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2019年10月23日水曜日

悪霊・追記4

ドストエフスキーの最大の魅力は、おそらく会話にある。人物がハイテンションに会話して段々と場を盛り上げて行き、やがて大きなクライマックスに至る。
カラマーゾフなら僧院での会合。悪霊ならば第一部最終ワルワーラがステパンの出入り禁止を言い渡すところ。コミカルで、劇的で、妙に登場人物への愛情のようなものが感じられるシーンである。

なぜ彼はこんな素晴らしいシーンを書けたのか。ここらへんの研究が終わると、「ドストエフスキーは完全攻略」となると思われる。カラマーゾフ、罪と罰、悪霊と解析やってきたが、私は残念ながらそこまで至れていない。

「耳と目」という視点で見ると、トルストイは目の人であり、ドストエフスキーは耳の人である。トルストイは情景描写に優れ、ドストエフスキーは会話に優れる。トルストイは「クロイッツェル・ソナタ」で音楽を否定し、ドストエフスキーは「死の家の記録」でロシアのカマリンスカヤを賛美した。

ところで文明は目の文明と耳の文明に大別できる。日本、中国は目の文明である。インドは両方ある。イスラムは耳の文明である。肖像画を否定し、かつ砂漠であまり見るものがなく、かつクルアーンの響きを愛好するからどうしてもそうなる。
そしてヨーロッパではイスラムの強い影響を受けたところが耳の文化を作った。すなわちウィーンをトルコに包囲されたオーストリアと、ロシアである。

ちなみに宮崎市定によれば、プロテスタンティズムは「キリスト教のイスラム化」であるそうで、実際聖職者ナシ、原典主義はあきらかにイスラムの影響である。つまりルターが、もっと言えばトルコがバッハやモーツァルトやベートーヴェンを生んだという理屈である。

今日から見る西洋文明は巨大だが、歴史的にはイスラーム世界の後背地といった風情が濃い。ルネッサンスからようよやく互角への道をあゆみはじめるくらいである。ところがロシアは、モンゴルタタールに占領されていたものだからルネッサンスもなにもないのである。

写真はクレムリン。



そしてイラン陶器


シャガール



そしてペルシャ陶器
https://images.app.goo.gl/z5rX6LSHQXLKXTJf7


ロシアのかなりの部分はイスラムのはずなのである。しかし明らかにされない。ドストエフスキーもかなり源流がイスラムにあるはずなのである。しかし明らかにされない。

そう考えると最もドストエフスキーに近いのは、イラン映画と思えてくる。

別離


こちらはかなりドストエフスキーである。クライマックスへの持ってゆき方が特に。イラン=ペルシャは、ようするに古代メソポタミア以来の文明を受け継ぐ人々で、中国、インドよりも古い。文化の熟成が高い。イラン人は特に演劇に力をおくようである。人類最高レベルの演劇鑑賞能力を持つ集団かもしれない。

現状では仮説に過ぎないが、ドストエフスキーの会話で盛り上げてゆくドラマ作りの根底には、イラン演劇があるのではないか。ロシア人はギリシャ正教の伝統、つまり東ローマ帝国の文化を自身の根源として捉えているようだが、私が東ローマ帝国の文化にたいする知識がないのでなんとも言えない。
ただタルコフススキーにせよズビギャンツェフにせよ、ドストエフスキー的ではないのである。と書いていてもうひとりドストエフスキー的な会話の上手な映画監督思い出した。タランティーノである。



この作品は、下敷きにコンラッドの「闇の奥」があり、コンラッドはロシア生まれのポーランド人だから、(ドストエフスキーを嫌っていたらしいが)実はドストエフスキーの正統的な後継者はコンラッド→タランティーノということになるのかもしれない。


2019年10月18日金曜日

悪霊・追記3

第三部でのニコライとリザヴェータの逢引の後の会話シーンは、
この作品でもっともやっかいな部分である。

どうもニコライが上手くゆかなかったようで、非常にオドオドしている。
リザヴェータは終始不機嫌である。ニコライを馬鹿にしきっている。

ニコライ「昨夜はなにがあったのだろう」
リザヴェータ「あったことがあったのよ」
わかりやすく言い換えれば
ニコライ「昨夜はどうして上手くいかなかったんだろう」
リザヴェータ「ご存知の通りよ。慰めてあげないわ(あなたがダメだった、ただそれだけよ)」

男性から見れば、リザヴェータが途方も無い性悪女に見える。
「礼儀も思いやりもないけしからん女だ。こんなやつは殴り殺されればいい」と思っていると、直後に本当に殴ろ殺されるから気の毒である。

佐藤優によればロシア女性には恐ろしいノルマを男性に課する人が居るようで、週16回だそうである。平日は一日2回、土日は3回。無理に決まっているのだが、課する人がいる以上、実行できる男性がロシアには居るということである。同じ人間とは思われない。

仮説が二つ成り立って、

1、ロシア革命で結婚制度が破壊された際に、恐ろしい適者生存の戦いが勃発した。軟弱な男女は淘汰された。生き残ったのはそちらが超人的に強い遺伝子のみである。

2、元来ロシア人はそれくらい強い。強いから「結婚制度破壊」のスローガンが有効で、それでロシアでは革命が成功した。

リザヴェータの無遠慮な不機嫌さを見るに、どうも2が正解のようである。「悪霊」は無論ロシア革命より前の作品である。あるいはその上で1の淘汰が発動してよりグレードアップしたのかもしれない。

「悪霊」という作品も、その後のロシア革命も、このロシア人の体質を念頭に置かなければ読めない。そういう体質を想像しながら読み解いてゆくことになる。なんでロシア文学が長大かなんとなくわかる。連中は実質的に自分たちの体質を表現しているだけではないのか。

考えれば羨ましくもあり、妬ましくもあるが、私が日本人離れしたパワフルさを身に着けても、どうせモテないんだから関係ない気もする。並の日本人レベルに追いつくのが先決問題の気もする。いや全てがどうせ無理なんだろう。だんだん考える気力もなくなってくる。

ショーロホフの「静かなドン」に、ある兵隊が長嘆息しているシーンがあったと記憶する。「世界中にはきれいな女がいるんだ。まだ俺たちが見たことがないようなきれいな女性が、一生見ずにおわってしまうような女性が大量に。俺はそう思うとたまらねえ気持ちになる」。手元にないからうろおぼえだが、さすがロシア人様ともなると、そもそも考え方が違う。体質による絶対の自信に支えられた願望と言うべきである。

2019年10月6日日曜日

悪霊・追記2

悪霊でも章立て表は用意した。
ズラズラ書いてたが大量になり過ぎた。
複雑怪奇な小説なのは、構成が複雑怪奇だからで、章立て表を作っても別に簡略にはならなかったのだが、だれかがより簡略で分かりやすい構成解析をしてくれるんじゃないかと思うから貼り付ける。

https://drive.google.com/file/d/1CrMFE02kVs3l7pVvLQSWQWTlNvIPz0fj/view?usp=sharing




第一部はたいへん構成が素晴らしい。最後のワルワーラ邸の全員集合に向かって人間が続々と用意されてゆく。その人間たちのキャラがまた立つ。登場人物一覧表も用意した。



カルマジーノフとリプーチンが望楼人リュンケウスだというのが、なかなか面白い対応だと思った。両者は不必要に情報通で、勢いに流されやすく、自分が何かを成し遂げることはほとんどない。頭は非常に良い。彼らの弱点がフィジカルにあるということがわかっているから、ピョートルは両者の前でのみガツガツを己が食事している光景を見せる。いずれも印象的なシーンを作れているが、ここではピョートルの戦略が優れているのである。同時に作者が両者を対にしていることが明快になるのである。


「ファウスト」ではリュンケウスは、いち早く世界の異変に気づく存在である。敵の襲来も、ヘレナの美貌も、パウキスの悲劇も、いち早く気づくが情報を知らせるだけで特になにもしない。

フェージカはステパンの元農奴だがステパン先生のカード賭博の借金のカタに売られて転落し、罪を犯して流刑囚になる。脱獄して故郷近辺をうろついている。最初ピョートルに使われていたが、やがてキリーロフに心酔するようになる。キリーロフはホムンクルスだから、ワーグネルの実質息子なのである。当然好きである。
エルケリは依然ピョートルに心酔している。もっとも最後になんだか捨てられそうな寂しさが表現されている。遅かれ早かれこちらもワーグネルになるのだろうが、そこまで描写されていない。ここらへ、作者Gとエルケリが対になっているという考え方もできて、私には明快な意見がない。だれか考えついたらお教えください。


今回始めて、「集中研究」をやった。
作中難解な箇所をエクセルに書き出して、集中的に検討する作業である。
本文の情報の20%くらいを書き出したと思う。通常の章立てより無論情報欠損が少ない。
やってみると大変有意義だった。難しい箇所が簡単に明快になる。「現代国語」なんかでわけのわかんない文章にウンウン唸る時間、あれは無駄であった。おそらくエクセルでこんな感じでまとめると、明快に読み解けたのではないだろうか。

こちらも一応全部掲載する。

https://drive.google.com/file/d/1CrMFE02kVs3l7pVvLQSWQWTlNvIPz0fj/view?usp=sharing


こういう読み解きをしてこなかったのは、ようするにエクセル使えなかった、使おうと思わなかっただけではないのかと思う。単純な話である。

亀山郁夫氏も

よみとき悪霊」
https://www.amazon.co.jp/dp/4106037130/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_CmHKDb1CZ9Q5B

翻訳の「悪霊」第三巻末尾の解説、
https://www.amazon.co.jp/dp/433475242X/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_EmHKDb7AA3EQC

両者とも非常にすぐれた解説だが、
このややこしい部分に正面攻撃は仕掛けていない。なんで正面攻撃をしないか。多分戦う前から諦めているのだろう。諦める必要はない。表を作ってしばらく眺めていればそのうちなんとかなるものである。

2019年10月3日木曜日

悪霊・追記

とりあえず「悪霊」読み解きアップした。
https://matome.naver.jp/odai/2156984353668968401

ヨハネの黙示録より
「ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。
わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。」

この文章が、「ニコライ・スタヴローキンの告白」と、ステパン先生最後の旅、2回出現する。2回出現するかなら理解可能だか、1回だけでよくも作品として成立していると考えたものである。読者には全く意味不明だったはずである。
「告白」の削除は検閲のためではなく、出版社の判断だったわけだがいずれにせよ、どうも作家は抵抗というか、言論に自由がないほうが燃えるようである。終戦直後の太宰治の「斜陽」と「人間失格」を見よ。

しかしどうして作者が「ヨハネの黙示録」がこんなに好きなのか、私には全く理解できない。普通に読めば普通にくだらない、おどろおどろしいだけの文章である。内容も明快ではない。表現方法が混濁しているから、内容も混濁している。
ところがキリスト教関係の資料で、この「ヨハネの黙示録」以外に時間を記述しているものが、私の知る限りまったくないのである。ようするにキリスト教直線時間というものは、この失敗作の記述のみに依存しているのである。脆弱なシステムである。

しかし論理的にはキリスト教時間が一直線になるというのはよくわかる。
1、アダムとイブが原罪を犯した
2、イエスキリストが肩代わりをした
3、だから人類は救われる
だいたいこんな論理の流れなのだが、ここでアダムとイブ、人類の始祖が登場するのがミソで、始祖の罪が明快に定まっているから、子孫の運命も明快に定まり、結果として長大な時間が定まってしまい、直線時間になるのである。直線時間だから直線時間なのではない。キリスト教の教義的要請なのである。
そして教義的要請を充足させるものが「ヨハネの黙示録」であるから、ドストエフスキーもこの駄文にこだわらざるをえないのである。少々つまみ食いの形だか。
彼は「悪霊」で大々的に取り上げはしたが、円環時間が受け入れがたく、直線時間は理屈に合わず、その間で逡巡しているというのが、私の感想である。悪く言えば刹那で誤魔化した。

2019年9月17日火曜日

ツァーリ

Wikiの「ドストエフスキー」の項目が、
現在反ユダヤ主義の問題で埋め尽くされている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A8%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC


ドイツ語では、ほとんど触れられていない

https://de.wikipedia.org/wiki/Fjodor_Michailowitsch_Dostojewski

ロシア語でも同様

https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%94%D0%BE%D1%81%D1%82%D0%BE%D0%B5%D0%B2%D1%81%D0%BA%D0%B8%D0%B9,_%D0%A4%D1%91%D0%B4%D0%BE%D1%80_%D0%9C%D0%B8%D1%85%D0%B0%D0%B9%D0%BB%D0%BE%D0%B2%D0%B8%D1%87

英語でも同様

https://en.wikipedia.org/wiki/Fyodor_Dostoevsky


なんで日本語だけと?思う。
誰かが政治的意図でやったんだろうが、
自動翻訳が進歩した現代では全く無意味である。

もっともドストエフスキーが鼻持ちならんキリスト教至上主義であるのは事実で、
「悪霊」にはキリスト教徒でない人間は、魂がないとまで書いてある。
最初読んだ時は流石に反発した。
ああそうさ、私は一応仏教徒だから、魂はないさ。
しかし反発しても、彼の作家としての能力の高さは変わらない。
世界中の文学者が苦しめられた、圧倒的な能力である。

黒澤明が「白痴」の撮影中、上手くゆかなくて発作的に自殺しそうになった、という話がある。
「カラマーゾフ」を何度も読んだが、映画化できなかったという話もある。
黒澤は素朴で正直だから言っているが、
世界中の文学者が、ドストエフスキーを熱烈に愛し、
同時に熱烈に憎悪しているはずである。
彼は目標ではなく、人々を暴力的に押さえつける、文学上の強大なツァーリである。
だがみんな口には出さない。こんちくしょうと思いながら我慢している。

「悪霊」の読み解きコツコツ続けている。
実を言うと世の文学者、文学研究者を、
凶暴なツァーリから救済するためにしているという意識が少しある。
一時期社会主義にはまって、反政府活動をしていたドストさん、
結局自分が(世界文学界における)ツァーリになるんだから、なんのこっちゃである。

2016年10月21日金曜日

罪と罰

罪と罰

アップしました。
ドストエフスキーの「巨大さ」について、
とりあえずの解が見つけられたと思います。
登場人物をグループ化して、
巨大さを演出しています。

岡田英弘が昔激語して曰く、
「ロシアは存在しない。
今日我々が見ているロシアは、
ロシア文学者たちがでっち上げたものだ」
天才は、自分のアイデンンティティーに不安を持つ人々が、
多くいる社会に出現します。
社会が稀代の詐欺師を必要としている時に、
稀代の詐欺師、つまり天才が出現するのです。

ロシア人は明らかに悩んでいました。
自分たちは西洋人なのだろうか。
クリスチャンであるのは間違いないが、
本質的にはタタール人なのではないだろう。
そんな不安を打ち消すべく、
強力な天才が出現して、
理念を組み立てて建築物のように小説を書いた。

だから、ドストエフスキー、トルストイ以降、
ロシアの芸術家は小粒になってゆきます。
ドストエフスキーにすがれば良い分だけ、
努力の必要がなくなったからです。
ドストエフスキーが永遠であるならば、
ロシアは今後、彼以上の天才を産まないでしょう。
必要がないからです。