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2024年11月27日水曜日

ステルス重層性

 「仁義なき戦い」の読み解きしていて気づいたのだが、

この作品は「ステルス重層性」とでも呼ぶべきものを持っている。

「仁義なき戦い」あらすじ解説【深作欣二】

普通の人がこの作品を鑑賞すると、


誰かが殺される→

♪チャリラー ♪チュリラー→

誰々死亡のテロップ→

♪ビンバンボンバン ♪ビンバンボンバン→

場面転換→

誰々は~のナレーション→

(最初に戻って誰かが殺される・・・)


の無限ループとして記憶されているはずである。ドラマの内容は、実は半分も認識されていない。

表面的な刺激、面白さが強すぎて、通常のドラマとしての理解が遠ざかってしまう。場面の意味をゴリゴリ考えて、ようやく中身が理解できる。

似たような構造の作品に、フェリーニの「8½(はっかにぶんのいち)」がある。

「8½(はっかにぶんのいち)」あらすじ解説【フェリーニ】

これも表面的な映像効果が素晴らし過ぎて、



面白過ぎて中身が頭に入って来ない。しかし頭が活性化していないわけではない。映画マニアほど映像効果に興奮するから、頭は非常に活性化している。つまり中身が頭に入って来ない方が正しい鑑賞態度になる。だから古い映画だが解釈が十分にされていなかった。



通常の作品ではこれら2作品よりも、表面的な面白さが少ない分、内容は把握しやすい。ところが名作になると、ゴリゴリ内容把握を進めてゆくと、第二層、深層への扉がいつしか開いて、より深い理解に到達する。私の場合、

「仁義なき戦い」「8½(はっかにぶんのいち)」のような表面が面白過ぎる作品も、

「シャッターアイランド」「ワンスアポンアタイムインアメリカ」「オッペンハイマー」のような文学的、本格的、真面目な作品も、

「シャッター アイランド」あらすじ解説【マーティン・スコセッシ】

「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」あらすじ解説【セルジオ・レオーネ】

「オッペンハイマー」あらすじ解説【クリストファー・ノーラン】

だいたい同じくらいの努力量で第二層に到達した。「シャッター」が日本の物語だと発見するのと同じくらいの努力で、「仁義なき戦い」では神原に土居組の現状を聞かなければ若杉は態度を決定できない事を発見した。他の人にとってどうかはわからないが、私の体験では分かりにくさという意味ではだいたい同等なのである。

いずれにせよ章立て表、キャラ表はやはり内容理解には必須だと感じた。物語論(今はカッコ良く「ナラトロジー」という言い方をすることが多い)は、肝心の物語内容理解のための方法論を持っていなかった。顕微鏡ナシで微生物の研究をするとか、望遠鏡ナシで宇宙の構造を考えるとか、そんな状態だった。その状態でも「物語とはなにか」と考える事は確かに出来る。実際望遠鏡ナシの時代でも随分宇宙について考えた。宇という字も宙という字も望遠鏡のない時代につくられたものだ。でもより深く宇宙を知りたいなら、望遠鏡を入手したほうが良い。望遠鏡の作り方も考えた方がよい。

2021年9月6日月曜日

架空の上限値

 「闇の奥」

https://note.com/fufufufujitani/n/n3e0c750e44c8


のような作品は、当時のアフリカのリアルな惨状を描写し、その裏で神話物語を描いている。表裏合わせて意味になる。

だから物語が現実から飛翔しているように感じられるが、その実神話は、自分たちの神話、自分たちのアイデンティティーなのである。つまり現実からはさほど飛翔していない。神話を上限値として現実に着地している。


似たような例では、「君の名は」

https://note.com/fufufufujitani/n/n5518c0062fb9


表面ではややとっぴな取替物語である。しかし裏にはアマテラス・スサノオ神話があり、裏もさのみ飛翔しない。表面の物語と裏の物語、飛翔度は実は同じくらいである。

ながなが説明したのは、物語は確かに架空のものだが、その架空度というか現実からの飛翔度は上限値があり、そこを外れすぎてしまうとメジャーなものにはなりにくい。

SFというジャンルの栄枯盛衰がこのあたりの事情を端的に表現している。日本でもかつてSFが流行った。今は流行らない。中国では今流行っている。今現在「科学の進歩神話」を信じられる人々の間でのみ有効な物語であり、「科学の進歩神話」が生活から遠ざかると無効になる物語なのである。架空の上限値を突破してしまうのである。


物語を支配するこの架空の上限値が、物語に構成を発生させる第一原因だと思っている。

2021年9月5日日曜日

リアルへの物語の回帰

 例えば漱石の「こころ」


https://note.com/fufufufujitani/n/n6b55283380ba

物語の別の層に、明治歴史物語がひそんでいる。

例えば太宰の「人間失格」

https://note.com/fufufufujitani/n/n1ca6e61dfbf8

別の層に天皇=日本の物語がひそんでいる。


市井の人間を描いているように見えながら、歴史をひそませている。

描かれている主人公の振る舞いは、あからさまに架空である。

逆にひそんでいる歴史物語は、現実に即している。


つまり物語の架空性は、増加していない。物語が重層的になって加算されたのは、現実性であって架空性ではない。裏に歴史物語を加えることによって、物語はスポーツ観戦に近づいている。リアルに近づいている。

物語にはリアルに近づこうとする力が働いているようである。

2021年8月27日金曜日

言語と物語の二本の足

 言語、およびそれにより組み立てられる物語には、

二本の足がある。

片足は現実に立っている。社会とは関係ない、リアルな物理的事象である。

片足は社会の上に立っている。

現実と関係がある必要はない。人々の脳に届けばそれでよい。


言語はコミュニケーション・ツールだが、

同時にまったくリアルの物理的事象から乖離できるわけではない。

言語は物理的事象を記述できるが、

社会的制約から離脱できわけではない。


社会的制約の最たるものが、物語である。

人々の納得する物語を作らなければ、人々の間で、意見も、見識も、事実さえも共有できない。


言語が二本足で立つならば、

おそらく貨幣もそうなのだろう。

現在の信用貨幣は物理的制約から離脱できていると思われている。

しかし言語がそうであるように、まったく物理的事象から無縁ではいられない。

今日ではそれは全銀協システムなのだろう

2021年8月26日木曜日

記憶の連鎖

 記憶力の優れた人が居て、見たものを物語化できるとする。初期段階ではそれは、「噂話」「バカ話」の類である。それが様々な部族、氏族、社会でどんどん積み上がってゆく。


すると社会の構成員には、2種類のインプットが存在しはじめる。


一つは現実そのもの

今一つは物語である。


現実は、実はいにしえよりさほど変化がない。変化するのは物語である。今日我々はかなり定型化した物語の中に生きているのと思われるのだが、原始社会ではおばちゃんの長話のみが大量に存在し、その大量の長話しの海から、徐々に物語の形式化が進んでいったと思われる。

しかしこの時点では、物語をブラッシュアップしているのか、文法をブラッシュアップしているのかわからない。「~語族」と物語の関係が今ひとつ明らかでない。


昔小泉文夫が「一つの民族は一つの歌しか持ち得ない」と喝破したことがあった。一つの歌がその民族のアイデンティティになる。他に歌があってもそれは最初の歌のバリエーションでしかない。その民族(でも部族でも、呼称はなんでもOK)の自画像というかIDカードとして文化はある。


ならば、物語もそうだろう。部族の始祖神話は、その部族特有のものであって、そも部族のIDカードになる。どうせ本当の先祖なんぞ誰にもわからない。

2021年8月24日火曜日

物語世界の誕生

 もしも視覚記憶が度外れて優秀で、サッカーの試合を1つまるごと記憶できる人が居たらどうだろう。その人はその試合の物語を完璧に語れることになる。


もっとも、90分の試合を言語で完璧に語るには、10倍程度の時間が必要になる。実用に耐えない。ビジュアル情報なしで一試合語れるのは、10分程度が限界だろう。そうでなければ、聴衆が飽きてしまう。となると100倍濃縮しなければならない。99%を削らなければならない。99%削った物語が魅力的で語り継がれるものになるか。絶対にならない。例えばこちらのテキスト速報


https://soccer.yahoo.co.jp/japan/game/live/2021080303


実際に動画を持っている人が、研究分析するのに役には立つ。章立て表のようなものである。だが章立て表がそうであるように、第三者が見て面白いものではない。よって、もしも「U24 日本スペイン戦」を物語にするには、動画と章立て表見ながら、別の仕事をしなければならない。それはより一層大胆に情報を削除し、必要とあらば架空の情報を付け加える作業である。


そうして事実を改変して作られる物語世界は、実際の試合から相違したものになる。当然である。物語は事実ではない。物語は現実ではない。しかし事実と全く関係がないわけでもない。

2021年8月22日日曜日

スポーツ観戦と記憶:【天才過ぎる】原稿を描かずにアメリカに行ってしまった手塚治虫。前代未聞の国際電話で原稿を仕上げる事を決意する。【岡田斗司夫/切り抜き】


手塚が「自分の書いた全作品、全コマ記憶している」という話である。

それで、こういう記憶力持った人物がスポーツ観戦するとどうなるんだろうな、と思う。てゆうか監督できるんじゃないか。運動神経よければ名選手になれるんじゃないか。イニエスタなんかいかにも記憶力高そうな顔している。

昔ジーコが「私は一度運転した道路は忘れない」と言っていた。「ホームチームが有利なのは、スタジアムの風景を暗記しているからだ」とも言っていた。スポーツも実は、記憶科目なのではないか。

江夏豊が「王、長島と対戦した時の配球を思い出しながら解説できる」という話も聞いたことがある。実際の対戦から20年経っても、1球1球配球の意味を説明しながら再現できる。超人的な記憶力だから、それゆえに、記憶力に復讐される。突然場外ホームランを打たれる。驚いて飛び起きる。全身ぐっしょり汗をかいている。よく見る夢だったそうである。引退から何十年たっても、記憶力が良すぎて、現役時代の恐怖がいつでも再現される。

つまりおそらく、江夏は「野球物語」ストーリテラーとしては、手塚レベルの天才だったはずだ。だから、細かく聞いてくれる人が居たからだが、「江夏の21球」が成立した。

物語作家の偏差値はだいたい記憶力に比例する。私は劣等生だから章立て表作るが。