蛇足でダラダラ書く。
カラマーゾフの兄弟は、全13章ある。
単純計算で中心は第7章になる。
第7章のタイトルは「アリョーシャ」。
ゾシマの死体が腐臭を発するなかで、
アリョーシャは「カナの婚礼」の夢を見る。
新約聖書ヨハネ伝の一節を、夢の中で再現し、
イエスの姿と、死んだはずのゾシマの姿を見る。
夢から覚めたアリューシャは、
外に走りだして、大地につっぷして涙を注ぎ、
立ち上がった時に「一人前の男になっていた」。
中間すっとばして結論を述べる。
西洋文明には2つの源泉がある。
ヘブライズムとヘレニズム。
言い換えれば聖書文明と、ギリシャ文明である。
聖書文明の代表的存在は無論イエスキリストである。
ではギリシャ文明の代表は。
ドストエフスキーがここで代表として取り上げたのは、
ソフォクレスの「オイディプス」である。
運命により、知らずして父を殺し、知らずして母と性交してしまい、
のちにその事実を知り、絶望の余り自らの目を潰してしまう王の話である。
カラマーゾフはそのまんま、父殺しの物語である。
そしてアリューシャがつっぷして涙を注いだのは、母なる大地である。
無論ここは、母なる大地と性交して射精した、という意味である。
だから一人前の男になった。
その性交の直前に、父のように慕っていたゾシマのなきがらに側におり、
夢にイエスとゾシマを見る。
マクロな意味でのカラマーゾフの主題、というか達成課題は、
ヘブライズムとヘレニズム、2つの文明の融合である。
同様のことはゲーテがファイストでやろうとしたのだが、
ファウストはぶっちゃけ成功していない。バラバラ感丸出しである。
対してドストエフスキーは成功した。
だが成功しすぎたせいで、このような構造が余り評価されていないのかもしれないから、
難しいものである。
さらに蛇足を。
映画の名作「ゴットファーザー」は、「カラマーゾフの兄弟」のパクリである。
父は死ぬ。長男は血の気が多い、次男は陰気、三男は堅実に生存して次の物語に続く。
ご丁寧にスメルジャコフ役として、トムヘーゲンという養子まで用意している。
だから名作なのだ、とも言える。
ゴットファーザーでの暗殺シーン、
バルジーニは銃で撃たれて階段を転げ落ちる。
明らかに「戦艦ポチョムキン」のパクリである。
それが証拠に、パーツⅢではコルネオーレ一族が階段を転げ落ちて、
マフィア世界の王座を転落する。
権力からの転落を、階段からの転落として表現している。
ということで、「ゴットファーザー」は、
文学の最高傑作「カラマーゾフの兄弟」と、
映画史最初の芸術映画「戦艦ポチョムキン」を、
ドッキングさせた、非常に大きな構想を持った作品なのである。
似ている、ヘブライズムとヘレニズムをドッキングさせた「カラマーゾフの兄弟」に、
あるいは、荒事と和事をドッキングさせて、
終幕に「堀越二郎と堀辰雄に敬意を込めて」としるして、
そのドッキングを暗示した「風立ちぬ」に似ているのである。
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