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2019年7月22日月曜日

「ファウスト」追記2

「ファウスト」の最後はバウキスとピレーモーンの話である。
既存の解説書は「バウキスとピレーモーン」もどうも理解できていない。
普通に異人交易譚である。

再掲すると

「「ある集落に神々(ゼウスとヘルメス)が、旅人に変装して二人連れで訪ねてくる。しかしどの家でも見慣れぬ旅人を歓待しようとしない。ただ老夫婦のパウキスとピレーモンだけが歓迎して家に入れてくれる。やがて食べ物が減らないことに老夫婦は気づく。彼らは神々なのだと気づく。

すると神々は、私達についてこいと命ずる。家を出て神々の後に従う老夫婦、振り返ると集落は全て洪水で水没し、老夫婦の家だけが立派な神殿になっていた。

神々になにか望むことはないかと聞かれた老夫婦は、神殿の神官として暮らしたい。そして互いに葬式をあげることなく、死ぬときは二人一緒にしたい、と伝える。

やがて神官として年老いた二人が語り合っていると、互いの体から木の芽が生えててきていることに気づく。最後の時と悟った二人は、共に感謝の言葉を交わしながら、二本の樹木に変化する。二本の樹木は今も神殿の脇に立っている」


後半の樹木になるというところは、一旦措く。
前半は典型的な交易譚である。

交易の原初形態は「旅人」だろうと思われる。
太古の小規模な集団で生活していた。集団はゆっくり移動していた。移動していたなら交易は必要ない。どこでも行けるからである。しかし徐々に定住する。完全に定住しないまでも、定住の度合いが高まる。
ところで、昔から群れからはみ出した人間が居る。若いオスである。人の群れのボスを殺して、そこのメスを自分のものにする。しかしボスに負けて追い払われるかもしれないし、そもそも群れに出会わないかもしれない。彼らが「旅人」である。原初の商人である。

「旅人」は群れに帰属できないものだから移動する。移動は結果として交易になる。なんらかの利益を、旅人にも、群れにも提供する。しかし旅人にボスを殺されてはたまらない。利益は欲しいが暴力が怖い。ではどうするか。
元来旅人が群れに近寄るのは、女性と寝るためである。だからそれだけは確保してあげる。そんな習慣が日本の村にはあった。旅人が来ると奥さんを提供するのである。

「この世界の片隅に」にもその習慣の残滓がある。
https://matome.naver.jp/odai/2148672009841452301

「バウキスとピレーモーン」は老夫婦の話である。さすがに奥さん提供してもどうしようもないから、食べ物飲み物を一生懸命提供する。すると神々を迎え入れなかった家が全滅し、老夫婦は生き残るのである。「だから旅人は暖かく向かい入れろ」というのが、この話の主題である。

日本昔話の解説【瘤取り爺さん・一寸法師・桃太郎・浦島太郎・花咲か爺さん・他】
https://matome.naver.jp/odai/2154376918606256601

に書いたように、昔話は異人交易異常に多い。これこそが経済学の始原だと思うのだが、現在の文学は(ゲーテが頑張ったのにもかかわらず)経済についての言及が非常に少ない。人間社会が政治と経済、言い換えれば軍事と商売で成り立っている以上、本来は文学が扱わないということはありえない。しかし文学が、文学にしか興味がない人のものになってしまい、社会に対する文学者のトータルな理解は壊滅的な状況になってしまった。だから「ファウスト」の意味がわからない。

「ファウスト」では「バウキスとピレーモーン」をひっくり返して表現している。ファウストはあくどい海賊貿易に手を染めている。本人は真面目な努力をしていると思い込んでいる。しかし交易の原初的な姿を焼き滅ぼしているのが、ファウストなのである。よって命が絶たれる。

「ファウスト」では人間の欲望を否定はしていない。人間はそういうものだとみなしている。だから欲望の肥大化である通貨発行も必ずしも否定していない。だからこそ、「交易の否定」は否定する。戦争による金銀財宝の獲得さえ否定しないのだが、交易原理は守ろうとするのである。

このあたりの解釈、どうも専門家で全く俎上に登っていない。ゲーテ専門家、ドイツ文学研究家が、経済に興味がないからである。つまり「ファウスト」に興味がないからである。経済の初歩などたいして難しいものではない。ドイツ語のマスターの10万分の1くらいだろう(無論極めるのは大変だろうが)。でもその初歩を考えられない。よってゲーテの「ファウスト」は読まれない。

2019年7月21日日曜日

「ファウスト」追記

「ファウスト」解説【ゲーテ】

時間がかかった。別に完全な解説ではないが、まずある程度の見通しまでは示せたと思う。
戦前は旧制高校でドイツ語が必須だったこともあり、ドイツ文学研究はかなり水準は高かったはずである。
もちろん戦後もレベルは十分高く、現在だって外国文学研究としては見ごたえのあるもののうちの一つだろうと思うが、正直言って、誰も十分「ファウスト」を読めていなかった。それなりに研究所は目を通したから、間違いないと思う。

本文の末尾の有名なフレーズ、
「すべて移ろい行くものは、永遠なるものの比喩にすぎず。
かつて満たされざりしもの、今ここに満たさる。
名状すべからざるもの、ここに遂げられたり。
永遠にして女性的なもの、われらを牽きて昇らしむ。」


「ループ時間が本源的な時間だ。
キリスト教の教義内容不備は整理された。
詳細の直接的記述は危険なので回避するが、
教義への女性の編入を含む内容なのである」

と書き換える、たったそれだけの作業に、やろうとしてから2年間かかった。

誰でも知っていることだが、冒頭の「天上の序曲」は旧約聖書「ヨブ記」を下敷きにしている。
ところがこのヨブ記について、まともな解説が無い。
解説を書いたり読んだりするのはクリスチャンだから、キリスト教の外から考えたものが存在していない。
西洋人も、ゲーテはじめキリスト教からの離脱を色々試みているのだが、
当時から今まで人類文明のイニシアチブは西洋社会が握っているのである。
当然客観的な視点は、今現在まで確立できていない。

実際ヨブ記を読んでみると、当時のユダヤ教の教義的な不備による苦しさが如実に理解できる。
聖典かもしれないが、欠陥のある聖典なのである。
そのことの解説は存在していなかった。
だから自力でまとめた。

「ヨブ記」あらすじ解説【旧約聖書】

また、「ファウスト」最大の難解な場所は、第一巻にも第二巻にも存在する「ワルプルギスの夜」であり、マドマギで端的に表現されているように、これは性的錯乱の祭りなのだが、ゲーテは明らかに「夏の夜の夢」を下敷きにしている。
しかし「夏の夜の夢」のしっかりした解説も、これまた存在していない。
だから自力でやった。

「夏の夜の夢(真夏の夜の夢)」あらすじ解説【シェイクスピア】

で、ようやく「ファウスト」に書かれるわけだが、過去のファイスト研究は明らかに、
ヨブ記の読み解きも、夏の夜の夢の読み解きもやらずに、いきなりファウストを読もうとしている。

これでは無理である。いくら碩学でも無理である。読めるわけがないのである。
その下敷きを理解せずに、ドイツ人学者による「ファウスト研究」のほとんど全部に目を通す、それはそれで作業量的には十分偉いことなのだが、ツボを外している。