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2018年4月26日木曜日

アメリカ考5

アメリカ考4で述べたような、研究者の「文学作品の読めていなさ」というのは、能力に起因するものでもなく、才能に起因するものでもなく、態度に起因するものでもなく、ひとえに「読むという世界を知らない」ことに起因する。読むという世界を先輩研究者が知らなかったから、読めないだけで、知りさえすればだれでも読めるようになる。ただし、おそらく平均的研究者が想像しているより、10倍以上の労力を、その作品の読み込みに費やさなければならない。これは、論文書く労力の10倍ではない。論文書くほうが下調べ大変なはずである。前述の研究者も、驚異的な読書量だった。フィッツジェラルド周辺のことは全部知っている感じである。でも肝心要の本文を、十分読み込んでいない。本文を読み込むことが重要だと、思えていない。本文解明に労力をかけようとしていない。よって読めない。

読み解き作業、本ページでも、Naverでもさんざんやっているが、どうも一般に広まらない、それは、文学や映画好きな人が、自分以上に読み解いているものを見た場合、たいてい腹を立てるからである。文学、映画好きな、感度の高い人が多い。そして自分よりしっかり読み込んだ結果を見ると、自分の感度に自信が持てなくなって、傷ついて、腹を立てる。
しかし、読み解きに感度は実は必要ないのである。あるのは単純に、章立て表と登場人物一覧表の作成、それを何度も検討することであって、芸術を作るのではなく、芸術を分析するのが目的である以上、砂を噛むような味気ない作業を続ければ、だれでも可能である。もちろん、感度が高く、地頭がよければ言うことはない。私の感度と地頭なぞしれたものだから、文学や映画が本当に好きで、十分な地頭持っているひとは、ぜひ挑戦いただきたいと思っている。挑戦したtころで、あんまり自分の人生にも、人々の生活にも枠にたたないのだが。


それでもアメリカ映画や文学を少々読みといてわかったことは、少なからずある。日本と同じく、アメリカにも「読み解く」世界を知っているひとは少数しかいない。フィッツジェラルド、コッポラ、タランティーノは十分読み解ける人である。コッポラ、タランティーノはイタリア系である。イタリアの文化力というのも、アメリカの多きな力であるようである。というより、コッポラがアメリカ人という気がだんだんしなくなる。イタリア系アメリカ人ということになっているが、実態はアメリカ系イタリア人ではないだろうか?もちろん国籍はアメリカなのだが。

優秀な人々はアメリカに集まる。集まった優秀な人々がアメリカを動かす。つまりアメリカを動かしているのは、(アメリカが没落しないかぎり)アメリカの土着の文化では永遠にない。優秀すぎてアメリカのエスニシティを獲得するひまもなく、自分の民族的特長を最大限生かしてアメリカを動かし続ける。

2018年4月25日水曜日

アメリカ考4

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『偉大なギャツビー』を読む―夢の限界
リチャード・リーハン

図書館にあったので借りてきて読んだ。
著者は大変碩学な方である。ギャッツビーの時代背景からなにから、全部調べてある感じである。
いわく、シュペングラーの「西洋の没落」がベースになっているのではないかと。

ギャッツビー作中でトムが、「ぼやぼやしていると白人は有色人種に支配者の座を取って代わられる」と危機感をあらわにするのだが、その根底にシュペングラーがあるらしい。作者が日記などを調べて突き止めた。大変有意義な研究である。

ギャッツビーが本当に評価されたのは戦後だが、なぜ戦前のアメリカがあそこまで反日的であったのか示唆する内容である。日米戦争の歴史においても、「ギャッツビー」は重要な作品なのかもしれない。

と、一方でリーハンさんは、実は内容あんまり読めていない。一番重要な部分、「これは神話である」ということは把握できているが、内容詳細について読み解けているわけではない。本人、「30年で100回以上読んでいる」と豪語するにもかかわらず、である。

だいたい30年で100回読む、というペースでは読み解くことは不可能である。3年で100回読めば、どんな本でも、(章立て表、登場人物一覧表をつくらずとも)楽勝で読み解ける。かなりきついペースにはなるが。

2014年5月12日月曜日

造船王ノア

時代的に船の発明は馬の制御に先立つ。
馬というものは、はなかなか制御できなくて、
まずは戦車(要するに馬車)という形態で、
次に乗馬することができるようになったのだが、
乗馬できるようになったのはかなり後で、
殷周交代の牧野の戦いではすべて戦車、
騎乗できるようになったのは春秋時代以降である。

それ以降馬の制御が軍事力、すなわち権力に直接結びつくようになり、
射程距離が長い銃火器の発明までそれは続いたのだが、
馬の登場以前の最先端テクノロジーは、
船の製作であった。

だから、メソポタミア下流域で最初に文明というか、
王権が発生している。
下流域文明はすぐに中流域、上流域の連中に征服される。
最初は船を制御できた連中が権力を握ったが、
次に馬を制御できた連中に征服された、という意味なのであろう。
権力の変化は交通手段のテクノロジーの発展による変化であった。

逆に言えば、
馬が制御できる以前の文明では、
船が最新テクノロジーで、
良い船を作れる人間がすなわち王者であった。

ところで船の原初形態は丸木舟である。
やがて発展して、板を張り合わせたものになるのだが、
「箱舟」は名前からして、板を張り合わせたものと類推できる。
ノア(という人はおそらく実在しないのだが)が箱舟を作ったとき、
それは最先端のテクノロジーであったはずである。
板を組み合わせて、大きな大きな船を作れるようになったのである。
板の製造、接着など、さまざまな新開発技術は、
当時の他の部族を圧倒したはずである。
交易効率が格段に違うから、
富の蓄積により大きな権力を身につけた。

ノアはその船に全ての種族を乗せた。
ということは、ノアはテクノロジーによって王となり、
全ての生物の中間始祖を主張できる権威を身につけた、
という意味なのである。

箱舟神話は、
ノアという義人の物語ではなく、
王権の物語であったのである。

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