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2018年9月27日木曜日

経済学

多くの経済学者が、「リフレーション政策は有害無益だ」あるいは「消費税増税は必要だ」と言ってきた。「復興増税」に大量の経済学者が賛成した。彼らの見識の程度は明らかである。ところが彼らは、なんの反省もせず、なんの責任も取らず、今も教職にあって学生を教え続けている。学生こそいい面の皮である。間違った教師から教わるのは、なにも教わらないよりはるかに悪い。間違った教師から教わった学生は、一部の天才と一部の反抗児以外は、全部使い物にならなくなる。時間をかけてお金を払って経済学がわからなくなる努力を、多くの学生が日々積み重ねている。悪夢である。間違った情報のインプットは、ほとんどの場合致命的なのである。

政治学者にもそういった類はわんさかいるようである。おそらく、法律分野でも、歴史分野でもわんさか居る。居るが、まったく改善されない。

諸悪の根源は、私は文学だと思っている。文学理解が不十分だから、思考能力が身につかない。私は文学同様経済も素人だが、消費税のまずさくらいすぐわかる。私の1万倍くらい経済学の知識のある大学教授がわからない。これは私見では、文学理解の問題である。

文学が最低限は理解できなければ、現代社会はどうも理解できないようである。最低限の理解とはなにか。それは「とおりいっぺん読んだだけでは理解できない、重層的なところが、文学にある」ということである。べつに個々の作品を読み解く必要はない。「読み解きが必要な文学がある」ことだけ理解できれば十分なのである。

海外の政治化の多くはそうであるし、日本の政治家でもすぐれた人々は、大変文学的に話す。多義的に話す。裏の意味があったりする。裏の意味があるかどうかの判断は、じつはすべて状況からの類推である。だから証拠はない。単純な発言かもしれない。でも政治家である程度以上力量があるならば、裏の意味をもっていると決めて類推する必要がある。
長期間政治学の勉強をしながら、裏がまったく読めない人が居る。よめなくてもよい、よいが「裏が存在していない」と考えるのは致命的である。類推の習慣を放棄してしまってはいけないのである。しかし、そんなひとが多いようだ。

そんな政治学者のみなさんは、実は大変頭が良い。教養が深い。勉強熱心である。たとえばロシアのことを深く知ろうとして、ドストエフスキーあたりを読む。すばらしいと思う。でも中身はよくわからない。なんでこの作品がすばらしいのかもわからない。そのままでは、実は類推能力は低下するのである。ダメな経済学者に学んだ学生になってしまうのである。では解説書を読む。それが良い解説書なら類推能力は向上する。しかし、そんな本はほとんどないのが現実である。

そして、経済学者も、すべてがデーターから予測できる世界でない以上、類推能力が重要なはずである。類推能力のあるなしは実は文章でわかる。文章の良い人はだいたい予測をはずさない。消費税増税が必要、というひとの文章は文章の体をなしていないことが多い。おそらくまともになにかを鑑賞したことがないのだろう。鑑賞したあと咀嚼、消化した体験がないのだろう。彼らは人類文化のメインストリームから疎外されたまま、延々とに学問しつづける。その学問対象が、理系の、純科学的なものであったら問題ない。だが経済学は所詮は、人類社会を研究する分野なのである。

2018年9月26日水曜日

深堀

普通文学の研究をする人は、まずその作家の全作品を読み、周辺の作家(たとえば太宰なら井伏や坂口安吾や川端や志賀)をできるだけ読み、作家の人生を調べ上げ、全集をさらに数回読んだりする。すばらしい努力量である。私には出来ない。敬服に値する。

しかし全員がそれをやりだすと、特定作品を深く読み込む人がいなくなる。実際あんまりいないようだ。観測できるのは、今は下火になったが一時期のロシア文学者と、現在の英米文学者である。英米文学研究者はさすがに人材が豊富なようで、少数ながらそういう人が居る。

遺憾なことに国文学かいわいにはほとんど生息していない。ひとつには、周辺の事象や作家を調査するのがあまりにも容易なので、そちらの調査に嵌ってゆくのだろう。それはそれで、悪いことではない。
周辺事象の調査は永遠に価値ある知見だが、深堀はより深く掘った人間が出現した時点で、研究としての価値がなくなる。むなしいといえばむなしい。マジョリティーになることは、おそらく一生ないだろうと思いながらやっている。

しかし喜びがあるから続けられるのである。やめられなくなるほどの楽しみがある。それはその作品を読めることである。

深堀り派以外の人間でも読むことは読める。しかし、その作家のすばらしさ、その作品のすばらしさは、深堀しなければ十分には理解できない。当たり前である。逆にいえば、全集何度も読む、といった作業は、実はたいして面白くないはずである。作業量的に、さのみ深くは読めないからである。そんなことをしていたら人生終わってしまう。

つまり、二者択一なのである。広く浅く読むか、狭く深く読むか。人間の能力は有限である。両方やるには人生80年では足りないのである。

社会にはどちらの人間も必要だと思う。しかし現実には深堀り派はほとんど生息していない。おそらく学校でまったく教えられないからである。たいてい、先生も、その先生も、そのまた先生も、「深堀する」ということじたい知らない。優秀な弟子ほど先生に忠実だから、深堀派は不利である。
それでもなんとか深堀派が増えればよいなと思う。深堀は良い。大量に作品を読まなくてもよい。怠け者の道である。同じ作品を深く読むだけだから、記憶力があれば空いた時間に手ぶらで研究ができる。なければ章立て表つくって見るだけでも研究にはなる。アマチュアには最適である。

今日の日本には文学科出身のひとは大量に存在しているはずである(私は違うが)。作家の周辺事情の研究にうんざりした人も多いのではないか。私はゴシップ研究家ではないと思った人も居るのではないか。そんな方はネタはなんでもよいから、時間はいくらかかってもよいから、好きな作品を、深く読むことをお勧めする。10回程度読み込めば、その作品の理解度は人類のトップ1%くらいにはなれる。同じ作品を30回読むひとはほとんどおらず、100回よめばライバルは数人程度である。マイナー分野の喜びである。碩学といわれるひとも、たいてい深くは読んでいないのである。

2018年9月22日土曜日

斜陽3




なぜ東北にこれほどの才能が出現したのか。

石川啄木:1886
十年後に
宮沢賢治:1896
十三年後に
太宰治:1909


仮説を立ててみた。


1、文化の僻地
明治維新は文化輸入期である。
既存の旧文化が潤沢であるほど、新しい文化は導入しづらい。
秋田、岩手、青森にはいわゆる日本文化が十分にはなかった。
だから彼らは、西洋文化にいち早く対応できた。


2、鄙(ひな)の自信
田舎者と書くと怒られそうなので、鄙と書く。東京大阪に比べれば、東北は田舎である。東北人は一見地味で控えめで大人しい。しかしどうも日本有数の自信地方である。口には出さないが自分を信じる気持ちが大変強い。そういう田舎もの特有の気の強さがプラスに作用した。


3、賊軍
文化は常に政治の本流以外のところから出る。
例えば夏目漱石は江戸の名主さんの家系である。名主とはまず田舎の庄屋さんと思って間違いない。一般庶民ではない。よいお家である。夏目漱石の先祖は三方原で家康の身代わりになって死んでいる。そんな家系だから明治政府ははっきり気に食わない。そういうところから文化が発生する。
明治維新は、薩長の征服政権である。私はそれを肯定するが、東北が被害者であるとする見方もまた正しいと思う。そんな人々が、新しい文芸を生むのは、社会の生理的反応である

どの仮説もそれなりに正しそうである。

2018年9月21日金曜日

斜陽2

太宰はなぜが女性言葉が得意だった。「かず子がっかり」とか、一部に不自然なところはあるが、「斜陽」もまず上手に女性言葉で書かれている。

読み解きをする立場からはこの女性言葉がじつにやっかいで、女の言葉のごとく、ぐにゃぐにゃしていて意味不明である。いらだたしいのだが、残念ながらもっとも文学的な言葉とも言える。もっともナチュラルな重層性を持っているのである。

女性の言葉は男性の言葉より重層性がある、言い換えれば意味の明確性が低い。これはおそらく世界共通だろう。ロシア文学の「アンナ・カレーニナ」でも、女性同士はえらくグニャグニャした言葉で会話している。
しかしどうも、日本女性のグニャグニャぶりに比べれば、いくぶん明快であるようである。なぜ日本女性がかくもグニャグニャか。おそらく古典文学、平安女流文学によってグニャグニャに正統性が与えられ、昔から女性の識字率が高かったせいで、いやにグニャグニャがブラッシュアップされたのではないか。グニャグニャがブラッシュアップされてよりいっそうグニャグニャになる、男性には悪夢としか思えない光景である。そんな地獄のような環境に生息できるの男性は、太宰くらいのもので、よってこれほど重層的な物語はそんなに存在していないのである。

「斜陽」は名作である。ものすごい傑作である。しかし読み解けば読み解くほど、体調が悪くなる感覚があった。体の心が抜ける気がした。グニャグニャになる錯覚にとらわれながら、本邦の文芸における女性言葉の優位性を、思い知らされたのである。

2018年9月18日火曜日

斜陽

「斜陽」をアップした。

「斜陽」解説【太宰治】
https://matome.naver.jp/odai/2153720161167446001

疲れた。自分の読み解き史上最大に疲れた。平和の中でのうのうとパソコンいじっている自分のような人間には、重すぎる内容だった。解析していて逃げたくなった。

「斜陽」という言葉は実は「走れメロス」にも出てくる。夕日を追いかけて走る物語だから、出てきて当然である。シラーの詩から、全体を対句表現で仕上げれることに気がついた太宰は、「走れメロス」を書いた。その構成が自分でも気に入っていたのだろう。構成を考えるうち、物語とはなにか、よい物語とはなにか、を考え、練り上げ、最終的に「斜陽」にたどりついた。

Naverに掲載した表


これだけでは十分な説明ではない。
それぞれの節の内容は、それぞれ密接に対応している。
その対応が太宰最大の苦労だったはずだが、私も十分に読み解けていない。

しかし、疲れた。不十分な点が多いのだが、これ以上の解析は体力が持たない。「銀河鉄道」を書いた宮沢賢治、「斜陽」を書いた太宰治、いずれも体をやちゃっている。この形式そのものに、どうも人間の生命を吸い取る魔力みたいなものがあるのかもしれない。オカルトめくが。

数学者が大定理に挑んだあげくに、つぎつぎと発狂、廃人になるのと、少々似ていると思う。数学は精神をやるが、文学は体力をやるようである。