論語の構成 4・浅学者の弁明
で触れた「誠不以富 亦祇以異」の移動問題、その後も調査していますが、
こんなになりました。色がついているのは漢学プロパーではない人です。プロパーではないのであまり責任はないかもしれませんが、、、泰斗と言われる武内も藤堂も移動組ですからなかなかショックです。貝塚茂樹は物理学者湯川秀樹の兄です。湯川の兄だから必ず優秀というわけではないのでしょうが、遺伝子として私なんかとはレベルが違うだろうとは思います。でも間違える。強烈です。見たくなかった鏡に映った自分のミジメな姿を見るようで、脂汗が出てきます。
Qwenに聞いてみました。
中国国内で一般向けの書籍で、誠不以富。亦祇以異。を季氏篇に移動させていない論語は、出版されていますか? 程朱の説に従わない論語です
はい、中国国内で一般向けに出版されており、かつ程朱の説(朱子による章句の移動)に従わず、「誠不以富,亦祇以異」を従来の「顔淵篇」に留めている『論語』の書籍は存在します。むしろ、現代中国で最も標準的に読まれている版がこの立場をとっています。
代表的な書籍として、以下の2つが挙げられます。
### 1. 楊伯峻『論語譯注』(中華書局)
現代中国において最も権威があり、一般読者向けに広く読まれている『論語』の現代語訳・注釈書です。
* **本文の配置**: 伝統通り「顔淵篇第十二」の末尾に配置されています。
* **程朱の説への態度**: 注釈欄で、程頤(程子)がこの2句を「錯簡(ページの順番が誤って挿入された文)」とし、「季氏篇」の「齊景公有馬千駟……」の章に移動させるべきだと説いたことに言及しています。しかし、楊伯峻は注記において **「証拠がない(但無證據)」** と明言し、程朱の移動説を採用せず、本文の配置を従来のまま維持しています [[17]] [[22]]。
### 2. 劉宝楠『論語正義』(中華書局などから現代も刊行)
清代の考証学(古文献学)の集大成であり、現代でも一般の教養層や学生向けに平易な活字で広く出版・読まれている古典注釈書です。
* **本文の配置**: 「顔淵篇」に配置されています。
* **程朱の説への態度**: 劉宝楠をはじめとする清代の考証学者は、宋代の朱子学が独自に行った経典の章句入れ替えを批判的に検討し、漢代の古注(何晏『論語集解』など)や伝統的なテキストの配列を尊重する立場をとりました。そのため、程朱の「季氏篇への移動説」を採用せず、顔淵篇のままで解説がなされています。
### 補足
現代中国の出版界において、『論語』の本文配列は、伝統的な「十三経注疏」などの系統を踏襲するのが標準的です。朱子による「季氏篇への移動説」は学説として注釈欄で紹介されることはあっても、**本文を実際に移動させて編集する一般向け書籍はほとんどありません**。
したがって、中国国内の書店やオンライン書店で入手可能な楊伯峻『論語譯注』などの標準的な一般向け版は、ご質問の条件(季氏篇に移動させていない、程朱の説に従わない)を完全に満たしています。
実は日本ではほとんどが朱熹に準拠して移動させています。添付画像参照してください。非常にまずいですよね。中國ではいつから移動しなくなりましたか? 元々ほとんど移動していませんか?
お答えいたします。
## 中国における「誠不以富、亦祇以異」の扱いについて
ご指摘の通り、**中国では元々ほとんど移動させていません**。日本の状況とは大きく異なります。
### 歴史的経緯
1. **漢代から唐代までの伝統的注釈**
- 何晏『論語集解』では顔淵篇に配置したままです[[60]][[64]][[65]]
- 鄭玄注なども顔淵篇のまま解説しています[[34]]
- 皇侃『論語集解義疏』も顔淵篇に留めています[[61]][[63]]
2. **清代の考証学**
- 劉宝楠『論語正義』(1828-1870年頃)は、漢代の古注を重視し、朱熹の移動説を採用しませんでした[[50]][[51]][[59]]
- 清代学者は宋学の経典改変を批判的に検討しました[[41]]
3. **現代中国の標準的版本**
- **楊伯峻『論語訳注』**(1958年初版)は、中国で最も権威ある現代語訳本ですが、**顔淵篇に配置したまま**です[[27]][[30]][[31]]
- 楊伯峻は注記で朱熹の説を紹介しつつも、「証拠がない」として移動を採用しませんでした
- この本は1980年代以降何度も再版され、現代中国で最も広く読まれている『論語』注釈書です[[30]]
### 結論
- **中国では朱熹の説が出た宋代以降も、伝統的な配置(顔淵篇)を維持する方が主流**でした
- 清代の考証学兴起(17-19世紀)以降、朱熹の章句移動はさらに批判的に見られるようになりました
- 現代中国の標準的版本(楊伯峻『論語訳注』など)は全て顔淵篇に配置しています
**日本では江戸時代以降、朱子学の影響で移動させるのが一般的になりましたが、中国では逆に清代以降、移動させない方向で定着した**と言えます。これは日中学術伝統の重要な相違点です。
元以降科挙のテキストは朱熹だったのですよね。でも移動説は採用されなかった?
ご指摘の点は非常に鋭く、一見すると大きな矛盾があるように思えます。しかし、ここには**「朱熹自身が実際に本文を移動させたわけではない」** という決定的な事実があります。
結論から申し上げますと、**元以降の科挙で朱熹の『四書章句集注』が公式テキストとなった際も、論語の本文が物理的に移動されることはありませんでした。**
その理由と経緯は以下の通りです。
### 1. 朱熹自身は本文を移動させていない
朱熹の『四書章句集注』の『顔淵篇』第十二を確認すると、「誠不以富,亦祇以異」の二句は、伝統通り『顔淵篇』の末尾に置かれたままになっています。
その直後に、朱熹は以下のような**注釈(集註)** を添えているだけです。
> 「程子曰:此錯簡,當在第十六篇齊景公有馬千駟之上。因此下文亦有齊景公字而誤也。」
> (程子が言うには、これは錯簡(簡の順番が誤ったもの)であり、第十六篇の「齊景公有馬千駟」の上に当てるべきである。下の文に「齊景公」の字があるために、誤ってここに移ってしまったのだ、と。)
つまり、朱熹は **「(程頤の説によれば)本来はこっちにあるべきだ」という学説を注釈欄で紹介しただけ**で、古典の本文そのものを組み替えてはいないのです。
### 2. 科挙テキストとしての現実
元・明・清の時代、科挙の試験では『四書章句集注』が絶対的な基準とされました。しかし、受験生が暗記し、試験で引用した「本文」は、伝統的な20篇の構成を維持したままでした。「移動」はあくまで注釈欄における解釈の一つとして扱われ、**公式な版本において本文の配置が書き換えられることはありませんでした**。
### 3. なぜ日本の書籍では移動しているのか
ご提示いただいたような「季氏篇に移動させている」日本の書籍が存在するのは、**後世の日本の編集者(江戸時代の学者や、現代の教科書・訳書の編者)が、朱子の注釈を「本文を修正すべき指示」と受け取り、独自に本文の組版を組み替えてしまったから**です。
これは文献学的に言えば、**「注釈に過ぎない後代の学説を根拠に、古典の受容本文(Received Text)を物理的に改変する」という非常に問題のある編集行為**です。ご指摘の通り「非常にまずい」ことなのです。
### まとめ
* **中国**:朱子学が全盛を迎えた元・明・清の科挙時代であっても、朱熹自身が本文を動かさなかったため、伝統的な『顔淵篇』配置が維持され続け、現代の権威ある版本(楊伯峻『論語譯注』など)もそれを踏襲している。
* **日本**:一部の編集者が朱子の注釈を過度に解釈し、独自に本文を移動させて出版しているケースがある(これがご提示の画像のような状況を生んでいる)。
したがって、「中国ではいつから移動しなくなったか」というご質問への回答は、**「中国では、朱熹以降も一度も公式に移動させたことがない(元々移動させていない)」** となります。日本の一部書籍に見られる移動は、中国の伝統的な版本のあり方ではなく、後世の日本的な編集による改変なのです。
ガーン、衝撃ですが確かにそうです。朱熹はあくまで移動を主張しただけで移動はさせていませんね。日本の場合は現代語訳を施しますから、その際に移動させて翻訳している状況です。
「提示いただいたような「季氏篇に移動させている」日本の書籍が存在するのは」いや今出版されているので移動させていないのは、集解を翻訳した渡邊本だけですね。一般向けではありません。一般向けでは移動していないのが存在していない。
これって日本儒学のスキャンダルですね。
おっしゃる通りです。これは**日本儒学界の構造的な問題**であり、ある意味で「スキャンダル」と言わざるを得ません。
## 問題の本質
1. **注釈と本文の混同**
- 朱熹の「移動すべき」という**注釈上の提案**を、**本文の修正指示**と誤解(または過度に解釈)
- 古典の「受容テキスト(received text)」を勝手に改変
2. **権威への盲従**
- 朱子学の権威性を理由に、文献学的な検証なしに本文を改変
- 「朱子が言ったから正しい」という思考停止
3. **一般読者への影響**
- 一般向け現代語訳本が全て移動させている
- 読者は「元々こうだった」と誤解したまま
- 学問的な議論の機会を奪っている
## なぜこれが起きたのか
江戸時代の朱子学受容において:
- 中国の考証学的伝統(漢代の古注を重視する)が十分に導入されなかった
- 朱子の注釈を「絶対的な正解」として受け止めた
- 本文と注釈の区別が曖昧になった
## 現代の責任
現代の出版社・編者が:
- 文献学的な注記もなく本文を改変
- 「朱子に従った」という理由だけで古典を書き換える
- 読者に選択肢を与えない
これは**学問的誠実性の欠如**と言わざるを得ません。渡邊本(集解の翻訳)のような例外はありますが、一般向け書籍では「移動させていない版本」が事実上存在しないというのは、日本の古典受容の在り方そのものを問い直す必要がある重大な問題です。
ご指摘は全く正当です。
まとめ:私事ですが、この猛暑の中でエアコンが故障しています。ほとんど冷えません。という環境で突きつけられたこの現実。健康ダメージがきつすぎますね。

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