*簡単な自宅作業です。納期はありません。ノルマもありません。好きなペースで好きな作品を読み解きするだけです。
*今ならなんと参加費用が無料!!残念ながら給与もありませんが、楽しい作業なので気になりません!!時間をかければ誰でも大発見が期待できます!!
*現在たくさんの仲間と(ウソ)、古今東西の文学作品を大量に(これもウソ)、ハイペースで読み解き作業しています(これまたウソ)。時代の流れに遅れないように、文学好きの皆さん今すぐ参加してください!!!
1:文学研究へのお誘い
はい、皆様お察しのとおりです。まったく人手が足りません。現在5名で作業中です。時間不足を嘆いています。だから人員募集いたします。文学好きで興味がある方、どうか助けてください。
私たちの研究で明らかになったことは、
1、一部の文学作品は、高い構成力と奥深い重層性を持っている
2、研究者が内容を読めているとは限らない
3、一部の作家は名作を理解できる天才的な読解力を持つが、そのことを直接表現することはない。
ということです。
現在のメンバー・仕掛り表はこちらご参照下さい。
https://yomitoki2.blogspot.com/p/blog-page_8.html
表計算ソフトに打ち込みながら、全体構成把握してじっくり解析してゆけば、一般人でも天才作家と同等以上に読み解けます。なぜなら過去の作家は表計算ソフトを持っていなかったからです。道具がなければ勝負になりませんが、道具があれば相手が天才でも攻略可能です。
2:作家研究と作品研究
大学の文学研究者で長年特定作家を読み込んでいるような人は、さぞやその作品を深く理解しているんだろうと、皆様信じ込んでいます。しかし、研究者の先生も実はそんなに作品読み込んでいるわけではないのです。
そもそも研究者は特定作家の人生研究やら、作品の初出確認やら、周辺の作家の作品を読むことなどに時間を費やしていて、肝心の作品そのものの研究時間は実はほとんど取れていません。取る必要も感じていません。感じていても読み解きの方法論を知りません。
作家の人生研究も必要です。しかしそれだけでは問題です。一生を作家の研究に費やして、作品一覧と生涯年表作成しながら、作品は全く理解できていない人が普通に存在するのです。といって彼らが悪いというわけではなく、それが伝統的な文学研究であり、誰も疑問視しなかったのですから、社会全体の問題ですね。
「作品を深く読み込んだ画期的な評論」とかも時々出版されますが、買わないことをお勧めします。ほぼ確実にタイトル倒れです。だって読み込み回数が5回とか10回くらいですから、それで作品が理解できるならば、誰も苦労はいたしません。
もっとも「作品を30年で100回は読んだ」人の解説を読んだこともあります。アメリカ人でコロンビア大学の教授でしたが、それでもやっぱり読めてませんでした。こちらのケースでは読んだ回数は十分です。だけどペースが遅すぎます。その作品がそんなに好きなら、3年で100回読めばよかったのです。底の底まで読み込めたはずです。しかし著者がやったのは、30年で100回通読、1年換算3.3回、常識的なペースです。深い読み解きはちょっと無理です。疑問点考える時間が薄くなりますから。
逆に言えばどの作品でも、3年で100回程度注意深く読めば、底の底まで理解ができます。読書百遍意自ずから通ず。作家以上の集中力と時間を使えば、作家本人よりも理解できます。
しかし普通の人間が1年33回も、集中して読むのはちょっと無理です。第一時間がありません。仮に時間があったとしても全体ゲシュタルト崩壊とでも言いますか、反復しすぎで集中が切れ、意味が崩壊してゆきます。ですから普通は数回読んで研究終わりにするのです。つまり研究者の態度にもそれなりの妥当性は有るのです。しかしたとえば三島由紀夫の「豊饒の海」を数回の通読で理解することはまず不可能です。なぜなら三島が天才だからです。
3:天才作家は作家として天才である
当たり前ですね。同義反復です。でもこの当たり前のことを理解していない人が多すぎます。読解力に自信があるのでしょうが、それは自信ではなく過信です。奢れる秀才久しからず。
「能力値」と「費やす時間」で考えれば過信であるのは明らかです。天才作家たちは、ものすごく長時間考えて作品を作り上げます。時間の経過も忘れて、頭の中でエンドレスにグルグル内容考え続けます。驚異的な執着心と集中力、だから彼らは天才なのです。
その天才が下手すれば数年間も練り上げて、名作群が残されました。普通の人が数回読んで、覆うように理解できると考えるのは不遜すぎます。能力値にも差がありすぎ、費やす時間も差がありすぎます。
「だったら自分なんかには絶対無理」と思ったあなたは脈あります。「読み解き」するのが難しいと認識いただけたからです。名作の理解は元来難しいのです。難しいのが真実で、その認識が第一歩です。
そして世の中進歩します。ここで採択しているのはパソコンの表計算ソフトに打ち込んで「章立て表」と「登場人物一覧表」を作成し、さらに下敷作品を探して比較する研究方法です。
4:章立て表
章立て表はたとえばこのようなものです。太宰治の「斜陽」です。
この場合細かく書きすぎて効率悪かったようですが、それはさておき「斜陽」本文を10回読むよりも、本文2~3回読んだ後、この表を作成してアプローチするほうがはるかに効率的です。表をプリントして何度も何度も眺めるのです。
中学高校で関数習った時、グラフを書かされたと思います。耳で聞いた数式を、グラフで視覚で把握します。耳と目から、両方から攻めるのです。だから効率的に理解ができます。章立て表はグラフに該当します。視覚的に把握しようとする方法です。百聞は一見にしかずです。
もっとも漢字を使っているから視覚的なので、すべてひらかなでは意義は薄まります。アルファベットでも無意味でしょう。つまり日本人限定方法です。中国人ならいけるかもしれません。
表ならスピーディーに全体眺められます。本文読むことに比べて十分の一以下で全体読めます。1時間ヒマな時間を使えば、5~10回読めちゃいます。その時読むのは骨組みだけです。骨組みだけを何度も読むと、作品の全体構成が向こうから勝手に立ち上がります。
細部を把握していって全体構成にいたるではなく、先に構成を把握して最後に細部を検討します。このやりかたでは意味が逃げません。作品の周りを「全体構成」というワクで囲っていますから、隠れるところがないのです。だから全体解釈が徐々に煮詰まってきます。十分煮詰まったと思ったら、再度本文に当たります。という行ったり来たりを繰り返します。本文読むのは通算5回程度です。10回読むことはまれです。でも全体が解析できています。表を何十回も読むからです。
問題点もあるにはあります。表の作成が面倒なのです。本を片手に簡単な要約打ち込んでゆく作業、「斜陽」みたいな中篇でも数時間程度は必要です。一度にやると疲労するので、何回か分けて打ち込みます。大作の場合延々と続きます。涙が出るほどタルいです。ここが最大の欠点です。
しかし一旦表さえ作れば、必要性は納得できます。ただ読んでいるのとは内容把握が段違いです。「ああ、理解をしているつもりでも、さほど出来ていなかったんだな」と痛感します。「これほど優れた構成を持っていたのか」と。逆に言えば優れた構成持っているから名作なのです。細部ばっかり読んでいると、永遠に気づかない視点です。最終的には細部の鑑賞も深くできるようになります。
表を見ていると不明点が沢山出ます。プリントした表をジロジロ見ながら、じっくりと不明点を考えます。天才達との一対一の会話を楽しむ時間です。時間と共に理解が深まり、ゲーテもドストエフスキーも漱石も太宰も、友人になったような気分になれます。これがこたえられません。時間も空間も飛び越えて、史上有数の才能と直接対話ができるのです。
「斜陽」ですと表の作成から、解析がほぼ終了するまで半年程度かかりました。労働の合間の作業ですので、スローなペースは仕方ないです。でも現状競合する人がいないので、スローペースでも安心できます。
5:あらすじよりは楽
全体構成把握するなら、章立て表を作るより、あらすじを書けばよいじゃないかと思われるかもしれません。では章立て表に匹敵するほど、すっきりとしてわかりやすく、必要な情報の欠損の無いあらすじを書けるかどうか試してみてはいかがでしょうか。書けませんから。
お考えください、本文ととあらすじの文字数の差が欠損した情報の量です。つまり大量に情報は欠損します。そしてどの情報を欠損させるかの、判断力が必要です。判断するには本文を深く理解できていないと無理です。しかし元来あらすじを書く目的が「本文をよりよく理解するため」である場合、手段と目的グルグル回って収拾つきません。出口が無いのです。
すぐれた作品にはたいてい重層性がありますが、適当にまとめられたあらすじでは重層性は高い確率で欠損します。どうしても重層性を欠損させる方向であらすじを書いてしまうのです。だからあらすじは作品入門としては最適ですが、本文を研究する道具としては不適切です。
致命的な情報欠損を回避しながら全体構成を把握する方法が章立て表です。やりかたは簡単、単純に記入をしてゆくだけです。1章が30の節を含むなら、30のセルが埋まります。単純にセルを埋めるだけですから、なにを省略するか迷う必要はありません。機械的に表を書けよいのです。短くなっている以上情報の欠損は必ずありますが、欠損がランダムなので致命的になりません。そうして出来上がるのは雑な表なのですが、完璧なものを作るのが目的ではなく、全体構成を把握するのが目的です。ミクロは少々踏みつけにしてでも、先にマクロを把握しましょう。
6:ミクロの積み重ねがマクロ、ではない
文学好きはミクロ好きが多いです。神が細部に宿るそうです。年中ミクロに惑溺します。その分マクロ能力は弱くなります。弱くなったあげくに皆目わからなくなります。細部の読解を積み重ねれば全体構成の理解に行き着く、わけでは全くありません。ミクロとマクロは別物なのです。
これは優秀な方でもしばしばわかっていない点です。批判を承知であえて言いますが、優秀な人でも女性の場合わからない人が多く居ます。男性にも居ますけど、「戦略と戦闘の違いだ」と説明すると、わりとスムーズに頓悟できるようです。戦闘のない戦略もありえますから、ミクロの積み重ねがマクロ、ではないのです。
昔、日本が不況に陥ったとき、テレビで「まだマクロ政策をしなくても、ミクロで出来ることは沢山ある」とか力説していた経済学者が居ました。女性でした。テレビ見ながら絶望で泣きそうになりました。「マクロは使わずミクロだけで」という思考回路が発動した時点で今日の長期不況は確定したのです。
彼女の精神的な先輩が大日本帝国陸海軍の参謀たちです。当時日本の兵隊の質は世界最高でした。ミクロでは世界最高だったのです。でも負ける。アメリカに戦略があって、日本に戦略がないからです。戦略が劣っているのではなく、戦略がない。それは負けますね。
この、マクロを軽視する、あるいはマクロという概念そのものが理解できないことは、日本文化最大の病です。現に「マクロ」は外来語ですね。日本は伝統的に女性の知的水準が高く、知的水準が高いものだから社会における女性の発言権が強くなります。ところが女性はあまりマクロ思考が得意ではありません。ということで日本文化にはマクロな思考回路が欠落していると私は思っています。いや女性を悪者にしているのではなく、女性が優れているので日本文化は女性的な文化だと言いたいだけです。
とかいって、歴史的に見れば識字率(とくに女性のそれ)は世界最高水準だったわけで、文化レベルも世界最高水準です。だから文芸も十分発達していますし、アニメでは世界を席巻しています。ではなんでアニメがそこまで優れているか。
7:日本近代文学とアニメ
マクロな把握能力と全体構成能力は、ほぼ一緒とみなせますから、「全体構成」という視点から近代文学を調べてみると、
1、夏目漱石(1867生)は全体構成を考える力を持っている
2、宮沢賢治(1896生)は非常に優れた全体構成力持っている
3、太宰治(1909生)も、おそらく晩年は賢治に影響されたと思われるが、本人も全体構成能力持っている
4、三島由紀夫(1925生)も、賢治、太宰ほどの鋭敏さはないが、十分に構成能力持っている
ところまでは明らかになりました。
戦前~戦中~戦後しばらくの日本は、マクロ能力を持っていたということになります。ただ全盛期が恐らく戦後すぐくらいで肝心の戦争には間に合わなかった。同時期のアメリカは戦争少し前くらいが全盛です。オレンジが英米文学、赤字がアメリカです。
別に文学が戦争の帰趨を決定したとは思いませんが、戦争にいたる外交政策の歩みには決定的な影響を与えただろうと思います。コンラッド、トルストイ、マンを読んでいた連中と外交競争していたのですが、教科書のレベルが違いすぎました。日本の指導者は他国の指導者に頭がついてゆきません。頭がパンクして、「欧州の情勢は複雑怪奇」と言葉を残して首相が辞任していたのが戦前の日本です。戦争以前に決定的に負けているのです。
そして戦後は潤沢なマクロ教材持っていて経済成長を成し遂げましたが、近年は文学理解が進まず宝を持ち腐れしている、という状況だろうと思われます。
ところが最大の才能であった宮沢賢治をもっとも大事にしていた業界が、コミック、アニメ業界なのですね。賢治の優れたマクロ能力をコミック、アニメが継承したので、アニメはここまで世界で支持されているのだろうと見当がつきます。文学のほうは研究者がマクロな読み方出来なかったので長期停滞傾向にあるのだろうと。
だから人口に膾炙している有名文学の全体構成を十分に咀嚼できれば、文学もおそらく復興しますし、社会全体としてもマクロ能力が身につくだろうと思います。文芸のマクロ能力から鑑みるに、マクロな思考が得意でもおかしくない社会なのです。だったら主要文芸作品ごっそり読み解いてみよう、という活動をしているのですが、対象は日本近代文学だけでなく、なんでもかんでも章立て表で読み解きます。
幸いにして翻訳書は優れたものが沢山ありますので世界中の文学が入手できます。ネタに不足はありません。というか沢山有り過ぎてパンクしているのが現状です。
8:章立て表と全体構成
最初にほぼ全体をあらわした章立て表を作成したら、それを簡略化した表の作成は簡単です。
たとえば「斜陽」なら、このようになります。
真ん中で折り返せば、「斜陽」の全体構成見えてきますね。
こういう全体構成を把握することが作品理解の第一歩と考えるのが「構成読み解き」です。一生特定作家を研究していながら、一生一作品も読めない人は、たいていこの全体構成に目が行っていません。
最終的に斜陽は、こんな読み解きになりました。完全ではありませんが、まず十分な解析だろうと思います。
前半の12節と後半の12節が対応しています。よくぞここまで書きました。芸術です。太宰さんお疲れ様です。肩でも揉んであげたくなります。別にここまで凝らなくても、小説の売り上げには関係なさそうですが、太宰さんは徹底的に凝りました。誰にも知られず努力しました。友人にしたくはないのですが、素晴らしい人ですね。
https://note.com/fufufufujitani/n/ndc613103362a
あるいは夏目漱石「夢十夜」ではこういう章立て表になります。こちらは簡単な表です。
内容読み解くとこうなります。
https://note.com/fufufufujitani/n/nf5ee082c9db3
文学好きならだれでも知っている名作ですが、対称構造になっていることは、ほとんどだれも読めていません。漱石研究家の方、反省必要かと思います。もっとも映画監督の黒澤明は読めていたようですが。
この分析作業では便宜的につけたタイトルが全てでした。なにしろ短編集です。章立て表眺るだけでだいたい内容思い出せますから、「あ、4:爺さんの手ぬぐいと、7:無限客船は入水という意味で共通だ」と誰でも気づきます。となるとほかの章も考えまして、すぐに全体が対句という結論にたどり着けます。やった作業としては、10コタイトルを考えて、表にしてプリントして胸ポケットに入れて持ち歩き、3ヶ月ほど折に触れてジロジロ見ていただけです。電車やエレベーターの時間待ちには最適です。
途中何度か「なんか有りそうなんだけど意味環分からない」というもどかしい期間を迎えます。ある日溶けるように意味が分かります。それを数回繰り返すと、「どうも作品の底に当たった」という感触が出ます。そうしたら説明書いて発表して、読み解きは終了です。後には漱石さんへの友情が残ります。友情というと不遜でしたら、愛情でもよいです。身近な人、語り掛けたい人になるのです。お疲れ様です。今回楽しく読み解きさせていただきました。凄い構成ですね。驚嘆しました。有難うございました。そんな気分です。かなり幸せな気分です。
9:登場人物一覧表
経験則で言わせてもらいますが、どうも長編ほど登場人物一覧表が重要になり、短編ほど章立て表が重要になります。というか短編では登場人物が一覧表を作るほどは存在していません。だから章立て表だけで十分な場合があります。
長編になるほど登場人物一覧表が重要になります。天才でも長編の全体構成はさすがに持て余しているからです。別に神様ではありませんから。
たとえば「罪と罰」ではこんな感じです。
「罪と罰」は登場人物のキャラクター戦略がほとんど全てです。登場人物を属性によって6人ごとにまとめて物語を組み立ててゆきます。天才的ですね。作品読みながら登場人物思い出す、というスタイルではこの結論には絶対にたどり着けません。過去にも優秀で勤勉なロシア文学研究家が「罪と罰」の読み解きをしてきましたし、私も大変楽しく読ませてもらいましたが、このキャラクター戦略はおそらく誰も読み解けて居ません。だって普通こんな仕掛けを内臓していると想像出来ませんよね。でも天才ドストエフスキーの最大の仕掛けが、表計算ソフトに登場人物を打ち込んで、色々いじくりさえすれば誰でも発見できます。時間は相当かかりましたが。
「罪と罰」は章立て表も作成しました。
色をつけたりして視覚的な把握をしてゆきます。役立ちました。でも重要度は登場人物一覧表がはるかに上でした。なぜドストエフスキーを読むと巨大なものに触れた感触が残るのかよくわかりました。ドストさんは個々の人物だけではなく、人類全体を描こうとしているのですね。いかに長編とは言え、たかが小説でそんなこと不可能に決まっています。でも描こうとするのです。凄いですね。なんでそこまで頑張れたのでしょう。
椅子に座って部屋の隅で、一日中考えてる作者の姿が目に浮かびます。解析すると浮かぶようになるのです。日の暮れたのも気づかぬ風情で、暗い部屋で考え続けています。ほとんど身動きしません。でも彼が自身の内面で、長大な旅をしている最中なのだということは理解できます。この二つの表を作ると、それくらい作者と近くなれます。
三島由紀夫の「豊饒の海」ではこうなります。
「豊饒の海」は複雑怪奇な物語ですが、これさえわかれば主旨が一気に見えます。登場人物は「羽衣伝説」を元に配置されているのです。見事です。実は全体構成はさすがの三島でも若干持て余し気味です。でも「登場人物一覧表」に記されたキャラ設定原則は、全巻通じて崩れていません。きっちり守っています。だから「豊饒の海」は名作なのです。
三島はこの作品書くために、ノート30冊作ったとかいう話があります。勉強家です。元々東大法学部卒業、大蔵省入省です。頭が良いです。だから普通に読むだけならば、努力量でも地頭でも勝てませんから、十分には理解できないはずなのです。でもパソコンあれば大丈夫です。エクセルで章立て表と登場人物一覧表作成して眺めれば、三島の手書きのノートよりは視覚情報という意味ではでははるかに綺麗にわかりやすく整理できますから、彼の上をゆけるのです。
https://note.com/fufufufujitani/n/n8389a1785169
10:下敷き作品探し
解析の第三の要素、作品の下敷き探しは、見つけられないときは仕方がないと諦めるしかありません。作品研究に必須でもありません。でも有ると便利です。
たとえば黒澤明の「夢」は、綺麗な前後対称構造を持っていますが、
夏目漱石の「夢十夜」を下敷きにしています。こちらも対称構造です。
最初と最後が対になり、二番目と最後から二番目が対になり、ほかも同様です。そこで「夢十夜」を十分に理解していれば、「夢」の理解も容易です。もっともやりだすときりがないので、下敷き探しはほどほどでよいです。
あんまり「元の作品はどれだろうか」と探りすぎると、なんのことはない伝統的文学研究になります。
「下敷きを何枚重ねられるか」にすべてを賭けた作品もあります。フィッツジェラルドの「グレートギャッビー(華麗なるギャッビー)」です。
https://note.com/fufufufujitani/n/n231497cc30ea
こちらは先にコンラッド「闇の奥」を解析済みだったから出来た読み解きです。登場人物戦略が共通、というかほぼマネなのです。
となると「闇の奥」の内容と「グレートギャツビー」の内容は非常に近いと見当つきますので、運よく読み解けました。読む順序逆では無理でした。コツコツやってゆくとこういうのに当たる確立も少しずつ上がってゆきます。
11:対象作品
文芸的であればなんでもOKです。映画もアニメも含まれます。
映画も複雑な作品は章立て表つくるとすっきり見通せます。もちろん映画の魅力も骨までしゃぶれます。
以下は小津安二郎監督の最後の作品、「秋刀魚の味」の章立て表です。
過去、現在、未来に時間を分類すると以下のようになります。
すっきりします。なぜ名作なのか明らかになります。
https://note.com/fufufufujitani/n/n3d8035337e2d
小津は「裏ストーリー」にすべてを賭けた人です。抽象的、神話的な物語の作者です。ホームドラマは表面だけです。並みの文学よりも文学的な映画監督です。美術能力も高いですけど。
それが解析で明らかにできる。となるとウェス・アンダーソンやキアロスタミのような、小津オマージュ作品もすらすら理解できるようになります。
超人的な記憶力を持っていれば別ですが、映画も一流どころになると普通の人間は何度も見なければ本当は意味がわからないのです。でも映画評論家は本数見なければいけません。昔聞いた話ですが、ある映画同好会の会員資格は、「年間365本以上の映画を見ること」です。一日1本以上。だから何度も見るヒマはありません。となると何十年映画を見ても、一流映画への理解は深まらないのですね。レビュワーと解釈家は同居できないのです。人間の能力と時間が有限である以上、これは逆らいようのない真実です。
現状文芸も映画、アニメも「とにかく量をこなせ」が主流です。全集読んだり、今期のアニメほぼ全部見たりして満足します。沢山こなすと頑張った充足感があるんだと思います。しかし充足感は充足感、理解は理解、別のものです。評論家が解析時間を持てない以上、一般人で好きな人が時間をかけて解析するほかありません。彼らには章立て表を作る時間がないのです。
12:現在の進捗状況
文学ならばドストエフスキーと太宰治は少し終わりました。夏目漱石、芥川龍之介、宮沢賢治、三島由紀夫、ゲーテ、トーマス・マン、フィッツジェラルドが始まったところ、それ以外ははっきりいってほぼ手付かずです。やたら時間がかかるのです。だからやる人があまり居ません。
参加者はなにを読み解いても自由です。おおまかな見積もりですが、20人くらいで20年くらい作業すると、人類文化の読み解ける主要な物語だいたい終了するかと思います。10人ですと40年かかる計算です。現在の人数ですと何年かかるか、計算したくもありませんので、どうか皆様ご参加ください。
終了すると文学、映画、アニメなど、現在とかなり変わったものになるでしょうね。それを見れる日が来るとよいのですが。
13:Q&A
Q:参加資格はありますか?
A:ありません。誰でも歓迎です。
Q:参加のメリットはありますか?
A:基本ありません。作品を楽しめます、作者と友人になった気になれます、それだけです。
Q:発表方法、手段に決まりはありますか?
A:ありません。
Q:どうして研究者がこれをやらないのでしょうか?
A:パソコン使える若手には居ると思います。しかしこれをやると、自分の人事権を握っている教授連中が「作品読めていなかった」ことを暴露する結果になります。なかなかハイリスクです。それとやっぱり「大量に読まなきゃ」ノルマがきついのだろうと。
Q:なぜ天才作家たちは、過去の作品が読めているのに解説しないのですか?
A:天才作家とは、すなわち嘘つきの天才だからです。本当の事を言うわけにはいきません。
Q:パソコンがないのですが、スマホでは無理ですか?
A:無理です。パソコンとプリンターは必須です。
Q:パソコンとプリンターは支給してもらえますか?
A:支給できません。
Q:ミクロなポイントを中心に鑑賞する態度は良くないのですか?
A:いいえ、本人の勝手です。良いも悪いもありません。しかし鑑賞ではなく研究する場合には、「ミクロを積み重ねてもマクロにはならない」ことを認識すべきです。両者は別の階層に属します。戦闘のない戦略も存在するのですから。
Q:ある作品を読み解いたとして、その読み解きの正しさは誰が証明するのですか
A:誰も証明はできません。確からしさは最終的には社会全体が認めるかどうかです。ほかの社会事象と同じです。
Q:つまり頑張って読み解いたとして、その理解が正しいかどうかの保障がないということですか?
A:はいそうです。保障はありません。時間をかけて大汗かいて、結果はただのカン違いかもしれません。どうしても保障が欲しくば、自力で思考することには手を出さず、TOEICやら資格試験やらをお勧めします。正解があって採点してもらえますから。
Q:手間を掛けて研究して、実はその作品の中身がなにも無かったということはありますか。
A:あります。一番恐ろしい事態です。想像するだに震えがきます。しかしいくつもやっていると徐々にカンが働いてきます。重層性があるかないか、感触でわかるようになります。
Q:試してみたいのですが、最初にどんな作品読み解くべきですか?
A:よくまとまっている文学の短編を手がけるべきです。映像作品ならシリーズものとかは避けて、単品の映画がお勧めです。全世界で累計数億人が見たような有名映画でも、章立て表作成して解析している人はほとんどいません。おそらくあなたが最初の人です。
Q:なにを優先的に取り組んで欲しいですか
A:文学史上重要な作品です。「戦争と平和」とか(長すぎますね)、「赤と黒」とか(長すぎますね)、「ユリシーズ」とか(長すぎますね)、「指輪物語」とか(同)、映像作品でしたら「ガンダムシリーズ」(同)、「エヴァシリーズ」(同)、「スターウオーズシリーズ」(同)などなど、後世に与えた影響の大きな作品が優先順位高いです。でも最初は短編から始めるべきです。
Q:「章立て表」をどの程度の細かさで作成するか、悩みます
A:最大の悩みどころです。正直私は記憶力が弱いので、かなり大量に書いていると思います。記憶力が高ければ少ない量でもいけるはずです。作品によっては「第一次章立て表(荒いもの)」で理解してから、「第二次章立て表(詳細なもの)」作成してもよいかもしれません。
Q:どこまで読み解けば完了となるのですか?基準がわかりません。
A:わからないのが正解です。基準はないのです。自分なりに掘ってゆき、自分なりに満足したら終了です。私の基準は「作家の書斎で一緒に時間を過ごした気分になれた」ならば終了です。作品の解釈の「底に当たった」感触がでると、作家が急に人間として認識できるようになります。でも人それぞれだと思います。
Q:解析してみたが、結局わからなかったということはありますか?
A:あります。腐るほどあります。残念です。しかし6割くらいは数年後になぜか簡単に解釈が見つかります。どうも脳内熟成が必要なケースがあるようです。「カラマーゾフの兄弟」の登場人物一覧表も、読み込んでいるときは思いつかず、数年後に(読んでいない時期に)ふと思いついて書いてみるとスラスラ完成しました。
はじめまして。私は『ハムレット』の読み解きを『ハムレットのシンメトリー』https://symmetricalhamlet.hatenablog.com/entry/2020/12/31/140026 というブログとして書いております。これは数年前に地元の同人誌に掲載していただいたものを書き直したものです。私も表計算ソフトを分析に使っていました。お仲間に加えていただければと思いましたが、まずは目を通していただければと思います
返信削除ありがとうございます。
返信削除なんとシェイクスピアではこういう仮説が既にありましたか!!!
驚愕です。
私は正直、なんで鏡像だったり反復だったりしてるのかわからない状況で色々やってきました。なんか自信がつきました。
ブログは5まで読みました。まずはお礼まで、どうぞよろしくお願いいたします。
こちらこそありがとうございます。私自身、このように作品の構成を読み解いている皆様を見つけることができて喜んでいるところです。それに、ツイッターで紹介していただいたおかげで私のブログも皆さまに読んでもらっているようです。この大募集の記事もとても多くの部分で同意させられ、楽しんで読むことができました。
返信削除全部読みました。
削除使われているバージョンはF1ですか?
私はQ1でやりました。
冒頭と末尾の対は発見しましたが、それ以外は探求しませんでした。
確かにシェイクスピアは綿密に対を作っている可能性高いと思います。
特にジュリアス・シーザーでは明らかだと思います。
ただそれは、F1の章立てを操作した上でのことでして、
F1通りで考えるのは(少なくともジュリアス・シーザーでは)私には無理でした。
場割の必然性に疑問がありましたから操作しましたが、それが妥当な操作なのかは自信がありません。対称構造と考えると、シーザーもヴェニスもロミオも第三幕第一場が、第三幕第三場(ないし第三幕の中心)にこないとおかしいと感じました。
ハムレットの場合は劇中劇が中心と見ていましたが、Q1ですのでねえ(実は短くて簡単そうで選んだだけです)。
しかしF1編集の妥当性まで考え出すと、素人の私にはハードル高いと感じてシェイクスピアはご無沙汰になっております。全部やればそれなりの事が言えるのでしょが、そこまで没入できなさそうでして。あとトータルの知識量も私は不足していますね。
読み解き同志では黒井さんが「夏の夜の夢」
https://note.com/jaguchi975/n/nf35539224b13
の読み解きされています。これもイギリス史の知識が私が薄弱ですので、感心しか出来ない状況です。
感想ですが、
「to be or not to be」が、全体構成に関係あるなら、なぜオフィーリアが水死かも、「デンマークVSノルウェーの海洋攻防」と関係がありますし、先王は耳から液体入れられたことも関係ありそうですね、、、という感じでやはり私は緻密には読めていなかったと気づきました。
使ったのはF1の大場建治訳です。表計算ソフトを使って翻訳のF1の5ページづつ、Q1の2ページづつを1つのセルに打ち込んで比較したこともありました。Q1は役者が記憶を頼りにして再構成した海賊版だという疑いがかけられていたことがありましたが、おそらく『ハムレット』の初期のバージョンです。初期バージョンとするととても研究価値のあるもので、いずれQ1の事もブログで書きたいと思っています。fufufufujitaniさんのハムレットQ1あらすじ解説を私も読ませていただきました。Q1と書かれていなかったら読者である私たちはQ1の解説と気づかないかもしれません。Q1には最初にシェイクスピアの意図した構成がしっかり入っていて、それらが指摘されているからでしょう。
削除『ハムレット』の劇中劇は確かに劇の中心です。F1でもQ1もど真ん中です。しかし対称構成、鏡像構成の中心は別のところにあります。それは次のブログ30.で書くつもりです。
オフィーリアの水死については、水に死を含めた生の象徴のように読んだこともありました。それが前回ブログに投稿したオフィーリアとデュオニソス的なものとの関係のアイデアのもとになっています。
ブログ内容はマニアックな部分もあるので、専門家のように見えるかもしれませんが、私はど素人です。大学教育も受けていなくて、50になった今から英語の勉強をしているところなのです。読書もかたよっていてかなり狭い範囲です。実のところ他のシェイクスピア作品はあまり覚えてないのです。夏の夜の夢は短いので読み返してみようと思います。
なるほど、意味の中心と構成の中心が別ですか。
削除それですとゆくゆくはヴェニス、ロミオ、シーザーの、何故中心が3-1に当てられているのかという謎の解明になりそうですね、面白いですね。私のより数段深層の解明になりそうです。私はF1編集問題の前でわけがわからずハングアップしていましたので続きを楽しみにしております。
表に打ち込むアプローチも間違っては居なかったと、大変心強い気持ちになります。
河合祥一郎が代表的なシェイクスピア研究者だと思うのですが(舞台再現みたいな研究は面白かったです)、章立てはもうあてにならないから番号も振りませんし、本人も作品の意味解明より成立史が今後重要になるだろう、などと言っています。要するに内容の研究をなかば放棄している。知識量は凄いんですけど。
プロパーがそんな感じですので、我々のようなアマが頑張るしかないんだろうなと思っています。ブラウン論文が1973年ですか、、、織田正吉の「絢爛たる暗号 百人一首の謎をとく」が1978年、江川卓の「謎解き罪と罰」が1986年、そこらへんまではプロも読解しようとする態度があったのですね。しかしなんらかの理由で研究は中断され、発展は止まった、、、その原因が知りたいのですが、少なくとも漱石読解は2010くらいまでは確実に機能しています。今は知りませんが。だから世界文学の文脈では、やはりシェイクスピア読解が止まったのが大きかったのだろうなと思います。英米文学全部と、ゲーテ、日本近代文学ほぼ全部まで影響及ぼしますので。
シェイクスピア作品、特に『ハムレット』は現代人の心を捉えるわけで、現代の問題を描いているかのように思われるわけです。それで現代の問題を扱っている理論で批評されるわけです。
削除フロイト、ユング、実存主義、フェミニズム批評等。おそらく、シェイクスピア学者はそういった次から次に出てくる批評理論に辟易してしまったのではないかと思うのです。もしかしたらそのあたりも作品読解の停滞に関係あるのかもしれません。
でも、ハムレット自身が、演劇とはその時代のありようを映し出す鏡のようなもの、という意味の台詞を語っていますので、その時代の批評理論も大いに結構とシェイクスピアは許してくれるのではないでしょうか。この演劇を鏡になぞらえる台詞は劇中劇の役者への演技指導で語るのですが、Q1には書かれていませんでした。