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2019年5月21日火曜日

コミュニケーション・サークル・追記4

MMTの方とお話させていただいて、十分伝えられなかったこと

1、MMTに対する報道姿勢、財務省などが悪口言いながらある程度認める態度の背景には、アメリカ民主党への忖度と恐怖がある。ある意味我々はまだアメリカの手のひらの上をグルグル回っているだけである。

2、「アメリカ民主党の風が変わった」ことで日本のマスコミ、学界は大きく変わる。官界も政界も変わる。それは経済に対する理解の深まりというより、恐怖によって。

3、サンダース=コルテスラインで民主党政権になったら、中央銀行システムは大きく変革される。

4、その時瞬間的に、日本も良い中銀システムを導入できる可能性がある、なぜならアメリカ政府の一般国民への説明と矛盾をきたす要求を日本にできないから。その瞬間を逃したら数十年チャンスナシ。変なシステム運用を強いられる。

5、中央銀行システムの研究と洞察を十分深めてその瞬間を待つしかない。しかし現在の財務省や主流派経済学者にそれが可能なのか?答えは明らか。

6、これは太平洋戦争における、航空機エンジンの開発にたとえられるべき知的競争である。「風立ちぬ」みてわかるとおり、油を吹くエンジンしか開発できなかった。今回もそうなるのか。

7、来るべき中央銀行システムは、本位制の残滓を完全に消し去ったものになる可能性が高い。貴金属とのつながりが、名実ともに払拭される。しかし日本、アメリカ、中国、直近のバブルはみな土地バブルなのである。

8、私見では、貨幣は度量衡と暦法時法に挟まれた存在である。

コミュニケーション・サークル【貨幣・言語・音楽】 

つまり実態的要素を完全には消しきれない。しかし一方消しきったほうが明らかに効率が良い。悩ましい。

その考察に残された時間は最短で1年半。2020年には大統領選挙である。

2019年5月8日水曜日

コミュニケーション・サークル・追記3


「沈黙の音楽」というと矛盾した言い方だが、休符で有名な作曲家も居る。
アントン・ウェーベルンである。



面白い曲ではないのだが、オーケストラのための変奏曲、作品30のリンク貼っておく。
休符というか、沈黙メイン、音符は意味不明なものが少々である。楽譜を見ただけで、オーケストラの作業量が驚異的に少ないのがわかる。こういう曲では、楽団員は休符の間数えておくのが最大の仕事となるはずである。つまり沈黙の認識が仕事である。音楽家として究極の業務内容とも言える。


貨幣で沈黙すなわち無音音楽に対応するのは利息である。


雇用・利子および貨幣の一般理論」という書物を書いた経済学者が居る。有名なジョン・メイナード・ケインズである。


ところで、ケインズとウェーベルンは同い年、1883年生まれである。つまり両者の仕事は、密接に関係しているはずである。


もっとも私はケインズを読んでいないし、ウェーベルンもさして聞いていない。発見したはよいが、勉強不足である。展開できない。無念である。後学に期待する。


2019年5月5日日曜日

コミュニケーション・サークル・追記2

貨幣論といえば岩井克人である。
氏の「ヴェニスの商人の資本論」は、古い本だが大変優れている。
その後の著作、考え方には納得いかなかったが、ヴェニスは今でも名著だと思う。

シェイクスピア研究家でも、岩井氏ほど丁寧に作品を読み込むことは、ほとんどしていないようである。読み解きをしている私からみても、並の文学研究ではない。若干牽強付会気味だが、それでも一流といってよい読み解きである。

無論本職の経済学でも優れている。サミュエルソンの助手をしていたくらいである。恐ろしく頭が良い。近年読んだ「経済学は何をすべきか」という本で岩井氏は、「インフレ目標政策がハイパーインフを招くと叫んでいる人々は、貨幣について考えられなかった人です」とはっきり言っている。優れている。現在の貨幣は万年筆マネーであるということも、理解している。この世代では懸絶した見識の持ち主の一人ではないか。

とここまで褒めたのは、ではなぜ岩井氏は復興増税に賛成してしまったのか、ということを考えたいからである。たった一つの過ちで、生涯の業績をふいにしてしまった。

岩井氏は御本人によれば、東京生まれだが両親は島根のご出身らしい。出雲の阿国とは、どこかで血が繋がっていても不思議ではない。出雲の阿国の大衆演劇によって、伊勢の山田羽書発行の下地が作られた。

「なぜ普通の両親から生まれて、教養のバックグラウンドがない自分が、貨幣論なんかやっているのかよくわからない」とは本人の弁である。バックグラウンドはあるのである。出雲の阿国なのである。阿国とはすなわちオオクニヌシ、長い歴史の文化背景があるのである。氏はおそらくそのことの、利益と危険性に気づかないままだった。

人間は個人では存在できない。逃れられない背景を生まれながらに背負う。彼の背後の出雲の阿国がおそらく、同時代のシェイクスピアの読み解きを可能にした。そしてシェイクスピア、阿国により発生した山田羽書にしろ金匠手形にしろ、兌換紙幣なのである。文化は人を支配する。良い方向に誘導もするが、悪い方向に誘導もする。

2019年5月1日水曜日

コミュニケーション・サークル・追記

コミュニケーション・サークル【貨幣・言語・音楽】
https://matome.naver.jp/odai/2155622226434432401
をアップした。自分でもなんだかよくわからん内容であるが、考えの整理としてはそれないりに価値があるのではないかと自負している。逆に言えば、現実的な政策提言としては大して価値がない。残念だか自分の実力なので仕方がない。

唯一まともな政策提言になっているのは、「フォントの重要視」である。今現在も横書きで文字を書いているが、石川九楊氏に言わせればそれは非常に無理があるらしい。なぜなら漢字もひらかなも縦書きを前提に文字が開発されたからである。ハネ、トメ、ハライすべて縦書きを前提に組み立てられている、だから横書きで並べても不自然さがつきまとうそうである。

私自身は自分で書いた文字が自分で読めないほどの悪筆である。縦でも汚く、横でも汚く、斜めでも汚いから差は全くない。それでもパソコン画面でやはり縦のほうが若干読むスピードが上がる。Kindleは縦書きに設定している。それはつまり、現在のフォントが縦書き用のものであり、漢字かなまじり文の本格的な横書き、横読みフォントは開発されていないと考えるべきである。このあたり文化省が研究機関に命じて集中的にデーター集めるべきである。読む速度、誤読率など、大きなデーター集めれば開発方針わかってくる。

未来の横書きフォントは、数字もアルファベットも親和的な、横書きメインのものであるべきである。なぜ世界最高レベルの知的水準にありながら、我々に数値的で理性的な判断が欠落する瞬間があるのか、それはおそらく文中に数字を組み込みにくいからである。英文ならば会計データーを組み込んで違和感がない。縦書きでそれを実現するのはたいそうな手間である。

日本の新聞は縦書きである。改善の見込みが薄い。情弱老人御用達である。人民日報は古くは縦書きであったが、現在は横書きである。知的水準に差が出るのも、むべなるかな。