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2013年12月29日日曜日

風立ちぬ・解説22

さて「幻想交響曲」は、その題の通り基本「幻想」の交響曲である。
主人公がアヘンを吸う。吸って幻覚を見る。
それが幻想交響曲である。
全5楽章は、すべてアヘンの夢である。
ということは、
堀辰雄の「風立ちぬ」という小説も、
全てが夢として創作されている、ということである。

全体が夢、全てが実態がないとすれば、
ここで描かれていることは、
この世の全て、世界の全てである可能性が高い。

(と、理論が飛躍しているように見える方をおられるだろうが、
芸術言語ではこういう思考回路はよくおこることなので、
そういうものだと思って先に進んでいただきたい。
世界の全て、宇宙の全てを描こうと思えば、
実生活からはまったくとりかかりの無い話なので、
全てが夢である、としか表現できないのである)

堀辰雄「風立ちぬ」の登場人物は基本3人で、
ほかにちょろちょろと数人人間登場するが、
父と娘、および作者である娘の婚約者(私)の3名の物語と見て大丈夫である。


さて、宮崎駿の「風立ちぬ」が、
はっきりとヨハネの黙示録を取り込んでいたことを思い出していただきたい。
おそらく堀辰雄も聖書を取り込んでいるはずである。
ならばおそらく、

父:主なる神
娘:子なるキリスト
私:精霊(言語情報として神の意思を伝える霊)ないし人類

という意味合いを持つことが類推される。

類推を補強するのは風立ちぬ(第三章)の記述である。
神経衰弱の患者が、縊死する。
縊死といえばマカベウスのユダである。
ユダも懊悩のあまり縊死した。

続く章、「冬」で、
娘は「私」が仕事にとりかかって娘との距離が遠ざかったこと、
および病態が悪化したことが原因で、
ふたりきりの生活をやめて、父の元に戻りたい、と言い出す。

そして娘はさらに病態を悪化させ、死にいたるのだが、
それはイエスの死である。
父の元に返るのである。
堀辰雄はここで、
日本の女性文学の伝統にのっとり、
イエスを女性として登場させているのである。

さらに全体の構造を考える。

物語は
「風立ちぬ、いざきめやも」で始まり、
娘が死んだ後、山奥の小屋で終わる。
「又どうかすると風の余りらしいものが、
私のあしもとでも二つ三つの落ち葉を他の落ち葉の上に
さらさらと弱い音を立てながら移している」
風が立って物語が始まり、
風が弱まりこそすれ、まだ残っている状況で物語は終わる。


ところで登場人物が父なる神とイエスならば、
これは世界の創造と発展の物語であるはずである。
風が立ち、世界が始まるのである。
風が弱まって、世界の終わりを暗示しながら小説が終わるのである。

http://tobifudo.jp/newmon/betusekai/hokai.htm

そう、風で世界が始まるのは、仏教思想である。

堀辰雄の「風立ちぬ」では、父は天地創造をしない。
天地創造のときに、若干自分の権利を主張するだけである。
(詳しくは
http://www.aozora.gr.jp/cards/001030/files/4803_14204.html
参照、
「もう二三日したらお父様がいらっしゃるわ」
というのがそれにあたる)


堀はここで、
仏教的天地創造神話のなかに、
新約聖書を入れ込む、という離れ業をやっているのである。
いわば仏教でキリスト教を包み込んでいる。
(ちなみに、離れ業をやっているから偉い、というわけではない。
私は依然として堀辰雄が嫌いである。
離れ業をやっている駄作なんぞいくらでもある。
「風立ちぬ」は駄作ではないが、万人に勧めたくなる傑作でもないと思う)


その意味で、太宰、坂口、あるいは遠藤周作などに先立ち、
キリスト教こそが西洋文明の根本であり、
西洋文明の克服にはキリスト教の超克こそが必要であると自覚した、
先端的な作家であったとは言えるだろう。

2013年12月28日土曜日

風立ちぬ・解説21

さてベルリオーズの幻想交響曲だが、
今日では「風立ちぬ」のような純文学にはふさわしくないような、
おおがかりで、少々B級な音楽と思われているが、
昭和初期だとそこらへんの感覚なくても仕方がない。
むしろ積極的に音楽を勉強している堀辰雄がほめられてしかるべきだろう。


「幻想交響曲」は5楽章に分かれる。
内容は、当時ベルリオーズが恋していた女優のスミスソンと、
出会い、再開し、野原で彼女への思いと猜疑にかられ、
結局刺殺してしまい断頭台へ送られ、
最終的に魔女の宴会で魔女の仲間になった彼女を発見する、
というひどい話である。

以下Wikiより
第1楽章「夢、情熱」 (Reveries, Passions)
彼はまず、あの魂の病、あの情熱の熱病、
あの憂鬱、あの喜びをわけもなく感じ、
そして、彼が愛する彼女を見る。
そして彼女が突然彼に呼び起こす火山のような愛情、
胸を締めつけるような熱狂、発作的な嫉妬、優しい愛の回帰、厳かな慰み。


第2楽章「舞踏会」 (Un bal)
とある舞踏会の華やかなざわめきの中で、彼は再び愛する人に巡り会う。


第3楽章「野の風景」 (Scene aux champs)
ある夏の夕べ、田園地帯で、
彼は2人の羊飼いが「ランツ・デ・ヴァッシュ」(Ranz des vaches)を吹き交わしているのを聞く。
牧歌の二重奏、その場の情景、風にやさしくそよぐ木々の軽やかなざわめき、
少し前から彼に希望を抱かせてくれているいくつかの理由[主題]がすべて合わさり、
彼の心に不慣れな平安をもたらし、彼の考えに明るくのどかな色合いを加える。
しかし、彼女が再び現われ、彼の心は締めつけられ、辛い予感が彼を突き動かす。
もしも、彼女に捨てられたら…… 1人の羊飼いがまた素朴な旋律を吹く。
もう1人は、もはや答えない。
日が沈む…… 遠くの雷鳴…… 孤独…… 静寂……


第4楽章「断頭台への行進」 (Marche au supplice)
彼は夢の中で愛していた彼女を殺し、死刑を宣告され、断頭台へ引かれていく。
行列は行進曲にあわせて前進し、その行進曲は時に暗く荒々しく、時に華やかに厳かになる。
その中で鈍く重い足音に切れ目なく続くより騒々しい轟音。
ついに、固定観念が再び一瞬現われるが、
それはあたかも最後の愛の思いのように死の一撃によって遮られる。


第5楽章「魔女の夜宴の夢」 (Songe d'une nuit du Sabbat)
彼はサバト(魔女の饗宴)に自分を見出す。
彼の周りには亡霊、魔法使い、あらゆる種類の化け物からなるぞっとするような一団が、彼の葬儀のために集まっている。
奇怪な音、うめき声、ケタケタ笑う声、遠くの叫び声に他の叫びが応えるようだ。愛する旋律が再び現われる。
しかしそれはかつての気品とつつしみを失っている。
もはや醜悪で、野卑で、グロテスクな舞踏の旋律に過ぎない。
彼女がサバトにやってきたのだ…… 彼女の到着にあがる歓喜のわめき声……
彼女が悪魔の大饗宴に加わる……
弔鐘、滑稽な怒りの日のパロディ。
サバトのロンド。
サバトのロンドと怒りの日がいっしょくたに。



以上ふまえた上で、幻想交響曲と風立ちぬを比較する

第1楽章「夢、情熱」(序曲)
特に共通点はない。
物語が始まるというだけである。

第2楽章「舞踏会」(春)
曲は快速な3拍子(ワルツ)である。
小説では主人公と婚約者はサナトリウムに移動する。
トニオ・クレーゲルでは第一主題が移動(行進)、
第二主題が踊りだったが、
ここでは同一ものとして扱われる。
堀はかなりトニオを参照している。
ちなみに、
トニオの邦訳が1927年
風立ちぬが1938年である。
いずれにせよ登場人物が活動的である、という意味では共通している。

第3楽章「野の風景」(風立ちぬ)
曲はゆっくりとした曲調。
小説もゆっくりしており、基本婚約者は寝たきりである。

第4楽章「断頭台への行進」 (冬)
行進なので、テンポはやめで、推進力をもって進む曲調である。
小説は、第三章で寝たきりの婚約者のそばに張り付いていた主人公が、
仕事(小説の構想を練る)ためにそこここらを散歩する。
ここも共通している

第5楽章「魔女の夜宴の夢」 (死のかげの谷)
曲はかなりグロテスク。
小説は大人しく、かなり共通していない。
ただ一つ注目すべき点は、
小説内で主人公が、リルケの「レクイエム」を読み始めることである。
曲のなかではグレゴリオ聖歌の「レクイエム」より、「怒りの日」のメロディーが流れる。
この点はあきらかに共通している。

というわけで、
対応関係はあまり明快ではないが
1、章の数が共通している
2、2,3,4章の性格が共通している
3、5章のレクイエムの部分が共通している。


ベルリオーズの「幻想交響曲」と、
堀辰雄の「風立ちぬ」は、
ほぼ有意な関係があると見てよいだろう。

もしも「美しい村」が明快な教会ソナタになっていなければ、
そこまで確信はもてないのだけれども。

2013年12月27日金曜日

風立ちぬ・解説20


風立ちぬ
さて話題は堀辰雄の風立ちぬに戻る。

堀の「風立ちぬ」は

序曲
春(移動する)
風立ちぬ(病室の中)
冬(歩き回る)
死のかげの谷

の5章に分かれる。

春と冬が対応している。
ということは、序曲と死のかげの谷が対応していると見て間違いない。

「美しい村」のような音楽的構成のような気もするが、
5楽章構成の曲で、このような内容の音楽がじつはあまりない。

バロックの組曲で

序曲
アルマンド
クーラント
サラバンド
ジーグ

というのはあるにはある。
が、致命的なことに、
三楽章クーラントの速度が速く、四楽章サラバンドの速度が遅い。

序曲
アルマンド
クーラント(急)
サラバンド(緩)
ジーグ(急)

序曲とアルマンドが、中庸のペース
という感じになることが多く、
風立ちぬのように、

序曲
春(移動する=急)
風立ちぬ(病室の中=緩)
冬(歩き回る=急)
死のかげの谷

という三楽章がもっともまったりとした曲、という構成にはならない。
堀辰雄の「風立ちぬ」は、
第三章風立ちぬが中心となるものなので、
どうしても第三楽章がゆっくりとしていないと、
対応しているとは言えないのだ。

ベートーヴェンの田園交響曲は5楽章構成だが、

「田舎に到着したときの愉快な感情の目覚め」
「小川のほとりの情景」
「田舎の人々の楽しい集い」
「雷雨、嵐」
「牧歌 嵐の後の喜ばしい感謝の気持ち」
という順序であり、
第三楽章はかなりアップテンポの曲になっている。

したがって堀辰雄「風立ちぬ」の雛形にはなりえない。

マーラーの交響曲第五番も同様の理由で却下。

唯一対応していると言えるのが
ベルリオーズの幻想交響曲である。
かなりグロテスク系の音楽(特に終楽章)なのでムード的には遠いのだが、
対応関係としてはもっとも近い。

次回は幻想交響曲と堀辰雄「風立ちぬ」対応関係について

風立ちぬ・解説19

映画「風立ちぬ」解読のために、
堀辰雄「風立ちぬ」を解読せねばならず、
そのために堀辰雄「美しい村」を解読するために、
トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」を解読しようとして、
トニオが準拠しているソナタ形式の解説をようやく終わったところである。


以下トニオの構造解説

提示部
A:主人公歩く(学校の帰り道、男の友人と)
B:主人公踊りを見る(好きだが手の届かない女の子の踊りを)
展開部
A1:主人公人生を歩む
B1:主人公自説をくるくる回転的に熱弁する(知人の女性に馬鹿にされながら)
再現部
A:主人公旅をする(故郷と、北海への旅)
B:主人公踊りを見る(提示部と男の子と女の子は結婚していた!)

小説としての出来はかなりよい。
個人的には読んで楽しくないのだが
(文体がくどくて重い)、
崇拝者が出現するのもよくわかる出来である。




ご覧いただきたいのだが、
芸術の言語は通常言語と音楽にはさまれた位置に存在する。

芸術言語は明確な意味がない。

言葉を多義的に、あるいは無義的にさえしようする。
だからどうしても形式が必要になるのである。

小説家、物語作家のいくつかは、
このことを十分に自覚し、
音楽に使用される形式を文学に適用できないかと考えた。

堀辰雄もその一人であり、
堀のような言語一つ一つを多義的に、使うひとならば、
(音楽に近い言語を使うということだから)
なおさら形式が重要になってくる。

重複になるが以下「美しい村」の形式

序曲:過去の女性への手紙、散漫な内容
美しい村:フーガ。村の中を歩き回る。
夏:新しい女性との出会い、まったりとした時間
暗い道:その新しい女性との道行きの短い描写

(参照、教会ソナタの典型)
1楽章:ゆっくりとして、自由な曲
2楽章:フーガ。テンポは速め。
3楽章:ゆっくりとした歌うような曲
4楽章:早目のテンポの曲

これほど形式を重視する作家ということは、
逆に言えばこれほど形式を重視しなければならないほど、
多義的な言葉遣いをする作家ということである、
ということを説明したくて、長々と音楽形式の説明をしてきた。

さてここまできて、
堀辰雄の「風立ちぬ」への解説に向かえる。

2013年12月25日水曜日

風立ちぬ・解説18

前回堀辰雄の「風立ちぬ」を解読しようとして、
堀辰雄の「美しい村」に話がそれた。
「美しい村」は教会ソナタという形式で書かれており、
音楽の形式を踏襲して書かれた小説であった。

さらに寄り道だが、
音楽の形式を踏襲してかかれた小説の代表作としては、
トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」がある。

「トニオ・クレーゲル」はソナタ形式で書かれている。
「トニオ・クレーゲル」の説明の前に、
まずはソナタ形式の説明をする。

まず書かなきゃいけないことは、
古い、バッハの時代の「教会ソナタ」と、
新しいハイドン・モーツアルト以降の「ソナタ」は、
まったく別物であるということである。
はっきり言えば言葉の意味が混乱している。

バッハ以前は「ソナタ」は器楽曲、くらいの意味である。

ハイドン以降は「ソナタ」は、ソナタ形式の楽章を含む曲、という意味である。
ソナタ形式は、バッハ以前はあまりかかれなかった。
ソナタ形式は、ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェンが発展させたと理解いただければOKである。

で、以下ソナタ形式の説明というか、
音楽の形式の説明である。


音楽の原初形態は、
(A)
である。
メロディー流れてはい終わり。

しかし人間はいくら才能があってもメロディー無限に創造できるわけではないから、
もっとリソースを大事に使いたいと考える。
そして次なる形式が考えられた。
(A+A)
そう、2回繰り返すのである。
単位時間あたりの手間が半分になる。
これでずいぶん楽になった。

空いた時間で、もう少し凝った構造にする。
(A+B+A)
Aのリピートの間に、違う要素を挿入する。
こうすると、同じAという素材を使った曲でも、
Bの中身を入れ替えれば、まったく違う局に出来る。

この手でさらにリピートする。
(A+B+A+B+A)
手間もかからず飽きない曲の出来上がりである。

さらにCという要素を入れて、さらに長い曲を作る。
(A+B+A+C+A+B+A)
ABCという3つのメロディーで、7単位時間埋めれた。
手間をかけずに、かつ飽きない曲が作曲できた。
こうやって、上手に労力を節約して曲を作ってきた。



さらに別のやりかたもある。
(A+A1+A2+A3)
変奏曲である。
一つのメロディーを微妙に変えて、何度も繰り返す。
これはメロディーを着想する手間は省けるが、
微妙に変える変え方が難しいから、頭が酷使される。
ただし曲としての統一感は最高である。なんせ基本同じメロディ-だから。

http://youtu.be/XQdqVeadhAY

リンクは「きらきら星変奏曲」。
メロディーを少しずつ変えて繰り返している。
「きらきら星変奏曲」はまあ名曲の部類だが、
変奏曲形式は時々、ものすごい名曲を生み出す。
頭にかかる負荷が半端ない分、
パワーのある作曲家は逆によい作品をつくれるのである。
たとえばバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのシャコンヌ」
「オルガンのためのパッサカリア」
「ゴールドベルク変奏曲」
ブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」
しかし、いつもいつもパワー前回というわけには、
人間いかないのである。
ちなみにバッハさんは2回の結婚で合計20人も子供をつくったくらいの、
それくらいの体力の持ち主でありましたことよ。


そんなわけで、作曲の歴史は作業効率化の歴史である。
なにか良いメロディーを思いついたとして、
そのメロディー(仮にAとする)を中心に、なるべく長い曲を書きたいのだが、
新しい要素を最小限に、
かつ頭を酷使せず、
かつ統一感を保つ形式はないものか。
そこでひねり出されたのがソナタ形式である。

(A+B + A1+B1 + A+B)

基本2つのメロディー(A+B)の繰り返しである。
AとBは基本的に、対照的なメロディーを使う。
Aが激しければ、Bはやさしいとか。
これで十分飽きがこないものになる。
そして途中に変奏を入れる。
頭を少々使うのである。
しかし変奏曲ほどは大変でなく、
かつ統一感も十分にある。

これがソナタ形式である。
変奏曲ほど手間がかからず、
かつなにやら知的でまとまった印象がある。
使いやすいので、作曲の必殺技として、
ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェン、シューベルト、メンデルスゾーン、シューマン、ブラームスくらいまで、最優先の形式として使われてきた。
一般の方が耳にする交響曲はたいていソナタ形式の楽章を(多くは第一楽章として)含んでいる。

(特急の説明なので、聞いたら音楽学者は激怒するような説明だが、
一般的にはこれで十分な理解である)

ソナタ形式の説明で1回分終わった。
次回はいよいよ「トニオ・クレーゲル」解説。

2013年12月23日月曜日

風立ちぬ・解説17


宮崎駿の映画「風立ちぬ」は、
堀辰雄の「風立ちぬ」を下敷きにしている、というより、
題名そのまんまである。

しかし、堀辰雄の「風立ちぬ」は、
宮崎の映画公開後も特に研究はされていないようである。
ネットで調べても、よくわかるレビューが出てこない。
理由は簡単である。
正直、面白くない小説だからである。


まず文体が悪い。
ものすごく読みにくい文体である。
内容もつかみにくい。
簡単な内容なのだが、文体が悪いせいで、
ものすごく把握しづらい。
といって、悪い小説とも言いづらい。
大変優れた部分も、あるにはあるからである。

とにかく下敷きである以上、
堀辰雄の「風立ちぬ」を理解しないことには、
宮崎の映画も理解できない、はずであるので、
いやいやながら読んだ。


短編小説「風立ちぬ」は、
5章に分かれている。

序曲

風立ちぬ

死のかげの谷

の5部構成である。


構成に凝るのが堀辰雄の特徴のようである。
私は新潮文庫の風立ちぬを読んだのだが、
あわせて収録されている「美しい村」も、
同様に構成に凝っている。

序曲
美しい村

暗い道

の4部構成になっている。

「美しい村」という小説の中の一部が
「美しい村」というタイトルになっていて、
かつそのなかで主人公は「美しい村「」という小説を、
書き進めている、というわけで、
入れ子構造というやつである。

そして、
第二章「美しい村」にはサブタイトルとして、
「或いは 小遁走曲(フーガ)」
と書かれている。
バッハの小フーガ ト短調 BWV 578のことである。
http://dtm-orchestra.com/little_fugue_in_g_minor.htm


中身は特に小説らしい話の展開はなく、
ただ単に主人公が村のあちこちを歩き回るというだけの話なのだが、
薔薇が、小鳥が、レエノルズさんが、天狗岩が、じいやが、子供が、少女が、
くりかえし登場してきて、
フーガで主題が繰り返される感じがしなくもない。

私も一応細かく分析してみたのだが、
フーガ的ではある。ただし、やはりフーガではない。
よく言って頑張って書いたフーガ風の文章である。


フーガというのは、カノン(輪唱)の発展したもので、
「かえるのうたが、きこえてくるよ」という歌をパートごとにずらして歌い始める、
あの形式と思ってさしつかえない。


フーガ、カノンの最大のポイントは、
ポリフォニー、つまり同時に複数のメロディーが演奏されることである。
一人が「きこえてくるよ」と歌うとき、
今一人は「かえるのうたが」と同時に歌っている。
しかし、文章でそれは不可能である。
だから小フーガをまねしたといっても、
まねしきれるものではなく、
単に読みにくい文章で、
エゴと環境がやたらと混濁し、
過去と現在がやたらと混濁するだけである。


「風立ちぬ」同様、面白いものではない。
しかし、全体の構成、4部構成というか、
冒頭に「序曲」とついている以上、
四楽章構成と言った方がよいだろう、
この構成自体は面白い。


4楽章構成で、2楽章がフーガとなると、
西洋音楽の分類では、典型的な「教会ソナタ」である。
「教会ソナタ」、たとえば無伴奏ヴァイオリンのためのソナタがそうなのだが、

1楽章:ゆっくりとして、自由な曲
2楽章:フーガ。テンポは速め。
3楽章:ゆっくりとした歌うような曲
4楽章:早目のテンポの曲

となる。

(教会ソナタの例
http://youtu.be/981I153BSXY



それで堀辰雄の美しい村では、

序曲:過去の女性への手紙、散漫な内容
美しい村:フーガ。村の中を歩き回る。
夏:新しい女性との出会い、まったりとした時間
暗い道:その新しい女性との道行きの短い描写

となり、教会ソナタの緩急緩急をほぼ正確に写している。


このような、音楽形式の小説を、
トーマス・マンも書いているのだが、
それは次回。

2013年12月20日金曜日

在日問題

在日問題について読み解く

戦前コリアンと
戦後コリアンについて分割して考える。


戦前コリアンは大日本帝国臣民として来日し、
戦後ほとんどが半島に帰ったが、
一部が日本に残った。

戦後コリアンは密入国した人々だが、
特別永住権を与えられて合法的に存在している。

長らくマスコミで伝えられてきた話では、
「在日のほとんどは戦前強制連行でつれてこられた人々である」
というものだった。
誰が、こんな話を作ったのか?
そしてなぜ戦後密入国したコリアンを、合法的な存在に変えてしまったのか?


私見では原因は朝鮮戦争と、
済州島事件、保導連盟事件にある。

済州島事件、保導連盟事件はいずれも朝鮮戦争開始の前後から、
戦争停止しばらく後まで続いた、
韓国政府による、
韓国国民虐殺事件である。

当時は北朝鮮の力が強かったから、
韓国国内で共産主義勢力に汚染されたと思われた地域の住民を、
韓国政府は徹底的に虐殺した。

そして朝鮮戦争中、あるいは直後であったから、
米軍は事実上虐殺を黙認した。

戦後コリアンのうち多くは、
おそらくその虐殺を逃れてわたってきた人である。
米軍がそれを望めば、
かつ日本政府も半島の共産化をおそれている状況ならば、
日本政府はかれらの存在をなかったことにすることに、
やぶさかではないはずである。
なぜならば、
自国国民の虐殺があまり表ざたになれば、
大韓民国政府の半島支配の正統性が大きく損なわれて、
結果として北朝鮮に利益をもたらすからである。

北朝鮮は大量の自国国民を餓死させているが、
それは失政であり、意図的ではないと言い張ることも出来る。
中国の天安門事件は、あるいはチベット大虐殺は、
騒擾事件であり鎮圧したのだと、言い張ることもできる。

しかしどうも、済州島も保導連盟も、
無辜の民を大量に虐殺したようなのである。
これは、まったく言い開きの出来ない事件である。

推定数十万規模。
米軍も黙認していたとなれば、
米軍の正義も地に落ちる。
アメリカの東アジアの軍事プレゼンスの正当性にも大きく影響する事件である。
おそらく半島から撤退するしかなくなるのではないか。


だから、
「在日のほとんどは戦前強制連行でつれてこられた人々である」
という神話がでっちあげられた。
以上あくまで私見である。
さらに私見と続けるならば、
従軍慰安婦問題も、おそらく背景ににはこれら虐殺のカモフラージュ要求がある。
大躍進、文革のカモフラージュとして南京大虐殺が喧伝されるのと同根である。


では今後の展開はどうか?
1、仮に半島を韓国が統一し、中国と敵対するならば、
中国は上記事件を韓国の犯罪として言い立てるであろう。
2、仮に半島を韓国が統一し、中国と同盟を結ぶならば、
中国は上記事件を米軍の犯罪として言い立てるであろう。
3、半島情勢が現状維持のままならば、
北朝鮮に手を焼いている中国はなにも言い立てないであろう。
北朝鮮が戦略的にプロパガンダをしかける可能性はある。
若干左寄りになっている韓国社会が、自分で問題を掘り起こしてくる可能性もある。
それは米国との距離を遠ざける結果になる。

戦後コリアンにとって重要なのは、
自分たちの祖父、祖母が、
どのような経緯で渡航してきたのか、
しっかりと聞き取りの記録を残しておくことである。

この作業が運動として盛り上がる可能性は、
日米同盟、米韓同盟が堅持されているかぎりにおいて、
ほとんどゼロパーセントである。
一人ひとりで活動してゆくほかはない。

2013年12月16日月曜日

風立ちぬ・解説16

風立ちぬで今までに解析できたことは、
飲食7回
タバコ7回
鉄道7回ということである。

次に場所を見てみる。

物語の舞台が何箇所あるか、
東京内の場所の数をどうカウントするかになるが、
東京全域を1箇所とカウントするならば、
時系列で、
1、藤岡
2、東京
3、名古屋
4、各務原
5、デッソウ(ドイツ)
6、軽井沢
7、富士見(菜穂子のサナトリウム)
の7箇所になる。
これは映画のパンフレットにも明記されている。


場所が7箇所、
飲食7回、
タバコ7回、
鉄道7回、
となぜか7でまとめられている。

さて、前回コミック版ナウシカが、
「ヨハネの黙示録」を踏襲していると指摘したが、
ヨハネの黙示録では、
7つの教会へのメッセージを送り
7つの封印を開封し
7人の天使が7つのラッパを吹き
7人の天使が7つの鉢をぶちまける。

類似は明らかである。
風立ちぬもナウシカ同様に、
ヨハネの黙示録を踏襲している。

以下一覧表である。

風立ちぬ=ヨハネの黙示録

2013年12月14日土曜日

シュワの墓所について

アニメ版ナウシカは、
コミック版ナウシカの、
ごく一部に過ぎない。
そしてコミック版ナウシカの本質は、
キリスト教批判であり、キリスト教克服である。

ペリー来航で西洋文明に触れた日本人は、
大きなショックを受けた。
西洋文明を理解し、消化しようと努力を重ねるが、
彼我の能力差はあまりにも大きい。
深刻なコンプレックスを伴う苦闘の中で、
徐々に明らかになってきたことは、
巨大なる西洋文明の本質は、
科学技術ではなく、
科学技術の母体となったキリスト教であり、
聖書であるということである。

だいたい太宰治、坂口安吾のあたりから相手の正体は明らかになっていた。
太宰は「如是我聞」という文章でそのことについて触れており、
坂口は太宰死去に際に「不良少年とキリスト」という文章を発表している。
キリスト教との対峙はその後も続き、
遠藤周作の浄土真宗的キリスト教もそうだし、
漫画では諸星大二郎「生命の木 ぱらいそさいくだ」もその系列である。

宮崎駿もその系列に連なる。
コミック版ナウシカは、非常にバイブルを重要視して、
そこに強い批判を加えている。
(そのことについて、
クリスチャンであり、宮崎ファンでもある、
立花隆、佐藤優が本格的に議論しようとせず、
避けて通ろうとしているのは、まことに残念である)

巨大な生きた石の塊、「シュワの墓所」は、
バイブルのことである。
宮崎はこのコミック版ナウシカを、
「ヨハネの黙示録」を元に組み立てている。
大地の浄化に必要とされる1000年という期間は、
千年王国に対応する。

「ヨハネの黙示録」では千年王国出現の直前に、
「この世の支配者たちの上に君臨されるかた」が出現する。
その人物は「血染めの衣」をまとっている。
ナウシカの服がオームの血、のちにシュワの墓所の血で染まることに対応している。

旧約聖書の冒頭の創世記は、
天地の始まりを説き、
新約聖書の終結のヨハネの黙示録は、
天地のこれからを説く。
全ての時間は、バイブル二冊の中に封じ込まれている。
人間に許されるのはただ、
バイブルの解釈だけである。
全ては計算された出来事であり、
生きているのはバイブルのみであり、
全ての生物は生命のなかばをバイブルに奪われたままになっている。


ナウシカは、キリスト教が生んだ科学技術の産物である巨神兵、すなわち核兵器を用いて、
シュワの墓所を破壊する。
これが知性主義の結末であるというのだ。

キリスト教とナウシカ、両者の根源的な対立点を述べよう。
両者は生と死をどのように捉えるかで決定的な相違がある。

キリスト教では、死は敗北であり、悪いものであり、生と対立するものである。
ナウシカにとって、死は生と相互依存的なものである。
死があるからこそ生があり、両者は不可分である。


「ヨハネの黙示録」の最終章である第22章19に、
「また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる」
とある。
ここで言う「いのちの木」とは、創世記に記されている、知恵の木とともにエデンの園に生えていた「生命の樹」であろう。


知恵の樹の実を食べてアダムとイブは知恵を得た。
生命の樹の実を食べれば永遠の生命を得られたのだが、
神はそれを恐れてアダムとイブを楽園から追放した。
「ヨハネの黙示録」は、そのエデンに回帰しようとする物語である。
しかしナウシカは、知恵の樹も、生命の樹も、エデンも拒否した。
太宰や坂口は、ナウシカに会ったら、なんと語りかけただろうか?

2013年12月12日木曜日

物語作家

1600年の日本の人口は、
1200万~2200万くらいと推定されている。
キリシタン人口は75万あったのではないかと、推定されている。
(いずれも論拠不確か)
少なく見積もって3%くらいはキリシタンだった。
今日日本の人口1億2000万
クリスチャン人口、多く見積もって1%の120万である。

江戸時代より前のキリスト教布教は成功し、
明治以降のキリスト教不況は失敗した。
その間になにがあったか。

識字化である。
江戸時代、侍以下多くの人々が、
読み書きそろばんをマスターした。
寺子屋が全国に広がった。
それでなにがおこったか。
物語の充実である。
文字の読み書きをすれば、
抽象思考能力が高まり、
物語咀嚼能力が高まる。
高まった能力は、対象を求める。
識字化により物語需要が増大した。

そして需要あれば供給があるものである。
江戸以前の物語、
記紀、源氏、平家、太平記も人々に広がったし、
新たに多くの物語が製作された。
代表的なものは、たとえば忠臣蔵、近松の心中物、八犬伝。
最後のものは中国の水滸伝がもとだが、
前二者はオリジナルである。
ここで前二者がいずれも主人公が死ぬ話であるということを覚えておいていただきたい。

かくて日本では、物語に充足した。
あらたに物語群を加える必要性がなくなった。
明治維新後、バイブルという物語の流布が再開されても、
すでに市場に余地はほとんど無かったのである。
東アジアでもっともクリスチャンの比率の多いのは、
1にフィリピン、2に韓国
いずれも自前の物語群の脆弱な国である。
これをもってしても日本の江戸期の物語の充実が、
(ひらかなの読みやすさからの流布力とあいまって)
相当な水準だったことが見て取れる。
そして明治以降も物語の生産は続いた。
円朝、漱石、鴎外、龍之介以下、連綿と続く。
物語を生産するのは作家に限らない。
溝口、小津、黒澤も膨大な数の物語を生産してきた。
宮崎駿はその最たるものであり、
影響力という観点ではおそらく、
一人で明治以降のすべての作家、映画作家の合算に匹敵するだろう。


では日本史上過去最大の物語作家は誰か。
私見では、大西瀧次郎である。
神風特攻隊の創始者である。
大西は文筆家でも映像作家でもなかったが、
軍事技術と、
膨大な予算と、
多くの若者の命と、
自分自身の命さえつぎ込んで、物語を作った。
「この戦争は勝てぬかもしれぬ。
ここで青年が起たなければ、日本は滅びますよ。
しかし、青年たちが国難に殉じていかに戦ったかという歴史を記憶する限り、日本と日本人は滅びないのですよ」
大西は知っていた。
国家、国民というものは、観念的、抽象的な存在であり、
物語によって作られ、維持されるものであり、
最高のシーン、最高の設備、最高の出演者をそろえれば、
最高の物語が描け、それが未来永劫受け継がれてゆくことを。

この物語、なにしろかけたコストが桁違いである。
これ以上の大作のクランクインは、今後数百年は不可能であろう。
その上江戸期の物語、
忠臣蔵(切腹するために戦闘する)、
心中物(死に向かう道が美しく描かれる)の価値観を十分踏まえ、
楠、真田のような歴史上の事件も背景として持つ。
戦況不利という必要に迫られたとはいえ、
なんとも上手に物語を作ったものである。
伝統的にみても、市場のニーズ的にみても、
最強の物語が出来上がってしまった。
この特攻隊の物語を、以降便宜上「大西物語」と呼ぶ。
戦後、この大西物語にいくつもの疑問が呈されてきた。
最低の作戦だ、犬死だ、無駄な死だ。
おしゃれで、スマートで、理論的には正しい意見である。
しかし当然ながらそれらの言説は、
大西物語ほどの予算をつぎ込めなかった。
今日で言えば、ハリウッド超大作と、自家撮り料理動画のYoutubeにアップくらいの、
絶望的なコストの差がある。
いくら頭をひねっても、
それだけ予算に差があれば、視聴者への説得力という点では勝負にならない。
だからいずれもそれを覆すほどの力は無く、
時が経つにつれ大西物語の力はますます大きくなってとどまるところを知らない。


あしたのジョー、ヤマト、ガンダム、スラムダンク、永遠のZero、
なぜそれらの物語が「泣ける」のか。
大西物語だからである。
大西を除けば明治以降最大の作家と言える宮崎駿も、
大西物語の手のひらの上にいる。
「ここが玉座ですって?
ここは墓場よ、あなたと私の。
あなたは外に出ることも出来ずに私といっしょにここで死ぬの」

大人しそうな少女の骨の髄まで、
特攻精神は浸透しているのである。
実際に特攻隊をアニメに登場させて、
それが引退作品なのである。
おそらく私たち日本人は、
この物語から抜け出せまい。
これ以上にコストがかかる作品が、製作不能だからである。


「青年たちが国難に殉じていかに戦ったかという歴史を記憶する限り、日本と日本人は滅びないのですよ」
まったくそのとおり。
滅びないといっても良いし、滅ぼせないといっても良い。
滅ぼすためには大西物語より説得力のある物語の製作が必要である。
当然大西物語以上の製作コストをかけなければならない。
そのコストの最低ラインは、
主演級俳優の死亡1万人以上、
一般出演者死亡300万人、
原爆2発を含む全国焦土化、
物語製作者は完成時に切腹。

2013年11月1日金曜日

千と千尋の神隠し 考察9

とりあえずこれで千と千尋の分析は終わりである。
大変緻密に組み立てられていることがご理解いただけたと思う。
これだけ緻密ならば、それは過去最高の観客動員も当然だ、という気がしてくる。

ということはつまり、
これほど緻密に構成された映画は過去に無かった、とも言えそうである。
ということはつまり、
構成の緻密さを基準にするならば、過去最高の映画とも言えそうである。

最後に簡単にまとめてみた。
早わかり一覧表である。


























































2013年10月28日月曜日

千と千尋の神隠し 考察8

追加である。
電車についての考察も必要である。

電車に初めて接するのは、
鳥居の中、劇中では赤い門の中、
お母さんが千尋に、電車の音がしていると伝えるときである。


次には飲食店ブロックから湯屋ブロックに渡る橋の上、
千尋は電車を見下ろして、ハクに注意される。
この時カメラワークが少々混乱というか、わかりにくくなっており間違えやすいのだが、
詳細に見てみると電車は飲食店ブロックから出ているのがわかる。

出てきた電車は湯屋ブロックにはいらず、向かって左脇を通る。
そして千尋が乗る駅は湯屋ブロックから少し離れた距離にある。


電車に乗ってみると、
「めめ」という積み荷が置いてある。
「めめ」とは飲食店ブロック最初のお店であり、
店には「めめ」「目」「生あります」などど不気味な文言が並んでいる。


湯屋および飲食店の商品は、
一部菜園で生産されるほかはよそから運び込まれるほか無いわけで、
「めめ」という商品はこの電車で運ばれてきた、
湯屋や飲食店ブロックに売ったあと、
一部売れ残りが千尋の乗った電車に載せられていた、とかんがえられる。
あるいは飲食店ブロックで調達された「めめ」が、
電車でほかの場所に運ばれている、でも良い。
いずれにせよ電車は商品を運ぶ手段であり、
実際に上の棚から荷物をおろす動きの描写がある。


神々が船で移動しているのは、
物語の最初で明示される。
お客は船で、では電車はなにを運ぶのか。

電車に乗っている黒い人は、
おそらく行商人、神々を支える存在なのであろう。


交易は元来、西のものを東に、東のものを西に移動させる行為である。
双方向的なものである。
劇中の交易は、電車は一方通行である。
不完全な交易である。
そして釜爺は言う。
「昔は帰りがあったんだが」
一方通行になった原因はなにか。


状況は物語の冒頭に示される。
鳥居に隣接してほこらがあり、
ほこらに隣接して大樹がある。
大樹の先端は、おそらく落雷であろうか、
折れてしまっている。

落雷で枝が折れた時期と、
電車が一方通行になった時期は、一致するはずである。
光合成は不十分になり、
この樹は地下から水分と養分を吸い上げるだけの存在になった。
そして電車は沼地を通る。
維管束の中を養分が流れる様が、
電車として描かれる。

それが宮崎の考える現代文明の姿である。
光合成の能力を失い、
大地の養分を浪費しているだけの存在。


振り返って全体の構成を考えてみよう。
この物語ははっきり、3部分に分割できる。

千尋が異世界に迷い込み、湯婆婆と契約するまでの部分。
湯屋で働き、功績と失敗をする部分。
電車に乗って銭婆婆のところに行く部分。

3部分がきれいに冒頭で表示される

最初の部分を象徴するのが赤い門=鳥居であり、
次の部分を象徴するのが湯屋=小さな石の祠であり、
最後の部分を象徴するのが、電車の走る沼沢地=先の折れた大木


かえすがえすも、
物語の始まり方の上手い作家である。

2013年10月21日月曜日

千と千尋の神隠し 考察7


この映画の中心主題は、
通貨である。
通貨映画、貨幣映画という、
大変ユニークな内容である。

千尋の父と母は、
財布もあるしカードもあると言いながら無断で飲食し豚になる。

ハクの本名は琥珀であり、
古代における宝石はすなわち貨幣である。

オクサレサマは本物の砂金を産する河の神であった。

カオナシは不換紙幣印刷機であったし、
その落ち着きどころは中央銀行であった。

このような宮崎の経済観、貨幣観は、
はっきりアンチリフレの立場によるものである。

アベノミクスの成功を見ればわかるとおり、
経済論としてはまったき間違いである。
それはここでは論じない。

内容的に経済書であれば容易に反論可能なものであったが、
物語の出来が良すぎた。あまりにも良すぎた。

千尋の成長物語と、
小さな祠の中の物語と、
壮大な文明論、
そして貨幣と経済の物語、
4つ重ね合わされたら、
かなりの文学オタでも太刀打ち出来ない力を持ってしまう。
(通常重ね合わせは二つである)

加えて美しい絵と、壮麗なオーケストレーションである。
圧倒的な説得力である。

実社会に生きる人間としては、
正直困ったものだなあと思う。
スタジオジブリさんならお金は有り余っていると思うが、
普通の市民はデフレのままでは、
経済活動なんかできやしないのである。

しかしだからと言って、この作品が良くないという気はさらさら無い。
宮崎監督を非難する気もまったく無い。
説明してきたように、大変密度高く設計された、
まれに見る充実した物語である。
カラマーゾフ的な文明論映画と言ってさしつかえない。

それに、「川と再会する」という、
やさしい、心ゆたかなお話を、
つくる監督も偉いですし、
その映画を支持して、
歴代最高観客動員を計上させる国民も、たいしたものです。

細かい分析は、つくるサイドの人間や、
私のような分析オタに任せればよろしくて、
大事なのは直感的に作品の魂を感じられる心でして、
この映画を評価できるような、
良い心、美しい心を持った日本人、日本社会に頼もしさを覚えます。

だから映画ファンとしては、万人に繰り返し見ていただきたい作品です。
「ただし、経済観だけはちょっと注意して」
と言いたいですね。
「なぜなら、物語の作り方があまりにも素晴らしいから、
経済観まで洗脳されかねないから」

2013年10月17日木曜日

千と千尋の神隠し 考察6


ある程度物語の説明が終わったところで、
中心題材になる通貨政策について述べなければならない。

カオナシのしていることはなにか。
紙幣の発行である。

カオナシの出す砂金は、インチキ砂金であり、
魔法が溶けると土に戻ってしまう。
しかし、振りかえって考えれば、
私達の今日使用している紙幣も、インチキ砂金である。
金はなにも含まれていない。
ただの紙である。


歴史的に見れば、昔は違った。

金そのものが通貨だった。


やがて金貨が通貨になった。
交換、決裁手段が金地金から、貨幣状のカタチになることによって実は、
使用する金の量は減る。
その代わり、例えば金貨の表面にローマ皇帝の肖像が刻印される。
王権で、通貨の価値の一部を肩代わりするのである。
社会の持つ一定量の金地金で、よりおおくの通貨を手にしたい、
言い換えればより多くの商取引を実行したい、
社会がそう望んだのである。
だってそうでしょ、通貨が少なければ、通貨が人々の手に渡らず、
そもそも商業取引が開始しないでしょ。


やがて金貨のかわりに、紙幣になった。
初期の紙幣は、金兌換であった。
銀行に持ってゆけば、紙幣に書いてある量の金と交換してくれた。
この方式だと、金貨以上に通貨の量を増やせる。
発行してる紙幣に相当する金全てを保持している必要はない。
1/10、1/100、あるいはもっと少なくても良い。
いっぺんにみんなが金地金を持ちたいとは考えないのである。
商業取引には紙幣のほうが便利だし、
取引は日々行われるものだから。
これは国家主権で、通貨の価値の一部を肩代わりするのである。
同じ量の金地金があるならば、
この兌換紙幣のほうが、はるかにたくさん通貨の量を増やせる。
言い換えれば、はるかにたくさん商取引の量を増やせる。
だってそうでしょ、通貨が少なければ、通貨が人々の手に渡らず、
そもそも商業取引が開始しないでしょ。


やがて、兌換紙幣のかわりに不換紙幣になった。
銀行に行っても金に変えてくれない。
ただの紙である。
これは国家主権で、通貨の価値の全部を受け持つのである。
発行できる通貨の量は膨大になる。
なにしろ金を用意しなくてよいのだから。
言い換えれば、商取引を出来るだけ多く増やそうと、
社会が望んだのである。
だってそうでしょ、通貨が少なければ、通貨が人々の手に渡らず、
そもそも商業取引が開始しないでしょ。


そのかわり、むやみに増刷しまくると、
貨幣の価値が下がってインフレになる。
だから中央銀行制度、つまり紙幣発行局を、
政府と少々距離をもたせる、というシステムで運営している。
それでも通貨を無限に発行する能力があることは変わらない。
特にデフレ局面においては。
とここまでは貨幣の歴史の基礎知識である。

そんなわけでカオナシは、
金貨製造機ではなく、兌換紙幣製造機でもなく、
不換紙幣(つまり今日私達が使用している通貨)の印刷機なのである。

そして、カオナシは最終的に銭婆婆のところに落ち着く。
銭婆婆はその名の通り、銭の人であるから、中央銀行である。
千尋とハクが銭婆婆と分かれる際に、
銭婆婆はカオナシに、
「あんたはここに残りなさい、私を手伝っておくれ」というが、
大人向けの表現をするならば、
「政府そのものが紙幣増刷するのはまずい。
なぜならばどうしても過度の増刷になるから、バブルが発生して、
カエルが飲み込まれたり、食品を無駄にしたり、色々と不具合になる。
あくまで政府とは距離を置いた中央銀行の権限としての増刷活動に制限したい。」
という意味になる。

2013年10月13日日曜日

千と千尋の神隠し 考察5

のろいと虫と印鑑について、
おそらく多くの人々が理解できなかったのではないかと思う。


1、銭婆は苦しんでいるハクを見て、
「この龍はもう助からない。ハンコには盗んだものが死ぬように呪いをかけてある」という。

2、ハクが悶絶していると釜爺が「なにかが命を食い荒らしている」と言う。

3、吐き出した印鑑と虫を見て釜爺が「これだ」と言う。

4、印鑑についている虫を千尋は踏み潰す

5、千尋が銭婆のところに印鑑を返しにいって、ハクを助けてくれるよう頼むと宣言

6、銭婆に印鑑を返した時、「守りのまじないが消えているね」と言われ、ハッと気づいて
「あの虫踏みつぶしました」と言う。すると銭婆は笑って、
「其の虫は妹が弟子を操るために龍の腹に忍び込ました虫だ」と言う。


さてここで質問。
ハクを苦しめていたのはなんなのだろうか。
呪いか?虫か?

状況を整理してみよう。


1、ハクは印鑑を盗む前から虫を忍び込まされていたはずである。
それによって顔色が悪くなったりしたかもしれないが、致命的ではなかった。

2、ハクは印鑑を盗んで死の呪いを受け、悶絶して苦しんでいた。

3、千尋のくれた苦団子を飲んで、印鑑と虫を同時に吐き出した。

4、虫は千尋に踏み潰された。

つまり、死の呪いを最終的に受けたのは、千尋が踏みつぶした虫である。
湯婆婆がハクのお腹に忍び込ませた虫である。

苦団子は
銭婆婆の呪いを、湯婆婆の虫に転嫁させた。

河の神の霊力と千尋のひとふみによって、
ハクは
湯婆婆の支配の呪縛からも、
銭婆婆の死の呪いからも、開放されたのである。
もっとも虫は呪いをうけているから、
千尋に踏まれなくてもどうせ死んでしまう運命なのだが。

ちなみにハクの盗んだ印鑑は、
元来契約の書き直しに使用されるものである。
絵コンテではそのように記載されている。

契約を結ぶ主体は湯婆婆であるから、
湯婆婆と銭婆婆で、
契約の締結と契約の書き直しを、
役割分担していると考えて良い。

ちょうど司法立法行政の三権分立のように、
あるいは政府と中央銀行の役割分担のように。

そう、湯婆婆とは冥界の政府であり、銭婆婆は冥界の中央銀行である。
だから銭婆婆と名前がついている。

湯婆婆は王のように、政府のように、従業員を大量に使ってる。
銭婆婆は従業員は居ないが、湯婆婆にまさるとも劣らない魔力を持っている。
湯婆婆は銭婆婆の権力を簒奪しようとハクに盗みをさせたが、
それはあえなく失敗した。

この二人は、劇中語られているように、
「二人で一人前」である。
千尋が門の前でみた石人のように、
一つの像に、顔が二つあるのである。


と、そろそろ本題に入りそうだが、次回に続く。

2013年10月9日水曜日

千と千尋の神隠し 考察4

宮崎駿の上手さは冒頭にある。
ラピュタの冒頭なぞ、何回見ても驚嘆する。
完璧である。


ムスカ、シータ、盗賊の3者が効率よく登場するはじまりのシーン。
すったもんだの挙句、最後にシータが手を滑らせて、
暗い雲の中に消えてゆき、オープニングクレジットに入る。

名曲「君をのせて」のメロディーが流れる中、
かつて飛行文明が栄え、
しかしなんらかの理由で人々は文明を捨て地上に降り立ったことが、
銅版画のような画で示される。

メロディーが引き続きながらクレジットは終了、
再び暗い雲野中のシータの落下シーンにもどり、
「君をのせて」の旋律はチェロからバイオリンに引き渡されて、
小節線をまたぐその瞬間、胸の飛行石が光り始める。
(ご丁寧にもバイオリンにはリタルダンドがかかる。少しためをつくる。
背景としてティンパニがトレモロで煽り立てる。
全ては飛行石発光の、劇的な効果を引き立てるための演出である)

これほど効率的で、充実して、印象的な映画の開始を、私は知らない。
映像と音の奇跡的な結合である。
この数分間だけでも、宮崎駿と久石譲は映画史上に名を残したであろう。


「千と千尋の神隠し」はラピュタに比べればいくぶん地味である。
そもそもタイトルが表記されるだけでオープニングクレジットが無い。

しかしラピュタであそこまで完成されたことが出来る人間が、
普通のオープニングをつくるはずが無い。
必ずや深い意味を含ませている、という気持ちで、
詳細に見る必要がある。


千尋は冒頭で、車の後部座席に横になって、花を持っている。
普通人間が横になって胸に花があると、
死んでいるという意味になる。
実際湯屋にいるのは、
例えばひよこの神様、つまり死んですぐに殺されたヒヨコであり、
ハク、つまり埋められて死んでしまった川の神様である。
湯屋は死の世界である。
千尋は仮死状態ないし一度死んで湯屋の世界に行ったのである。

その死の世界の入り口は、
樹木と鳥居とほこらで示される。
鳥居と樹木に挟まって、小さな石の家がたくさんある。
小さな石の家は、多くが傾いている。
「あの家のようなものはなに?」
「ほこら、神様のおうちよ」
という会話があった。
鳥居を脇に通りすぎて荻野一家は、大きな赤い建物に到達する。
赤くて、門になってる建築物といえば、つまり鳥居である。
あの赤い建物は変容した鳥居だったのである。

そこを抜けて平原にでるのだが、
草原での家は、多くが傾いている。
それら家々は、先ほど見たほこらなのである。
千尋一家はいつのまにかサイズダウンして、
ほこらの小さな世界に入り込んでしまったのである。

そして赤い門を前に千尋は、
まず花束を握りしめたまま車の外に飛び出し、
次に握りしめていた花束を車の中において、そして父のところに駆け出す。
死の世界で死者が活動し始めた瞬間である。

やがて物語が終わり、ハクと別れて、千尋は再びトンネルをくぐる。
見返す門の建物は、赤い色が落ち、地肌の茶色になっている。
ちょうど冒頭で見た鳥居が、赤い塗料が落ち、
木の地肌の茶色であったように。

死の世界の活性化が終わり、同時に死の世界の旅は終わり、
千尋は生の世界での活動を再開したのである。


千と千尋を文明論であると書いてきたが、
大きな大きな文明論は、
小さな小さなほこらの世界で語られる。

マクロとミクロの世界の物語、それをラピュタのように効率的に、
しかし今回は地味で控えめで穏やかに、
このオープニングで宮崎は宣言しているのである。

2013年10月6日日曜日

千と千尋の神隠し 考察3

引き続き名前についての考察。

「ちひろ」が名前を奪われて「セン」になる。
訓読みが音読みになる。

音読にというのは、ようするに中国音である。
時代によっても場所によっても発音はかなりまちまちで、
日本語にも呉音漢音唐音宋音と様々な時代の音読みが混在しているのだが、
細かいところは省略して、ようするに中国音である。

訓読みというのは、意味である。
特定の漢字ないし漢字熟語に対応するやまとことばを、
その漢字の読みとして使う用法である。
例えば「名」という漢字を、アメリカ人が「ネイム」と読んだ場合、
それはアメリカ風の訓読みになる。

ちなみに中国とは実態のある呼称ではない。
四方に周辺民族がおり、それら周辺民族が互いに交易をする。
交易する場所は当然ながら中心地帯で、
そこに市が立ち、市はやがて大きくなり都市国家に成長し、
都市国家は戦争により統合されてゆき最終的には帝国になった、それが中国である。
様々な民族の中心にあるから中国であって、
周辺がなくなれば中心もなくなる。
周辺の民族は様々な言語を持つ。
当然ながらそれらの意思疎通は大変困難である。
そこで、象形文字を使って意思疎通をする。
その象形文字は、後に漢字という呼ばれ方をするのだが、
例えば同じ「千」という漢字でも、
周辺にいる限りにおいては、どのような読み方をしても構わない。
日本人なら「ち」と訓読みし、アメリカ人なら「サウザント」と訓読みするであろう。
しかし中国にいる限りは、象形文字に付着する音を使うことが多い。
この場合「セン」である。

音読みをされた「セン」という名前はつまり、中国化された名前である。
名前をうばわれるということはつまり、
中国化する、民族としての独自性を失うという意味を持つ。

西戎北狄もの千尋も名前を奪われたし、
東夷南蛮のハクも名前を奪われた。
ともに中国人になったのである。
湯婆婆のところで働くとは、そういう意味を持つのである。

湯婆婆の会社は、
「油屋」である。
なんと発音するのかは劇中では不明である。
発音の選択肢としては
(音読み+音読み)ユオク
(訓読み+訓読み)あぶらや
(音読み+訓読み)ユや
(訓読み+音読み)あぶらオク
の4種類ある。
通常旅館の屋号で「油屋」と使う場合には、
「あぶらや」と読む場合が多いようである。
しかしこの作品の中では、
油屋の油と屋の字の間に、丸に湯というマークが記されている。
湯はゆが訓読み。トウが音読みである。
屋号の頭の字の音読みと、商品の訓読みが同じ音だということに注目してほしい。
明らかに音読みと訓読みを意識させる作りになっている。

湯婆婆の姉は銭婆。
いずれも「訓読み+音読み」である。
どうもこれは徹底した音訓の物語である。

話変わってハクである。
ニギハヤミコハクヌシというのが正式名称のようである。
漢字で書くと饒速水琥珀主である。
これも問題のある名前で、
琥珀は音読み、他は訓読みである。
なんのことはない、主要な登場人物はみな音読み訓読み入れ混ぜている!!

ちなみに釜爺も訓読み+音読みである。
ものすごい一貫性である。

だから千尋はセンになった。
「ち」という名前になるわけには、いかないのである。
一貫性がなくなる。
周辺民族と中心文明の物語を、
音読みと訓読み組み合わせで描く、
まことに教養が深い。


ちなみにだが、
饒速日命(ニギハヤヒ)という神がかつて居て、
それは天皇家に先立つ大和の王権が祭っていた神なのである。
饒は豊饒の饒であり、たくさんという意味。
ようするにガンガン日が登って作物大量育成という意味である。
ハクは少し字が違って、
饒速水、水がたくさんあるのである。
川の神様だから当然である。
琥珀は古くから日本にある宝石で、
縄文時代から交易がされている。
日本での交易は海や川などの水上が主体で、
おそらく琥珀川は琥珀の交易に使われた川なのであろう。
饒速水琥珀主で
「水がたくさん流れる川で琥珀の交易やって大儲け」
という意味になるのかしら。
いうなれば、湯婆婆のような中国風の交易文明のありたかとは違う、
日本風の交易文明のあり方を体現していた存在がハクだった。
中国風の文明のありかた、すなわちグローバリゼーションである。
ハクが湯婆婆の弟子になったように
日本はグローバリゼションの弟子になることをここ最近やっていたが、
ハクのように
「どんどん顔色が悪くなっていった」。
それをやめて、
本来の名前を取り戻そう、そいいう意味もこの映画にはあるのである。
見ればわかるように、湯婆婆は外人顔、ハクは日本顔である。


さらにちなみに、
琥珀は古くから日本で交易されていたのに、
やまとことばの名前が無い。
かつては別の名前があったのだろうが、文献に残っていない。
そう「どうしても自分の名前を思い出せない」のである。

2013年9月25日水曜日

聴覚世界

http://yomitoki2.blogspot.jp/2013/08/blog-post_18.html

に書いたことの続きである。図にしてみた。


芸術言語で記載された内容は、正解が無い。
正解とは理論言語で表記するという意味であり、
違う場所にある芸術言語と理論言語を自由に行き来することは、
元来不可能だからである。


和歌を完全に理論言語で表現出来るならば、
音楽を通常言語で語れるはずであり、
関数を和歌で表現できるはずである。
だがそれは無理である。


ちなみに、現在および未来の経済政策も、
この図ひとつである程度考えられる。
IT化によって社会に循環する情報は増大した。
だいたい以下の図の感じで増大したのである。


見てわかるように、
言語、音楽はIT化によって大量にコミニュケーション量が増大したが、
数字系コミニュケーションはさほど増大していない。

Youtube使っとる10代の連中には想像もつかんだろうが、
私が若かりし日には、音楽を聞こうと思ったら、レコードなんて高かったから、
FMエアチェックなんてものをして、要するにラジオを録音して聞いていたものであるが、
今はどんな音楽でも無制限に聞ける。
音楽情報の流通は、爆発的に増大しているのである。
しかし、いいねもリツイートも、しないひとには縁がない。
確かに年々盛んになっているが、音楽、言語ほどの増殖に勢いは無いのである。


音楽、言語の増殖を担ってきた旧来型メディアの
テレビ、映画、出版社はすっかり斜陽産業になっている。
数字=貨幣情報がITによって増殖できるようになっているならば、
本来銀行も斜陽産業になっているはずである。それがそうなっていないのは、
中央銀行→市中銀行と流れる法定貨幣のシステムに、取って代わるようなシステムがまだ出現していなからである。


具体的には、
Amazonなどのポイントが貨幣化するなり
「いいね!」が貨幣化するなりの道のりではないかと思うのだが、
こういう流れは二十年くらいかつ浮かびかつ消えて、
久しく実現化したる試しなしである。


考えれば、例えば日本でも江戸中期には全国的に寺子屋が広がって、
言語のほうは大量に拡大していったが、
紙幣は地方政府の藩札こそあったものの、
その拡大は言語にくらべれば遅々たるものであった。
大規模な紙幣の広がりは、明治維新を待たなければならない。
言語の広がりより、数字の広がりのほうが遅れるのである。


その原因として考えられるのは、

1、そもそも人間は数字よりも言語が得意、
というより国語嫌いより数学嫌いのほうが多い


2、貨幣は背後に強権が必要になる。Googleくらいの大きな会社ならば強権に近いものを持っていると思うし、実際ベルギーやモンゴルよりは権力ありそうなのだが、警察権持っていないのは致命的である。国家が中央銀行を守るように、IT企業の貨幣的活動を守るようにならなきゃ、なかなか実現難しい。

あたりだろうか。

いずれにせよ信用創造の主役が交代するまでは相当なタイムラグが有る。
その間はリフレ政策でしのいでゆくしか無い、ということがこの図から分かるのである。
かなり大規模な政策転換だから、あと20年くらいかかりそうな雰囲気である。

2013年9月23日月曜日

「千と千尋の神隠し」考察2

「千と千尋の神隠し」は、
バブル崩壊で苦しむ日本の再生を願った、
宮崎駿なりの文明論的日本再生マニュアルである。


文明論としての構造はそこここらに見つけることができるが、
まずはネット上でよく言われる名前問題。
千尋のフルネームは「荻野千尋」である。
これを湯婆婆との契約書では、
意図的にかどうか知らないが、
荻の火の代わりに犬と書く。
だから名前を完全には奪われなかったのだ、とする解釈が、
ネット上で広く流布している。
間違っては居ない。
しかしもう少し掘り下げて考えてみる。


古代中国の文明では、
中国人自身は世界の中心に居る中華、あるいは中夏と表現される。
そこをとりまく異民族は、
東夷
北狄
西戎
南蛮
である。
東夷は、魏志倭人伝の正式名称
「三国志魏書東夷伝倭人の条」を見ればわかるように、
東に住む住民である。
北狄は北方狩猟民
西戎は西方遊牧民
南蛮は南方の住民である。
(このうち東と南は比較的水の多い地域に住む)


さてところで北狄の狄の字に草冠をつけると、
荻になる。
千尋は間違って火のかわりに犬の字を書いたが、
西戎は別名犬戎とも言う。
つまり荻野千尋は元来、西戎ないし北狄である。
実際最初に原っぱで沢山の石の像の、
カエルやら人やら、不気味な姿が立っているが、
これらは基本的に中央アジア遊牧民の建てる石人に類似している。


さて、千尋の異世界での仕事のメインは、
オクサレサマとハクの救済、
つまり川の救済である。
ところが、
東夷および南蛮の世界では、
川は神様であり、かならず龍の姿で描かれる。

というわけで、
「千と千尋の神隠し」は、
西戎北狄が、東夷南蛮と再会する物語ともいうことが出来るのである。

2013年9月22日日曜日

「千と千尋の神隠し」考察 1

人は核兵器を危険なシロモノだと言うが、そして実際危険なのだが、
核兵器は物語ほどは危険ではないし、殺傷能力もない。
バイブル、コーラン、資本論、それらがどれほど多くの人間を殺傷してきたことか。
近くはポルポト、スターリンの例だけで十分であろう。
そしてそれは、それらのテキストが悪いものだったからでもなく、
良くないものだったからでもなく、
大変良いもの、大変優れていたものだったからこそおこった現象なのである。
大変優れたテキストは、多くの人々に伝播し、多くの人々の考えを支配し、
社会を巨大な幻想でドライブする。
それらの毒を消す方法はただひとつ、そのテキストの内部構造を明らかにし、
素晴らしさの源泉を十分解明すること、言い換えれば素晴らしさを消費し尽くすことである。
それは、批判ではない。批判は多くの場合、素晴らしさを強化する。

そして今日私達日本人は、素晴らしい物語作家を手にしている。
例えば宮崎駿だが、氏の「千と千尋の神かくし」などは、
観客動員数2300万人である。
その後のテレビ放映、DVD、BRの販売を考えれば、
ほぼ日本人全員が鑑賞していると言ってさしつかえない。
言い換えれば、ほぼ日本人全員が洗脳されていると言ってさしつかえない。
私は近年、そのことに気づいた。
今まで日本に’住んでいると思っていたが、
住んでいたのは「ジブリランド」という国で、
昔日本と呼ばれていた場所らしいと気づいた時の驚き!!
そして物語を無毒化するべき役割を背負うはずの映画批評家には、
残念ながらこの大作を解析する力量を持つものがほとんど居ない。
私が昔若かりし頃、ミニコミ紙に映画批評のようなものを書いている時、驚いたのは、
「もののけ姫」あるいは押井の「攻殻機動隊」のような傑作映画をまともに批評できる人物が、
ほとんど存在していなかったのである。
甲殻にかんしては当時は一人も居なかった。
ある批評家はいけしゃあしゃあと「よく理解できなかった」と書いていた。
だったら5回見ろ、と言いたくなったが、ともかくそんな具合では、
宮崎駿のような巨匠の手のひらから一歩も出れない。
元気が良い奴がたまに手のひらの中をグルグル廻っているのが関の山で、
元気の無い奴は手の真ん中でへたり込んでる状態であった。
千と千尋の公開は2001年、
日本は当時からデフレであったのだが、
結局アベノミクス発動によるデフレ改善のこころみまで、10年以上の歳月を必要とした。
その原因の一端はおそらく、千と千尋の神隠しにある。
「千と千尋の神隠し」はバブル、インフレ、信用創造を否定している。
そこのとに罪は無い。アニメ作家が現実経済の運営に責任あるはずがないし、
理念や世界観を元にしなければ、どんな作品だってつくりようがない。
宮崎駿の経済観は大変幼稚なものであり、
少々でも経済をかじった人間ならば、
簡単に反論ができるようなものでしかない。
「労働価値説?金本位制?
ジブリがスタッフに払うお金も、不換紙幣だよ?」
言ってみれば人畜無害な経済哲学である。
しかし問題なのは、千と千尋の神隠しがすばらしく構成された内部構造を持ち、
超人的な演出能力、ジブリスタッフの作画能力、久石譲の音楽と相まって、
途方も無い説得力を持つ物語に仕上がっているということであり、
それは大変幸福なことで、私達日本人はそれを誇りとすべきなのだが、
どんな幸運でもメリットだけということはありえない。
巨大すぎるグットラックには、それ相応の影があり、
そのマイナス部分の毒消しをすることを、どうやら私達日本人は失敗してきたようなのである。
分不相応なほどの天才の作品を、私達の社会は享受したあげくに、
十年以上対価を支払わされ続けていた、というのが、
近年の日本経済の真相なのであろう。
デフレの慢性化によって、
日本の経済成長率は低く抑えられ、
中国の高度成長もあって、東アジアの軍事勢力地図が大幅に変動し、
安全保障体制が不安定化し、尖閣、沖縄、対馬は領土簒奪の危機に瀕している。
なんのことはないカオナシの情けない姿で膨大な人間の生活が危機に面するのである。
そしてくりかえすが、宮崎駿に責任は無い。
作家として最善のものを作った結果、東アジアの安全保障に影響を与えたとしても、
そこまで考えていちゃなんにもつくれないわけで、
言ってみれば田舎の高校野球のチームに突然ダルビッシュのような奴が来て、
町中熱狂した挙句に仕事がおろそかになって街がさびれる、という現象なのであるから、
腕も折れよと投げまくるダルビッシュさんへの批判はやめていただいて、
街の人々が正気を取り戻すべき、と私は考えるのである。
正気を取り戻す方法は、ダルビッシュを否定することでも、毛嫌いすることでもない。
それは正気から遠ざかる道である。
唯一の方法は、ダルビッシュを完全に理解し、消化し、包容することである。
そんなわけで「風立ちぬ」も「おおかみこども’」も途中だが、
千と千尋の神隠しの考察も始める。

2013年9月13日金曜日

含むネタバレ 風立ちぬ・解説15

鉄道について

登場人物が鉄道に乗っているシーンは9回ある。
うち2回は、二郎が鉄道に乗っているのだが、
明快には示されない。

初めはシベリア鉄道に乗っているシーン。
風景が映されるだけで明示されない。
二度目は失意の軽井沢旅行。
これも列車が映されるだけで、乗っている二郎は登場しない。

となると、明快に列車での移動が表現されるのは、
7回である。
7回!、飲食も7回、タバコも7回である。

1、列車乗車中に震災に被災
2、名古屋に移動中に列車で困窮した民を見る
3、ドイツでの夢。列車を降りると日の丸飛行機が墜落する夢を見る
4、ドイツから西へ移動中、カプローニ最後の飛行へと飛び出す。ピラミッドのある世界
5、菜穂子喀血の報を受け、泣きながら上京
6、二郎の手紙を読んだ菜穂子は、決心して列車で二郎の元へ
7、二郎の元を去った菜穂子は列車に乗る

ほとんど凄惨な状況の描写に結びついている。
4は凄惨なシーンはないが、ピラミッドのある世界を肯定する。
それは2と対応する。かれらはピラミッドの底辺として苦しんでいる民である。

いずれにせよ、この数の揃え方は、意図的なものを感じざるをえない。
というより、たいていの場合傑作は、このような細かくも壮大は設計を持っているものである。



2013年9月8日日曜日

含むネタバレ 風立ちぬ・解説14

食事について
食事シーンは7回ある

いずれも前途への希望に結びついている。



1、被災後お絹と菜穂子は二郎からシャツに含まれた水をもらう。
素晴らしい男性に巡り会えた喜びを感じる。

2、定食屋で二郎は鯖定食、本庄は肉豆腐を食べる。
二郎は鯖の骨の曲線美を設計の理想とする。

3、本庄はシベリアを食べながらお茶を飲む。
本庄はドイツ留学に選ばれ、結婚も予定が立っている。

4、フライヤでコーヒーを飲みながら二郎は設計主任を任される。

5、軽井沢の食堂内で二郎は菜穂子に会釈をする。

6、軽井沢の食堂内で二郎は菜穂子を待ちながらビールを飲む

7、二郎と菜穂子は黒川邸で三三九度の盃を交わす。



タバコのシーンも7回、食事のシーンも7回!!

2013年9月5日木曜日

含むネタバレ 風立ちぬ・解説13

タバコについて。
「風立ちぬ」は煙草のシーンが都合6回出てくる。
1、震災直後、学校で本庄が煙草を次郎にせがむ
2、2年後、教室に計算尺の届け物があった直後、本庄が級友に煙草をせがむ
3、ドイツでユンカース社の見学後、次郎は最後の煙草を吸っており、本庄はシケモクを吸いはじめる
4、菜穂子を待つレストランの席で、カストルプと共に次郎がタバコを吸う
5、菜穂子と食事ができなかった後、ベランダから彼女の部屋を見上げながら、暗い中で次郎一人で煙草を吸う。
6、黒川邸の離れで、菜穂子の手を握りながら次郎は煙草を吸う。


1度の例外を除き、いずれも、直近に女性と別れる、離れる、合えなかったというイベントがある。
1、震災直後、次郎はお絹、菜穂子と別れて学校に行った。
2、教室に計算尺の届け物があった直後、次郎はお絹の後を追ったが、見つけられなかった。
3、ドイツでユンカース社の見学前に、本庄は結婚をしており、新妻と別れてドイツに来た。
4、レストランの席で菜穂子を待っていたがこなかった。
5、ベランダから彼女の部屋を見上げながら、菜穂子を思いながら次郎は煙草を吸った。
6、菜穂子の手を握りながら次郎は煙草を吸う。次郎のそばに菜穂子が居る。これのみ例外である。


だからこそ6のシーンは印象的になる。
「結核の女性の隣で煙草を吸うなんて」と激しく反応している人たちも、
無意識のうちに、この静かなシーンの劇的な意味をなんとなく感じているのではないか、
だから激しく反応しているのではないかと、思われる。


いずれにせよこのことからも、この映画が緻密に立体的に構成された作品であると理解していただけるものと思うのだが、
いかがだろうか。

2013年9月1日日曜日

日本アニメ映画芸術爆発の原因

おおかみこども、風立ちぬ、それ以前ならば押井の攻殻、あるいはもののけ、なんでこんなに素晴らしい作品が生み出されるのか、私は本当のことを言うと理解できていない。

ルネサンスの芸術には、メディチ家というパトロンが居た。メディチ家はようするに、王様である。バッハ、モーツアルト、ベートヴェンは、生活のかなりの部分を教会や貴族に依存していた。ドストエフスキーやトルストイは、そもそも貴族である。
今日本には貴族は居ない。お金持ちがパトロンになってアニメを作らせている、わけでもない。なんでこんなに名作が生まれるのか理由がわからん。とりあえず仮説を立ててみた。

1、日本至高説。日本の大衆社会が大変高水準なものになっている。高度な芸術をやすやすと理解できる、かつての貴族階級の如き教養程度が高く文化的な大衆が大量に存在している。
(これは、私自身もその高水準な大衆とやらに加われるから、大変心地よい仮説である)

2、脱落アニメーター説。アニメや漫画のプロになろうとする若者は、わんさか居る。そして毎年毎年、その過酷な競争と劣悪な環境に敗れて、その業界から去る若者はわんさか居る。かれらはプロとしては続けられなかったかもしれないが、若干年でもプロの飯を食ったわけで、そいいう連中は消費者としては超一流になる。良い仕事を確実に正当に評価出来る元プロが、アニメ業界にはおそらく数万以上の単位で存在する。かれらが消費の中心となり、クオリティの高い商品の生産を促している。

3、国風文化説。映画はアメリカのものであった。アメリカが優れていた、というより戦争直後は世界のGDPの50%をアメリカ一国で占めていたのだから、みんなアメリカ文化にあこがれて当然であった。しかしその比率は20%までに落ちた。もはやハリウッドは、年がら年中人類が絶滅の危機に陥り、年がら年中危機から間一髪で救われるという、ワンパターンな作品しか作れなくなっている。それってそもそも危機じゃあないんじゃない?まるで映画だ、という意味を成さない文句はさておき、アメリカ映画へのあこがれ、逆に言えばアメリカ文化の圧迫が日本からなくなった。唐王朝が衰退して日本に国風文化が発達したように、アメリカが衰退して第二次国風文化が芽生えつつあるのである。

以上3説、どれももっともらしく思える。どれもあてはまるのかもしれない。よくわからない。

一般的に言って、多民族社会というのは文化生産能力は人口に割りに低くなる。ローマ帝国とギリシャ都市国家の文化力を比較せよ。最初のうちはローマも元気はあったが、帝国として肥大しすぎると、コロセウムの見世物、つまり今のハリウッド映画みたいなのしか作れなくなった。(唐王朝は?いやあれは後漢滅亡から400年かけて鮮卑中国人なる民族が成立したと見るべきだろう。)

文化とは民族のアイデンティティを決定するものであり、多民族社会に文化は生まれにくい。アイデンティティがぶつかり合ったら、社会が崩壊するのだから、文化生産にブレーキをかけざるをえなくなるから。

おおかみこどもの雨と雪・解説7

構造はまだ解析中なので一旦お休み。
画風についての解説である。

細田監督は富山出身である。
おとなりの石川県能登の出身の画家が、
長谷川等伯である。




http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/65/Hasegawa_Tohaku%2C_Pine_Trees.jpg/1024px-Hasegawa_Tohaku%2C_Pine_Trees.jpg

図は「松林図屏風」と言って、百済観音とならんで「国宝中の国宝」と位置づけられている作品である。ちなにみ言えば、百済観音も、絵画と彫刻という違いはあれど、松林図屏風のように柔らかく、瞹瞹たる表現で人気があるから、これらは日本人の根源的な好みを反映しているのではないかと思われる。


元来日本は降水量に恵まれた風土だが、北陸の石川、富山のあたりは、四季を問わず特に湿気が多い。湿気が多い環境のなかから生まれた画家が、古くは長谷川等伯であり、あたらしくは細田守である。

例えばジブリの作品が、線をくっきりと書き、濃く、強く、立体的であるのに比較して、細田は線を細く、淡く、柔らかく描く。その背後には、明快に長谷川等伯の美意識がある。


あるいは黒澤との比較では、黒澤はレンズの絞りをギリギリまで絞り込んで、近くから遠くまでピントが合った(被写界深度が深い)、シャープな画像を好んだ。そのため画面は密度が高く、劇的だが、時として少々どぎつすぎる傾向もある。対して細田のは、構図感覚は黒澤に近いが、被写界深度は浅めである。構図による遠近法より、空気により遠近法を好む。全てを明快に見せようとはせず、あいまいな暗示によって悟らせようとする。


以上をまとめれば細田は、黒澤、宮崎よりもより湿潤であり、より日本的と言える作風を持つ。そしてそれはおそらく、北陸の風土と北陸の文化の伝統が根底にあると思われるのである。


2013年8月20日火曜日

カラマーゾフの兄弟をよみとく 追加2

蛇足でダラダラ書く。
カラマーゾフの兄弟は、全13章ある。
単純計算で中心は第7章になる。

第7章のタイトルは「アリョーシャ」。
ゾシマの死体が腐臭を発するなかで、
アリョーシャは「カナの婚礼」の夢を見る。
新約聖書ヨハネ伝の一節を、夢の中で再現し、
イエスの姿と、死んだはずのゾシマの姿を見る。
夢から覚めたアリューシャは、
外に走りだして、大地につっぷして涙を注ぎ、
立ち上がった時に「一人前の男になっていた」。


中間すっとばして結論を述べる。
西洋文明には2つの源泉がある。
ヘブライズムとヘレニズム。
言い換えれば聖書文明と、ギリシャ文明である。
聖書文明の代表的存在は無論イエスキリストである。
ではギリシャ文明の代表は。
ドストエフスキーがここで代表として取り上げたのは、
ソフォクレスの「オイディプス」である。
運命により、知らずして父を殺し、知らずして母と性交してしまい、
のちにその事実を知り、絶望の余り自らの目を潰してしまう王の話である。

カラマーゾフはそのまんま、父殺しの物語である。
そしてアリューシャがつっぷして涙を注いだのは、母なる大地である。
無論ここは、母なる大地と性交して射精した、という意味である。
だから一人前の男になった。
その性交の直前に、父のように慕っていたゾシマのなきがらに側におり、
夢にイエスとゾシマを見る。

マクロな意味でのカラマーゾフの主題、というか達成課題は、
ヘブライズムとヘレニズム、2つの文明の融合である。
同様のことはゲーテがファイストでやろうとしたのだが、
ファウストはぶっちゃけ成功していない。バラバラ感丸出しである。
対してドストエフスキーは成功した。
だが成功しすぎたせいで、このような構造が余り評価されていないのかもしれないから、
難しいものである。


さらに蛇足を。
映画の名作「ゴットファーザー」は、「カラマーゾフの兄弟」のパクリである。
父は死ぬ。長男は血の気が多い、次男は陰気、三男は堅実に生存して次の物語に続く。
ご丁寧にスメルジャコフ役として、トムヘーゲンという養子まで用意している。
だから名作なのだ、とも言える。

ゴットファーザーでの暗殺シーン、
バルジーニは銃で撃たれて階段を転げ落ちる。
明らかに「戦艦ポチョムキン」のパクリである。
それが証拠に、パーツⅢではコルネオーレ一族が階段を転げ落ちて、
マフィア世界の王座を転落する。
権力からの転落を、階段からの転落として表現している。

ということで、「ゴットファーザー」は、
文学の最高傑作「カラマーゾフの兄弟」と、
映画史最初の芸術映画「戦艦ポチョムキン」を、
ドッキングさせた、非常に大きな構想を持った作品なのである。

似ている、ヘブライズムとヘレニズムをドッキングさせた「カラマーゾフの兄弟」に、
あるいは、荒事と和事をドッキングさせて、
終幕に「堀越二郎と堀辰雄に敬意を込めて」としるして、
そのドッキングを暗示した「風立ちぬ」に似ているのである。

2013年8月18日日曜日

芸術作品の見方について

先日宮台真司氏の「風立ちぬ」感想を聞いた。
宮台氏は細田守を高く評価するなど、十分鋭い感性の持ち主である。
しかし「人物描写が不十分だ」などど言っていた氏の論評を聞きながら思った。
氏は芸術を論じる上での基礎が出来ていない。
(氏は風立ちぬに批判的だったが、その事自体はどうでもよい。
モナリザは大芸術だと思うが、私はモナリザが嫌いである)

基礎が出来ていないのは一人宮台氏の問題ではなく、
巷にあふれる論評の多くがそうであり、
そうであるならば、社会全体の問題である。
私見では根本原因は国語教育にあり、
私も随分反発してきたものだが、
今にして思えば国語教師も、大学の文学部教授も、基礎がわかっていなかった。

それは彼らの能力が足りないのではなく、
社会全体の智慧の蓄積が不十分だったのである。
それをこれから説明するのだが、
基礎と銘打つ以上、あっけないほどに簡単である。

聴覚世界は最低5分割するとわかりやすい。
1、数
2、固い言語(法律用語、学術用語、電化製品取扱説明書)
3、通常言語
4、芸術言語(女性言語はしばしばこの領域に踏み込む)
5、音楽
ちなみに本当は音楽は振動数の比で成り立っており、
5は1につながる、という円環構造になっているのだが、
図を作るのが面倒なのでこれで説明させていただく。

1、数字
1と1.1は別の数であり、1.1と1.11は別の数であり、1.11と1.111は別の数であり、1.111と1.1111は別の数であり、
数字それぞれは互いに排他的であって、どこまでいっても互いに侵食することがない。

2、固い言語
できるだけ数字のように、ことばそれぞれが明快に一つの意味を持つように構成された文章。
数字のように完璧にセパレート出来るわけではないので、しばしば誤解を生むし、
読みにくい文章になる。しかし出来るだけ明快になるように指向されている。
3、通常言語
文字通り通常の言語である。この文章は少々2寄りの3である。

4、芸術言語
出来るだけ言葉の意味同志が重なるように作られた文章。
明快に単一のものを指し示すことを、可能な限り回避する。
たとえば
花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
などは可能な限り意味を重ねて作られている歌である。

5、音楽
具体的な意味が全くなくなり、
芸術言語にあるような情緒性と、数的比率のみがある。

現代国語などで扱うのは、主に2ないし3の世界である。
それは構わない。仕事に使う領域なのだから。
まれに4を扱うが、うまく扱えない。マルバツが出来る世界ではないからだ。

文章を読む際にまず考えなければならないことは、
その文章が2なのか3なのか4なのか、ということである。
だいたいの目処がつかないままで取り組むので、わけがわからなくなる。
この5分割、中学生くらいで教えるべきだと思うのだが・・・

そして、映画もしかり。
ドキュメンタリー映画、記録映画は2である。
通常の娯楽映画は3と4の間である。
芸術映画は4を乱発する。

今回の風立ちぬは一見歴史系なので、
2と3の中間にあるように見えるところが、分かりにくい点である。
実際にはベタベタの4だ。
ベタベタの4であるならば、
菜穂子の人物描写が不十分、という批判は的はずれなのが分かるだろう。
なぜならば、あれほど詳細に戦闘機を描いたのだから。

(分かりにくい方は、以下を参照ください)
含むネタバレ 風立ちぬ・解説10

2013年8月16日金曜日

おおかみこどもの雨と雪・解説6

例えば3セット取り出して考えてみる

母が吐くと父は鳥をとってくる
息子が吐くと姉はさぎを取ってくる

父(狼姿)は鳥を獲ろうとして川に落ちて死ぬ
息子(狼姿)は鳥を獲ろうとして川で死にかかる

父と花のアパートには燕の巣
息子の家出の前に燕の巣が倒壊

以上3セットは
1、鳥が狼の命の象徴であること
2、鳥に去られた時、狼の命運が尽きること
3、鳥の巣つくられた時点で母と狼族の生活が始まり、
なくなった時点で生活が終わること
を表現しようとしている。

言うまでもなく神道では、鳥居、つまり鳥の止まる木を、
聖なる境界としている。
鳥居は日本および照葉樹林帯特有の習慣だから、
日本および照葉樹林帯に住む人々を表現したのが、狼族である。
では鳥を獲らないでも生活出来る母親の花はなにか。
狼族ではにない。つまり日本人および照葉樹林帯の人間ではない。
私の考えでは阿弥陀如来だが、あるいは他に解があるのかもしれない。

2013年8月15日木曜日

おおかみこどもの雨と雪・解説5

おおかみこどもの雨と雪は、
実はストーリーらしきストーリーがほとんど無い、
極端に薄い物語である。
12年以上に渡る長きを2時間で、駆け足で通り過ぎる。
だから話は薄くなって当然である。
通常ならばバラバラになるその薄さをつなぎとめる留糸が、
対句的表現である。いや厳密には対句ではないのだが、
説明が難しいのでまずはざっと見ていただきたい。

父は桃缶を妊娠中の妻に食べさせる
息子は桃を狐の先生に献上

母が吐くと父は鳥をとってくる
息子が吐くと姉はさぎを取ってくる

父(狼姿)は鳥を獲ろうとして川に落ちて死ぬ
息子(狼姿)は鳥を獲ろうとして川で死にかかる

父と花のアパートには燕の巣
息子の家出の前に燕の巣が倒壊

息子に脱脂綿で乳を含ませる
草平くんの耳の傷には脱脂綿がテーピングされている

娘が吐いて母(花)は獣医か小児科か迷う
息子は吐いて狼はいやだと言う

娘が落としそうななったビンを母はナイスキャッチする
韮崎家から木酢液のペットボトルをもらう

娘が倒しそうになったタンス(四角い箱)を母はからくも支える
韮崎家から冷蔵庫(四角い箱)をもらう

娘の先生(草平くん)に母が差し出すのは緑のジュース
息子の先生(狐)に母が差し出すのはピンクの桃

娘は子供の頃緑の離乳食を食べている
娘の先生は緑のジュース

雪は草平からみかんとパン(丸いものと平らなもの)をもらい 
花はきつねに桃と油揚げ(丸いものと平らなもの)を出す

雨が狐の先生に連れてゆかれた岩沢から見る湖には雲が映っている
花の駐車場の水たまりには雲が映っている

他にもあるだろうが、発見できたのは以上である。

2013年8月12日月曜日

おおかみこどもの雨と雪・解説4

細田を初めて見たのはサマーウオーズ、つぎに時をかける少女、つぎにオマツリ男爵、その後おおかみこどもだったのだが、率直な感触は「これはモンスターだな」だった。おそらく彼は、今までみた映画のシーンをほとんど覚えている。つまり映画的演出の引き出しが圧倒的に多い。
私も高校2年と3年だけは、見た映画のシーンをかなり覚えられた。見終わった映画のシーンを目をつぶって再度上映するのである。20分程度の早回しで。当時昼食代を削ってレンタルビデオを借りて見ていて、それはそれは必死でみていたから、思い出せた。それを細田は、数十年続けている感触が、画面から伝わってくる。これは映画オタを一時期でもやった人間はほぼ全員感じられる部分だと思う。アニメ関係者も映画関係者も、おそらく似たような印象を持っているはずである。
くわえてポニョの不発があったから、これはてっきり王座交代かとおもっていたのだが、今回の風立ちぬで宮崎王朝は当面維持されることになった。
レオナルドとミケランジェロ、あるいはドストエフスキーとトルストイのような、素晴らしいライバル芸術家が切磋琢磨する姿を見れるとは、言葉にできぬほど良い時代であるし、なんぼ日本がポテンシャルが高い国であったとしても、流石に今が文化の絶頂期で、今後は少々ダラ下がりになるのではないかと思われる。
いずれにせよ、風立ちぬや、おおかみこどもに対する批判を口にする前にまず心がけておかなければならないのは、これは「マタイ受難曲」や「カラマーゾフの兄弟」に匹敵するような大芸術であって、必然として難解な部分を持つ、ということである。難解である以上最初になすべきは批評ではなく解析であり、解析が終了後批評が可能になる。通常の映画と同じような態度で批評しても、全く無効なのである。

おおかみこどもの雨と雪・解説3

細田守は美大で油絵を学んだ人間である。
他に西洋絵画を十分に学習した映画監督といえば、著名なところでは黒澤明が居る。
一般に黒澤の後継者は宮崎駿、宮崎の後継者が細田守というふうに言われているが、西洋絵画の教養という意味では、黒澤と細田が近く、宮崎はやや遠い。
試しに音を消して鑑賞するとよくわかるのだが、黒澤も細田も、西洋絵画、とくにルネサンス絵画の特徴である三角形構図を多用する。

両者は荒事と和事、別の領域の作家だが、音を消した映像から受ける印象は、大変良く似ているのである。一度試していただきたい。宮崎の動く画像での独創性は素晴らしいが、静止画としては実は、ややガチャガチャしているのである。

おおかみこどもの雨と雪・解説2

おおかみこどもの構成要素として
浄土真宗以外には、
南総里見八犬伝が考えられる。

手元にある設定資料を見ると、
雪の男子クラスメイトとして、
信道、忠与、仁、礼儀と名前がある。
仁・義・礼・智・忠・信は八犬伝に出てくる玉の名前である。

女子の名前は、
信乃、荘子、毛野であるが、
犬塚信乃、犬川荘助、犬坂毛野、
いずれも八犬伝の登場人物である。
人間と犬が交わる物語だから、
八犬伝を参照するには自然ななりゆきである。

八犬伝を参照して浄土真宗を歌い上げる。
過去の物語を参照する際に、
ふつうのひとはひとつの物語を引用する。
複数の物語をドッキングして使えるのは、
相当高度な力量の持ち主である。
細田守はまぎれもなく、後者である。

おおかみこどもの雨と雪・解説1

新しい文化のうち優れたものは必ず、
その国の文化の古層をなにがしかのカタチで反映している。
日本のアニメは発展を続け、古層を十分に反映できるようになった

ヤマトやガンダムは、
漢籍、中国の文芸を基礎にしている。
ヤマトのモチーフは、
目的地到達の物語という意味で、西遊記そのままである。
ガンダムにはシャアという魅力的な悪役が登場するが、
三国志の曹操によく似たキャラクターである。
戦争なくなったら物語の終わりだから、
未来永劫戦争続ける物語である。

宮崎駿は漢籍ではなく、神道の人である。
もののけ姫、あるいはトトロ。
トトロの基本モチーフは、
母に死に別れて泣くスサノオ(メイ)と、
それに困るさつき(アマテラス)である。
母のイザナミは病院にいるが、これは黄泉の国という意味であろう

押井守は仏教である。
自我はあるのか、無いのか、
輪廻転生から解脱できるのか、出来ないのか。
仏教の中でも、上部座仏教である。

大乗仏教に基づいたアニメは、私は見たことが無かったが、
おおかみこどもついに登場した。

作中の母親「花」は、人間の姿をしているが、実は阿弥陀如来である。
作中の狼は、人間である。
如来・人間という関係を、ワンランク下げて、
人間・狼という関係で表現している。

雨は結局、仏の道を選ばず畜生道に生きることに決めた。
それでもなお阿弥陀様はその生き方を認めてくれて、
遠くから狼の声に耳を傾けて下さる。

「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや狼おや」

弥陀の本願信ずべし、である