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2010年2月6日土曜日

ニケア信条を読み解く

わたしは信じます。唯一の神、
全能の父、
天と地、
見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主を。
わたしは信じます。唯一の主イエス・キリストを。
主は神のひとり子、
すべてに先立って父より生まれ、
神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、
造られることなく生まれ、父と一体。
すべては主によって造られました。
主は、わたしたち人類のため、
わたしたちの救いのために天からくだり、
聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、
人となられました。
ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、
苦しみを受け、葬られ、
聖書にあるとおり三日目に復活し、
天に昇り、父の右の座に着いておられます。
主は、生者(せいしゃ)と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます。
その国は終わることがありません。
わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を。
聖霊は、父と子から出て、
父と子とともに礼拝され、栄光を受け、
また預言者をとおして語られました。
わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。
罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を認め、
死者の復活と
来世のいのちを待ち望みます。
アーメン。


以上がニケア・コンスタンティノープル信条であり、
いわゆる三位一体教義である。

キリスト教は厳密には一神教ではない。
父(ヤハウエ)と子(キリスト)と精霊の、
3種類の見え方をすることのある、なにかを神とみなす宗教である。
その三種類は根源では一体のはずであるが、
我々人類の認識能力の限界から、
その根源は認識不可能である。
人類が知覚できるのはあくまで、
父であり、
キリストであり、
精霊(これが分かりにくいのだが、
人間に取り付いて予言なんかを吐き出させる幽霊みたいなものである)
なのであって、三神教と一神教の中間形態なのである。

というわけで、ニケア信条を読み解く。
前文は4つに分割できる。

1)
わたしは信じます。唯一の神、
全能の父、
天と地、
見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主を。

(一つ目は短い)

2)
わたしは信じます。唯一の主イエス・キリストを。
主は神のひとり子、
すべてに先立って父より生まれ、
神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、
造られることなく生まれ、父と一体。
すべては主によって造られました。
主は、わたしたち人類のため、
わたしたちの救いのために天からくだり、
聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、
人となられました。
ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、
苦しみを受け、葬られ、
聖書にあるとおり三日目に復活し、
天に昇り、父の右の座に着いておられます。
主は、生者(せいしゃ)と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます。
その国は終わることがありません。
(キリスト教だけあって、キリストの表現になるとやたら長い)

3)
わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を。
聖霊は、父と子から出て、
父と子とともに礼拝され、栄光を受け、
また預言者をとおして語られました。
(これが精霊の叙述部分です。これも短い。)

4)
わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。
罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を認め、
死者の復活と
来世のいのちを待ち望みます。
アーメン。
(これは教会の定めた教会宣伝文句なので、意味はありません)


1~3は全て、
「私は信じます」という言葉で始まります。
それで注目は1の、
「見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主を。」という文言です。

2を見ますと、「光よりの光」ですとか、「その国は終わることがありません」とかの表現が目に付きます。
これはつまり、1の「見えるもの」に該当します。

3を見ますと、「また預言者をとおして語られました」と書いています。
これはつまり、1の「見えないもの」に該当します。
2はつまり、目の世界です。
3はつまり、耳の世界です。
となると1は明らかです。耳と目をつなぐ、脳です。
つまりこの文章(歴史上最も重要な文章だと思いますが)は、
世界を語るわけでもなく、神を語るわけでもなく、
人間の知覚世界について語っているのである。

そこでさらなる分析が必要になるのだが、
私に学識がないのでこれで終わりである。

「カラマーゾフの兄弟」をよみとく 11

このように見てゆくと、カラマーゾフの兄弟には結局3名しか登場人物が居ないということになる。というより3つ程度のキャラクターを立てれば人類のドラマは語れるということになる。だから「童(わらし)」なのである。
ミーチャは夢で見た焼け出された童を強く記憶にとどめ、最終的に「俺は無実だが、あの童のために懲役に行く」と言う。
そう、人類が3種類しかいないならば、ミーチャがゾシマであってイリューシャでもあるならば、焼け出された童もミーチャであり、全ての人間は同一の存在であり、他人が存在しないゆえに、自分に責任のないことも自分の責任であり、自分を愛するが如く隣人を愛するべきであり、自分が罪を背負うことがすなわち隣人の救済にむすびつくのである。万物斉同。
3種類、というのはおそらく、キリスト教の三位一体教義の影響だろう。