと理解いただければOKである。

で、以下ソナタ形式の説明というか、
音楽の形式の説明である。


音楽の原初形態は、
(A)
である。
メロディー流れてはい終わり。

しかし人間はいくら才能があってもメロディー無限に創造できるわけではないから、
もっとリソースを大事に使いたいと考える。
そして次なる形式が考えられた。
(A+A)
そう、2回繰り返すのである。
単位時間あたりの手間が半分になる。
これでずいぶん楽になった。

空いた時間で、もう少し凝った構造にする。
(A+B+A)
Aのリピートの間に、違う要素を挿入する。
こうすると、同じAという素材を使った曲でも、
Bの中身を入れ替えれば、まったく違う局に出来る。

この手でさらにリピートする。
(A+B+A+B+A)
手間もかからず飽きない曲の出来上がりである。

さらにCという要素を入れて、さらに長い曲を作る。
(A+B+A+C+A+B+A)
ABCという3つのメロディーで、7単位時間埋めれた。
手間をかけずに、かつ飽きない曲が作曲できた。
こうやって、上手に労力を節約して曲を作ってきた。



さらに別のやりかたもある。
(A+A1+A2+A3)
変奏曲である。
一つのメロディーを微妙に変えて、何度も繰り返す。
これはメロディーを着想する手間は省けるが、
微妙に変える変え方が難しいから、頭が酷使される。
ただし曲としての統一感は最高である。なんせ基本同じメロディ-だから。

http://youtu.be/XQdqVeadhAY

リンクは「きらきら星変奏曲」。
メロディーを少しずつ変えて繰り返している。
「きらきら星変奏曲」はまあ名曲の部類だが、
変奏曲形式は時々、ものすごい名曲を生み出す。
頭にかかる負荷が半端ない分、
パワーのある作曲家は逆によい作品をつくれるのである。
たとえばバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのシャコンヌ」
「オルガンのためのパッサカリア」
「ゴールドベルク変奏曲」
ブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」
しかし、いつもいつもパワー前回というわけには、
人間いかないのである。
ちなみにバッハさんは2回の結婚で合計20人も子供をつくったくらいの、
それくらいの体力の持ち主でありましたことよ。


そんなわけで、作曲の歴史は作業効率化の歴史である。
なにか良いメロディーを思いついたとして、
そのメロディー(仮にAとする)を中心に、なるべく長い曲を書きたいのだが、
新しい要素を最小限に、
かつ頭を酷使せず、
かつ統一感を保つ形式はないものか。
そこでひねり出されたのがソナタ形式である。

(A+B + A1+B1 + A+B)

基本2つのメロディー(A+B)の繰り返しである。
AとBは基本的に、対照的なメロディーを使う。
Aが激しければ、Bはやさしいとか。
これで十分飽きがこないものになる。
そして途中に変奏を入れる。
頭を少々使うのである。
しかし変奏曲ほどは大変でなく、
かつ統一感も十分にある。

これがソナタ形式である。
変奏曲ほど手間がかからず、
かつなにやら知的でまとまった印象がある。
使いやすいので、作曲の必殺技として、
ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェン、シューベルト、メンデルスゾーン、シューマン、ブラームスくらいまで、最優先の形式として使われてきた。
一般の方が耳にする交響曲はたいていソナタ形式の楽章を(多くは第一楽章として)含んでいる。

(特急の説明なので、聞いたら音楽学者は激怒するような説明だが、
一般的にはこれで十分な理解である)

ソナタ形式の説明で1回分終わった。
次回はいよいよ「トニオ・クレーゲル」解説。

2013年12月23日月曜日

風立ちぬ・解説17


宮崎駿の映画「風立ちぬ」は、
堀辰雄の「風立ちぬ」を下敷きにしている、というより、
題名そのまんまである。

しかし、堀辰雄の「風立ちぬ」は、
宮崎の映画公開後も特に研究はされていないようである。
ネットで調べても、よくわかるレビューが出てこない。
理由は簡単である。
正直、面白くない小説だからである。


まず文体が悪い。
ものすごく読みにくい文体である。
内容もつかみにくい。
簡単な内容なのだが、文体が悪いせいで、
ものすごく把握しづらい。
といって、悪い小説とも言いづらい。
大変優れた部分も、あるにはあるからである。

とにかく下敷きである以上、
堀辰雄の「風立ちぬ」を理解しないことには、
宮崎の映画も理解できない、はずであるので、
いやいやながら読んだ。


短編小説「風立ちぬ」は、
5章に分かれている。

序曲

風立ちぬ

死のかげの谷

の5部構成である。


構成に凝るのが堀辰雄の特徴のようである。
私は新潮文庫の風立ちぬを読んだのだが、
あわせて収録されている「美しい村」も、
同様に構成に凝っている。

序曲
美しい村

暗い道

の4部構成になっている。

「美しい村」という小説の中の一部が
「美しい村」というタイトルになっていて、
かつそのなかで主人公は「美しい村「」という小説を、
書き進めている、というわけで、
入れ子構造というやつである。

そして、
第二章「美しい村」にはサブタイトルとして、
「或いは 小遁走曲(フーガ)」
と書かれている。
バッハの小フーガ ト短調 BWV 578のことである。
http://dtm-orchestra.com/little_fugue_in_g_minor.htm


中身は特に小説らしい話の展開はなく、
ただ単に主人公が村のあちこちを歩き回るというだけの話なのだが、
薔薇が、小鳥が、レエノルズさんが、天狗岩が、じいやが、子供が、少女が、
くりかえし登場してきて、
フーガで主題が繰り返される感じがしなくもない。

私も一応細かく分析してみたのだが、
フーガ的ではある。ただし、やはりフーガではない。
よく言って頑張って書いたフーガ風の文章である。


フーガというのは、カノン(輪唱)の発展したもので、
「かえるのうたが、きこえてくるよ」という歌をパートごとにずらして歌い始める、
あの形式と思ってさしつかえない。


フーガ、カノンの最大のポイントは、
ポリフォニー、つまり同時に複数のメロディーが演奏されることである。
一人が「きこえてくるよ」と歌うとき、
今一人は「かえるのうたが」と同時に歌っている。
しかし、文章でそれは不可能である。
だから小フーガをまねしたといっても、
まねしきれるものではなく、
単に読みにくい文章で、
エゴと環境がやたらと混濁し、
過去と現在がやたらと混濁するだけである。


「風立ちぬ」同様、面白いものではない。
しかし、全体の構成、4部構成というか、
冒頭に「序曲」とついている以上、
四楽章構成と言った方がよいだろう、
この構成自体は面白い。


4楽章構成で、2楽章がフーガとなると、
西洋音楽の分類では、典型的な「教会ソナタ」である。
「教会ソナタ」、たとえば無伴奏ヴァイオリンのためのソナタがそうなのだが、

1楽章:ゆっくりとして、自由な曲
2楽章:フーガ。テンポは速め。
3楽章:ゆっくりとした歌うような曲
4楽章:早目のテンポの曲

となる。

(教会ソナタの例
http://youtu.be/981I153BSXY



それで堀辰雄の美しい村では、

序曲:過去の女性への手紙、散漫な内容
美しい村:フーガ。村の中を歩き回る。
夏:新しい女性との出会い、まったりとした時間
暗い道:その新しい女性との道行きの短い描写

となり、教会ソナタの緩急緩急をほぼ正確に写している。


このような、音楽形式の小説を、
トーマス・マンも書いているのだが、
それは次回。

2013年12月16日月曜日

風立ちぬ・解説16

風立ちぬで今までに解析できたことは、
飲食7回
タバコ7回
鉄道7回ということである。

次に場所を見てみる。

物語の舞台が何箇所あるか、
東京内の場所の数をどうカウントするかになるが、
東京全域を1箇所とカウントするならば、
時系列で、
1、藤岡
2、東京
3、名古屋
4、各務原
5、デッソウ(ドイツ)
6、軽井沢
7、富士見(菜穂子のサナトリウム)
の7箇所になる。
これは映画のパンフレットにも明記されている。


場所が7箇所、
飲食7回、
タバコ7回、
鉄道7回、
となぜか7でまとめられている。

さて、前回コミック版ナウシカが、
「ヨハネの黙示録」を踏襲していると指摘したが、
ヨハネの黙示録では、
7つの教会へのメッセージを送り
7つの封印を開封し
7人の天使が7つのラッパを吹き
7人の天使が7つの鉢をぶちまける。

類似は明らかである。
風立ちぬもナウシカ同様に、
ヨハネの黙示録を踏襲している。

以下一覧表である。

風立ちぬ=ヨハネの黙示録

2013年12月14日土曜日

シュワの墓所について

アニメ版ナウシカは、
コミック版ナウシカの、
ごく一部に過ぎない。
そしてコミック版ナウシカの本質は、
キリスト教批判であり、キリスト教克服である。

ペリー来航で西洋文明に触れた日本人は、
大きなショックを受けた。
西洋文明を理解し、消化しようと努力を重ねるが、
彼我の能力差はあまりにも大きい。
深刻なコンプレックスを伴う苦闘の中で、
徐々に明らかになってきたことは、
巨大なる西洋文明の本質は、
科学技術ではなく、
科学技術の母体となったキリスト教であり、
聖書であるということである。

だいたい太宰治、坂口安吾のあたりから相手の正体は明らかになっていた。
太宰は「如是我聞」という文章でそのことについて触れており、
坂口は太宰死去に際に「不良少年とキリスト」という文章を発表している。
キリスト教との対峙はその後も続き、
遠藤周作の浄土真宗的キリスト教もそうだし、
漫画では諸星大二郎「生命の木 ぱらいそさいくだ」もその系列である。

宮崎駿もその系列に連なる。
コミック版ナウシカは、非常にバイブルを重要視して、
そこに強い批判を加えている。
(そのことについて、
クリスチャンであり、宮崎ファンでもある、
立花隆、佐藤優が本格的に議論しようとせず、
避けて通ろうとしているのは、まことに残念である)

巨大な生きた石の塊、「シュワの墓所」は、
バイブルのことである。
宮崎はこのコミック版ナウシカを、
「ヨハネの黙示録」を元に組み立てている。
大地の浄化に必要とされる1000年という期間は、
千年王国に対応する。

「ヨハネの黙示録」では千年王国出現の直前に、
「この世の支配者たちの上に君臨されるかた」が出現する。
その人物は「血染めの衣」をまとっている。
ナウシカの服がオームの血、のちにシュワの墓所の血で染まることに対応している。

旧約聖書の冒頭の創世記は、
天地の始まりを説き、
新約聖書の終結のヨハネの黙示録は、
天地のこれからを説く。
全ての時間は、バイブル二冊の中に封じ込まれている。
人間に許されるのはただ、
バイブルの解釈だけである。
全ては計算された出来事であり、
生きているのはバイブルのみであり、
全ての生物は生命のなかばをバイブルに奪われたままになっている。


ナウシカは、キリスト教が生んだ科学技術の産物である巨神兵、すなわち核兵器を用いて、
シュワの墓所を破壊する。
これが知性主義の結末であるというのだ。

キリスト教とナウシカ、両者の根源的な対立点を述べよう。
両者は生と死をどのように捉えるかで決定的な相違がある。

キリスト教では、死は敗北であり、悪いものであり、生と対立するものである。
ナウシカにとって、死は生と相互依存的なものである。
死があるからこそ生があり、両者は不可分である。


「ヨハネの黙示録」の最終章である第22章19に、
「また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる」
とある。
ここで言う「いのちの木」とは、創世記に記されている、知恵の木とともにエデンの園に生えていた「生命の樹」であろう。


知恵の樹の実を食べてアダムとイブは知恵を得た。
生命の樹の実を食べれば永遠の生命を得られたのだが、
神はそれを恐れてアダムとイブを楽園から追放した。
「ヨハネの黙示録」は、そのエデンに回帰しようとする物語である。
しかしナウシカは、知恵の樹も、生命の樹も、エデンも拒否した。
太宰や坂口は、ナウシカに会ったら、なんと語りかけただろうか?

2013年9月13日金曜日

含むネタバレ 風立ちぬ・解説15

鉄道について

登場人物が鉄道に乗っているシーンは9回ある。
うち2回は、二郎が鉄道に乗っているのだが、
明快には示されない。

初めはシベリア鉄道に乗っているシーン。
風景が映されるだけで明示されない。
二度目は失意の軽井沢旅行。
これも列車が映されるだけで、乗っている二郎は登場しない。

となると、明快に列車での移動が表現されるのは、
7回である。
7回!、飲食も7回、タバコも7回である。

1、列車乗車中に震災に被災
2、名古屋に移動中に列車で困窮した民を見る
3、ドイツでの夢。列車を降りると日の丸飛行機が墜落する夢を見る
4、ドイツから西へ移動中、カプローニ最後の飛行へと飛び出す。ピラミッドのある世界
5、菜穂子喀血の報を受け、泣きながら上京
6、二郎の手紙を読んだ菜穂子は、決心して列車で二郎の元へ
7、二郎の元を去った菜穂子は列車に乗る

ほとんど凄惨な状況の描写に結びついている。
4は凄惨なシーンはないが、ピラミッドのある世界を肯定する。
それは2と対応する。かれらはピラミッドの底辺として苦しんでいる民である。

いずれにせよ、この数の揃え方は、意図的なものを感じざるをえない。
というより、たいていの場合傑作は、このような細かくも壮大は設計を持っているものである。



2013年9月8日日曜日

含むネタバレ 風立ちぬ・解説14

食事について
食事シーンは7回ある

いずれも前途への希望に結びついている。



1、被災後お絹と菜穂子は二郎からシャツに含まれた水をもらう。
素晴らしい男性に巡り会えた喜びを感じる。

2、定食屋で二郎は鯖定食、本庄は肉豆腐を食べる。
二郎は鯖の骨の曲線美を設計の理想とする。

3、本庄はシベリアを食べながらお茶を飲む。
本庄はドイツ留学に選ばれ、結婚も予定が立っている。

4、フライヤでコーヒーを飲みながら二郎は設計主任を任される。

5、軽井沢の食堂内で二郎は菜穂子に会釈をする。

6、軽井沢の食堂内で二郎は菜穂子を待ちながらビールを飲む

7、二郎と菜穂子は黒川邸で三三九度の盃を交わす。



タバコのシーンも7回、食事のシーンも7回!!