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2024年5月1日水曜日

行動規範としての日本の物語の系譜

お釈迦様、孔子様、イエス様のような偉人たちは、我ら凡人に人間はどう行動すればを教授した。それらの教えは、それぞれ仏教、儒教、キリスト教と名付けられている。では神道はどうだろうか。

実は神道は元来行動規範がない。読んで字のごとく神の道である。人間の行動などどうでも良いのである。とはいうものの日本にも一応人間は住んでおり、一応社会生活を営んでいた。行動規範なしに社会を成立させることは不可能である。過去の日本人達は仕方がないから、物語の中の登場人物の行動で、規範を示してきた。誰それの生きざまは好ましい。よってそのように生きるべきである。誰それの人柄は好ましくない。よって誰それのような人間になるべきではない。そんな事例の積み重ねで行動規範を成立させてきた。他の宗教規範とはだから、少々異なる。


今井四郎

今井四郎は木曽義仲の家臣である。子どもの頃から共に育ち、主人と一心同体になっている。義仲は一時期京を制圧したが、やがて義経たちとの戦いに敗れる。木曽義仲もさすがにヘコむ。

「日ごろは何とも覚えぬ鎧が今日は重うなつたるぞや。」

今井四郎はこれ以上戦うのは無理とみて、主人を自害させようと説得する。

「御身もいまだ疲れさせ給はず。御馬も弱り候はず。

~(私が居れば千騎分の戦力です。しばらく防御できますから)~

あれに見え候ふ、粟津の松原と申す、あの松の中で御自害候へ。」

ところが義仲は今井と別れたがらない。

「これまで逃れ来るは、汝と一所で死なんと思ふためなり。所々で討たれんよりも、ひと所でこそ討ち死にをもせめ。」

すると今井は馬から飛び降りて、義仲の馬の口にすがって言う。

「御身も疲れさせ給ひ候ひぬ。御馬も弱って候。(小物に打ち取られて自慢されるのも悔しいから)ただ理をまげて、あの松の中に入らせ給へ」

数秒間まで「御身もいまだ疲れさせ給はず。御馬も弱り候はず」と言っていたのに、数秒後には「御身も疲れさせ給ひ候ひぬ。御馬も弱って候」である。いったい義仲とその馬は、疲れているのかいないのか。

論理的にはまったく問題外のこの発言によって、しかし、今井四郎は平忠度とならぶ「平家物語」の最も魅力的なキャラクターとなり、歴史にその名を残した。論理的に無茶苦茶であるからこそ、今井の主人への強い感情が表現されていて、その感情が魅力となっているのである。

説得された義仲は松林に向かうが、自害する前に射殺される。それを見た今井四郎は、

「今は誰をかばはんとてか、いくさをもすべき。これを見給へ、東国の殿ばら、日本一の剛の者の、自害する手本」

と言って、太刀を口にくわえて馬から飛び降りて、自ら刃に貫かれて死ぬ。


平家物語

平家物語の作者が、今井四郎の死ぬ瞬間に立ち会った可能性は100%ない。死ぬ瞬間に立ち会った人の話を聞いた可能性も、100%ない。全部創作である。そして創作物としての平家物語は、出来が大変良い。

冒頭は皆さまご存じ、「祇園精舎」である。

「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす」

続いて平家の台頭を描写される中で、小さなエピソードが挿入される。祇王である。

祇王は白拍子(しらびょうし)である。男装の女性が歌舞を演ずる。祇王は人気の白拍子で、平清盛の寵愛を受けた。しかし仏御前という白拍子に寵愛を奪われ、悲しんで山の奥に庵を結んで、極楽往生を願い念仏にふける。そこに仏御前が訪ねてくる。彼女もやがて寵愛を失うであろうと考え、清盛の元を離脱したのである。二人は念仏に専心して、やがて極楽往生を遂げた。

このエピソードが挿入されているのは、平家全体の今後の運命を暗示するためでもあり、女性を無下に扱ったから天罰当たって没落したという、因果を示すためでもある。冒頭が「祇園精舎」という仏舎名から始まり、続いて「祇王・仏御前」が全体の今後を暗示する。両方合わせて漱石などがよく使う、冒頭集約である。こんな都合の良い名前の女性が実在したとは、ちょっと考えにくい。創作であろう。創作者はご丁寧にも祇王の今様まで掲載している。

仏も元は凡夫なり

凡夫も終には仏なり

共に仏性具せる身の

隔つるのみこそ悲しけれ

ちなみに今様とは七五調の歌で、平安末期から流行しはじめた。「いろは歌」も今様の一種である。

色は匂へど 散りぬるを

我が世誰ぞ 常ならむ

有為の奥山 今日越えて

浅き夢見し 酔ひもせず

平家物語の冒頭もリズムは今様である。最後が字余りだが。


曽根崎心中


話は江戸時代に飛ぶ。初演は1703年だから今井四郎が死んだ1184年から500年以上経過している。金銭トラブルで絶望した徳兵衛二十五歳は、恋人のお初十九歳と心中を敢行する。二人が死に場所へ向かう道行は、日本文学史上屈指の名文とされている。

この世の名残り、夜も名残り、

死にに行く身をたとふれば、

あだしが原の道の霜

一足づつに消えてゆく

七五調である。今様である。500年経っても今様スタイルである。「今様」とは「現代風」という意味である。500年の永続性を持つ現代風スタイル、わけがわからないが探求しない。

話を戻して、恋人二人は松と棕櫚が並んで立っているところに行って相談する。

「(今わの時の苦しみで、死に姿が見苦しいといわれるのも悔しい。)この二本の連理の木に、体をきっと結ひつけ、いさぎよう死ぬまいか。世に類なき死にようの、手本とならん」

またも「手本」である。「日本一の剛の者の、自害する手本」と言って死んだ今井と一緒である。

「あとで色々言われるのが悔しい」「手本になる」、今井四郎と徳兵衛お初は500年経過しても同じである。近松がその時木の陰に潜んでいて二人の会話を聞いていた可能性は、100%ない。全部創作である。そこも同じである。

二人は剃刀で死に、作品は「手本」で締めくくられる。

「誰が告ぐるとは、曽根崎の森の下風、音に聞こえ取り伝え、貴賤群集の回向の種、未来成仏疑いなき、恋の手本となりにけり(終)」

つまり日本においては、倫理、行動規範は聖人君子神の子などが定めるものでは無い。一般人、敗者が死ぬ間際に定めるものである。無論実際には死ぬ間際に人とコミニュケーション取れる可能性は低いから、作者が創作するのだが、作者の創作動機は観客の支持を当て込んでのことだから、人々がそう考えていたと見て間違いない。死に際民主主義とでも言うべきか。

仮名手本忠臣蔵

タイトルそのまま「手本」である。四十七士をいろは四十七文字に当てはめて仮名手本としているのだが、無論人間としての手本という意味を含ませている。彼らは別にお家再興に成功したわけではない。吉良を殺したというだけである。吉良を仕留めて、その後(仮名手本には描写されないが)四十七人は切腹である。割りが悪い。客観的に見れば敗者である。しかしだからこそ、今井四郎や徳兵衛お初と同じく人々の手本になった。

こういうのはポトラッチの一種だと思われる。ポトラッチとはアメリカ先住民の習俗で、相手を歓待する際に自分の財産を破壊する行為である。財産で接待もするが、重要なのは接待ではない。浪費そのものである。財産を大規模に浪費することが、自分の正統性を証明し、相手への威嚇にもなる。実は似たような話が中国の春秋時代にある。

呉王闔廬聞允常死,乃興師伐. 越。越王勾践使死士挑戦,三行,至呉陳,呼而自剄(呉王の闔廬は越王の允常が死んだと聞き、越を討つ軍を起こした。越王の勾践は決死隊で挑ませ、歩兵を三列進ませ、呉の陣地にいたって声を上げさせて自分で首を落とさせた(史記・越王勾践世家))

この越の習俗も、ポトラッチの戦争バージョンであり、自殺の姿を敵に見せることにより、大幅な財産毀損で敵を圧倒する意味があったのではないか。その直後越軍は呉軍を攻撃し、大いに敵を破っている。自剄によって既に呉軍は圧倒されていたからである。

歴史家の落合淳思などはこの事件の実在を否定しているが、(私は彼の大ファンなのだが)私は存在しておかしくない事例だと思っている。そして越の人々は断髪文身、つまり倭人によく似ており、越軍が自死によって敵軍を圧倒したように、倭人の末裔も自死によって行動規範に自分で文言書き加えようとするのである。


もっとも、忠臣蔵の人気はポトラッチ的古俗にあるだけではなく、政権批判の意味もあるのではないかと考えている。浅野内匠頭の「浅野」とは、広島の浅野家の分家であり、浅野家は元来ねね、北政所、つまり豊臣秀吉の妻の実家である。であるならば赤穂浪士の活動は意味としては、徳川政権への批判である。赤穂浪士は将軍家の裁きに異議を唱え、自分たちの考える正当な処分を実現した。それを江戸庶民は支持した。明治維新は忠臣蔵から始まっているのではないかとさえ思われる。頃は元禄、好況である。織豊政権に近い社会の雰囲気だったはずである。


「壁と卵 – Of Walls and Eggs」

時代は一気に飛ぶ。2009年、村上春樹はエルサレム賞を受賞した。受賞者のスピーチは「壁と卵 – Of Walls and Eggs」という題で行われた。

当時村上春樹は、ノーベル文学賞の有力候補だった。賞金1億円と、文学者としての最高の栄誉が手に入る目前だった。しかし彼はあえて、ポトラッチをやりに行った。全てを捨てに行った。その後も有力候補としてマスコミに名前は上がり続けるが、私に言わせれば政治的によほど大きな変動がなければ、彼の受賞の可能性はない。このスピーチで可能性がなくなったのである。

https://murakami-haruki-times.com/jerusalemprize/


精読していただきたいのは後半である。

「我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにとっての硬い大きな壁に直面しているのです。その壁は名前を持っています。それは「システム」と呼ばれています」

イスラエル人がどんな顔をして聞いていたのかは想像しかねるが、村上はここで、イスラエルを単純に批判しているのではない。イスラエルの背後にある英米を批判している。彼らならこの文言の意味が理解できるだろう。批判相手を信頼してこの言葉を述べている。ウィストン・チャーチルが受賞するのがノーベル文学賞である。元来戦勝国サイドのシステムなのである。村上はそれに盾突いた。目の前にぶら下がっているニンジンを手で払いのけて、自分は敗者の側に立つと宣言した。

思えば日本近代文学も、敗者のための文学だった。幕府の人々の心境を代弁した漱石、敗戦の中で天皇と日本を擁護した太宰、戦後の対米従属の再考を促し、今井や徳兵衛のごとく自死した三島。村上はこのスピーチの瞬間、日本近代文学の正統後継者の地位を確立したと言える。

といって村上は戦争をしようとしているのではなく、批判相手と対話をしようとしている。礼儀を尽くして、一方的な非難にならないようにしている。これらは日本人的には十分手本になる行為なのだが、他の文化圏の人々にとってどうかはわからない。

しかし2024年5月初旬現在、既にシステムの製作者たちの凋落が明らかになり、システム自体の崩壊の日も視界に入ってきている。英米の人々特にアメリカ人は、覇権が長かったから敗者である自分たちの境遇を受け入れられずに悶絶しつづけるだろう。そんな時、敗者たちを理解し、語らい、寄り添ってあげる能力が一番高いのは日本人ではないか、ということを言いたくて本稿を構想した。年季が入っているからである。


2020年5月4日月曜日

手塚からの影響

司馬遼太郎の二つ年下が三島由紀夫、この二人は「通貨発行」について理解できている。間に挟まった安部公房はどうだかわからない。




その後も散発的にわかる人はコンスタントに居るのだが、政治畑に多い。逆に言えば文学系が不思議なことに「わからなくなった。」

一方こちらは、通貨発行がわからないか、はっきり間違えるわけでもないにせよ、感度が鈍い人。



要するに文化人でわからない人が増えたのである。文化人がわからなくなったのである。
内容的淵源探求の労力は私には払えないが、順序的に手塚が根源にあるとわかる。

手塚に反発する宮崎は、太宰に反発する三島のごとく、一枚剥がせば下僕のように忠実な後継者だから、困ったことにきっちり弱点を踏襲してしまった。そして決定的作品、
「千と千尋の神隠し」が生まれる。

「千と千尋の神隠し」解説【宮﨑駿】 


当時宮崎は司馬と親しかったはずだが、司馬がなんと言ったかは不明。私は司馬の監督不行き届きを攻めたいほどの気分である。

村上春樹も「ニーベルングの指環作品群」につらなりながら、どうも通貨発行に興味が薄いようである。村上龍は「経済も大事だ」と考えたまではよかったが、野菜先生なんぞに意見を聞いていたのでは、わかる資質があってもわからななくなるに決まっている。これは人選した編集者にも責任がある。庵野は「シン・ゴジラ」を見てもおそらく十分理解できていない。島田は問題外の蚊帳の外である。嘘だと思うならば「悪貨」なる小説、ドラマを見ていただきたい。最後まで我慢して鑑賞できたら、今日では勇者に分類されるほどの、それほどのレベルの低さである。

やはり手塚は巨大だった。日本コミック王朝の高祖というべき存在だった。文学者からアニメーターからまるごと影響をかぶっている。偉大すぎたのである。消化に時間がかかったのである。

2019年9月13日金曜日

アメリカにおける真実

作家の村上春樹氏が、一時期アメリカの大学で文学を教えていた。
自分の作品、例えば「ノルウェイの森」を学生に読ませる。
学生一人ひとりに解釈を聞いてゆく。
色んな感じ方があって面白い。

ところが最後に学生たちが言い出す。
「で、正解はどれなんですか?」

村上は、いや文学ってのは正解とかそういうもんじゃなくて、
おのおの色んな事を感じてもらえばいいんだと言う。
すると学生が怒りだす。

「作者が正解わからないってことはないだろう!!」

なかなか大変である。
良く言えばアメリカ人は真実を求める気持ちが強いのだろう。
悪く言えば、幼稚である。
MMTの騒動みていて以上を思い出した。

2019年5月1日水曜日

コミュニケーション・サークル・追記

コミュニケーション・サークル【貨幣・言語・音楽】
https://matome.naver.jp/odai/2155622226434432401
をアップした。自分でもなんだかよくわからん内容であるが、考えの整理としてはそれないりに価値があるのではないかと自負している。逆に言えば、現実的な政策提言としては大して価値がない。残念だか自分の実力なので仕方がない。

唯一まともな政策提言になっているのは、「フォントの重要視」である。今現在も横書きで文字を書いているが、石川九楊氏に言わせればそれは非常に無理があるらしい。なぜなら漢字もひらかなも縦書きを前提に文字が開発されたからである。ハネ、トメ、ハライすべて縦書きを前提に組み立てられている、だから横書きで並べても不自然さがつきまとうそうである。

私自身は自分で書いた文字が自分で読めないほどの悪筆である。縦でも汚く、横でも汚く、斜めでも汚いから差は全くない。それでもパソコン画面でやはり縦のほうが若干読むスピードが上がる。Kindleは縦書きに設定している。それはつまり、現在のフォントが縦書き用のものであり、漢字かなまじり文の本格的な横書き、横読みフォントは開発されていないと考えるべきである。このあたり文化省が研究機関に命じて集中的にデーター集めるべきである。読む速度、誤読率など、大きなデーター集めれば開発方針わかってくる。

未来の横書きフォントは、数字もアルファベットも親和的な、横書きメインのものであるべきである。なぜ世界最高レベルの知的水準にありながら、我々に数値的で理性的な判断が欠落する瞬間があるのか、それはおそらく文中に数字を組み込みにくいからである。英文ならば会計データーを組み込んで違和感がない。縦書きでそれを実現するのはたいそうな手間である。

日本の新聞は縦書きである。改善の見込みが薄い。情弱老人御用達である。人民日報は古くは縦書きであったが、現在は横書きである。知的水準に差が出るのも、むべなるかな。




2018年9月26日水曜日

深堀

普通文学の研究をする人は、まずその作家の全作品を読み、周辺の作家(たとえば太宰なら井伏や坂口安吾や川端や志賀)をできるだけ読み、作家の人生を調べ上げ、全集をさらに数回読んだりする。すばらしい努力量である。私には出来ない。敬服に値する。

しかし全員がそれをやりだすと、特定作品を深く読み込む人がいなくなる。実際あんまりいないようだ。観測できるのは、今は下火になったが一時期のロシア文学者と、現在の英米文学者である。英米文学研究者はさすがに人材が豊富なようで、少数ながらそういう人が居る。

遺憾なことに国文学かいわいにはほとんど生息していない。ひとつには、周辺の事象や作家を調査するのがあまりにも容易なので、そちらの調査に嵌ってゆくのだろう。それはそれで、悪いことではない。
周辺事象の調査は永遠に価値ある知見だが、深堀はより深く掘った人間が出現した時点で、研究としての価値がなくなる。むなしいといえばむなしい。マジョリティーになることは、おそらく一生ないだろうと思いながらやっている。

しかし喜びがあるから続けられるのである。やめられなくなるほどの楽しみがある。それはその作品を読めることである。

深堀り派以外の人間でも読むことは読める。しかし、その作家のすばらしさ、その作品のすばらしさは、深堀しなければ十分には理解できない。当たり前である。逆にいえば、全集何度も読む、といった作業は、実はたいして面白くないはずである。作業量的に、さのみ深くは読めないからである。そんなことをしていたら人生終わってしまう。

つまり、二者択一なのである。広く浅く読むか、狭く深く読むか。人間の能力は有限である。両方やるには人生80年では足りないのである。

社会にはどちらの人間も必要だと思う。しかし現実には深堀り派はほとんど生息していない。おそらく学校でまったく教えられないからである。たいてい、先生も、その先生も、そのまた先生も、「深堀する」ということじたい知らない。優秀な弟子ほど先生に忠実だから、深堀派は不利である。
それでもなんとか深堀派が増えればよいなと思う。深堀は良い。大量に作品を読まなくてもよい。怠け者の道である。同じ作品を深く読むだけだから、記憶力があれば空いた時間に手ぶらで研究ができる。なければ章立て表つくって見るだけでも研究にはなる。アマチュアには最適である。

今日の日本には文学科出身のひとは大量に存在しているはずである(私は違うが)。作家の周辺事情の研究にうんざりした人も多いのではないか。私はゴシップ研究家ではないと思った人も居るのではないか。そんな方はネタはなんでもよいから、時間はいくらかかってもよいから、好きな作品を、深く読むことをお勧めする。10回程度読み込めば、その作品の理解度は人類のトップ1%くらいにはなれる。同じ作品を30回読むひとはほとんどおらず、100回よめばライバルは数人程度である。マイナー分野の喜びである。碩学といわれるひとも、たいてい深くは読んでいないのである。

2014年2月25日火曜日

メタレベル

メタレベルという言い方か正しいかどうか実は自信が無いのだが、
表面的な意味以上の意味を、作品全体で表現していることがある。

宮崎駿の映画で列挙する

千と千尋の神かくし(貨幣論・文明論)
ハウルの動く城(ネット社会と動力としての原子エネルギー)
崖の下のポニョ(遺伝子工学)
風立ちぬ(キリスト教、とくにヨハネのモクジロクへの異議申し立て)


小津安二郎ならば
東京物語(時間の静止と時間の再開)
浮雲(利得と損失のバランス)
秋刀魚の味(戦争(荒事)と恋愛(和事)の同一化)

すべての作品がそのような答えがあるわけではないし、
答えがあるから上等な作品というわけでもないが、
そのように読める作品も存在しており、
そのような作品はそのように読まなければならない。


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2014年1月27日月曜日

パウロ神学と日本アニメ

おそらくイエスという人物が実際にやりたかったのは、
ユダヤ教改革と、ユダヤの王政復古であろう。
しかし死後弟子たちが、
「イエスの生涯には別の意味がある」と主張しだした。
今日のキリスト教はその主張を基に組み立てられている。

いわく、
「アダムとイブはエデンの園で蛇にそそのかされて知恵の実を食べた。
彼らは知恵をつけるとともに、性に目覚めた。
これが人間の「原罪」である。
イエスが地上に降臨したのは、
人間をこの「原罪」から救うためである」

この教義から以下の考えが導き出される

1、性をしらぬ子供は汚れなき存在である
2、性に目覚めた大人は原罪を背負った罪深い存在である
3、子供と大人は性の点で完全に二分される

ここでもしも
大人と子供には完全な区別がなく、
大人も子供のような格好をしてよい、となったらどうなるか。
キリスト教神学が成立しなくなってしまう。

日本アニメがやっているのは、まさにこのことである。

キリスト教は「原罪」つまり性の目覚めを前提として教義を組み立てているから、
大人と子供を峻別しなければならない宿命にある。
したがって、大人向けの「かわいい」コンテンツを製造することができない。
西洋文化の弱点とも言いうるし、
日本にとって大きな市場とも言えるだろう。
ジャパンはクールであるべきではなく、
かわいくあるべきなのである。


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2014年1月20日月曜日

死食

スイカに塩を振ると甘みが増すように、
生に死を振りかけると、生の味わいが増すようである。
死は最高の生のスパイスらしい。

タイ人は死体が好きである。
普通の女の子が、死体の写真を見ながら、普通に食事をする。
以前、バンコクの交通事故の事故処理ボランティアさんをテレビ番組を見たことがある。
毎晩スタンバっていて、連絡があると事故現場に直行する。
「人命救済に情熱がありそうには見えないけど、
この人たちなんでこんなことをしているのか」
と疑問に思いながら見ていたが、
今にして思えばあのボランティアのおじさんたちは、
死体フェチ欲求を満たす為に活動していたのであろう。

東南アジア奥地のある部族では、
高位の坊さんが死ぬと、丸焼きにして村全体で肉を食べる。
食べると高貴な精神を受け継げる、という能書きらしい。
昔写真を見たことがあるが、そんな能書きよりも、
上体を起こした状態で黒焦げになっている死体の皮膚から、
指で皮膚をつまんで口に入れている子供たちの、
金属面のような無表情な顔と、
まるでポッコリ穴が開いたような目の暗さが、
強く印象に残っている。

宇都宮および浜松市民には申し訳ないが、
餃子というもの、とくに中国で正月にかならず食べる水餃子は、
私には、胎児に見えてしょうがない。

キリスト教では、
死体が貼り付けられたフィギアを、
ネックレスにして胸に垂らして、
ことあるごとにそれに口をつける。
「とりて食え、わが肉なり」
「とりて食え、わが血なり」
その死体由来のものであると宣言されたパンとぶどう酒を摂取する行為が、
聖餐と呼ばれている。

以上のような視点から、
本邦における特攻隊物語の流行を考察すべきだと思う。
「風立ちぬ」のゼロ戦のパイロットの、
微妙な表情と微妙な腕の上げ方ひとつで、
ああ、これから特攻にゆかれるのだなとわかる私達。

その時、えもいえぬ「うずき」のようなものを感じるとしても、
別に恥ずかしくもなく、タブーでもない。
人類普遍のスパイス欲求にたいする、
日本人なりの、充足の方法論なのである。

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2013年12月12日木曜日

物語作家

1600年の日本の人口は、
1200万~2200万くらいと推定されている。
キリシタン人口は75万あったのではないかと、推定されている。
(いずれも論拠不確か)
少なく見積もって3%くらいはキリシタンだった。
今日日本の人口1億2000万
クリスチャン人口、多く見積もって1%の120万である。

江戸時代より前のキリスト教布教は成功し、
明治以降のキリスト教不況は失敗した。
その間になにがあったか。

識字化である。
江戸時代、侍以下多くの人々が、
読み書きそろばんをマスターした。
寺子屋が全国に広がった。
それでなにがおこったか。
物語の充実である。
文字の読み書きをすれば、
抽象思考能力が高まり、
物語咀嚼能力が高まる。
高まった能力は、対象を求める。
識字化により物語需要が増大した。

そして需要あれば供給があるものである。
江戸以前の物語、
記紀、源氏、平家、太平記も人々に広がったし、
新たに多くの物語が製作された。
代表的なものは、たとえば忠臣蔵、近松の心中物、八犬伝。
最後のものは中国の水滸伝がもとだが、
前二者はオリジナルである。
ここで前二者がいずれも主人公が死ぬ話であるということを覚えておいていただきたい。

かくて日本では、物語に充足した。
あらたに物語群を加える必要性がなくなった。
明治維新後、バイブルという物語の流布が再開されても、
すでに市場に余地はほとんど無かったのである。
東アジアでもっともクリスチャンの比率の多いのは、
1にフィリピン、2に韓国
いずれも自前の物語群の脆弱な国である。
これをもってしても日本の江戸期の物語の充実が、
(ひらかなの読みやすさからの流布力とあいまって)
相当な水準だったことが見て取れる。
そして明治以降も物語の生産は続いた。
円朝、漱石、鴎外、龍之介以下、連綿と続く。
物語を生産するのは作家に限らない。
溝口、小津、黒澤も膨大な数の物語を生産してきた。
宮崎駿はその最たるものであり、
影響力という観点ではおそらく、
一人で明治以降のすべての作家、映画作家の合算に匹敵するだろう。


では日本史上過去最大の物語作家は誰か。
私見では、大西瀧次郎である。
神風特攻隊の創始者である。
大西は文筆家でも映像作家でもなかったが、
軍事技術と、
膨大な予算と、
多くの若者の命と、
自分自身の命さえつぎ込んで、物語を作った。
「この戦争は勝てぬかもしれぬ。
ここで青年が起たなければ、日本は滅びますよ。
しかし、青年たちが国難に殉じていかに戦ったかという歴史を記憶する限り、日本と日本人は滅びないのですよ」
大西は知っていた。
国家、国民というものは、観念的、抽象的な存在であり、
物語によって作られ、維持されるものであり、
最高のシーン、最高の設備、最高の出演者をそろえれば、
最高の物語が描け、それが未来永劫受け継がれてゆくことを。

この物語、なにしろかけたコストが桁違いである。
これ以上の大作のクランクインは、今後数百年は不可能であろう。
その上江戸期の物語、
忠臣蔵(切腹するために戦闘する)、
心中物(死に向かう道が美しく描かれる)の価値観を十分踏まえ、
楠、真田のような歴史上の事件も背景として持つ。
戦況不利という必要に迫られたとはいえ、
なんとも上手に物語を作ったものである。
伝統的にみても、市場のニーズ的にみても、
最強の物語が出来上がってしまった。
この特攻隊の物語を、以降便宜上「大西物語」と呼ぶ。
戦後、この大西物語にいくつもの疑問が呈されてきた。
最低の作戦だ、犬死だ、無駄な死だ。
おしゃれで、スマートで、理論的には正しい意見である。
しかし当然ながらそれらの言説は、
大西物語ほどの予算をつぎ込めなかった。
今日で言えば、ハリウッド超大作と、自家撮り料理動画のYoutubeにアップくらいの、
絶望的なコストの差がある。
いくら頭をひねっても、
それだけ予算に差があれば、視聴者への説得力という点では勝負にならない。
だからいずれもそれを覆すほどの力は無く、
時が経つにつれ大西物語の力はますます大きくなってとどまるところを知らない。


あしたのジョー、ヤマト、ガンダム、スラムダンク、永遠のZero、
なぜそれらの物語が「泣ける」のか。
大西物語だからである。
大西を除けば明治以降最大の作家と言える宮崎駿も、
大西物語の手のひらの上にいる。
「ここが玉座ですって?
ここは墓場よ、あなたと私の。
あなたは外に出ることも出来ずに私といっしょにここで死ぬの」

大人しそうな少女の骨の髄まで、
特攻精神は浸透しているのである。
実際に特攻隊をアニメに登場させて、
それが引退作品なのである。
おそらく私たち日本人は、
この物語から抜け出せまい。
これ以上にコストがかかる作品が、製作不能だからである。


「青年たちが国難に殉じていかに戦ったかという歴史を記憶する限り、日本と日本人は滅びないのですよ」
まったくそのとおり。
滅びないといっても良いし、滅ぼせないといっても良い。
滅ぼすためには大西物語より説得力のある物語の製作が必要である。
当然大西物語以上の製作コストをかけなければならない。
そのコストの最低ラインは、
主演級俳優の死亡1万人以上、
一般出演者死亡300万人、
原爆2発を含む全国焦土化、
物語製作者は完成時に切腹。

2013年9月25日水曜日

聴覚世界

http://yomitoki2.blogspot.jp/2013/08/blog-post_18.html

に書いたことの続きである。図にしてみた。


芸術言語で記載された内容は、正解が無い。
正解とは理論言語で表記するという意味であり、
違う場所にある芸術言語と理論言語を自由に行き来することは、
元来不可能だからである。


和歌を完全に理論言語で表現出来るならば、
音楽を通常言語で語れるはずであり、
関数を和歌で表現できるはずである。
だがそれは無理である。


ちなみに、現在および未来の経済政策も、
この図ひとつである程度考えられる。
IT化によって社会に循環する情報は増大した。
だいたい以下の図の感じで増大したのである。


見てわかるように、
言語、音楽はIT化によって大量にコミニュケーション量が増大したが、
数字系コミニュケーションはさほど増大していない。

Youtube使っとる10代の連中には想像もつかんだろうが、
私が若かりし日には、音楽を聞こうと思ったら、レコードなんて高かったから、
FMエアチェックなんてものをして、要するにラジオを録音して聞いていたものであるが、
今はどんな音楽でも無制限に聞ける。
音楽情報の流通は、爆発的に増大しているのである。
しかし、いいねもリツイートも、しないひとには縁がない。
確かに年々盛んになっているが、音楽、言語ほどの増殖に勢いは無いのである。


音楽、言語の増殖を担ってきた旧来型メディアの
テレビ、映画、出版社はすっかり斜陽産業になっている。
数字=貨幣情報がITによって増殖できるようになっているならば、
本来銀行も斜陽産業になっているはずである。それがそうなっていないのは、
中央銀行→市中銀行と流れる法定貨幣のシステムに、取って代わるようなシステムがまだ出現していなからである。


具体的には、
Amazonなどのポイントが貨幣化するなり
「いいね!」が貨幣化するなりの道のりではないかと思うのだが、
こういう流れは二十年くらいかつ浮かびかつ消えて、
久しく実現化したる試しなしである。


考えれば、例えば日本でも江戸中期には全国的に寺子屋が広がって、
言語のほうは大量に拡大していったが、
紙幣は地方政府の藩札こそあったものの、
その拡大は言語にくらべれば遅々たるものであった。
大規模な紙幣の広がりは、明治維新を待たなければならない。
言語の広がりより、数字の広がりのほうが遅れるのである。


その原因として考えられるのは、

1、そもそも人間は数字よりも言語が得意、
というより国語嫌いより数学嫌いのほうが多い


2、貨幣は背後に強権が必要になる。Googleくらいの大きな会社ならば強権に近いものを持っていると思うし、実際ベルギーやモンゴルよりは権力ありそうなのだが、警察権持っていないのは致命的である。国家が中央銀行を守るように、IT企業の貨幣的活動を守るようにならなきゃ、なかなか実現難しい。

あたりだろうか。

いずれにせよ信用創造の主役が交代するまでは相当なタイムラグが有る。
その間はリフレ政策でしのいでゆくしか無い、ということがこの図から分かるのである。
かなり大規模な政策転換だから、あと20年くらいかかりそうな雰囲気である。

2013年9月1日日曜日

日本アニメ映画芸術爆発の原因

おおかみこども、風立ちぬ、それ以前ならば押井の攻殻、あるいはもののけ、なんでこんなに素晴らしい作品が生み出されるのか、私は本当のことを言うと理解できていない。

ルネサンスの芸術には、メディチ家というパトロンが居た。メディチ家はようするに、王様である。バッハ、モーツアルト、ベートヴェンは、生活のかなりの部分を教会や貴族に依存していた。ドストエフスキーやトルストイは、そもそも貴族である。
今日本には貴族は居ない。お金持ちがパトロンになってアニメを作らせている、わけでもない。なんでこんなに名作が生まれるのか理由がわからん。とりあえず仮説を立ててみた。

1、日本至高説。日本の大衆社会が大変高水準なものになっている。高度な芸術をやすやすと理解できる、かつての貴族階級の如き教養程度が高く文化的な大衆が大量に存在している。
(これは、私自身もその高水準な大衆とやらに加われるから、大変心地よい仮説である)

2、脱落アニメーター説。アニメや漫画のプロになろうとする若者は、わんさか居る。そして毎年毎年、その過酷な競争と劣悪な環境に敗れて、その業界から去る若者はわんさか居る。かれらはプロとしては続けられなかったかもしれないが、若干年でもプロの飯を食ったわけで、そいいう連中は消費者としては超一流になる。良い仕事を確実に正当に評価出来る元プロが、アニメ業界にはおそらく数万以上の単位で存在する。かれらが消費の中心となり、クオリティの高い商品の生産を促している。

3、国風文化説。映画はアメリカのものであった。アメリカが優れていた、というより戦争直後は世界のGDPの50%をアメリカ一国で占めていたのだから、みんなアメリカ文化にあこがれて当然であった。しかしその比率は20%までに落ちた。もはやハリウッドは、年がら年中人類が絶滅の危機に陥り、年がら年中危機から間一髪で救われるという、ワンパターンな作品しか作れなくなっている。それってそもそも危機じゃあないんじゃない?まるで映画だ、という意味を成さない文句はさておき、アメリカ映画へのあこがれ、逆に言えばアメリカ文化の圧迫が日本からなくなった。唐王朝が衰退して日本に国風文化が発達したように、アメリカが衰退して第二次国風文化が芽生えつつあるのである。

以上3説、どれももっともらしく思える。どれもあてはまるのかもしれない。よくわからない。

一般的に言って、多民族社会というのは文化生産能力は人口に割りに低くなる。ローマ帝国とギリシャ都市国家の文化力を比較せよ。最初のうちはローマも元気はあったが、帝国として肥大しすぎると、コロセウムの見世物、つまり今のハリウッド映画みたいなのしか作れなくなった。(唐王朝は?いやあれは後漢滅亡から400年かけて鮮卑中国人なる民族が成立したと見るべきだろう。)

文化とは民族のアイデンティティを決定するものであり、多民族社会に文化は生まれにくい。アイデンティティがぶつかり合ったら、社会が崩壊するのだから、文化生産にブレーキをかけざるをえなくなるから。

2013年8月18日日曜日

芸術作品の見方について

先日宮台真司氏の「風立ちぬ」感想を聞いた。
宮台氏は細田守を高く評価するなど、十分鋭い感性の持ち主である。
しかし「人物描写が不十分だ」などど言っていた氏の論評を聞きながら思った。
氏は芸術を論じる上での基礎が出来ていない。
(氏は風立ちぬに批判的だったが、その事自体はどうでもよい。
モナリザは大芸術だと思うが、私はモナリザが嫌いである)

基礎が出来ていないのは一人宮台氏の問題ではなく、
巷にあふれる論評の多くがそうであり、
そうであるならば、社会全体の問題である。
私見では根本原因は国語教育にあり、
私も随分反発してきたものだが、
今にして思えば国語教師も、大学の文学部教授も、基礎がわかっていなかった。

それは彼らの能力が足りないのではなく、
社会全体の智慧の蓄積が不十分だったのである。
それをこれから説明するのだが、
基礎と銘打つ以上、あっけないほどに簡単である。

聴覚世界は最低5分割するとわかりやすい。
1、数
2、固い言語(法律用語、学術用語、電化製品取扱説明書)
3、通常言語
4、芸術言語(女性言語はしばしばこの領域に踏み込む)
5、音楽
ちなみに本当は音楽は振動数の比で成り立っており、
5は1につながる、という円環構造になっているのだが、
図を作るのが面倒なのでこれで説明させていただく。

1、数字
1と1.1は別の数であり、1.1と1.11は別の数であり、1.11と1.111は別の数であり、1.111と1.1111は別の数であり、
数字それぞれは互いに排他的であって、どこまでいっても互いに侵食することがない。

2、固い言語
できるだけ数字のように、ことばそれぞれが明快に一つの意味を持つように構成された文章。
数字のように完璧にセパレート出来るわけではないので、しばしば誤解を生むし、
読みにくい文章になる。しかし出来るだけ明快になるように指向されている。
3、通常言語
文字通り通常の言語である。この文章は少々2寄りの3である。

4、芸術言語
出来るだけ言葉の意味同志が重なるように作られた文章。
明快に単一のものを指し示すことを、可能な限り回避する。
たとえば
花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
などは可能な限り意味を重ねて作られている歌である。

5、音楽
具体的な意味が全くなくなり、
芸術言語にあるような情緒性と、数的比率のみがある。

現代国語などで扱うのは、主に2ないし3の世界である。
それは構わない。仕事に使う領域なのだから。
まれに4を扱うが、うまく扱えない。マルバツが出来る世界ではないからだ。

文章を読む際にまず考えなければならないことは、
その文章が2なのか3なのか4なのか、ということである。
だいたいの目処がつかないままで取り組むので、わけがわからなくなる。
この5分割、中学生くらいで教えるべきだと思うのだが・・・

そして、映画もしかり。
ドキュメンタリー映画、記録映画は2である。
通常の娯楽映画は3と4の間である。
芸術映画は4を乱発する。

今回の風立ちぬは一見歴史系なので、
2と3の中間にあるように見えるところが、分かりにくい点である。
実際にはベタベタの4だ。
ベタベタの4であるならば、
菜穂子の人物描写が不十分、という批判は的はずれなのが分かるだろう。
なぜならば、あれほど詳細に戦闘機を描いたのだから。

(分かりにくい方は、以下を参照ください)
含むネタバレ 風立ちぬ・解説10