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2019年12月21日土曜日

論語について 3

孔子は紀元前479年没らしい。没後73年で戦国時代に入る。それから200年後に前漢になる。前漢は200年経過してほぼ紀元0年ごろ後漢になる(実際には紀元25年)。200年程度存続した後漢の終わり頃、鄭玄(ていげん、あるいはじょうげんとも読む)という学者が論語に注釈をつけた。これが鄭注である。部分的にも現存する注の最も旧いものである。鄭玄は三国志にも登場する人物で、書いたときが黄巾の乱とどちらが先か判然としないが、かりに黄巾の乱ジャストと考えても、孔子の死去からその時既に663年経過している。現代に置き換えると、北畠親房の神皇正統記の初めての注釈が今年出版されました、というにほぼ等しい。紙が発明されたのが後漢だから、竹簡時代に注釈ができなかったのは仕方がない。しかし660年以上前となると、まるでリアリティのない遥か昔の話である。当時の時点でもはや文の正誤なんぞ判読しようがない。ほぼ最初の注でそれなのであるが、それからさらに1800年が経過している。以上を要約すると、事態は絶望的なのである。

似たように絶望的な状況に陥っているのが「聖書研究」である。新約聖書には4つの福音書が並んでる。マタイ、ルカ、マルコ、ヨハネである。それぞれ内容が違う。それぞれ制作年代が違う。それぞれ自分の考えがあり、その考えはイエスの考えではない。そしてもともとそうなのだがコピーを重ねるごとに、当時は筆写だから大量の間違いが発生し続けた。教会組織が完備されて以降の間違いは大したことがないが、そこに至るまでの段階でなにしろ素人が筆写しているもので途方もない量の間違いが生産された。どこかに原本がないのか。ない。どこかに「これがイエスの考えだ」という確証ある資料があるのか。ない。だから研究者は少しでも古い資料を求めてゆき、時々発掘されると狂喜乱舞して妄想を炸裂させる。

そんな苦労を積み重ねたある聖書学者が、かれは世界的権威の一人らしいのだが、研究に研究を重ねた結果とうとうクリスチャンやめてしまったと言う話がある。本邦の誇る学者の田川建三氏も「無神論クリスチャン」を標榜しているそうである。研究の結果、信仰をうしなってしまう。研究か信仰かの二択である。儒教もだいたい似た状況である。真説氏は宮崎市定を崇拝している。勢いにつられて宮崎論語を見てみた。たしかに、もはや宮崎は儒者ではなくなっている。孔子を愛してはいるだろうが、崇拝者ではない。そして論語本文も間違いと思えるところをバンバン訂正してゆく。誤字である、脱字である、錯簡である。情け容赦ない。

近代文学解析しても事情は同じである。きっちり解析すると、神格化はかならず脱落する。限界のない天才ではなく、限界はあるが優秀で、勤勉な人間が立ち上がる。研究者たちはそれを嫌がってきっちりした解析をしたがらないのかもしれない。研究対象の限界を認めると、自分自身の限界を認めるような気がするのかしら。

そして、聖書や論語の研究のエネルギーの大半が、実は本文そのものではなく、バージョンに違いや成立へ推測に当てられている状況を見ると、近代文学の研究が本文を読まないのは感触的によくわかる。聖書や論語は、なんのかんのいって量が少ないのである。論語全文暗唱している人は、昔の日本にはゴロゴロ居た。量が少ないからである。だから「読む方法」を考える必要がない。本当はあるのだがあまりない。そしてその態度をそのまま近代文学に移植したのが、現代の近代文学の研究である。

2019年12月17日火曜日

論語について 2

読み解きはテキストが固定的なことが前提である。
外国文学では複数の翻訳が出版されていることが多いが、
だいたい同じ意味であることを前提に、異同を勘案せずに読み解きをすすめる。
全体構成の読み解きだから、少々の違いは無視できる。

で、論語の読み解きの場合はそれが通用しない。
一応テキストの定番らしきものは存在する。
ところがその漢文の書き下し方が、未だ一定でない。

「書き下し方(つまり意味解釈、外国語からの翻訳)を考えるには、当時の言葉を知らないといかんではないか」と言い出したのは、なんと中国人ではなく日本人で、伊藤仁斎という。江戸時代の人である。それに荻生徂徠が続き、徂徠の研究は独創的なものだったので、中国で出版されたりもした。
中国でも日本から遅れて語学的研究が始まり、今日までそれは続けられている。

真説「論語」
https://twoshikou.exblog.jp/

も論語の全体構成をまず見るのではなく、「春秋」から当時の歴史状況を理解し、本文を検討してゆく方向である。検討の結果として「原初論語」を再現しようとする意図だったらしいのだが、記述は途中で中断されていて再開していない。ご本人「満身創痍」と書かれている。どなたか消息ご存知でしたら教えていただきたいものであるが、内容はともかく度胸が良い。切り捨てるところは問答無用で切り捨てる。

例えば、当時の木簡竹簡の状況。材料を用意するのに手間がかかり、かつ墨が発明されていない。漆で書かれていたらしい。書きにくい。となると、長い文章の記述は無理である。実際春秋の本文は極端に短い。だから論語も本来は極端に短かったはずである。しかし論語の中には短い文もあるが長い文もある。という状況で、真説氏は一気に切り捨てる。

「長文は基本的に後世の偽作である」

説得力が高い。高いのだが、論語の全体構成を読みたい私の意図とは遠く離れてしまう。かなりの文章が抹殺されてしまうからである。11-25の「子路。曾晳。冉有。公西華。侍坐。」で始まり、「歌でも歌って帰りましょう」となる有名な文章も、抹殺されてしまうのである。もはやそれは、論語ではない。間違いなく孔子の発言には近づくのだが。

2019年12月13日金曜日

論語について

「論語」コツコツやっている。頭と時間と気力に限界あるからペースがやたら遅い。まともに読めるようになるまでおそらく数年、全部頭に入るまで10年、読み解きとなると生きているうちにできるかどうかわからない。なんでそんな迂遠なことをしてるかというと、物凄く精神が落ち着くのである。ではなんでそんなに精神が落ち着くのか。内容が素晴らしいからではない。内容がないからである。中身が空っぽだから落ち着くのである。言い換えれば、気合と根性さえ充実していれば自由に読める。なんとでも解釈できる。

だいたい教祖なんてそんなもんで、釈迦の場合は第一回仏典結集が入滅百年後である。それも文字情報の突き合わせではなく、口誦の突き合わせである。でもってその後もしばらく文章化されなかったわけだから、どれが釈迦本来の教えであるか、確かなお情報はないのである。
だからこそ、つまり「これこれが教祖の教えである」という情報が少ないからこそ後世の仏教徒は次から次へと新たに経典を開発作成できたわけである。生前多弁すぎ、かつ文字情報等を残しすぎ、結局生身を感じさせることになって神格化に失敗した宗教家もかなり存在したのではないか。つまり釈迦は、文字社会でなく、さのみ情報が残らなかったことが後世有名になった原因だと思われる。
なんだか釈迦に尊敬が足りないようでもある。しかし読み解き作業は神格化をしたらダメなのである。作業上神格化禁止なのである。釈迦もキリストもムハンマドも、ただのおっさんなのである。ゲーテもドストエフスキーもそうであるように。
孔子も同様にそこらへんのおっさんである。味はある。頭も良い。でも聖人ではない、そう思っていなければ実はなんにも読み解けない。もっともバカにしたら読み溶けるというものでもない。

孔子が生きたのは古代社会である。資料が非常に少ない。少ない資料を読み解くと、どうしても妄想比率が高まる。論語の読み解きの歴史は、伊藤仁斎(1627生)からはじまって、武内義雄(1886生)くらいでどうも限界点まで行っている。私は伊藤も武内もまだ読んでいないが、武内に刺激を受けた和辻哲郎の「孔子」を読んだ。

https://www.amazon.co.jp/dp/B009MDOMUU/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_6fZ8DbP5GQCNB

名作である。タダである。血沸き肉踊る論考である。つまり、やや妄想に近くなっている。ある一定の情報量から導き出される読みの総量は一定であるはずである。情報が倍になれば読みもその分深くできる。情報が増えなければ読みはいずれ限界に近づく。東洋社会では論語はS級の書物だから、だいたい戦前には読み解きが限界値を迎えていたようである。
それでもなお、読み解きを進める猛者は存在したし、今も存在する。数年前から知っているサイトだが、2009年を最後に更新が途絶えている。もしかしたら著者は逝去されたのかもしれない。

真説「孔子」
https://threeshiko.exblog.jp/

真説「論語」
https://twoshikou.exblog.jp/

真説「春秋」
https://oneshikou.exblog.jp/

妄想爆裂である。しかし私は尊敬する。この勇気。この度胸。そしてこの洞察。
以下真説氏の説を随時アップしてゆく。

2019年12月10日火曜日

戦争と平和、エピローグ第二編について

トルストイ作「戦争と平和」は以下のような章立てになっている。




四部+短めのエピローグであるが、短いと言っても全体が長大なのでそれでも結構な量になる。エピローグは二編あるが、うち第二編はおなじみの人物たちが登場しない。小説ではないのである。トルストイの歴史論になっている。最後の最後だから、トルストイの主張がここにまとめられているからと考えて差し支えない。エピローグ第二編のみ表に書き出してみた。



表にしてもダラダラとわかりにくい。原文はもっとわかりにくい。たかが歴史論程度でこれである。なるほどこの人は小説書かなきゃならなかったはずである。論説文が「ほぼ書けない」レベルなのである。信じがたいほどの下手である。今日の標準的な高校生のほうが論理が流れる書き方ができるのではないか。わかりにくいのを何度も読んでとりあえず理解できたと思うから、まとめておく。

1、古代社会では歴史を動かすのは神だった
2、その後信仰がなくなった
3、歴史学者は神の部分に「権力」を代入して説明している
4、ではその権力とはなにかというと、まともな説明はない。いったい歴史を動かしているのはなんだ
というのが設問である。

設問自体は鋭い。歴史学者の皆さんはなんと答えるだろう。あんまりこういうことを考えていないのではないだろうか。
トルストイはメンタルはベタベタクリスチャンのくせに、インテリだから知的、科学的に考えようとする。だから神のかわりになにを代入するか気になるところだったのだろう。

トルストイの結論では、権力はない(はっきりとは言わないがそういう意味である、以下やや断定的に説明する)。権力者の自由意志もない。人間の行動の全ては必然である。必然なのだが、必然だと認識できていないから自由意志があると思い込み、権力者が存在すると思い込んでいる、というものである。

トルストイは例えば、「命令は事件の原因ではない」と言い出す。なるほど命令は出されている。いくつかは実行される。その後事件が起こる。しかし実行されない命令も大量にある。大量の命令のうち実行されたものを事後的に発見して、「この命令がこの事件の原因だ」と言われる。しかしそれは事後的な処理にすぎない。因果関係ではない。相互関係にすぎない。つまり命令は事件の原因ではない。
また言う。単独の命令は存在しない。命令にはかならずそれに先立つ命令がある。命令の原因は命令であり、命令の結果は命令である。命令者は命令を下すのが仕事であって、実際に戦闘には参加しない。ナポレオンやロシア皇帝アレクサンドルが殺し合いはしない。命令を下すだけである。したがって彼らは戦争に参加していない。

こういう考え方では、ナポレオンは英雄にならない。というか受動的に法則に動かされているだけで、極論すれば責任もなくなる。すべては必然の法則で動かされているのである。ではインパールの牟田口は責任はないのか。責任あるような気がするの人が大半だろう。
とりあえずトルストイの主張と、かれが暗黙に想定する対立意見を表にした。



あっさり言ってしまえば、この両極端とも人間は完全には棄却できない。つまり両方の意見が存続し続ける。人間が人間であるかぎりそうである。
しかしトルストイは極端な考え方が好きだから、登場人物を当てはめて勧善懲悪ならぬ、勧正懲誤物語を作った。


しかしながら、なんぼピエールとクトゥーゾフを受動的キャラに描いても、やっぱり彼らはヒーローなのである。ナポレオンほどではないが、ヒーローなのである。

トルストイはようするに、混乱しているのである。極端な主張をしようとしてしきれていない。しかしその努力と根性たるや凄まじい。結局圧倒されてしまう。小説は結局の所、論理の整合性を探求する場所ではなく、正体不明の情熱をぶつける場所のようである。

2019年11月9日土曜日

山本太郎と小沢一郎の権力の源泉

枝野代表が消費税減税で煮え切らないのは、経済を理解していないのもあるますけど、95%は小沢一郎が怖いからです。山本太郎は小沢一郎の製造した刺客、と枝野氏は理解しています。その理解はあながち間違いではありません。山本が経済の研究を始めたのは、おそらく小沢の後押しがあったのでしょう。

現在野党のTOPは枝野氏です。小沢ならばそれをひっくり返せる。それどころか政権を奪取できる可能性さえある。一方で自分たちが消費税増税を推進したのですから、「消費税減税レース」では最初から不利。ヘタに減税に賛同すると覇権ゲームで敗北します。だから二の足を踏んでいる。


小沢一郎は「国の借金問題」の嘘を、政治家になった最初から理解している人です。学者の意見に惑わされない。財務省を味方につけたいときは増税に賛成し、政権を取りたいときは減税に賛成します。どっちでも良いと思っている。モンスターですね。権力闘争の権化です。

「財務省職員を怒鳴りつけれるのは小沢だけ」とよく言われていました。財務省としては不倶戴天の敵。グチャグチャにされます。だからこそ絶対の権力を持てる。国家財政を自由にできるのですから。だから長年政局の中心に居れた。政治技術の天才なのです。


そして、そこまで徹底的な天才ですと、国家観がありません。政治の理想もありません。国家とは、政府とは、天才料理人小沢にとって小麦粉のようなものです。うどんにもできる、ピザにもできる。天才だから自由自在。だから政権握るとすぐどうでもよくなる。良い一皿作れば満足なのです。大量の原稿を書きながらほとんど発表しなかった天才宮沢賢治とダブります。岩手はこういう才能を生むんですね。ちょっと根拠不明の才能なのです。


最近MMTなどで国家財政にたいする理解が深まりましたが、小沢が日本に不要になるまでには、もう少し時間がかかりそうです。「小沢の権力を支えてきたものはなにか」とよく話題になりました。最初は竹下金丸、つぎにアメリカ、つぎに中国と、手を組む相手を次々とかえて、また復活してくる。

それら不屈の権力の源泉は今こそ明らかになっていると思います。主流派経済学者の誤った国家財政観です。インテリの認識の過誤が長年小沢の権力を支えてきたのです。

2019年10月23日水曜日

悪霊・追記4

ドストエフスキーの最大の魅力は、おそらく会話にある。人物がハイテンションに会話して段々と場を盛り上げて行き、やがて大きなクライマックスに至る。
カラマーゾフなら僧院での会合。悪霊ならば第一部最終ワルワーラがステパンの出入り禁止を言い渡すところ。コミカルで、劇的で、妙に登場人物への愛情のようなものが感じられるシーンである。

なぜ彼はこんな素晴らしいシーンを書けたのか。ここらへんの研究が終わると、「ドストエフスキーは完全攻略」となると思われる。カラマーゾフ、罪と罰、悪霊と解析やってきたが、私は残念ながらそこまで至れていない。

「耳と目」という視点で見ると、トルストイは目の人であり、ドストエフスキーは耳の人である。トルストイは情景描写に優れ、ドストエフスキーは会話に優れる。トルストイは「クロイッツェル・ソナタ」で音楽を否定し、ドストエフスキーは「死の家の記録」でロシアのカマリンスカヤを賛美した。

ところで文明は目の文明と耳の文明に大別できる。日本、中国は目の文明である。インドは両方ある。イスラムは耳の文明である。肖像画を否定し、かつ砂漠であまり見るものがなく、かつクルアーンの響きを愛好するからどうしてもそうなる。
そしてヨーロッパではイスラムの強い影響を受けたところが耳の文化を作った。すなわちウィーンをトルコに包囲されたオーストリアと、ロシアである。

ちなみに宮崎市定によれば、プロテスタンティズムは「キリスト教のイスラム化」であるそうで、実際聖職者ナシ、原典主義はあきらかにイスラムの影響である。つまりルターが、もっと言えばトルコがバッハやモーツァルトやベートーヴェンを生んだという理屈である。

今日から見る西洋文明は巨大だが、歴史的にはイスラーム世界の後背地といった風情が濃い。ルネッサンスからようよやく互角への道をあゆみはじめるくらいである。ところがロシアは、モンゴルタタールに占領されていたものだからルネッサンスもなにもないのである。

写真はクレムリン。



そしてイラン陶器


シャガール



そしてペルシャ陶器
https://images.app.goo.gl/z5rX6LSHQXLKXTJf7


ロシアのかなりの部分はイスラムのはずなのである。しかし明らかにされない。ドストエフスキーもかなり源流がイスラムにあるはずなのである。しかし明らかにされない。

そう考えると最もドストエフスキーに近いのは、イラン映画と思えてくる。

別離


こちらはかなりドストエフスキーである。クライマックスへの持ってゆき方が特に。イラン=ペルシャは、ようするに古代メソポタミア以来の文明を受け継ぐ人々で、中国、インドよりも古い。文化の熟成が高い。イラン人は特に演劇に力をおくようである。人類最高レベルの演劇鑑賞能力を持つ集団かもしれない。

現状では仮説に過ぎないが、ドストエフスキーの会話で盛り上げてゆくドラマ作りの根底には、イラン演劇があるのではないか。ロシア人はギリシャ正教の伝統、つまり東ローマ帝国の文化を自身の根源として捉えているようだが、私が東ローマ帝国の文化にたいする知識がないのでなんとも言えない。
ただタルコフススキーにせよズビギャンツェフにせよ、ドストエフスキー的ではないのである。と書いていてもうひとりドストエフスキー的な会話の上手な映画監督思い出した。タランティーノである。



この作品は、下敷きにコンラッドの「闇の奥」があり、コンラッドはロシア生まれのポーランド人だから、(ドストエフスキーを嫌っていたらしいが)実はドストエフスキーの正統的な後継者はコンラッド→タランティーノということになるのかもしれない。


2019年10月18日金曜日

悪霊・追記3

第三部でのニコライとリザヴェータの逢引の後の会話シーンは、
この作品でもっともやっかいな部分である。

どうもニコライが上手くゆかなかったようで、非常にオドオドしている。
リザヴェータは終始不機嫌である。ニコライを馬鹿にしきっている。

ニコライ「昨夜はなにがあったのだろう」
リザヴェータ「あったことがあったのよ」
わかりやすく言い換えれば
ニコライ「昨夜はどうして上手くいかなかったんだろう」
リザヴェータ「ご存知の通りよ。慰めてあげないわ(あなたがダメだった、ただそれだけよ)」

男性から見れば、リザヴェータが途方も無い性悪女に見える。
「礼儀も思いやりもないけしからん女だ。こんなやつは殴り殺されればいい」と思っていると、直後に本当に殴ろ殺されるから気の毒である。

佐藤優によればロシア女性には恐ろしいノルマを男性に課する人が居るようで、週16回だそうである。平日は一日2回、土日は3回。無理に決まっているのだが、課する人がいる以上、実行できる男性がロシアには居るということである。同じ人間とは思われない。

仮説が二つ成り立って、

1、ロシア革命で結婚制度が破壊された際に、恐ろしい適者生存の戦いが勃発した。軟弱な男女は淘汰された。生き残ったのはそちらが超人的に強い遺伝子のみである。

2、元来ロシア人はそれくらい強い。強いから「結婚制度破壊」のスローガンが有効で、それでロシアでは革命が成功した。

リザヴェータの無遠慮な不機嫌さを見るに、どうも2が正解のようである。「悪霊」は無論ロシア革命より前の作品である。あるいはその上で1の淘汰が発動してよりグレードアップしたのかもしれない。

「悪霊」という作品も、その後のロシア革命も、このロシア人の体質を念頭に置かなければ読めない。そういう体質を想像しながら読み解いてゆくことになる。なんでロシア文学が長大かなんとなくわかる。連中は実質的に自分たちの体質を表現しているだけではないのか。

考えれば羨ましくもあり、妬ましくもあるが、私が日本人離れしたパワフルさを身に着けても、どうせモテないんだから関係ない気もする。並の日本人レベルに追いつくのが先決問題の気もする。いや全てがどうせ無理なんだろう。だんだん考える気力もなくなってくる。

ショーロホフの「静かなドン」に、ある兵隊が長嘆息しているシーンがあったと記憶する。「世界中にはきれいな女がいるんだ。まだ俺たちが見たことがないようなきれいな女性が、一生見ずにおわってしまうような女性が大量に。俺はそう思うとたまらねえ気持ちになる」。手元にないからうろおぼえだが、さすがロシア人様ともなると、そもそも考え方が違う。体質による絶対の自信に支えられた願望と言うべきである。

2019年10月6日日曜日

悪霊・追記2

悪霊でも章立て表は用意した。
ズラズラ書いてたが大量になり過ぎた。
複雑怪奇な小説なのは、構成が複雑怪奇だからで、章立て表を作っても別に簡略にはならなかったのだが、だれかがより簡略で分かりやすい構成解析をしてくれるんじゃないかと思うから貼り付ける。

https://drive.google.com/file/d/1CrMFE02kVs3l7pVvLQSWQWTlNvIPz0fj/view?usp=sharing




第一部はたいへん構成が素晴らしい。最後のワルワーラ邸の全員集合に向かって人間が続々と用意されてゆく。その人間たちのキャラがまた立つ。登場人物一覧表も用意した。



カルマジーノフとリプーチンが望楼人リュンケウスだというのが、なかなか面白い対応だと思った。両者は不必要に情報通で、勢いに流されやすく、自分が何かを成し遂げることはほとんどない。頭は非常に良い。彼らの弱点がフィジカルにあるということがわかっているから、ピョートルは両者の前でのみガツガツを己が食事している光景を見せる。いずれも印象的なシーンを作れているが、ここではピョートルの戦略が優れているのである。同時に作者が両者を対にしていることが明快になるのである。


「ファウスト」ではリュンケウスは、いち早く世界の異変に気づく存在である。敵の襲来も、ヘレナの美貌も、パウキスの悲劇も、いち早く気づくが情報を知らせるだけで特になにもしない。

フェージカはステパンの元農奴だがステパン先生のカード賭博の借金のカタに売られて転落し、罪を犯して流刑囚になる。脱獄して故郷近辺をうろついている。最初ピョートルに使われていたが、やがてキリーロフに心酔するようになる。キリーロフはホムンクルスだから、ワーグネルの実質息子なのである。当然好きである。
エルケリは依然ピョートルに心酔している。もっとも最後になんだか捨てられそうな寂しさが表現されている。遅かれ早かれこちらもワーグネルになるのだろうが、そこまで描写されていない。ここらへ、作者Gとエルケリが対になっているという考え方もできて、私には明快な意見がない。だれか考えついたらお教えください。


今回始めて、「集中研究」をやった。
作中難解な箇所をエクセルに書き出して、集中的に検討する作業である。
本文の情報の20%くらいを書き出したと思う。通常の章立てより無論情報欠損が少ない。
やってみると大変有意義だった。難しい箇所が簡単に明快になる。「現代国語」なんかでわけのわかんない文章にウンウン唸る時間、あれは無駄であった。おそらくエクセルでこんな感じでまとめると、明快に読み解けたのではないだろうか。

こちらも一応全部掲載する。

https://drive.google.com/file/d/1CrMFE02kVs3l7pVvLQSWQWTlNvIPz0fj/view?usp=sharing


こういう読み解きをしてこなかったのは、ようするにエクセル使えなかった、使おうと思わなかっただけではないのかと思う。単純な話である。

亀山郁夫氏も

よみとき悪霊」
https://www.amazon.co.jp/dp/4106037130/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_CmHKDb1CZ9Q5B

翻訳の「悪霊」第三巻末尾の解説、
https://www.amazon.co.jp/dp/433475242X/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_EmHKDb7AA3EQC

両者とも非常にすぐれた解説だが、
このややこしい部分に正面攻撃は仕掛けていない。なんで正面攻撃をしないか。多分戦う前から諦めているのだろう。諦める必要はない。表を作ってしばらく眺めていればそのうちなんとかなるものである。

2019年10月3日木曜日

悪霊・追記

とりあえず「悪霊」読み解きアップした。
https://matome.naver.jp/odai/2156984353668968401

ヨハネの黙示録より
「ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。
わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。」

この文章が、「ニコライ・スタヴローキンの告白」と、ステパン先生最後の旅、2回出現する。2回出現するかなら理解可能だか、1回だけでよくも作品として成立していると考えたものである。読者には全く意味不明だったはずである。
「告白」の削除は検閲のためではなく、出版社の判断だったわけだがいずれにせよ、どうも作家は抵抗というか、言論に自由がないほうが燃えるようである。終戦直後の太宰治の「斜陽」と「人間失格」を見よ。

しかしどうして作者が「ヨハネの黙示録」がこんなに好きなのか、私には全く理解できない。普通に読めば普通にくだらない、おどろおどろしいだけの文章である。内容も明快ではない。表現方法が混濁しているから、内容も混濁している。
ところがキリスト教関係の資料で、この「ヨハネの黙示録」以外に時間を記述しているものが、私の知る限りまったくないのである。ようするにキリスト教直線時間というものは、この失敗作の記述のみに依存しているのである。脆弱なシステムである。

しかし論理的にはキリスト教時間が一直線になるというのはよくわかる。
1、アダムとイブが原罪を犯した
2、イエスキリストが肩代わりをした
3、だから人類は救われる
だいたいこんな論理の流れなのだが、ここでアダムとイブ、人類の始祖が登場するのがミソで、始祖の罪が明快に定まっているから、子孫の運命も明快に定まり、結果として長大な時間が定まってしまい、直線時間になるのである。直線時間だから直線時間なのではない。キリスト教の教義的要請なのである。
そして教義的要請を充足させるものが「ヨハネの黙示録」であるから、ドストエフスキーもこの駄文にこだわらざるをえないのである。少々つまみ食いの形だか。
彼は「悪霊」で大々的に取り上げはしたが、円環時間が受け入れがたく、直線時間は理屈に合わず、その間で逡巡しているというのが、私の感想である。悪く言えば刹那で誤魔化した。

2019年9月17日火曜日

ツァーリ

Wikiの「ドストエフスキー」の項目が、
現在反ユダヤ主義の問題で埋め尽くされている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A8%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC


ドイツ語では、ほとんど触れられていない

https://de.wikipedia.org/wiki/Fjodor_Michailowitsch_Dostojewski

ロシア語でも同様

https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%94%D0%BE%D1%81%D1%82%D0%BE%D0%B5%D0%B2%D1%81%D0%BA%D0%B8%D0%B9,_%D0%A4%D1%91%D0%B4%D0%BE%D1%80_%D0%9C%D0%B8%D1%85%D0%B0%D0%B9%D0%BB%D0%BE%D0%B2%D0%B8%D1%87

英語でも同様

https://en.wikipedia.org/wiki/Fyodor_Dostoevsky


なんで日本語だけと?思う。
誰かが政治的意図でやったんだろうが、
自動翻訳が進歩した現代では全く無意味である。

もっともドストエフスキーが鼻持ちならんキリスト教至上主義であるのは事実で、
「悪霊」にはキリスト教徒でない人間は、魂がないとまで書いてある。
最初読んだ時は流石に反発した。
ああそうさ、私は一応仏教徒だから、魂はないさ。
しかし反発しても、彼の作家としての能力の高さは変わらない。
世界中の文学者が苦しめられた、圧倒的な能力である。

黒澤明が「白痴」の撮影中、上手くゆかなくて発作的に自殺しそうになった、という話がある。
「カラマーゾフ」を何度も読んだが、映画化できなかったという話もある。
黒澤は素朴で正直だから言っているが、
世界中の文学者が、ドストエフスキーを熱烈に愛し、
同時に熱烈に憎悪しているはずである。
彼は目標ではなく、人々を暴力的に押さえつける、文学上の強大なツァーリである。
だがみんな口には出さない。こんちくしょうと思いながら我慢している。

「悪霊」の読み解きコツコツ続けている。
実を言うと世の文学者、文学研究者を、
凶暴なツァーリから救済するためにしているという意識が少しある。
一時期社会主義にはまって、反政府活動をしていたドストさん、
結局自分が(世界文学界における)ツァーリになるんだから、なんのこっちゃである。

2019年9月13日金曜日

アメリカにおける真実

作家の村上春樹氏が、一時期アメリカの大学で文学を教えていた。
自分の作品、例えば「ノルウェイの森」を学生に読ませる。
学生一人ひとりに解釈を聞いてゆく。
色んな感じ方があって面白い。

ところが最後に学生たちが言い出す。
「で、正解はどれなんですか?」

村上は、いや文学ってのは正解とかそういうもんじゃなくて、
おのおの色んな事を感じてもらえばいいんだと言う。
すると学生が怒りだす。

「作者が正解わからないってことはないだろう!!」

なかなか大変である。
良く言えばアメリカ人は真実を求める気持ちが強いのだろう。
悪く言えば、幼稚である。
MMTの騒動みていて以上を思い出した。

2019年9月12日木曜日

勝ち組の錯視

MMTの左派っぷりが問題になっている。

だいたい西洋の思想は根底にキリスト教、あるいはそれを裏返したアンチキリスト教があり、その上にそれなりに優れた社会観察、分析があり、
その上に少々過激な社会変革ベクトルがある。三層構造になっている。

で、西洋人連中は自分たちの思想がキリストを中心にグルグル周り、
人類がかならずそうなると信じ込んでいる。
なぜなら彼らは「勝ち組」だから。
なんのかんの言って現在の世界の支配者は、
ヒンドゥーでもイスラムでも儒教でもなく、
キリスト教徒たちなのである。
そのことに対する客観的な視点を、西洋人は持ち得ない。
ちょうどお殿様が目黒もサンマをうまいと思い込むようなもので、
殿様に庶民生活を理解させようと思っても無理なのである。

で、さんざん文学受容のなかで繰り返されてきた歴史なのだが、
西洋のものを輸入する場合、

1、その内容にどの程度キリスト教的宗教心が含まれているか
2、その宗教心がどの程度事実を歪めているか、逆に言えば宗教心に歪められていない事実はどれか

を判別して再利用しなければならない。
明治維新から150年以上経過したのに、いまだにそれが実行できないのだから事態は深刻である。

MMTについて私は教科書も読んでいないような素人だから、
詳細に論じることはできないのだが、
物々交換否定論と租税貨幣論(無税国家不可能論)とJGP(労働価値説)の、
3つの結びつきの中に明らかに宗教的な、ドグマティックなものが含有されているように思えて仕方がない。

物々交換否定は、すなわち「貨幣とは神の意思である」
租税貨幣論(無税国家不可能論)は、すなわち「神の国を作らねばならない」
JGP(労働価値説)は、すなわち「労働によって神の国に参加できる」

「そんなことは学者は意図していない!!」

意図していないと思います。
でも彼らは勝ち組なので、そういう思考回路から脱却できない。

2019年9月6日金曜日

無税国家

世間では「無税国家は不可能」となっているようです。無税国家にしたから国家崩壊した事例でもあるのでしょうか、私は寡聞にして知りません。明快なサンプルもないのに断言する。トルストイの死の描写と同類です。せいぜい言えるのは「無税国家は有税国家より維持が難しい」くらいのはずです。難しいのはそれは事実ですが。

商品貨幣→金属貨幣→兌換紙幣→不換紙幣→電子信号と貨幣が進化するとして、

商品貨幣、例えば米の場合には徴税がなくても流通できます。食べれますから。
もっともこの通貨は発行が大変です。政府が大きな農家である必要あります。確かに難しい条件です。

金属貨幣の場合も同様です。政府が自前の鉱山もって、安定的に算出できれば無税国家は可能です。原材料に価値がある以上、コインにも価値があります。採掘費は当然コインで支払えます。ただ通貨私鋳を防止する警察が必要になりますから、商品貨幣よりさらに維持が難しいです。国家というか、政府が大きくなります。

兌換紙幣はさらに難しくなります。ようするに社会的道具立てがより大きくなる。
仮に徴税するとしても商品貨幣→金属貨幣→兌換紙幣→不換紙幣→電子信号と進化するにつれて維持は難しくなります。道具立てがたくさん必要になります。それを充実させてきたのが人類史です。だからsuicaに入った電子信号を皆信用している。電子信号のちからというより、道具立ての力です。

現代の貨幣制度でも、全銀システム以上のシステムを構築し、かつ警察を壊滅させなければ、無税でもやはり円が流通してゆきます。貨幣が電子信号となってから製造というか発行の手間は大幅に減りました。そのかわり道具立ては気が遠くなるほど充実させています。だから流通すると考えるのが自然です。無税だと耐久性はたしかに下がる。しかしその分さらに道具を充実させればよいだけのことです。ボトルネックであった発行の手間がない分、そちらに集中できます。

なに、ドルのほうがよい?国内で買い物できないんじゃ仕方がありません。やはり円が流通します。無税のほうがシステムとしては脆くなりますが、成立不能とは言い切れない。言い切る根拠がない。

根拠がないのになぜ言い切るか。おそらく主流派の「そんなことをすればハイパーインフレが」という恐怖と同じメンタリティーがMMTの中にもあって、それが「無税国家は存続不能」という形で現れるのであろうと思います。原因は同じ、表現形が違う。

原因は「貨幣」の特質にあります。貨幣は信用の道具ではありません。不信の道具です。だから貨幣の扱いには正体不明の恐怖が付着します。音楽の逆です。不信も信用の一種と言えなくもありませんが。




コミュニケーション・サークル【貨幣・言語・音楽】

2019年8月23日金曜日

戦後体制の終焉

戦後体制とはなにか。一言で言えばアメリカとイギリスが、ドイツと日本を抑え込む体制である。ソヴィエトだの、最近の中国だのは、脇役である。主役は英米、彼らの敵は日独、たったこれだけの単純なゲームが戦後という時代である。

あまりにも単純すぎるからこそ、ソヴィエトだの中国だのベトナムだのイラクだの色々トリックスターを投入して派手に演出してきた。だが物語の主演、助演はあくまで英米と日独である。国家としてのポテンシャルがそれだけ高いのだから、どうしてもそうなるのである。

どうやって日独を抑え込むか。ドイツを抑え込む為に使われてきたのがユダヤである。日本を抑え込むために使われてきたのが韓国である。アングロサクソンはこういうの、大好きなのである。韓国に加えて、江沢民以降の中国も「アメリカの日本押さえの一翼を担います」と宣言して、経済成長を許された。

さて、文政権の性格を熟知した安倍総理は、「アメリカの韓国を使った日本封じ込め」を解除する作戦に出た。前線に立ったのは河野外務大臣と世耕経産大臣である。二人はガリガリ突っ込んでいった。そしてとうとうGSOMIAが破棄された。これをもってほぼ、日本と韓国は分離されたと言ってよいだろう。つまり「アメリカの韓国を使った日本封じ込め」は解除されたと言ってよいだろう。つまり、戦後体制は終焉したと言ってよいだろう。

疑いようもなく、安倍晋三は外交に関しては天才である。いいもの見せていただいた。感嘆の声しか出ない。一般庶民としては経済政策もう少し頑張っていただきたい。しかし仮に自分が飢えて死んだとしても、安倍さんを恨む気持ちは無い。

一応今後のことも少し考えておこう。アメリカにとっては事実上日本が制御不能になった瞬間でもある。もっとも軍事力に差がありすぎるから、完全に手を離れたわけではない。アメリカが優位であり、エネルギー供給を握っている限り日本は簡単には反米にはならない。
問題は、前述の経済である。日本とアメリカの経済成長が連動するシステムを考えなければならないのだが、(そうしないとアメリカの恐怖を掻き立てる)私には考える力がない。課題である。

2019年8月20日火曜日

議論の不足

「私の個人主義」解説【夏目漱石】
https://matome.naver.jp/odai/2156594255106501101

アップした。
たかが講演でも、伏線張っていたとは驚きである。

内容については、読者各人ご判断されたいのだが、仏教的内面掘り下げと、儒教的公益思想には、どうにもならない矛盾ある。

仏教がインドから中国に流入し、一時期は確かに流行したが、「三武一宗の法難」と言われるように、徹底的な弾圧を食らったりもした。
ブッダ自信が王子でありながら出家し、実際にシャカ王国は滅亡してしまったのだから、国家運営という意味では最悪の部類である。流石に中国人はそのあたりの感覚鋭敏で、仏教特有のアナーキズム、エゴイズムを再三指摘してきた。

個人と社会はどこまでいっても矛盾する。たとえ独裁者になっても他国との関係でストレスを抱え込む。金正恩を見よ。ところが仏教は儒教とは無関係に発達した宗教だし、儒教は仏教伝来以前から中国にある。そして日本では(三教指帰など一部の例外を除き)本格的な比較検討をせずに、ただひたすらに受容してきた。となると両者の妥協ポイントは理論にではなく、社会の有りかたになる。意識せずに儒教と仏教を使い分ける社会を構築して、安住したのである。具体的には、公的な場での儒教であり、プライベートな生死の局面での仏教である。それはそれで良い。問題はない。

しかしそこへ西洋近代文明が入ってきたから、さあ大変である。西洋キリスト教社会とは価値観も社会観も生死観もまるで違う。理解して受容しなければならないのだが、そもそも仏教とはなにで、儒教とはないかという議論をサボってきたのである。収集のつかない混乱である。

混乱の被害者が夏目漱石である。日本社会が良いとも思わない。イギリス社会が良いとも思わない。正直どちらも不満である。でもはっきりと言葉にできない。文豪に大変失礼だが、解析能力がないのである。そしてその責任は、たいして議論も解析もせずに千数百年をやりすごしてしまった日本社会の歴史そのものにある。

2019年7月22日月曜日

「ファウスト」追記2

「ファウスト」の最後はバウキスとピレーモーンの話である。
既存の解説書は「バウキスとピレーモーン」もどうも理解できていない。
普通に異人交易譚である。

再掲すると

「「ある集落に神々(ゼウスとヘルメス)が、旅人に変装して二人連れで訪ねてくる。しかしどの家でも見慣れぬ旅人を歓待しようとしない。ただ老夫婦のパウキスとピレーモンだけが歓迎して家に入れてくれる。やがて食べ物が減らないことに老夫婦は気づく。彼らは神々なのだと気づく。

すると神々は、私達についてこいと命ずる。家を出て神々の後に従う老夫婦、振り返ると集落は全て洪水で水没し、老夫婦の家だけが立派な神殿になっていた。

神々になにか望むことはないかと聞かれた老夫婦は、神殿の神官として暮らしたい。そして互いに葬式をあげることなく、死ぬときは二人一緒にしたい、と伝える。

やがて神官として年老いた二人が語り合っていると、互いの体から木の芽が生えててきていることに気づく。最後の時と悟った二人は、共に感謝の言葉を交わしながら、二本の樹木に変化する。二本の樹木は今も神殿の脇に立っている」


後半の樹木になるというところは、一旦措く。
前半は典型的な交易譚である。

交易の原初形態は「旅人」だろうと思われる。
太古の小規模な集団で生活していた。集団はゆっくり移動していた。移動していたなら交易は必要ない。どこでも行けるからである。しかし徐々に定住する。完全に定住しないまでも、定住の度合いが高まる。
ところで、昔から群れからはみ出した人間が居る。若いオスである。人の群れのボスを殺して、そこのメスを自分のものにする。しかしボスに負けて追い払われるかもしれないし、そもそも群れに出会わないかもしれない。彼らが「旅人」である。原初の商人である。

「旅人」は群れに帰属できないものだから移動する。移動は結果として交易になる。なんらかの利益を、旅人にも、群れにも提供する。しかし旅人にボスを殺されてはたまらない。利益は欲しいが暴力が怖い。ではどうするか。
元来旅人が群れに近寄るのは、女性と寝るためである。だからそれだけは確保してあげる。そんな習慣が日本の村にはあった。旅人が来ると奥さんを提供するのである。

「この世界の片隅に」にもその習慣の残滓がある。
https://matome.naver.jp/odai/2148672009841452301

「バウキスとピレーモーン」は老夫婦の話である。さすがに奥さん提供してもどうしようもないから、食べ物飲み物を一生懸命提供する。すると神々を迎え入れなかった家が全滅し、老夫婦は生き残るのである。「だから旅人は暖かく向かい入れろ」というのが、この話の主題である。

日本昔話の解説【瘤取り爺さん・一寸法師・桃太郎・浦島太郎・花咲か爺さん・他】
https://matome.naver.jp/odai/2154376918606256601

に書いたように、昔話は異人交易異常に多い。これこそが経済学の始原だと思うのだが、現在の文学は(ゲーテが頑張ったのにもかかわらず)経済についての言及が非常に少ない。人間社会が政治と経済、言い換えれば軍事と商売で成り立っている以上、本来は文学が扱わないということはありえない。しかし文学が、文学にしか興味がない人のものになってしまい、社会に対する文学者のトータルな理解は壊滅的な状況になってしまった。だから「ファウスト」の意味がわからない。

「ファウスト」では「バウキスとピレーモーン」をひっくり返して表現している。ファウストはあくどい海賊貿易に手を染めている。本人は真面目な努力をしていると思い込んでいる。しかし交易の原初的な姿を焼き滅ぼしているのが、ファウストなのである。よって命が絶たれる。

「ファウスト」では人間の欲望を否定はしていない。人間はそういうものだとみなしている。だから欲望の肥大化である通貨発行も必ずしも否定していない。だからこそ、「交易の否定」は否定する。戦争による金銀財宝の獲得さえ否定しないのだが、交易原理は守ろうとするのである。

このあたりの解釈、どうも専門家で全く俎上に登っていない。ゲーテ専門家、ドイツ文学研究家が、経済に興味がないからである。つまり「ファウスト」に興味がないからである。経済の初歩などたいして難しいものではない。ドイツ語のマスターの10万分の1くらいだろう(無論極めるのは大変だろうが)。でもその初歩を考えられない。よってゲーテの「ファウスト」は読まれない。

2019年7月21日日曜日

「ファウスト」追記

「ファウスト」解説【ゲーテ】

時間がかかった。別に完全な解説ではないが、まずある程度の見通しまでは示せたと思う。
戦前は旧制高校でドイツ語が必須だったこともあり、ドイツ文学研究はかなり水準は高かったはずである。
もちろん戦後もレベルは十分高く、現在だって外国文学研究としては見ごたえのあるもののうちの一つだろうと思うが、正直言って、誰も十分「ファウスト」を読めていなかった。それなりに研究所は目を通したから、間違いないと思う。

本文の末尾の有名なフレーズ、
「すべて移ろい行くものは、永遠なるものの比喩にすぎず。
かつて満たされざりしもの、今ここに満たさる。
名状すべからざるもの、ここに遂げられたり。
永遠にして女性的なもの、われらを牽きて昇らしむ。」


「ループ時間が本源的な時間だ。
キリスト教の教義内容不備は整理された。
詳細の直接的記述は危険なので回避するが、
教義への女性の編入を含む内容なのである」

と書き換える、たったそれだけの作業に、やろうとしてから2年間かかった。

誰でも知っていることだが、冒頭の「天上の序曲」は旧約聖書「ヨブ記」を下敷きにしている。
ところがこのヨブ記について、まともな解説が無い。
解説を書いたり読んだりするのはクリスチャンだから、キリスト教の外から考えたものが存在していない。
西洋人も、ゲーテはじめキリスト教からの離脱を色々試みているのだが、
当時から今まで人類文明のイニシアチブは西洋社会が握っているのである。
当然客観的な視点は、今現在まで確立できていない。

実際ヨブ記を読んでみると、当時のユダヤ教の教義的な不備による苦しさが如実に理解できる。
聖典かもしれないが、欠陥のある聖典なのである。
そのことの解説は存在していなかった。
だから自力でまとめた。

「ヨブ記」あらすじ解説【旧約聖書】

また、「ファウスト」最大の難解な場所は、第一巻にも第二巻にも存在する「ワルプルギスの夜」であり、マドマギで端的に表現されているように、これは性的錯乱の祭りなのだが、ゲーテは明らかに「夏の夜の夢」を下敷きにしている。
しかし「夏の夜の夢」のしっかりした解説も、これまた存在していない。
だから自力でやった。

「夏の夜の夢(真夏の夜の夢)」あらすじ解説【シェイクスピア】

で、ようやく「ファウスト」に書かれるわけだが、過去のファイスト研究は明らかに、
ヨブ記の読み解きも、夏の夜の夢の読み解きもやらずに、いきなりファウストを読もうとしている。

これでは無理である。いくら碩学でも無理である。読めるわけがないのである。
その下敷きを理解せずに、ドイツ人学者による「ファウスト研究」のほとんど全部に目を通す、それはそれで作業量的には十分偉いことなのだが、ツボを外している。

2019年6月14日金曜日

安倍・ハメネイ会談について

まずはハメネイ師の英文ツイートから自動翻訳。

私たちには、善意と真剣さの疑いはありません@abeshinzo。しかし、あなたが米国大統領から述べたことに関して、私はとのメッセージを交換するに値する人としてトランプを考慮しません。私は彼のために応答を持っていない & 彼に答えることはありません。

自由で賢明な国家がプレッシャーの下で交渉を受け入れることができないので、イスラム共和国は米国に対する信頼を持ちません、そして、我々がアメリカと交渉した前の苦い経験は#JCPOA二度と繰り返されません。

アメリカに関する我々の問題は、政権交代の問題ではない。なぜなら、たとえ彼らがそのようなことを追求しても、過去40年にわたってイスラム共和国を破壊しようとした以前の米国大統領と同様に、それを達成することができないからです。

我々は核兵器に反対し、宗教的判決は核兵器の建造を禁止している。しかし、もし我々が核兵器を生産することを意図していたならば、米国はそれに対して何もできず、米国の禁止は決して障害にならないということを知っている。

米国はどの国が核兵器を持つべきであるべきか、すべきではないと言う能力を、決して持っていない。アメリカは核兵器に何千もの核弾頭を持っているからです。

我々は、米国がイランとの真の交渉を求めているということをまったく信じていない。本物の交渉はトランプのような人から来ることは決してないからです。真偽はアメリカの役人の間ではとても珍しい。

.@AbeShinzo米国の大統領は、イランを含む数日前に会って、あなたと話しました。しかし、帰国後すぐにイランの石油化学産業に制裁を課した。これは正直のメッセージですか。彼が本物の交渉をしていることを示しているのだろうか。

核取引の後、直ちに JCPOA に違反した最初のものはオバマであった。イランとの交渉を要請したのと同じ人物が、調停者を送った。これは私たちの経験であり、安倍氏は我々が同じ経験を繰り返すことはないと知っています。

君@abeshinzoはトランプがアメリカとの交渉がイランの進歩に繋がると言っていると言った。神の恵みによって、交渉なしに、制裁にもかかわらず、我々は前進します。

それはあなたがアメリカが常に自分の考えを課したいと思っているという事実を認めることは良いことです & beliefs on other nations;また、アメリカ人が他人に対する見解を課すことに制限がないことを知ることも良いことです。

私は、イラン・イスラム共和国との関係を拡大するというあなたの提案を歓迎します。日本はアジアにおいて重要な国であり、イランとの関係を拡大しようとするなら、重要な国のように確固たる決意を示すべきである。


以下要約。11ツイートあり、1ツイートが2段に分かれている。合計22段。



ほぼアメリカへの悪口、不信、拒絶で埋まる。
しかし、トランプの問題とはしておらず、アメリカ政府全体の、一貫した問題としている

かつ、安倍総理にたいしては大変好意的、友好的。




つまり、
「安倍総理の肝いりならば、交渉の余地はある。
直接交渉はせず、安倍総理を仲立ちにしてやってゆきたい」
という意思表示と解釈できる。

高校時代の現代国語の悪い癖で、文章個々を読もうとすると失敗する。文章は全体を読まなければならない。外交としては大成功である。




2019年5月21日火曜日

コミュニケーション・サークル・追記4

MMTの方とお話させていただいて、十分伝えられなかったこと

1、MMTに対する報道姿勢、財務省などが悪口言いながらある程度認める態度の背景には、アメリカ民主党への忖度と恐怖がある。ある意味我々はまだアメリカの手のひらの上をグルグル回っているだけである。

2、「アメリカ民主党の風が変わった」ことで日本のマスコミ、学界は大きく変わる。官界も政界も変わる。それは経済に対する理解の深まりというより、恐怖によって。

3、サンダース=コルテスラインで民主党政権になったら、中央銀行システムは大きく変革される。

4、その時瞬間的に、日本も良い中銀システムを導入できる可能性がある、なぜならアメリカ政府の一般国民への説明と矛盾をきたす要求を日本にできないから。その瞬間を逃したら数十年チャンスナシ。変なシステム運用を強いられる。

5、中央銀行システムの研究と洞察を十分深めてその瞬間を待つしかない。しかし現在の財務省や主流派経済学者にそれが可能なのか?答えは明らか。

6、これは太平洋戦争における、航空機エンジンの開発にたとえられるべき知的競争である。「風立ちぬ」みてわかるとおり、油を吹くエンジンしか開発できなかった。今回もそうなるのか。

7、来るべき中央銀行システムは、本位制の残滓を完全に消し去ったものになる可能性が高い。貴金属とのつながりが、名実ともに払拭される。しかし日本、アメリカ、中国、直近のバブルはみな土地バブルなのである。

8、私見では、貨幣は度量衡と暦法時法に挟まれた存在である。

コミュニケーション・サークル【貨幣・言語・音楽】 

つまり実態的要素を完全には消しきれない。しかし一方消しきったほうが明らかに効率が良い。悩ましい。

その考察に残された時間は最短で1年半。2020年には大統領選挙である。

2019年5月8日水曜日

コミュニケーション・サークル・追記3


「沈黙の音楽」というと矛盾した言い方だが、休符で有名な作曲家も居る。
アントン・ウェーベルンである。



面白い曲ではないのだが、オーケストラのための変奏曲、作品30のリンク貼っておく。
休符というか、沈黙メイン、音符は意味不明なものが少々である。楽譜を見ただけで、オーケストラの作業量が驚異的に少ないのがわかる。こういう曲では、楽団員は休符の間数えておくのが最大の仕事となるはずである。つまり沈黙の認識が仕事である。音楽家として究極の業務内容とも言える。


貨幣で沈黙すなわち無音音楽に対応するのは利息である。


雇用・利子および貨幣の一般理論」という書物を書いた経済学者が居る。有名なジョン・メイナード・ケインズである。


ところで、ケインズとウェーベルンは同い年、1883年生まれである。つまり両者の仕事は、密接に関係しているはずである。


もっとも私はケインズを読んでいないし、ウェーベルンもさして聞いていない。発見したはよいが、勉強不足である。展開できない。無念である。後学に期待する。


2019年5月5日日曜日

コミュニケーション・サークル・追記2

貨幣論といえば岩井克人である。
氏の「ヴェニスの商人の資本論」は、古い本だが大変優れている。
その後の著作、考え方には納得いかなかったが、ヴェニスは今でも名著だと思う。

シェイクスピア研究家でも、岩井氏ほど丁寧に作品を読み込むことは、ほとんどしていないようである。読み解きをしている私からみても、並の文学研究ではない。若干牽強付会気味だが、それでも一流といってよい読み解きである。

無論本職の経済学でも優れている。サミュエルソンの助手をしていたくらいである。恐ろしく頭が良い。近年読んだ「経済学は何をすべきか」という本で岩井氏は、「インフレ目標政策がハイパーインフを招くと叫んでいる人々は、貨幣について考えられなかった人です」とはっきり言っている。優れている。現在の貨幣は万年筆マネーであるということも、理解している。この世代では懸絶した見識の持ち主の一人ではないか。

とここまで褒めたのは、ではなぜ岩井氏は復興増税に賛成してしまったのか、ということを考えたいからである。たった一つの過ちで、生涯の業績をふいにしてしまった。

岩井氏は御本人によれば、東京生まれだが両親は島根のご出身らしい。出雲の阿国とは、どこかで血が繋がっていても不思議ではない。出雲の阿国の大衆演劇によって、伊勢の山田羽書発行の下地が作られた。

「なぜ普通の両親から生まれて、教養のバックグラウンドがない自分が、貨幣論なんかやっているのかよくわからない」とは本人の弁である。バックグラウンドはあるのである。出雲の阿国なのである。阿国とはすなわちオオクニヌシ、長い歴史の文化背景があるのである。氏はおそらくそのことの、利益と危険性に気づかないままだった。

人間は個人では存在できない。逃れられない背景を生まれながらに背負う。彼の背後の出雲の阿国がおそらく、同時代のシェイクスピアの読み解きを可能にした。そしてシェイクスピア、阿国により発生した山田羽書にしろ金匠手形にしろ、兌換紙幣なのである。文化は人を支配する。良い方向に誘導もするが、悪い方向に誘導もする。

2019年5月1日水曜日

コミュニケーション・サークル・追記

コミュニケーション・サークル【貨幣・言語・音楽】
https://matome.naver.jp/odai/2155622226434432401
をアップした。自分でもなんだかよくわからん内容であるが、考えの整理としてはそれないりに価値があるのではないかと自負している。逆に言えば、現実的な政策提言としては大して価値がない。残念だか自分の実力なので仕方がない。

唯一まともな政策提言になっているのは、「フォントの重要視」である。今現在も横書きで文字を書いているが、石川九楊氏に言わせればそれは非常に無理があるらしい。なぜなら漢字もひらかなも縦書きを前提に文字が開発されたからである。ハネ、トメ、ハライすべて縦書きを前提に組み立てられている、だから横書きで並べても不自然さがつきまとうそうである。

私自身は自分で書いた文字が自分で読めないほどの悪筆である。縦でも汚く、横でも汚く、斜めでも汚いから差は全くない。それでもパソコン画面でやはり縦のほうが若干読むスピードが上がる。Kindleは縦書きに設定している。それはつまり、現在のフォントが縦書き用のものであり、漢字かなまじり文の本格的な横書き、横読みフォントは開発されていないと考えるべきである。このあたり文化省が研究機関に命じて集中的にデーター集めるべきである。読む速度、誤読率など、大きなデーター集めれば開発方針わかってくる。

未来の横書きフォントは、数字もアルファベットも親和的な、横書きメインのものであるべきである。なぜ世界最高レベルの知的水準にありながら、我々に数値的で理性的な判断が欠落する瞬間があるのか、それはおそらく文中に数字を組み込みにくいからである。英文ならば会計データーを組み込んで違和感がない。縦書きでそれを実現するのはたいそうな手間である。

日本の新聞は縦書きである。改善の見込みが薄い。情弱老人御用達である。人民日報は古くは縦書きであったが、現在は横書きである。知的水準に差が出るのも、むべなるかな。




2019年4月18日木曜日

機能不全

忘れられていることですが、大日本帝国陸海軍は自前の大学を持っていました。陸軍大学、海軍大学は、軍人の中でも成績優秀者しか入学できず、優等で卒業すればエリート街道が確定していました。しかも頻繁に帝大に聴講に行かされたそうで、ある意味当時の日本の最大の頭脳集団が軍部でした。
敗戦した時、陸軍と海軍の将官が語り合って、片方が「実はうちの大学の授業には、まともな戦術がなかったんだ」というと、相手も「いや、実はうちの大学もそうだった」と答え、「どうしようもない、救いようもない国だ」と詠嘆したそうです。最大の頭脳集団が、内実はそうだった。先生にたいする従順さが裏目にでますね、こういうときは。

遡って考えれば、「林家三代」と言いまして、江戸幕府の官学の林家も林羅山、その子、孫までがまともで、以降はなんの実力もない存在だったようです。徂徠以降大量の経世家が出ましたので、一般の水準としては世界有数です。でも官学としては機能しない。

つまり、官学が機能しないのはわが国のれっきとした伝統であり、それが端的に現れたのがかつての陸軍大学、海軍大学、そして現代の東京大学経済学部だったということです。これは関係者の頭脳が劣っていたのではありません。だったら改善は簡単です。そうではなくて「優秀な頭脳集まりながら、機能しなくなるしくみ」がわが国にはあるのです。これの改善は恐ろしく難しいです。

問題のポイントはおそらく「翻訳」にあります。林羅山はもちろん儒学です。漢文を使います。帝国陸海軍も東京大学も、西洋の文献が重要になります。その際におそらく、本来の思考エンジンである「やまとことば」が若干機能不全になるのだろうと思います。自分に引き付けた話になりますが、精度の高い読み解きは、おそらくこの機能不全の最大の特効薬になるのではないかと、期待しています。

2019年3月16日土曜日

緊縮財政と積極財政

ツイッターでいろんな人とお話させていただいて、だいたい状況把握できました。。この20年の日本の停滞は、どうもアメリカの意思だったようです。財務省と経済学者をピンポイントでコントロールして、停滞を作り出していた。
もっともアメリカが悪い、という気もあんまりないです。アメリカの立場になってみると大変です。運よく日本とドイツに戦争で勝ちましたが、そして勝った瞬間にはよかったのですが、両国が経済で追い上げると手がなくなった。

日本とドイツを押さえつけるシステムとして冷戦が存在していたのですが、それだけでは抑えきれなくなって冷戦を終わらせて、直接押さえつける作戦に出た。そしてそれはそれなりに成功した。
でも経済を押さえつける、というのは不自然な行為ですので、本体のアメリカに無理が広がった。貧富の差が拡大しすぎて、国家として弱体化しすぎた。それをなんとかしようとしているのが、トランプやらMTT勢力だろうと思っています。

安倍さんが上手に立ち回ってくれているおかげで、日本はじわじわとアメリカの押さえつけを解除できている感じですが、ペースは遅いですね。でも仕方がない。本音ではトランプも、日本がうざいはずですから、逆鱗に触れぬように安倍さんとしてもゆっくりやるしか仕方がない。

ブレクジットの本質について納得のゆく議論を見たことがありませんが、現在の私の想像では、イギリスがドイツを押さえつけられなくなったことだろうと思います。直接対決が無理なら引きこもるしか手がない。そしてゆっくりとドイツはアメリカの制御から離脱してゆきます。

ドイツの緊縮財政、評判が悪いのですが、背後にアメリカの意志があると思っています。しかしアメリカの意志をもっても動かせない状況になりつつあります。そのうち積極財政やりだすでしょう。そこらへんが日本も積極財政をできるタイミングです。安倍さんに期待することは、なるべく上手に立ち回ってその時期をできるだけ前に倒していただければ、ということです。