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2024年5月1日水曜日

行動規範としての日本の物語の系譜

お釈迦様、孔子様、イエス様のような偉人たちは、我ら凡人に人間はどう行動すればを教授した。それらの教えは、それぞれ仏教、儒教、キリスト教と名付けられている。では神道はどうだろうか。

実は神道は元来行動規範がない。読んで字のごとく神の道である。人間の行動などどうでも良いのである。とはいうものの日本にも一応人間は住んでおり、一応社会生活を営んでいた。行動規範なしに社会を成立させることは不可能である。過去の日本人達は仕方がないから、物語の中の登場人物の行動で、規範を示してきた。誰それの生きざまは好ましい。よってそのように生きるべきである。誰それの人柄は好ましくない。よって誰それのような人間になるべきではない。そんな事例の積み重ねで行動規範を成立させてきた。他の宗教規範とはだから、少々異なる。


今井四郎

今井四郎は木曽義仲の家臣である。子どもの頃から共に育ち、主人と一心同体になっている。義仲は一時期京を制圧したが、やがて義経たちとの戦いに敗れる。木曽義仲もさすがにヘコむ。

「日ごろは何とも覚えぬ鎧が今日は重うなつたるぞや。」

今井四郎はこれ以上戦うのは無理とみて、主人を自害させようと説得する。

「御身もいまだ疲れさせ給はず。御馬も弱り候はず。

~(私が居れば千騎分の戦力です。しばらく防御できますから)~

あれに見え候ふ、粟津の松原と申す、あの松の中で御自害候へ。」

ところが義仲は今井と別れたがらない。

「これまで逃れ来るは、汝と一所で死なんと思ふためなり。所々で討たれんよりも、ひと所でこそ討ち死にをもせめ。」

すると今井は馬から飛び降りて、義仲の馬の口にすがって言う。

「御身も疲れさせ給ひ候ひぬ。御馬も弱って候。(小物に打ち取られて自慢されるのも悔しいから)ただ理をまげて、あの松の中に入らせ給へ」

数秒間まで「御身もいまだ疲れさせ給はず。御馬も弱り候はず」と言っていたのに、数秒後には「御身も疲れさせ給ひ候ひぬ。御馬も弱って候」である。いったい義仲とその馬は、疲れているのかいないのか。

論理的にはまったく問題外のこの発言によって、しかし、今井四郎は平忠度とならぶ「平家物語」の最も魅力的なキャラクターとなり、歴史にその名を残した。論理的に無茶苦茶であるからこそ、今井の主人への強い感情が表現されていて、その感情が魅力となっているのである。

説得された義仲は松林に向かうが、自害する前に射殺される。それを見た今井四郎は、

「今は誰をかばはんとてか、いくさをもすべき。これを見給へ、東国の殿ばら、日本一の剛の者の、自害する手本」

と言って、太刀を口にくわえて馬から飛び降りて、自ら刃に貫かれて死ぬ。


平家物語

平家物語の作者が、今井四郎の死ぬ瞬間に立ち会った可能性は100%ない。死ぬ瞬間に立ち会った人の話を聞いた可能性も、100%ない。全部創作である。そして創作物としての平家物語は、出来が大変良い。

冒頭は皆さまご存じ、「祇園精舎」である。

「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす」

続いて平家の台頭を描写される中で、小さなエピソードが挿入される。祇王である。

祇王は白拍子(しらびょうし)である。男装の女性が歌舞を演ずる。祇王は人気の白拍子で、平清盛の寵愛を受けた。しかし仏御前という白拍子に寵愛を奪われ、悲しんで山の奥に庵を結んで、極楽往生を願い念仏にふける。そこに仏御前が訪ねてくる。彼女もやがて寵愛を失うであろうと考え、清盛の元を離脱したのである。二人は念仏に専心して、やがて極楽往生を遂げた。

このエピソードが挿入されているのは、平家全体の今後の運命を暗示するためでもあり、女性を無下に扱ったから天罰当たって没落したという、因果を示すためでもある。冒頭が「祇園精舎」という仏舎名から始まり、続いて「祇王・仏御前」が全体の今後を暗示する。両方合わせて漱石などがよく使う、冒頭集約である。こんな都合の良い名前の女性が実在したとは、ちょっと考えにくい。創作であろう。創作者はご丁寧にも祇王の今様まで掲載している。

仏も元は凡夫なり

凡夫も終には仏なり

共に仏性具せる身の

隔つるのみこそ悲しけれ

ちなみに今様とは七五調の歌で、平安末期から流行しはじめた。「いろは歌」も今様の一種である。

色は匂へど 散りぬるを

我が世誰ぞ 常ならむ

有為の奥山 今日越えて

浅き夢見し 酔ひもせず

平家物語の冒頭もリズムは今様である。最後が字余りだが。


曽根崎心中


話は江戸時代に飛ぶ。初演は1703年だから今井四郎が死んだ1184年から500年以上経過している。金銭トラブルで絶望した徳兵衛二十五歳は、恋人のお初十九歳と心中を敢行する。二人が死に場所へ向かう道行は、日本文学史上屈指の名文とされている。

この世の名残り、夜も名残り、

死にに行く身をたとふれば、

あだしが原の道の霜

一足づつに消えてゆく

七五調である。今様である。500年経っても今様スタイルである。「今様」とは「現代風」という意味である。500年の永続性を持つ現代風スタイル、わけがわからないが探求しない。

話を戻して、恋人二人は松と棕櫚が並んで立っているところに行って相談する。

「(今わの時の苦しみで、死に姿が見苦しいといわれるのも悔しい。)この二本の連理の木に、体をきっと結ひつけ、いさぎよう死ぬまいか。世に類なき死にようの、手本とならん」

またも「手本」である。「日本一の剛の者の、自害する手本」と言って死んだ今井と一緒である。

「あとで色々言われるのが悔しい」「手本になる」、今井四郎と徳兵衛お初は500年経過しても同じである。近松がその時木の陰に潜んでいて二人の会話を聞いていた可能性は、100%ない。全部創作である。そこも同じである。

二人は剃刀で死に、作品は「手本」で締めくくられる。

「誰が告ぐるとは、曽根崎の森の下風、音に聞こえ取り伝え、貴賤群集の回向の種、未来成仏疑いなき、恋の手本となりにけり(終)」

つまり日本においては、倫理、行動規範は聖人君子神の子などが定めるものでは無い。一般人、敗者が死ぬ間際に定めるものである。無論実際には死ぬ間際に人とコミニュケーション取れる可能性は低いから、作者が創作するのだが、作者の創作動機は観客の支持を当て込んでのことだから、人々がそう考えていたと見て間違いない。死に際民主主義とでも言うべきか。

仮名手本忠臣蔵

タイトルそのまま「手本」である。四十七士をいろは四十七文字に当てはめて仮名手本としているのだが、無論人間としての手本という意味を含ませている。彼らは別にお家再興に成功したわけではない。吉良を殺したというだけである。吉良を仕留めて、その後(仮名手本には描写されないが)四十七人は切腹である。割りが悪い。客観的に見れば敗者である。しかしだからこそ、今井四郎や徳兵衛お初と同じく人々の手本になった。

こういうのはポトラッチの一種だと思われる。ポトラッチとはアメリカ先住民の習俗で、相手を歓待する際に自分の財産を破壊する行為である。財産で接待もするが、重要なのは接待ではない。浪費そのものである。財産を大規模に浪費することが、自分の正統性を証明し、相手への威嚇にもなる。実は似たような話が中国の春秋時代にある。

呉王闔廬聞允常死,乃興師伐. 越。越王勾践使死士挑戦,三行,至呉陳,呼而自剄(呉王の闔廬は越王の允常が死んだと聞き、越を討つ軍を起こした。越王の勾践は決死隊で挑ませ、歩兵を三列進ませ、呉の陣地にいたって声を上げさせて自分で首を落とさせた(史記・越王勾践世家))

この越の習俗も、ポトラッチの戦争バージョンであり、自殺の姿を敵に見せることにより、大幅な財産毀損で敵を圧倒する意味があったのではないか。その直後越軍は呉軍を攻撃し、大いに敵を破っている。自剄によって既に呉軍は圧倒されていたからである。

歴史家の落合淳思などはこの事件の実在を否定しているが、(私は彼の大ファンなのだが)私は存在しておかしくない事例だと思っている。そして越の人々は断髪文身、つまり倭人によく似ており、越軍が自死によって敵軍を圧倒したように、倭人の末裔も自死によって行動規範に自分で文言書き加えようとするのである。


もっとも、忠臣蔵の人気はポトラッチ的古俗にあるだけではなく、政権批判の意味もあるのではないかと考えている。浅野内匠頭の「浅野」とは、広島の浅野家の分家であり、浅野家は元来ねね、北政所、つまり豊臣秀吉の妻の実家である。であるならば赤穂浪士の活動は意味としては、徳川政権への批判である。赤穂浪士は将軍家の裁きに異議を唱え、自分たちの考える正当な処分を実現した。それを江戸庶民は支持した。明治維新は忠臣蔵から始まっているのではないかとさえ思われる。頃は元禄、好況である。織豊政権に近い社会の雰囲気だったはずである。


「壁と卵 – Of Walls and Eggs」

時代は一気に飛ぶ。2009年、村上春樹はエルサレム賞を受賞した。受賞者のスピーチは「壁と卵 – Of Walls and Eggs」という題で行われた。

当時村上春樹は、ノーベル文学賞の有力候補だった。賞金1億円と、文学者としての最高の栄誉が手に入る目前だった。しかし彼はあえて、ポトラッチをやりに行った。全てを捨てに行った。その後も有力候補としてマスコミに名前は上がり続けるが、私に言わせれば政治的によほど大きな変動がなければ、彼の受賞の可能性はない。このスピーチで可能性がなくなったのである。

https://murakami-haruki-times.com/jerusalemprize/


精読していただきたいのは後半である。

「我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにとっての硬い大きな壁に直面しているのです。その壁は名前を持っています。それは「システム」と呼ばれています」

イスラエル人がどんな顔をして聞いていたのかは想像しかねるが、村上はここで、イスラエルを単純に批判しているのではない。イスラエルの背後にある英米を批判している。彼らならこの文言の意味が理解できるだろう。批判相手を信頼してこの言葉を述べている。ウィストン・チャーチルが受賞するのがノーベル文学賞である。元来戦勝国サイドのシステムなのである。村上はそれに盾突いた。目の前にぶら下がっているニンジンを手で払いのけて、自分は敗者の側に立つと宣言した。

思えば日本近代文学も、敗者のための文学だった。幕府の人々の心境を代弁した漱石、敗戦の中で天皇と日本を擁護した太宰、戦後の対米従属の再考を促し、今井や徳兵衛のごとく自死した三島。村上はこのスピーチの瞬間、日本近代文学の正統後継者の地位を確立したと言える。

といって村上は戦争をしようとしているのではなく、批判相手と対話をしようとしている。礼儀を尽くして、一方的な非難にならないようにしている。これらは日本人的には十分手本になる行為なのだが、他の文化圏の人々にとってどうかはわからない。

しかし2024年5月初旬現在、既にシステムの製作者たちの凋落が明らかになり、システム自体の崩壊の日も視界に入ってきている。英米の人々特にアメリカ人は、覇権が長かったから敗者である自分たちの境遇を受け入れられずに悶絶しつづけるだろう。そんな時、敗者たちを理解し、語らい、寄り添ってあげる能力が一番高いのは日本人ではないか、ということを言いたくて本稿を構想した。年季が入っているからである。