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2013年8月20日火曜日

カラマーゾフの兄弟をよみとく 追加2

蛇足でダラダラ書く。
カラマーゾフの兄弟は、全13章ある。
単純計算で中心は第7章になる。

第7章のタイトルは「アリョーシャ」。
ゾシマの死体が腐臭を発するなかで、
アリョーシャは「カナの婚礼」の夢を見る。
新約聖書ヨハネ伝の一節を、夢の中で再現し、
イエスの姿と、死んだはずのゾシマの姿を見る。
夢から覚めたアリューシャは、
外に走りだして、大地につっぷして涙を注ぎ、
立ち上がった時に「一人前の男になっていた」。


中間すっとばして結論を述べる。
西洋文明には2つの源泉がある。
ヘブライズムとヘレニズム。
言い換えれば聖書文明と、ギリシャ文明である。
聖書文明の代表的存在は無論イエスキリストである。
ではギリシャ文明の代表は。
ドストエフスキーがここで代表として取り上げたのは、
ソフォクレスの「オイディプス」である。
運命により、知らずして父を殺し、知らずして母と性交してしまい、
のちにその事実を知り、絶望の余り自らの目を潰してしまう王の話である。

カラマーゾフはそのまんま、父殺しの物語である。
そしてアリューシャがつっぷして涙を注いだのは、母なる大地である。
無論ここは、母なる大地と性交して射精した、という意味である。
だから一人前の男になった。
その性交の直前に、父のように慕っていたゾシマのなきがらに側におり、
夢にイエスとゾシマを見る。

マクロな意味でのカラマーゾフの主題、というか達成課題は、
ヘブライズムとヘレニズム、2つの文明の融合である。
同様のことはゲーテがファイストでやろうとしたのだが、
ファウストはぶっちゃけ成功していない。バラバラ感丸出しである。
対してドストエフスキーは成功した。
だが成功しすぎたせいで、このような構造が余り評価されていないのかもしれないから、
難しいものである。


さらに蛇足を。
映画の名作「ゴットファーザー」は、「カラマーゾフの兄弟」のパクリである。
父は死ぬ。長男は血の気が多い、次男は陰気、三男は堅実に生存して次の物語に続く。
ご丁寧にスメルジャコフ役として、トムヘーゲンという養子まで用意している。
だから名作なのだ、とも言える。

ゴットファーザーでの暗殺シーン、
バルジーニは銃で撃たれて階段を転げ落ちる。
明らかに「戦艦ポチョムキン」のパクリである。
それが証拠に、パーツⅢではコルネオーレ一族が階段を転げ落ちて、
マフィア世界の王座を転落する。
権力からの転落を、階段からの転落として表現している。

ということで、「ゴットファーザー」は、
文学の最高傑作「カラマーゾフの兄弟」と、
映画史最初の芸術映画「戦艦ポチョムキン」を、
ドッキングさせた、非常に大きな構想を持った作品なのである。

似ている、ヘブライズムとヘレニズムをドッキングさせた「カラマーゾフの兄弟」に、
あるいは、荒事と和事をドッキングさせて、
終幕に「堀越二郎と堀辰雄に敬意を込めて」としるして、
そのドッキングを暗示した「風立ちぬ」に似ているのである。

2013年8月18日日曜日

芸術作品の見方について

先日宮台真司氏の「風立ちぬ」感想を聞いた。
宮台氏は細田守を高く評価するなど、十分鋭い感性の持ち主である。
しかし「人物描写が不十分だ」などど言っていた氏の論評を聞きながら思った。
氏は芸術を論じる上での基礎が出来ていない。
(氏は風立ちぬに批判的だったが、その事自体はどうでもよい。
モナリザは大芸術だと思うが、私はモナリザが嫌いである)

基礎が出来ていないのは一人宮台氏の問題ではなく、
巷にあふれる論評の多くがそうであり、
そうであるならば、社会全体の問題である。
私見では根本原因は国語教育にあり、
私も随分反発してきたものだが、
今にして思えば国語教師も、大学の文学部教授も、基礎がわかっていなかった。

それは彼らの能力が足りないのではなく、
社会全体の智慧の蓄積が不十分だったのである。
それをこれから説明するのだが、
基礎と銘打つ以上、あっけないほどに簡単である。

聴覚世界は最低5分割するとわかりやすい。
1、数
2、固い言語(法律用語、学術用語、電化製品取扱説明書)
3、通常言語
4、芸術言語(女性言語はしばしばこの領域に踏み込む)
5、音楽
ちなみに本当は音楽は振動数の比で成り立っており、
5は1につながる、という円環構造になっているのだが、
図を作るのが面倒なのでこれで説明させていただく。

1、数字
1と1.1は別の数であり、1.1と1.11は別の数であり、1.11と1.111は別の数であり、1.111と1.1111は別の数であり、
数字それぞれは互いに排他的であって、どこまでいっても互いに侵食することがない。

2、固い言語
できるだけ数字のように、ことばそれぞれが明快に一つの意味を持つように構成された文章。
数字のように完璧にセパレート出来るわけではないので、しばしば誤解を生むし、
読みにくい文章になる。しかし出来るだけ明快になるように指向されている。
3、通常言語
文字通り通常の言語である。この文章は少々2寄りの3である。

4、芸術言語
出来るだけ言葉の意味同志が重なるように作られた文章。
明快に単一のものを指し示すことを、可能な限り回避する。
たとえば
花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
などは可能な限り意味を重ねて作られている歌である。

5、音楽
具体的な意味が全くなくなり、
芸術言語にあるような情緒性と、数的比率のみがある。

現代国語などで扱うのは、主に2ないし3の世界である。
それは構わない。仕事に使う領域なのだから。
まれに4を扱うが、うまく扱えない。マルバツが出来る世界ではないからだ。

文章を読む際にまず考えなければならないことは、
その文章が2なのか3なのか4なのか、ということである。
だいたいの目処がつかないままで取り組むので、わけがわからなくなる。
この5分割、中学生くらいで教えるべきだと思うのだが・・・

そして、映画もしかり。
ドキュメンタリー映画、記録映画は2である。
通常の娯楽映画は3と4の間である。
芸術映画は4を乱発する。

今回の風立ちぬは一見歴史系なので、
2と3の中間にあるように見えるところが、分かりにくい点である。
実際にはベタベタの4だ。
ベタベタの4であるならば、
菜穂子の人物描写が不十分、という批判は的はずれなのが分かるだろう。
なぜならば、あれほど詳細に戦闘機を描いたのだから。

(分かりにくい方は、以下を参照ください)
含むネタバレ 風立ちぬ・解説10

2013年8月16日金曜日

おおかみこどもの雨と雪・解説6

例えば3セット取り出して考えてみる

母が吐くと父は鳥をとってくる
息子が吐くと姉はさぎを取ってくる

父(狼姿)は鳥を獲ろうとして川に落ちて死ぬ
息子(狼姿)は鳥を獲ろうとして川で死にかかる

父と花のアパートには燕の巣
息子の家出の前に燕の巣が倒壊

以上3セットは
1、鳥が狼の命の象徴であること
2、鳥に去られた時、狼の命運が尽きること
3、鳥の巣つくられた時点で母と狼族の生活が始まり、
なくなった時点で生活が終わること
を表現しようとしている。

言うまでもなく神道では、鳥居、つまり鳥の止まる木を、
聖なる境界としている。
鳥居は日本および照葉樹林帯特有の習慣だから、
日本および照葉樹林帯に住む人々を表現したのが、狼族である。
では鳥を獲らないでも生活出来る母親の花はなにか。
狼族ではにない。つまり日本人および照葉樹林帯の人間ではない。
私の考えでは阿弥陀如来だが、あるいは他に解があるのかもしれない。

2013年8月15日木曜日

おおかみこどもの雨と雪・解説5

おおかみこどもの雨と雪は、
実はストーリーらしきストーリーがほとんど無い、
極端に薄い物語である。
12年以上に渡る長きを2時間で、駆け足で通り過ぎる。
だから話は薄くなって当然である。
通常ならばバラバラになるその薄さをつなぎとめる留糸が、
対句的表現である。いや厳密には対句ではないのだが、
説明が難しいのでまずはざっと見ていただきたい。

父は桃缶を妊娠中の妻に食べさせる
息子は桃を狐の先生に献上

母が吐くと父は鳥をとってくる
息子が吐くと姉はさぎを取ってくる

父(狼姿)は鳥を獲ろうとして川に落ちて死ぬ
息子(狼姿)は鳥を獲ろうとして川で死にかかる

父と花のアパートには燕の巣
息子の家出の前に燕の巣が倒壊

息子に脱脂綿で乳を含ませる
草平くんの耳の傷には脱脂綿がテーピングされている

娘が吐いて母(花)は獣医か小児科か迷う
息子は吐いて狼はいやだと言う

娘が落としそうななったビンを母はナイスキャッチする
韮崎家から木酢液のペットボトルをもらう

娘が倒しそうになったタンス(四角い箱)を母はからくも支える
韮崎家から冷蔵庫(四角い箱)をもらう

娘の先生(草平くん)に母が差し出すのは緑のジュース
息子の先生(狐)に母が差し出すのはピンクの桃

娘は子供の頃緑の離乳食を食べている
娘の先生は緑のジュース

雪は草平からみかんとパン(丸いものと平らなもの)をもらい 
花はきつねに桃と油揚げ(丸いものと平らなもの)を出す

雨が狐の先生に連れてゆかれた岩沢から見る湖には雲が映っている
花の駐車場の水たまりには雲が映っている

他にもあるだろうが、発見できたのは以上である。

2013年8月12日月曜日

おおかみこどもの雨と雪・解説4

細田を初めて見たのはサマーウオーズ、つぎに時をかける少女、つぎにオマツリ男爵、その後おおかみこどもだったのだが、率直な感触は「これはモンスターだな」だった。おそらく彼は、今までみた映画のシーンをほとんど覚えている。つまり映画的演出の引き出しが圧倒的に多い。
私も高校2年と3年だけは、見た映画のシーンをかなり覚えられた。見終わった映画のシーンを目をつぶって再度上映するのである。20分程度の早回しで。当時昼食代を削ってレンタルビデオを借りて見ていて、それはそれは必死でみていたから、思い出せた。それを細田は、数十年続けている感触が、画面から伝わってくる。これは映画オタを一時期でもやった人間はほぼ全員感じられる部分だと思う。アニメ関係者も映画関係者も、おそらく似たような印象を持っているはずである。
くわえてポニョの不発があったから、これはてっきり王座交代かとおもっていたのだが、今回の風立ちぬで宮崎王朝は当面維持されることになった。
レオナルドとミケランジェロ、あるいはドストエフスキーとトルストイのような、素晴らしいライバル芸術家が切磋琢磨する姿を見れるとは、言葉にできぬほど良い時代であるし、なんぼ日本がポテンシャルが高い国であったとしても、流石に今が文化の絶頂期で、今後は少々ダラ下がりになるのではないかと思われる。
いずれにせよ、風立ちぬや、おおかみこどもに対する批判を口にする前にまず心がけておかなければならないのは、これは「マタイ受難曲」や「カラマーゾフの兄弟」に匹敵するような大芸術であって、必然として難解な部分を持つ、ということである。難解である以上最初になすべきは批評ではなく解析であり、解析が終了後批評が可能になる。通常の映画と同じような態度で批評しても、全く無効なのである。

おおかみこどもの雨と雪・解説3

細田守は美大で油絵を学んだ人間である。
他に西洋絵画を十分に学習した映画監督といえば、著名なところでは黒澤明が居る。
一般に黒澤の後継者は宮崎駿、宮崎の後継者が細田守というふうに言われているが、西洋絵画の教養という意味では、黒澤と細田が近く、宮崎はやや遠い。
試しに音を消して鑑賞するとよくわかるのだが、黒澤も細田も、西洋絵画、とくにルネサンス絵画の特徴である三角形構図を多用する。

両者は荒事と和事、別の領域の作家だが、音を消した映像から受ける印象は、大変良く似ているのである。一度試していただきたい。宮崎の動く画像での独創性は素晴らしいが、静止画としては実は、ややガチャガチャしているのである。

おおかみこどもの雨と雪・解説2

おおかみこどもの構成要素として
浄土真宗以外には、
南総里見八犬伝が考えられる。

手元にある設定資料を見ると、
雪の男子クラスメイトとして、
信道、忠与、仁、礼儀と名前がある。
仁・義・礼・智・忠・信は八犬伝に出てくる玉の名前である。

女子の名前は、
信乃、荘子、毛野であるが、
犬塚信乃、犬川荘助、犬坂毛野、
いずれも八犬伝の登場人物である。
人間と犬が交わる物語だから、
八犬伝を参照するには自然ななりゆきである。

八犬伝を参照して浄土真宗を歌い上げる。
過去の物語を参照する際に、
ふつうのひとはひとつの物語を引用する。
複数の物語をドッキングして使えるのは、
相当高度な力量の持ち主である。
細田守はまぎれもなく、後者である。

おおかみこどもの雨と雪・解説1

新しい文化のうち優れたものは必ず、
その国の文化の古層をなにがしかのカタチで反映している。
日本のアニメは発展を続け、古層を十分に反映できるようになった

ヤマトやガンダムは、
漢籍、中国の文芸を基礎にしている。
ヤマトのモチーフは、
目的地到達の物語という意味で、西遊記そのままである。
ガンダムにはシャアという魅力的な悪役が登場するが、
三国志の曹操によく似たキャラクターである。
戦争なくなったら物語の終わりだから、
未来永劫戦争続ける物語である。

宮崎駿は漢籍ではなく、神道の人である。
もののけ姫、あるいはトトロ。
トトロの基本モチーフは、
母に死に別れて泣くスサノオ(メイ)と、
それに困るさつき(アマテラス)である。
母のイザナミは病院にいるが、これは黄泉の国という意味であろう

押井守は仏教である。
自我はあるのか、無いのか、
輪廻転生から解脱できるのか、出来ないのか。
仏教の中でも、上部座仏教である。

大乗仏教に基づいたアニメは、私は見たことが無かったが、
おおかみこどもついに登場した。

作中の母親「花」は、人間の姿をしているが、実は阿弥陀如来である。
作中の狼は、人間である。
如来・人間という関係を、ワンランク下げて、
人間・狼という関係で表現している。

雨は結局、仏の道を選ばず畜生道に生きることに決めた。
それでもなお阿弥陀様はその生き方を認めてくれて、
遠くから狼の声に耳を傾けて下さる。

「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや狼おや」

弥陀の本願信ずべし、である

含むネタバレ 風立ちぬ・解説12

次郎と妹は同一人物である。
飛行機と菜穂子は同一人物である。
これがこの稀代の傑作の中心に座る構造である。

独創的で素晴らしい。
手を合わせて拝みたいほどである。
しかし賞賛ばかりではなんなので、少々批評を。

1、初夜のシーン、最後に振袖を映すシーン、あと3秒間長く映して欲しかった。
宮崎はダイナミックな動きの映画の編集になれていて、ゆったりとしたシーンはさほど経験が無い。少々粗雑な編集だったと思う。
2、菜穂子が列車に乗って山の病院に帰るシーンから、音楽のみ引き続いて飛行テスト成功のシーンに切り替わる。
飛行シーンの美しさは筆舌に尽くしがたい。しかし列車のシーンがこれまた短すぎる。すぐに切り替わるから、音楽の連続性があまり生きていない。ラピュタのオープニングの系譜を引く、宮崎の得意技なのだが。これも編集問題である。
3、久石の音楽、決して悪くないが、弱い。久石自身全盛期を過ぎているのもある。同時に映画が良すぎてつりあっていないのも有る。
映画史上に残る作品はたいてい、映画に互角に張り合える名曲を使っている。タルコフスキーの惑星ソラリス無重力シーンでのバッハ、ビスコンティベニスに死すでのマーラーアダージェット。
そこまでの結合はこの映画には無い。無音シーンが素晴らしいから、作品としては互角以上なのだが。
4、死んだ菜穂子に再会するシーン、肥大化して消えるという処理はいかがなものか。バラバラになって小さな紙飛行機になって飛んでいって欲しかった。

とえらそうに書いたが、無理して書いただけで本当は不満は無い。

2013年8月11日日曜日

含むネタバレ 風立ちぬ・解説11

ラストシーンの直接的な元ねたは、司馬遼太郎である。

坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それをのみ見つめて坂をのぼってゆくであろう

しかし司馬は太平洋戦争が書けなかった。あまりにも当事者であったから。あまりにも無念の気持ちを多く持っていたから。後を宮崎が継いだ。
結局、坂は膨大な残骸で埋った。雲のまにまに見えるは、あの世に飛び行く自機の集団であった。坂の向こう側に愛する人がいた。彼女も陽炎のように去った。それでも戦後を生きねばならない。

含むネタバレ 風立ちぬ・解説10

言葉にしづらいが、言葉にしてみる。

菜穂子が油を吐いたとき、次郎は死を観念したに相違ない。当時の日本のエンジン開発能力では、結核で油を吐いたらまず墜落なのである。でもそのエンジンでも結果を残さなければならないから、祝言を挙げた。機体そのものは花のように美しく、何度も口付けをして、愛した。

含むネタバレ 風立ちぬ・解説9

理解出来ない人が大量発生しているのは、原因は宮崎にある。宮崎がここで試みたのは、単に上手い映画、面白い作品などではない。人類数千年の物語の歴史に、新たな方法を付け加えようとしているのである。全く新しい物語の語り方を、開発したのである。似たような試みは、細田守監督「おおかみこどもの雨と雪」でもなされていた。その影響もあるであろう。いずれにせよ私たちは、大変な時代に生きているようである。今現在の日本のアニメ文化はとほうもない高みに到達している。宮崎駿が後世トルストイよりも偉大な芸術家とたたえられても、私は驚かない。

含むネタバレ 風立ちぬ・解説8

宮崎駿は特攻隊を賛美している、「それはまるで、菜穂子のように、けなげで、美しかった」と。同時に女性も賛美している、「それはまるで、特攻隊のように勇敢で、まっすぐで、自己犠牲的である」と。
物語には和事と荒事二つの路線がある。恋愛ものと戦争もの、詩経と書経、万葉集と日本書紀、源氏物語と平家物語、小津安二郎と黒澤明。宮崎は恐るべきことに、その二つを同時に描いた。トルストイが戦争と平和でやったような、交互サンドイッチ方式ではなく、より根源的な方法で。映画鑑賞後じわじわと感慨がよみがえってくるの、そのためである。