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2018年12月14日金曜日

「豊饒の海」追記16

第三巻「暁の寺」の前半部分は、タイとインドである。
三島は太平洋戦争を直接描くことはせず、タイとインドへの旅行記にとどめた。
おそらくその「暁の寺」の影響を受けた作品が、
松本清張「熱い絹」(1972年)である。

「熱い絹」は、タイのシルク王、ジム・トンプソンの失踪事件を扱う。
ジム・トンプソンはタイでシルクを扱うブランドを立ち上げた人物だが、
当時のOSS、すなわち今日のCIA上がりのスパイで、
人脈を生かしてビジネス的に成功するのだが、
1967年なぞの失踪をとげる。今日まで遺体は見つかっていない。

以下ネタバレになるが、
「熱い絹」の今一人の重要人物は、マレー侵攻作戦のときに現地に取り残されて、
その後現地人として生きた元日本兵である。彼は人々に故郷静岡の茶の栽培を教え、最後は自決する。「豊饒の海」の裏登場人物であってもおかしくない設定である。
ここで取り上げられているのは、イギリスのインド洋支配→日本軍の進駐→アメリカ勢力圏への編入という、東南アジアの歴史そのものである。別に作品としての品格は高くない。いつもの松本清張である。しかし、着眼点はすばらしい。当時の日本人でジム・トンプソン失踪事件に注目できた人はほとんど居ないだろう。

三島は松本を嫌った。激しく嫌った。ひとつには松本がいわゆる気取った文化人を悪く言うからでもある。同時に、おそらく三島の中でも、松本の文章こそがこれからの文章だろうという、予感があったのではないか。今日三島風の文章を書く人はほとんど居ないが、松本風ならわんさか居る。本人たちも意識せず、松本風文章を書いている。文体の影響力としう意味では、三島以上の存在である。それを好むと好まざるとにかかわらず、これは認めなければならないだろう。

そして着眼点も、三島に続いてすばらしい。「暁の寺」の舞台が華北でもなく、華中沿岸部でもなく、東南アジアおよび南アジアに設定されていることは、三島ファンにももう少し重要視いただきたい。批判者はしばしば最大の理解者になるのである。

2018年12月13日木曜日

「豊饒の海」追記15

どうも未だに、ラストシーンの意味についての議論が盛んなようである。私なりに説明してみる。

本多繁邦は綾倉聡子に過去の記憶をすべて否定される。
「それも心心でっさかいに」
記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思つた。

というのが「豊饒の海」のラストである。ポイントを押さえれば明快に説明できる。

1、元ネタの「ニーベルングの指環」のラストを参照する
2、輪廻を基本に考える


1、元ネタの「ニーベルングの指環」のラストを参照する
「ニーベルングの指環」は、ブリュンヒルデが指環を持って火の中に飛び込み、同時にヴァルハラ城も炎上し、神々の世界が一旦終わる。終わった後に「愛の救済の動機」が奏でられ、新たな生と、あらたな世界の生成が予感されて終幕する。

この終末が「豊饒」に受け継がれたと考えるならば、新たな転生が、より良い転生が待っている。

2、輪廻を基本に考える。
本多はここで死ぬ。死なないにしても、長生きした主人公の人生そのものはいったんここで否定される。すると今度は、本多が転生する。後述するようにそれは第一巻の滝で死んでいた黒い犬なのだが、もしも時系列をループさせないならば、あらたな人間として生まれ変わるはずである。本多の人生は、大きく金をもうけて、晩年青年にいじめられた、というだけでさのみ大きな事件のなかった人生だった。しかし飯沼茂之を援助したりして、実際安永も援助はしたわけだから、功徳はそれなりに積んでいる。積んでいるから転生先はもうすこし良い身分である。豊かかどうかしらないが、少し魂がハイグレードになっているはずである。

本多をいじめた安永は、第一巻でモグラとして登場する。松枝につまんで池に捨てられる。同様に、本多も黒い犬となって登場している。こちらは門跡に供養される。
ほかの転生は、飯沼勲が第四巻で変態ナイフ男になって登場、松枝もやさいくず爺さんとなって登場である。つまり、松枝、飯沼は文句なしに劣化版転生、本多、安永は時系列どおりに解釈すれば、アップグレードして転生している。つまり転生がプラスになるかマイナスになるかは人次第である。だから本多も次は虫に生まれるかも知れず、菩薩に生まれるかもしれないのだが、本多だけの持つ属性は、「門跡に供養される」である。第四巻のラストシーンも、事実上門跡の供養なのだから。

ところで門跡とは、皇族が出家してなるのが普通である。聡子は皇族ではないが、皇族になりかけて出家した。門跡が供養するとは、いわば準国葬なのである。国家全体に貢献したもののみが国葬を受ける。本多はそこまで国家全体に奉仕していないが、飯沼のように国家を憂うものを助け、タイ王子との外交も尽力した。単純素朴な暴力漢でもなく、エゴと美意識のみの貴族でもない、平凡な住民だが、それなりに社会に貢献した。そして最後に、癌の老体に鞭打って、汗だくになりながら参道の坂道を登りきった。坂の上の青い天に、一朶の白い雲がかがやいていたのかどうかはいざしらず。

本多は三島自身でもあり、近代の日本人そのものだが、三島は自分と日本人に十全ではないまでもそれなりの評価をしていたことになる。自分は死ぬ。近代日本は死ぬ。転生した来世は、もうすこしでも良いことになればよいな。素直で純粋な心を持った小説家。

2018年12月12日水曜日

「豊饒の海」追記14

以下のようなことは三島の全作品を読んでから判断することだが、私が三島の全作品を読む見込みは全く無いので、性急な判断をさせていただく。

三島は、「銀河鉄道の夜」や「斜陽」のような作品は、おそらく内容読み込めていない。なんとなく凄さはわかっていたと思われるが、それらの尖がった小説実験理解できていない。

「人間失格」はおそらくだが意味がわかっている。「絹の明察」も天皇が主役である。

「闇の奥」はおそらく読めている。全体の登場人物戦略と、ニーベルングの指環を背景にした作品があるということを、読めている。優秀である。

実はほとんどのイギリス文学研究者は「闇の奥」を読めていなかったはずである。いくつか解説を読んでみたが、まともな読み解きはなかった。「闇の奥」を下敷きにした「地獄の黙示録」もほとんどの映画批評家が内容読み解けていなかった。「闇の奥」理解はかなり大きなポイントなのである。これを読めただけで、三島は一級品である。

そしてもっとも重要なことは、「ニーベルングの指環」が通貨発行権を扱うドラマだということを理解していることである。さすがは元大蔵官僚である。この点で、三島はフィッツジェラルドや宮崎駿と並び、コッポラやタランティーノの上にゆく。

文芸研究家、評論家に比べれば、作家はたいてい「読める」。読む能力が高い人が多い。もちろん読めない人もたくさんいるが。
その「読む」という才能だけで言ったら、三島は宮沢賢治や太宰治より確実にワンランク下である。細部をレトリックかけてこねくりまわす悪癖が災いしている。しかし宮沢、太宰に負けても不名誉ではない。連中はどうも(田舎者だけあって)動物的超能力で読む部分が感じられる。現代日本では絶滅した人種である。人間というより原始的生物という感じさえ受ける。

(私はもちろん読み解き能力三島よりはるかに下だが、章立て表や登場人物一覧表の作成によって整理できるから、人の読み解き能力を判別する資格はあるだろう)

残念ながら「読み込む」「読み解く」という世界をまるごと知らず一生を終える文学ファン、文学研究者、文学評論家が大部分である。非常に優秀な頭脳が、「読み解く」ということをしらないまま、無駄に消えてゆく。もったいない。「読み解く」という世界がある、ということさえ認識すれば、実はその瞬間から三倍くらい読めるようになっているのである。しかし「その世界がある」ということをテコでも認めようとしない。なかなか世間に広まるまで時間がかかりそうである。

話し戻って、三島は、通貨発行権の問題をかなり高水準で理解することが出来た。通貨発行と経済的困窮との関係、インド洋の海洋利権、これらは今日でも十分通用する議題である。つまり三島は今日の作家なのである。しかし、話題になるのは三島の愛国心だけで、三島の優れた見識ではない。切腹は確かに重要なイベントだが、切腹評論ならば三島以外にも対象は居る。話題にしなければならないのは三島の見識のはずである。

ではなぜ見識が話題にならないか、それははっきり「豊饒の海」がさほど理解されていないからである。せめて「闇の奥」だけでも十分理解されれば、三島の努力も十分報われると思うのだが。

言い換えよう。むやみに神格化されず、冷静に三島の能力と努力を判定できるようになれば、日本もよい国になれると思うのだが。

2018年12月11日火曜日

「豊饒の海」追記13

NAVERに「豊饒の海」をまとめて2年以上経過したが、最近やけに豊饒が話題にのぼる。
日本の右傾化に関係があるのだろう、いや右傾化して当然と思っているのだが。
流れに乗っていろいろ書きたくなった。

「豊饒の海」追記11
https://yomitoki2.blogspot.com/2016/04/11.html
にも書いたのだが三島由紀夫は戦争に行っていない。
戦争体験ヒエラルキーとしては、かなり下である。丙種不合格だったはずである。
しかし、当時の人間でもそれより以下は居る。
黒澤明は、戦争体験という意味では、三島由紀夫以下である。

黒澤明のインタビューがながらく見つからなかったのだが最近再発見した。
インタビュアーは大島渚。
45分ごろから。

https://youtu.be/rdTztiOZa_4?t=2744

「検閲官の前に立ったら、黒澤勇さんの息子さんですか」と聞かれて、「軍隊に入るだけがお国のためじゃない」「お兄さん(騎兵に入って怪我をした)はお気の毒だった」「兵隊でないほうでお国のために尽くせ」って言われて、最後のところに入ったら「あんた兵役関係ありません」って言われて、点呼もないんですよ」
「横浜の空襲の日に点呼があって行ったら、全部馬鹿とかたわ(ママ)みたいなひとばっかりで」

要するに、父が軍関係者で、兄が軍で怪我をしたもんだから、徴兵されないようになっていた、ということらしい。
そんな黒澤は、自分が生き残ったことを終生気にする。

https://youtu.be/Ryg5K4qGHD4?t=2720

「おまえたちと一緒に死にたかった」

黒澤映画が、細部では映画史上類を見ないエネルギーを持ちながら、しばしば全体として流れが悪く、すっきりと楽しめないものになっているのは、彼の「生き残ってしまった」コンプレックスが原因だと思っている。

三島もしかり。三島も国の将来を憂い、憂いこうじて最終的に自分の命を絶つのだが、徴兵検査不合格の瞬間はともかく、その後の人生はさぞかし苦しいものだったのだろうと想像する。おかげで我々は文学の大作を享受できるのだから文句は言えない。しかし黒澤と同じく、細部のレトリックに惑溺して全体がスムーズに流れないのは、黒澤と共通する精神状態があったのだろうと考えている。

2016年4月20日水曜日

「豊饒の海」追記12

作品を読むには、細部の検討まもちろんだが、全体のフレームを読む必要がある。ところが高校の現代国語で扱うのが全体のフレーム、構成ではなく、この言葉がどこにかかるか、みたいな細部ばかりである。そして、全体が読めない人間が大量生産され、自国の文学さえ楽しめなくなる。これはもはや、犯罪である。元来文芸が発達いた国である。国語が得意だろうが苦手だろうが、文学作品くらいだれでも楽しめるはずである。でも楽しめない人が多い。現代国語に毒されているのである。


「鏡子の家」という作品が三島にある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%AE%B6
に解釈が色々載っている。かなりひどい。
最後に七匹の犬をつれて主人が戻る。七匹の犬とは北斗七星である。北斗七星は北極星を守る存在である。北極星の中国名は天皇星である。つまり不在だった主人は天皇である。それが、この作品の理解の第一歩である。

「音楽」という作品もある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3%E6%A5%BD_%28%E5%B0%8F%E8%AA%AC%29
麗子の兄との近親相姦。これはアダムとイブの近親相姦を下敷きにしている。その麗子が兄の子を抱いて、聖母マリアのような顔になる。つまりこれは、旧約聖書創世記と、新約聖書をドッキングさせた作品なのである。間のショートカットが大胆だが、三島なりにキリスト教世界を日本の日常に翻案した作品である。


物語とは、主語と述語の順列組み合わせではない。物語は過去に存在し、発展しながら現在まで生き残った人類文化である。ある程度以上の見識を持った文学者は、かならず過去の作品に取り組み、吸収し、解体し、再構築し、読者に届ける。
作品全体の構成から見れば、この物語の進化の樹形図と、その図の上における位置が明快に見える。それを手がかりに、細部を読み解いてゆくのが正しい読み解きである。


「豊饒の海」は上記2作品より手がかかっている。それだけ読み解きには手がかかったが、これは別に特殊技能ではない。手間さえ厭わなければ、だれでも読み解けるし、理解して楽しむことができる。それが多く人々に広がれば、日本文化はもっと良くなるだろうに、「現代国語」が邪魔しているように、私には思える。

2016年4月19日火曜日

「豊饒の海」追記11

「豊饒の海」のくだらなさ


というページにあるように、「豊饒の海」最大の弱点は、第四巻「天人五衰」にある。美しい恋愛も、血沸き肉踊るテロもない。ようするに三島は、ニュートラルになってしまった戦後日本の成れの果てを描こうとしたわけだから、ここを面白くするわけにはいかない。面白いと整合が取れないのである。私も大変退屈した。
しかし実際には、江戸時代の太平も、この「天人五衰」以上になんにもない時代だったわけで、それでも今日江戸時代を顧みれば、文化の発展は十分にあり、興味深い時代である。同時代の清朝、ムガール、下手をすれば大英帝国の住民よりも、一般庶民の生活としては恵まれていたのではないか。
ドナルド・キーンが「幕末の時点で、日本の庶民のほうがイギリスより豊かです。服を数着もっていましたから」と言っているのを読んだことがある。もともとさのみ戦乱がなく、平和で豊かな土地なのである。それでも三島が戦後日本のテンションの低さにあせったのは、三島の戦争体験ヒエラルキーの低さによる。


S級:石原莞爾、坂井三郎などの英雄
かれらは太平洋戦争でのバラモンである。「東條の馬鹿が戦争指導したんだから、そりゃ負けるだろう。東條とやって負けないほうが難しいわ」と、石原は思っていたはずです。「俺くらいの天才が20人位いれば、負けてなかったな。しかしなかなか存在しないから天才なわけで、しょうがないな」と坂井は思っていたはずである。ようするに、彼ら個人の中では全然負けていない。全然堪えていない。


A級:Sよりは下の存在である。会田雄次などの実戦経験あり、しかし敗北した人である。砲弾をかいくぐった。上手くゆきそうなときもあった。でも負けた。もう少し装備が良ければ、という気もしている。手応えがあった時もあった。かれらは、そんなに自信を喪失していない。負けて悔しいが、苦しいが、出来た部分があったのが救いである。


B級:司馬遼太郎、山本七平などの、実戦経験ナシ、そのまま帰ってきた組。だいたいそんなに敵には遭遇しないのである。兵隊の6割は戦病死、餓死である。それが前回の戦争の実情である。準備だけして、敵に遭遇せず、そのまま負けたのだからフラストレーションは最大である。生涯悶絶して太平洋戦争を思い出す人々である。大変である。


C級:三島由紀夫など、そもそも徴兵検査に合格しなかった組である。昔の都会人と田舎人は、体力が全く違う。田舎だと「軍隊はなにも苦労のないところだった」。都会人だと「軍隊は地獄だった」となる。それくらい昔の田舎の生活は、労働過多、栄養不足だった。三島のような文弱は、採用しても無駄だから合格しない。三島は喜んで帰郷したそうである。しかし、のちのち生き残った自分に罪の意識を持つ。


しかし、これでさえ最下級ではない。


D級:黒澤明が、この疑いを持たれている。徴兵逃れをしたのではないかと言われている。


しかし世界的名声という意味では、D級が最大、C級がつぎ、S、A、B級は日本人しか知らないだろう。そういう意味では国家に貢献しているとも言える。
三島はテンションが高い。しかし最もテンションが高いのは黒澤である。今日の視点から見れば、彼らが従軍しなくてよかったなと思う。従軍してたらもっとテンション低くなったろう。


「豊饒の海」作中、新河男爵という人物が登場する。河の流れが人物になっているのだから、だんだん流れが緩くなる。諧謔が鈍くなる。その果て、河が終わったところから始まるのが、「天人五衰」である。大汗かいて努力して、三島はわざわざ面白くない小説を書いたのである。と背景がわかってさえやはり面白く読めないのだから、これは三島の能力をたたえるべきか、たたえないべきか、私にもよくわからない。

2016年4月18日月曜日

「豊饒の海」追記10

第二巻「奔馬」で佐和という名前の中年男が出てくる。佐和とはすなわち沢という意味である。つまり水族である。飯沼勲に大変大きな影響を与える。危険な右翼である。
そして第四巻「天人五衰」に古沢という大学生が出てくる。安永の家庭教師である。安永に左翼革命思想を吹き込む。安永が本多に告げ口したものだから、古沢は首になる。
どうして本多は古沢を首にしたのか。それは「奔馬」の時とは本多の状態が変わったからである。奔馬の時は本多は、貧乏ではなかったが金持ちでもなかった。「天人五衰」では彼は、大金持ちになっているのである。だから安永が革命思想に目覚めると、殺されるのは自分である。だから革命思想を吹き込む古沢を、首にしなければならなかった。
もっとも、そんなことをしてもやっぱり安永は本多を潰してしまおうとするのであり、結局本多の思い通りにはならない。というより、よりいっそう質が悪くなる。飯沼は弱い者いじめをするようなキャラではなかったが、安永は百子をいじり倒し、本多を鉄の棒で殴る。目的を失ったエネルギーの劣悪さが描かれている。
これは、三島が戦後左翼に抱いた感想そのものである、と同時にヴォータンとジークフリートの関係を、上手に模写している。ヴォータンは自分の孫であるジークフリーに、権力の象徴である槍をおられて、すごすご逃げ帰る。そして結局ヴォータンの野望はジークフリートの死によって完全に潰え、本多の野望も安永の失明によって完全に潰える。金を追求しても、最後はヴォータン、本多のようになるのである。


「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。」


三島由紀夫の言葉である。もっとも三島は、日本を信じる気持ちが少々小さい。自信ががなさすぎる。


「ねえ、つくる、ひとつだけ覚えておいて。君は色彩をかいてなんかいない。(中略)君はどこまでも立派な、カラフルな多崎つくる君だよ。そして素敵な駅を作り続けている」


日本は大きさの割に海岸線が長い、多崎な国である。そしてものづくりが好きだ。そして鉄道は最も発達している国である。村上春樹のこの言葉は、三島に優しく語りかけているように、私には思える。


「大丈夫、大丈夫、大丈夫だったでしょう? 全然ニュートラルでも、中間色でもないでしょう? レイプ狂といういわれなき誹謗も晴れました。みんなわかってくれています」


多崎つくるは高校時代、仲良し5人組の一人だった。ちなみに、満州国のスローガンは、「五族共和」である。そんな本がベストセラーになるのだから、三島も草葉の陰で、安堵していると思う。


書いててやや感情的になってきた。以下も感情的である。


「魔法少女まどかマギカ」を見終わって、「ああ、この作品を太宰、安吾に見せてやりたい」と思った。彼らが取り組んだ西洋文明と日本という問題を、現代のアニメで、いともやすやすと表現出来ている。脚本も優れているし、ついている音楽は劇付随音楽としてはワーグナー以来の出来である。(個人的には、ロータもマンシーニも武満も久石も、まどかの音楽にかなわないと思う)。連中は酒と麻薬と覚醒剤で、ドロドロになりながら書いて、死んでいった。その努力は無駄にならなかった。きっちり後をつぐ人が出ている。
三島もしかり。渾身で書いた作品を、きっちり読んで理解してくれる後継者が居る。後継者は、三島以上に世界的に売れている。素晴らしいことである。


「今の日本文学は」とか、「そもそも日本文化には」とか、文句を垂れる連中は大勢居る。ふざけるんじゃない。読めもしないくせに大きい顔して文句を垂れるな。村上春樹もいれば、村上龍も、少し世代は上だが筒井康隆も居る。若い人で才能あるのは、もっと沢山居るだろう(私は詳しくないが)。奇跡の国の奇跡の時代に生きて、感謝の気持ちが持てないのなら、始めっから小説なんぞ読まなきゃいい。







2016年4月17日日曜日

「豊饒の海」追記9

暁の寺の構成について説明する。暁の寺は、前半、後半の二部に分かれている。
後半にはジンジャンと姉が来日して、色々引っ掻き回す。
その前に、別荘が完成した際に、本多夫妻は、慶子、今西、槇子、椿原夫人と6人で車に乗って浅間神社へお参りに往く。その時の振り分けは、本多夫妻と慶子が同乗、今西、椿原、槇子が同乗である。この集団も、対になっている。






本多はその朝、本朝文粋を読む。天女伝説である。
「白衣の美女二人あり、山の頂に並び舞う」
これも対になっている。


さてここまで説明すると、だいたい全体像が見える。
「暁の寺」は、全体が対句構成でできているのである。本多に対応するのは今西である。つまり、本多の妄想の世界「豊饒の海」全体に対応するのが、今西の「柘榴の国」である。今西は本多とキャラがかぶる。今西は本多の敵である。

そして、本多別荘に火をつけたのかだれか理解できる。運転手松戸である。今西の寝煙草というのは嘘である。松族は常に本多の見方なのである。火事で焼け出されたはずだのに、腕時計とズボンを履いている以上、彼が犯人である。同時並行的に存在する「妄想世界の王様」を、忠実な運転手は葬ってくれたのである。本多は「奔馬」では、飯沼勲を上手く使って蔵原を暗殺させた。「暁の寺」では今西を暗殺したのである。


暁の寺の作中、巨乳が月に譬えられる。そして月光姫のジンジャンは巨乳である。今西は巨乳のブラジャーを拾って、椿原夫人に怒られる。本多の妻も巨乳を憎む。そして月を、つまり巨乳をほしいままにするのは、やはり松族の久松慶子である。天之羽衣伝説は、徹底して下敷きにしているのである。





「豊饒の海」追記8

詳細な分析に必要な章立て表とは、以下のようなものである。




これを、豊饒の海4作すべてで作る。手間と言えば手間である。しかし大作を何十回も読むよりも、この表をつくって数回読むほうが、明らかにハイスピードに、かつ詳細に研究できる。もっとも短編、中編ならば作らなくてよいが、文庫本1冊まるまる使う作品より長い大作の場合には、章立て表作成と読み解きは、ほぼ同義である。


このような表をあまり見ないということは、ぶっちゃけ、さほど文学の研究はされていない、と言ってさしつかえないと思う。読んでいるようで、読み飛ばしているのである。理解しているようで、理解出来ていないのである。なぜそうなのか。それはみんなが、「詳細に読み込む」という世界を知らないからである。このへん国語教育の欠陥である。


数学は違う。関数y=ax+bがどういうグラフになるか、中学生の時に作図したはずである。つまり、耳と目、両方で理解しようとする。上記章立て表は、グラフに該当する。目を補助的に使うことにより、だれでも簡単に全体像が見渡せるようになるのである。


三島は優秀である。非常に頭が良い。私の頭はそれほど性能が高く無い。そんな私が三島を理解しようとしたら、なにか道具を使う必要がある。同じ100m走では絶対に勝てないのである。背中を押してくれるなにかが必要である。こんにちエクセルで章立て表を作るくらい、だれでも出来る。たいした道具ではないが、それでも十分三島と互角に戦えるようになる。「豊饒の海」を書くために、三島はノートを30冊作ったという話がある。これくらの表を作るくらいは、研究するなら当然である。そして幸いなことに、三島の時代にパソコンは無い。

2016年4月15日金曜日

「豊饒の海」追記7

作品は単独では存在しない。かならず前後に親族を持つ。持たない作品は駄作だから勘案する必要がない。


私達は進化論を知っている。古代の化石たちを知っている。どのような生命が繁栄し、どのような生物が滅んだかしっている。一時期繁栄した恐竜は絶滅した。しかし恐竜は記憶に残っているだけ幸福な方で、膨大な数の種が、化石ににものこらず、忘れ去られたままになっているはずである。しかし、それら全てを勘案する必要は無い。究極的に言えば、人類がどのように進化、発展してきたかが興味の90%であって、恐竜を含む全ての絶滅種の知識は、それへの補助線にすぎない。文芸も又同様である。
重要な作品は存在する。さほど重要でない作品も存在する。ここで言う重要とは、人類社会にとって重要という意味である。特定個人にとっての重要性はここでは関係無い。そして重要な作品は、十分解明されなければならない。重要でない作品を解明してももちろん良いのだが、解明されなくてもさほどの損失にはならない。重要さの指標は、もちろん発行部数である。そして、どのていど派生作品を生んだか、である。


ワーグナーは、重要な存在である。オペラの部門では絶対的な存在であり、専用の劇場まで存在する。良くも悪くもドイツ文化の頂点である。そして、実は現代の映画など映像作品の根源にあるのが、ワーグナーである。映画を絵だけから分析したがる映画批評家は、反省しなければならない。そして、実をいうと、ストーリーをまともに分析した映画批評も、実はほとんど存在していない。映画は統合的な芸術である。絵画、演劇、文芸、そして音楽が含まれる。






ワーグナーの重要性を理解し、まじめに取り組んだ作家が、三島由紀夫である。五味康祐という剣豪小説を書いた人も、ワグネリアンでまじめに取り組んでいるらしいが、作品は遺憾ながら読んでいない。さほど後世に影響を与えていないからである。三島は違う。私は三島が好きではないが、保守、右派が日本に存在しつづけるかぎり、読まれ続ける存在である。ならば、ワーグナーもそれなりに研究されなければならない。しかし、多くの読書人がワーグナーと三島の関係を軽視しすぎた。


軽視しなかった人も居る。三島を好む、右派、保守からかならずしも支持されているとは言えないが、村上春樹である。たとえば羊をめぐる冒険は、三島由紀夫に死の日から始まる。つまり、「豊饒の海」の完結の瞬間から始まるのである。作中のテレビには三島の姿が映されている。音声が壊れて声が聴こえない。そして、別のシーンでは二羽の鳥が飛び立つ。
二羽の鳥とは、「ニーベルングの指環」にでてくる、ヴォータンのはなった見張り役である。自分の孫ジークフリートの運命がどうなるか、ヴォータンが気になって二羽の鳥を派遣したのである。悪い予感はあたって、ジークフリートはあえなく殺される。そして、二羽の鳥が空に飛び立つ。ヴォータンの時代の終焉を告げに、飛び立つのである。「羊」における頭の中に入ってくる羊は、ほぼ「指環」の指環そのものと考えて矛盾が無い。


すでに、「村上春樹の隣には三島由紀夫がいつもいる」という本が出版されている。
http://www.amazon.co.jp/dp/B00K1U9MJY/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1
適切な見解である。しかし注意しなければならないのは、村上は単に三島を意識したのみならず、三島を読み込み、豊饒の背後に指環があるという洞察を持っているということである。良い本であるし、同感である部分が多いのだが、読み込みの精度が村上や三島から、大きく劣っているというのが、偽らざる感想である。
著者は、まず村上や三島の作品を、もっと詳細に読み込まなくてはならない。著者はどう見ても私の数十倍の読書量を持つ人物である。詳細な読み込みの世界があると認識し、そして章立て表、人物評を作成しながら読みこめば、私などどとは比でない速度で解明できるのは明らかである。
その上で、村上の背後に三島が居るならば、三島の背後になにが居るか洞察しなければならない。著者の言うように、村上春樹は三島の正統的な後継者である。ワーグナーの音楽で映画を作った人物と、小澤征爾と対談集を出す人物。


逆に言おう。三島と村上が、世界で読まれるのは当たり前である。世界は白人が支配している。ワーグナーは白人の文化の一つの頂点である。それを下敷きにした日本の作家は、それを下敷きにしない日本の作家より、世界の人々にとって理解しやすいはずである。三島も、村上も、いわば他人の土俵で相撲をとった力士なのである。ジブリの宮﨑駿もそうである。だからもっとも「ニーベルングの指環」的な「千と千尋の神隠し」はベルリン映画祭でグランプリを取れた。三島も村上も、ワーグナーが著名であるかぎり、世界中で読まれ続けるのである。
日本の本当に恐ろしいところは、この吸収能力である。強靭な歯で噛み砕くのではなく、なにかベッタリと胃液のようなものをかけて、ゆっくりゆっくり消化し、やがで完全に吸収する。ドイツで「ニーベルングの指環」を下敷きに、どれほどの作品が再生産されているのか、私は知識がないが、しかしあまりされていないだろうなと思う。日本ではしっかり生産されているのである。文芸でも、アニメでも。



2016年4月14日木曜日

「豊饒の海」追記6

聡子の綾倉家、そして留学生会館(今日の国際文化会館と思われる)は、麻布の鳥居坂にある。一応現地に行ってみた。かなり急な坂だった。
鳥居坂というのは、


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85%E5%85%83%E5%BF%A0


鳥居彦衛門の名前をとって鳥居坂というらしい。三河者の忠義の代表的な人物である。つまりこの物語は、忠義を基礎に成り立っている。


三島は天皇主義者だとよく言われる。しかし、たとえば最後の演説を見ても、武士ということに非常にこだわっている。本当に天皇主義者だったのだろうか?彼の先祖は幕末の能吏、永井玄蕃である。


物語という点から見れば、彼の問題意識はだいたい想像がつく。平家、北条、楠、信長、大阪城まで、武家が滅ぶときは、一族が皆殺しになっている。ところが、徳川家はそうではなかった。小さすごる戦闘で政権が移譲されたものだから、日本伝統の「滅びの歌」が成立していない。ここで伝統が切れかかったのである。そのかわりに、西郷が鹿児島で「滅びの歌」をやってくれた。だから伝統はギリギリ保った。やはり西郷は大物であった。
太平洋戦で「滅びの歌」を担当したのが、特攻隊や戦艦大和である。が、しかしこれも、天皇家に特に被害は出ていないし、本土決戦もしていない。私は天皇が退位すべきだったとも、本土決戦すべきだったとも全く思わないが、物語、という点から見れば、明治維新と太平洋戦争は、伝統的な物語世界の中で、少々尻の座りが悪いのである。
三島が問題にしていたのはおそらく、この点である。太平洋戦争の敗戦も、物語論的な観点ではと表面的な事象であって大問題ではない。日本を成立させてきた武士的なもの、公家や坊主や神官と対になるような存在の、明治維新以降のゆるやかな損失、それによる伝統的物語の不整合を問題としていたはずである。


作中歌舞伎は3作上演される。内容については説明されないが、
ひらかな盛衰記、加々見山旧錦絵(かがみやまこきょうの錦絵)は武家の物語、最後の堀川猿廻しは純然たる町人世界の話である。
ちなみに「ひらかな」は源平合戦が題材、当然忠義の話である。加賀見山は加賀騒動(江戸時代にあった加賀前田家のお家騒動)を題材にし、忠臣蔵を加えて居るが、加賀騒動は元来加賀藩の財政再建が発端、つまり忠義と財政の話である。そして堀川猿廻しは事件の発端が贋金なのである。劇中の上演演目だけで、三島が政治と経済をバランス良く目配りできるのがわかる。最終的に金と市民(町人)の物語に堕する全編を、上演演目だけで表現できているのである。



2016年4月13日水曜日

「豊饒の海」追記5

「ニーベルングの指環」は、毒(あるいは薬、あるいはフライヤのリンゴ)がストーリーを振り回す。それはワーグナーが旧約聖書創世記のエデンの園にある「知恵の木」「命の木」を下敷きにしたからである。


http://matome.naver.jp/odai/2145422365080853401/2145433590004364903




その薬、毒の使用は都合8回ある。


http://matome.naver.jp/odai/2145422365080853401/2145433590004365103


ところで、「豊饒の海」での手紙の出現は8回ある。


















三島は明らかに、「指環」での毒を、「豊饒」での手紙に置き換えてある。
しかし、どうもそれが、バイブルの創世記由来とは気づかなかったようである。
残念だが、それでも最初の2通を最後の2通を対称に書いて、上手に組み立てている。ここらへんは秀才である。

「豊饒の海」追記4





三島の仏教理解に問題があるとすれば、刹那滅論が唯識特有のものだと勘違いしてしまったところにある、と私は思う。というとなにを言っているか一般には理解不能だが、私もよくわかっていないのでたちが悪い。しかしできるだけ説明してみる。刹那滅論についての説明はこちら。


http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/kusharon.htm






ゼノンの詭弁に「飛んでる矢は止まっている」というのがある。飛んでる矢の刹那刹那は、特定の位置に存在している。時速60キロメートルの車は、一時間後には60キロ地点に、二時間後は120キロ地点に存在している。つまり、車は1時間後に60キロ地点に止まっている、という考えである。時間を1分後、1秒後と細かく分けても、やはり特定位置に止まっていると見てさしつかえない、とする考え方である。これは映画のフィルムで考えれば、それなりに納得出来る話で、映画のフィルムの上の画像は、当たり前だが静止している。フィルムを上映すると動いているように見えるが、時間を細かく分ければ止まっている。そして「運動」という概念が否定されるのである。
究極的に言えばこれは、眼と耳の相性の悪さの問題である。目は時間を扱えない。瞬間の連続でしかない。そして耳は時間しか扱えない。目があまりにも優位だと、刹那滅論になる。
実は文明によって目と耳のバランスは変わるのだが、インドは目が優位な文明である。(というより耳優位の文明はイスラムくらいである。西洋でも、イスラムに近いポイント、イタリア、ドイツ、ロシアで音楽が発生した) そしてインドの文化での時間の切れ方というのを最も端的に表現しているのは、輪廻転生である。誰もが生まれ変わって別の生を歩む。生まれ変わる対象は人生の中でどんな良いこと、悪いことをしたかで決まるのだが、人生一回一回は輪廻の度に切れる。この輪廻システムの単位時間(50年くらい)を、極限まで小さくすると、刹那滅論になるのである。なんのことはない、釈迦は輪廻からの解脱方法を説いたが、仏教の教学が精緻化すると、輪廻をミクロにした世界観の中に仏教全体がどっぷりつかってしまった。釈迦が凡人なら草場の陰で泣いているだろうが、ご安心ください、そこは解脱した方なので心配無いものと思われる。
もっとも「仏教とはなにか」を研究する場合には、ここはおそらく最大の躓きの石になる点である。ブッダの弟子を自称する人々が、輪廻的世界観にどっぷりつかろうと言い出すのである。そしてこれは大乗仏教の問題点ではない。刹那滅論は説一切有部、つまり小乗仏教のころからの仏教のほぼ定説なのである。大きく言えば、刹那滅論が出てきた瞬間から、仏教はヒンズー教に負けていた、飲み込まれていたと考えて良いだろう。


さてそこで三島である。写真を見ればわかるとおり、三島は目が優位の人間である。巨大な目をしている。音楽さえも視覚的に鑑賞する、と本人言っていたそうである。そんな三島に、輪廻、あるいはその縮小版の刹那滅論は、無茶苦茶なじみが良かったはずである。そんな興奮が「豊饒の海」にはある。三島は仏教的ではあるが、仏陀的ではない。そして強くインド的である。
我々中村元以降の現代人、つまり初期仏典に気軽に親しめる現代人には、三島は仏教を十分理解出来ていないような感覚が残るのである。しかし、仏教的かどうかと、仏陀の教えに近いかどうかは、ひどいようだが関係無い。仏陀の教えを中心とした思考の総体を我々は仏教と呼んでいるのである。仏教にはキリスト教のような異端審問は存在しない。つまり三島は三島なりに仏教を理解したのである。





2016年4月10日日曜日

「豊饒の海」追記3

三島由紀夫の熱心な読者ではないもので、「潮騒」も「仮面」も読んでいない。「仮面」は人間失格を下敷きにしているという説があるそうである。しかし読んでいないのでなんとも言えない。
そんな私でも、「潮騒」の「炎を飛び越えてうんぬん」というフレーズは見たことがある。普通に考えれば下敷きは、炎を飛び越えてブリュンヒルデの目を覚ました、ジークフリートが原型である。であるならば、最後の大作「豊饒の海」も、ニーベルングの指環を下敷きにしているはずである。日本文学研究者たちは、どこでそれを、つまり読み解きのルートを見失ったのだろうか?


問題の根源は、知識の蛸壺化にあるのだが、それを促したのは、専門家によるあまりにも専門的な用語の使用の氾濫である。通常の人間は、専門家の書いた文学論を読まない。なにを書いているかわからないからである。ひょっとして本人ですらなにを書いているかわからないような晦渋な文章で、ただでさえ難しい文学の論評をする。そうすると、論評される前よりも論評された後のほうが、文学がわかりにくくなるのである。小林秀雄以降の文学評論の多くはそうである。
ところで、人間の脳みその大きさは一定である。少なくともこの数十年間変化は無い。そしてたとえば60年前の人の文学理解と同レベルの文学理解を達成しようと考えると、難しい言葉遣いによってわかりにくくなっている分、60年前の人よりもより多くの脳みそパワーを消費しなければ、同じ地点に到達できないということになる。
そうはいっても、やはり文学研究者であるならば、人に負けるわけにはいかない。無理でもなんでもガリガリ頭に入れてしまう。同じ人間だから、同じ脳みそサイズだから、無理な努力は必ずどこかにひずみを生む。ひずみは一般教養の不足となって表れる。トーマスマンの全著作は読んである。三島も全部読んでいる。それは凄いことである。一方で「ニーベルングの指環」のあらすじを把握していない。それでは実は、「豊饒の海」は読めないのである。三島は、豊富な教養を持っている。すくなくとも「デフレ政策が既得権益者を保護する政策である」ということは、理解できているのである。では今日の文芸評論家の何人がそれを理解したか。
三島は法律でも、経済でも、文学でも、かなりバランス良く理解、目配りできてる。つまり、統合的な知識人である。その三島を研究するひとが、ある程度のバランスの知識を持たず、「三島文学」のみをひたすら研究しつづけるとしたら、それはなんのための研究なのであろうか。それは本当に三島由紀夫の研究なのであろうか。
そして、この諸悪の根源である文学評論の小難しい文体に対する責任の大半は小林秀雄にあるとしても、実は三島由紀夫の小説の文体も、与って罪ある文体なのである。意味もなく小難しく、過剰装飾の文体である。インテリが飛びつきそうな文体である。かれの文体を真似た研究者たちによって、どれほど文学がわかりにくくなったことか、そして、わかりにくくなった作品群には、三島の小説も含まれる。
変な結論が出てしまった。なんのこっちゃ、三島の「豊饒の海」が十分に読解されてこなかった責任は、三島自身にもあるということになる。三島の装飾過剰な文体いあるということになる。そして、小難しい文体で論評をしている人々は、三島の忠実な後継者ということになり、それを嫌う私こそが異端ということになる。読まない人が忠臣で、読んだ人間が謀反人なのである。
つまり三島はおそらく、自分の作品をそんなに読んで欲しいと思っていなかったと思う。読んでもらいたい、人に届けたいという強い欲求を、三島の作品からは感じることが出来ないのである。逆に言えば、三島は自分の中に大きな問題を抱えていなかったように思える。なんでも出来てしまう。なんでも理解できる。マスコミからはスター扱いされる。不足が無い。そんな三島が羨む存在は何もない。
そんな彼が例外的に羨んだであろう存在は、三島のような秀才には決して出来ないことをする、身勝手で、わがままで、情緒不安で、エゴイスティックなエロスを持つ人物、馬鹿に分類されるような人物、ワーグナーと太宰のみだったのではないか。玉川上水の濁流に半分ジークフリート、半分ハーゲンの男が飲み込まれてゆく嫌なイメージとともに、そう思う。





2016年4月8日金曜日

「豊饒の海」追記2

第一巻「春の雪」には動物の死骸が2回出てくる。滝にかかる黒い犬の死骸と、もぐらの死体である。黒い犬は、門跡に供養される。この作品で門跡に供養されるのは、ほかには本多しかいない。となると黒い犬は、本多の死体が時間がループして本多の目の前にあると考えて良いだろう。もぐらは安永である。安永は盲目なのでまず間違いない。可哀想に松枝に池に捨てられる。


今日の読解は、いわゆる芸術的であり、思想的であり、いやどういう言い方をすればわからないが、やたらと凝った言葉遣いでされることが多い。ところが、三島自身はそういう現代思想が流行した時代よりも前の人物である。つまり、そのような言葉遣いで三島の作品を分析しても、かえって分析出来ないということになる。簡略な、簡潔な言葉で分析していったほうが、結果が良い。
難解な言葉を使うということは、考えるスピードが遅くなるということである。時間がふんだんにあるなら別だが、普通の人間は簡潔な言葉で読解をすすめることをお勧めする。簡潔な言葉でも数年かかるのが大作の読解である。難解なことばだと何十年かかるやら。


犬の死骸とモグラの死骸の正体も、作者がなにを達成したかったのか、という疑問から逆算すれば、わりに単純な話である。Naverにも書いたが、「天人五衰」に登場する謎の人物2人についても同様である。


柏倉浩造氏は、三島本人であると理解されているようであるが、単純に考えるならば、作中ナイフを使えるような登場人物は、飯沼勲のみなのである。ベレー帽の老人は本多の二十程度年下で、身軽である。飯沼の分身、としか考えられない。野菜の老人も、松枝の分身という考え方で十分であろう。当然「なぜジンジャンの分身は出現しないのか」という疑問が出てくるが、ジンジャンの分身はジンジャンの姉である。というか姉に三つの黒子があったのだから、本物といいいうるのは寧ろ姉であって、ジンジャンが偽物、分身であっった。ここの本多の錯誤が、全編の転換点になる。そして本多の分身も時間をループさせて第一巻「春の雪」に登場し、安永の分身もループさせて登場する。主な人物は一応全部処理されているのである。



「豊饒の海」追記

http://matome.naver.jp/odai/2146003917202443101?&page=1


長い時間がかかった。最初に読んでから2年以上かかっている。なんとかまとめられた。細かい部分はまだ残るが、とりあえずここで区切りとする。


私自身は、さしたる文学好きではない。文学を専攻していた人間に比べれば、読んだ文学作品は三十分の一くらいだろう。実はそもそも三島が好きではない。読んでない作品のほうが多い。あの文体が気に入らない。読みにくく、読むスピードが上がらない。無駄な装飾に満ちている気がする。最上級の偽物の気がする。それでも、豊饒の海に取り組んではっきり言えるのが、ともかくこのひとは全力を出せる人である、ということである。悲しいほどに、哀れなほどに全力を尽くして、この作品を書いた。敬服に値する。


文学の研究をされている諸氏に申し上げたい。全力で書かれた作品は存在する。才能のある作家が、全力で書いているのである。そのような作品には、礼儀を持って対しなければならない。別の言い方をすれば、読み込まなければならない。


「読み込む」という世界が存在するのである。多くの文学研究者が知らない世界である。なぜ知らないと断言できるか。一覧表を見る機会がすくないからである。
大作ならば、最低でも登場人物表と章立て表、いずれもできるだけ詳細なものを作成しなければ、作品の読み込みは不可能である。フォンノイマンくらいの頭脳の持ち主ならばいざしらず、通常の脳みそでは、才能ある作家の構想は、章立て表や登場人物表を作って初めて浮かび上がるものである。100回読む、10年読む、それだけの理解が、一覧表を作成しさえすれば、数年で、十数回の通読で達成できる。その一覧表をあまり見かけないということは、多くの大学で文学を講じているにもかかわらず、文学作品そのものの研究はあまりされていないはずである。


それでも直感の鋭い人はいるもので、驚くべきことに、豊饒の海がニーベリングの指環を下敷きにしていることを、作家の村上春樹と、漫画家の岡本倫は認識している。それは作品から明らかである。そして文学研究者は認識が不十分である。小耳に挟んだことはあるのかもしれないが、十分掘り下げずに放置されてきた。不名誉なことだろうと思う。




http://www.michitani.com/books/ISBN4-89642-021-7.html
柏倉浩造


この読み解きは名著である。私とは考えが違うが、ジンジャンの入れ替え物語の読み解きは大変参考になった。感謝申し上げる。




http://homepage3.nifty.com/fm-classic-live/027K.html


以下黛さんの発言****「豊饒の海」と「ニーベルングの指輪」の相似性というのは私の友人でこれも死にましたけど矢代秋雄君という作曲家が、いち早くそれを指摘して三島さんの生前のことですけど、非常に三島さんの思想には、ワーグナーに通じるものがあると論文を書いたことがある***
というふうに、作曲家も早くから指摘していた。




実は問題の根源は、ワーグナーにある。「ニーベルングの指環」の台本が、デキが悪いのである。おそらく多くの三島研究者が台本に取り組み、できの悪さに呆れ果てて放棄したはずである。わたしもそうしそうになった。しかし現在では
http://www31.atwiki.jp/oper/pages/1843.html
全編を日本語翻訳して無料で公表してくれる人が居るのである。この方の翻訳がなければ、豊饒の読み解きは不可能だった。




三島は「憂国」の映画でトリスタンとイゾルデを使うほどワーグナー好きである。当時の作家の一つの目標が、ドイツの作家トーマス・マンで、マン自身ワーグナー好きで影響を受けているから、マン好きの三島(たとえば禁色などはほぼヴェニスに死すである)がワーグナー好きになるのは当たり前である。しかしワーグナーの台本読んでつくづく感じるのは、「ああ、この人はソナタ形式書けないはずだ」というものである。構成感覚自体が、あまり良くない。ピリっと締まった密度の高さが、達成できない人なのである。その構成の甘さは、「豊饒の海」にも引き継がれる。