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2014年4月30日水曜日

タルコフスキー「鏡」・解読14

さてここで全体の構造を見直してみる。
成人時代の対句が1セット
幼年時代も、
少年時代も1セットある。
それらは前後に配置されている。
例えば、以下のような構造が見出せる。


1、草原と若い母と旅の医者(幼年時代)A-1

2、母の印刷工場時代(少年時代)B-1

3、別れた妻との会話・カラー(成人時代)C-1


4、戦争の時代の記録映画(幼年時代)A-2

5、イグナートの留守番(成人時代)B-2

6、兵役訓練(少年時代)C-2


7、別れた妻との会話・モノクロ(成人時代)C-3

8、母とたずねた田舎の家での営業(少年時代)B-3

9、草原と老いた母と主人公(幼年時代)A-3



実際には戦争の時代の記録映画は6(C-2)の終わりごろまで、
断続的に展開するのだが、まずはこの構造でおおまかに捕らえる。

すると、以前述べた「鏡」の根底にはダンテの神曲がある、
との仮説が一層説得力をもって浮かび上がってくる。

「『神曲』は、
地獄篇 (Inferno)
煉獄篇 (Purgatorio)
天国篇 (Paradiso)

の三部から構成されており、各篇はそれぞれ34歌、33歌、33歌の計100歌から成る。
このうち地獄篇の最初の第一歌は、これから歌う三界全体の構想をあらわした、いわば総序となっているので、
各篇は3の倍数である33歌から構成されていることになる。」

(Wikiより)

映画「鏡」は3の3倍である9章から成り立っている。



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2014年4月26日土曜日

タルコフスキー「鏡」・解読13

前回妻との会話、カラーとモノクロバージョンの比較で、
うまく対句が発見できた。
他の場所でも考えてみる。

モノクロとカラーの対比、という意味では、
主人公の少年時代の話題が目に付く。

1、印刷工場での母の話(モノクロ)
2、田舎の知人の家に頼みごとに行く話(カラー)
ただし1は主人公は登場しない。
この二つで対句表現を探ってみる。


1、誤植が問題になると思ったが大丈夫だった
2、頼みを聞いてもらえるか不安だったが大丈夫だった

1、ウォッカを与えられる
2、コップに入った飲み物を与えられる

1、大丈夫と思ったが結局非難を受けつらい思いをする
2、大丈夫と思ったが結局鳥を捌かされてつらい思いをする

1、雨に頭が濡れる、シャワーで洗う
2、ぬかるみで足が汚れる マットレスで拭う

1、文字の問題。言葉で不快になる。
2、金の問題。暴力で不快になる。

1、蒸発した夫、子どものことを言及される
2、義父について言及する(イワノフの継娘です)

とこれも対句になっているのがわかる。
となると冒頭と最後の、
主人公の幼年時代も対句になっているのではないか。
いずれも田舎の家のシーンだが、
最後のほうは母が老婆の姿で、つまり現在の姿で登場するのが特徴的である。


1、母が見知らぬ医者と寝転がる
2、母が蒸発した亭主と寝転がる

1、医者は植物にも意識があると言う
2、亭主と娘は植物を咥えている

1、子どもは寝ている
2、子どもは起きている

1、母は若い妻の姿
2、母は年老いた現在の姿

1、母は棚に腰掛けている。棚は折れる
2、母(老婆)は切り株に腰掛けている。

少年時代に比べて、さほど綺麗な対応といえないが、
やはり対句になっている。


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2014年4月24日木曜日

在日問題2



「チスル」という映画、済州島虐殺を描いたものである。
こういう映画がとうとう韓国から出だした。

(ただし、本土と距離のある済州島だから描けた、とも言える。
保導連盟事件は、まだまだ難しいだろう)

大変美しい映像である。
ちなみに、監督はタルコフスキーの崇拝者らしい。


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2014年4月23日水曜日

タルコフスキー「鏡」・解読12

別れた夫婦の対話1(カラー)
別れた夫婦の対話2(モノクロ)
の二つの章をときほぐしてゆく。

以下1、2と表現する。

1、君は母に似ていると主人公が言う
2、お母さんは私に似ていると妻が言う。

1、再婚を妻に勧める
2、再婚するかもと妻に言われて不機嫌になる

1、イグナートを一時預かってくれといわれる
2、イグナートを引き取ろうとして断られる

1、イグナートにお酒はだめだと父親らしく指導
2、イグナートに同居を断られ、腹を立てて馬鹿にする

と、前者は肯定的、後者は否定的に描かれる。
ここまでは対句になっているが、
1にはスペイン人の話題が引き続く。

スペイン内乱はソ連が介入した戦争である。
ソ連の介入はうまく行かず、
結局引き上げるのだが、
引き上げる際にスペイン人を連れてきた、
その人たちが劇中で話しているスペイン人である、
という設定である。

スペイン内乱は1936-1939年である。
その後様々な歴史的記録映画が流れるが、
第二次世界大戦、ヒットラーの死、腐海おを渡るシーンとめぐって、
最後は文化大革命とダマンスキー島事件(中ソ国境をめぐる紛争)で終わる。

スペインはユーラシアの西の果てであり、
ダマンスキーは東の果てである。
紛争は時系列で並べられている。
時間とともに西から東にゆくのである。

となると、
前回少し触れたイグナートの留守番との対比が明らかになる。

イグナートの留守番は、
成人時代のちょうど中間に位置する章である。
内容は、

1、別れた妻が出かけようとしてバッグの中身を落とす
2、イグナートは中身を拾うのを手伝おうとして、コインを集める
3、突然静電気に手をひっこめる、
「前にも似たようなことがあったかも・・いやなかった」と言う。
4、妻は出掛け際に「お母さんが来たらかならず引き止めて」と言う。
5、イグナートがしらない間に緑服のおばさんと老婆のメイドが入り込んでいる。
「ぼうやにもお茶を、いいこと」とメイドに命令したおばさん(ロシア皇帝)は、
プーシキンの手紙をイグナートに朗読させる
6、プーシキンの手紙には、
「ロシアがモンゴルからキリスト教を守った。
これ以外のロシアの歴史を望まない」とある。
7、呼び鈴がなって母が来る。しかしドアを開けた母は、
「家を間違えたようね」と言って帰る。
8、居間にもどるとおばさんは居ない。父から電話がかかってくる
9、「お父さんはお前の年には初恋をしていた」と言う

以後初恋の人のシーンに移動してゆく。

ここでの中心は言うまでも泣くプーシキンの手紙である。
「東から来たタタールの戦役をロシアは吸収した」とある。
西から東と移動してゆくソ連の戦役と対比されている。
ソ連の戦役は、
悲劇を吸収していないのである。
だからスペイン人が悲劇に襲われ、
ダマンスキー島でいざこざが起きる。

「カラマーゾフの兄弟」

想起いただきたい。

ロシア的キリスト教メンタリティーでは、おそらく以下のようになる。

「イエスは自身を犠牲にして人類を救済した。
ゆえにイエスに倣う私たちも自身を犠牲にする気持ちを持たなければならない。

モンゴルの侵入に耐えた行為はロシアの自己犠牲であった。
第二次世界大戦前後のソ連の行為は自己犠牲ではなかった。
我々は自己犠牲を引き受けなければならない」

プーシキンの手紙と、
記録映画の映像を見れば、このような解釈になる。

そして、

別れた夫婦の対話1(カラー)
別れた夫婦の対話2(モノクロ)
の意味も明らかになる。

カラーのほうは、主人公の人間関係は良好である。
しかし、スペイン人が苦しんでいる。

モノクロのほうは関係は最悪である。
(別れたおくさんなどは、終始体調悪そうである)
でも、スペイン人の悲劇は付着しない。

身の回りの人間関係の悪化を、
ただの悪化と見ずに、
「誰かの悲劇の身代わりになった行為である」
と考えるロシア的思想である。



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2014年4月22日火曜日

タルコフスキー「鏡」・解読11

前回無意識に使ってしまった用語だが、
この映画全体も3時代に分割できる

1、幼年時代

2、少年時代

3、成人時代

以上が細切れになって組み合わされている。
以下簡単に説明

1、幼年時代

冒頭の母と医者の会話、納屋の火事
映画終盤のモノクロシーケンス(風の吹く屋外テーブルなど)
老母との会話、

2、少年時代
(主人公は出てこないが)印刷工場での母
ダビンチ画集を見る主人公、父の再帰、
近所の家での頼みごと(母の鶏の首切り)

3、成人時代
病気で母との電話
別れた夫婦の対話1(カラー)
イグナートの留守番
別れた夫婦の対話2(モノクロ)
病床の主人公

それ以外に記録映画が挟み込まれるが、
今は考慮しない。

一見してはっきり対句になっているのは、、
3、成人時代に別れた夫婦の会話の2回である。

はじめはカラーで、妻は主人公に好意的であり、
結果主人公はイグナートと同居できる。

2回目はモノクロで、妻は主人公に批判的
結果イグナートとは同居できない。
この二つは明らかに対比でつくられている。

同じように対比になっているのが、
病気で母との電話と(扁桃腺で3日話していない)
病床の主人公(扁桃腺は原因でない)である。

その2セットと対句をつなぐのが、
イグナートの留守番のシーンで、
ここに突然出てくるおばさんが、
病床の主人公のシーンでも出てくる。

ちなみに、
時系列で言えば

病気で母との電話(ベッドの主人公)

別れた夫婦の対話1(カラー)
別れた夫婦の対話2(モノクロ)

イグナートの留守番
病床の主人公

となるはずで、

イグナートの留守番が、
カラーの続きなのかモノクロの続きなのかは判然としないのだが、
しかしイグナートの留守番はカラーで撮影されており、
実際に主人公の家に居るのだから、
カラーバージョンの続きと考えるのが良いだろう。


この
別れた夫婦の対話1(カラー)
別れた夫婦の対話2(モノクロ)
の対句表現は大変特徴的で、
あきらかにこの映画の内容を解き明かす鍵を握っている。


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2014年4月21日月曜日

タルコフスキー「鏡」・解読10

オープニング以降も、ダンテの神曲にならって、
「3」は頻発する。


例えば「転倒」
1、母と医者が話しているシーン、
棚に腰掛けて話しているが、棚が折れて転倒する。

2、兵役訓練で教官に逆らった子どもが、
雪の坂を歩いて上る時に転倒する

3、少年時代、失踪していた父が戻ってきたとき、
走っている最中に転倒する

と3回転倒している。



あるいは「開かない」
1、医者が母に話しかける内容。
「釘がないか?蓋が開かない」

2、母が印刷工場でシャワー室に入り、
中から鍵を閉めて開かなくする

3、モノクロ映像、幼児時代。
ドアを開こうとして開かない。
中から開き、母と犬が居る。



「植物」
1、冒頭で医者は言う。
「植物にも意識があると思ったことは」

2、幼児時代。老母の姿をした母に
「燃えている」という時、妹が草をくわえている。

3、父と母が草原で寝転んで、父が
「どちらが欲しい?男か女か」
と言っているシーン、父は草をくわえている。



「血」
1、医者が立ち去る際に、耳の後ろから血を出している

2、初恋の少女、唇が荒れて血が出ている

3、少年時代、母が頼みごとをしにゆく近所の家で、
鏡を見る。唇が荒れて血が出ている。



「落下」
1、幼児時代、猫の頭に白い砂糖をふりかける主人公

2、母が髪を洗うシーン、白い天上が落下する

3、記録映画、白い紙吹雪が落下する



「心配」
1、幼児時代、燃える納屋を見て子供が居るのではと心配する声

2、印刷工場、母は誤植があったのではと心配する

3、兵役訓練、模造弾が爆発するのではと心配する戦傷教官



「「老母」
1、母が髪を洗った直後、母が老母になって出現する

2、成人時代、留守を守るイグナートに老母が尋ねてくるが、
「家を間違えたようだね」と言って帰る

3、幼年時代、老母の母に向かって「燃えている」と言う。



「医者」
1、冒頭母に話しかける男は職業は医者

2、近所の家で、継父のイワノフは医者であったと言う

3、病床、医者が主人公の容態を説明する


他にも膨大にあるので以降省略。
また後ほど一覧で提示する。
(最初「鏡」というくらいだから対句対句でくると思っていたが、
よく調べたら三連であった)


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2014年4月20日日曜日

タルコフスキー「鏡」・解読9

さてダンテの「神曲」からの影響というか引用は、
「鏡」のそこかしこに見て取れる。
その最大のものは、3という数字である。
ダンテの神曲は、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%9B%B2
3行詩の連続の形態である。

以下Wikiより引用

『神曲』は、
地獄篇 (Inferno)
煉獄篇 (Purgatorio)
天国篇 (Paradiso)

の三部から構成されており、各篇はそれぞれ34歌、33歌、33歌の計100歌から成る。
このうち地獄篇の最初の第一歌は、これから歌う三界全体の構想をあらわした、いわば総序となっているので、
各篇は3の倍数である33歌から構成されていることになる。

また詩行全体にわたって、三行を一連とする「三行韻詩」あるいは「三韻句法」(テルツァ・リーマ)の詩型が用いられている。
各行は11音節から成り、3行が一まとまりとなって、三行連句の脚韻が aba bcb cdc と次々に韻を踏んでいって鎖状に連なるという押韻形式である。
各歌の末尾のみ3+1行で、 xyx yzy z という韻によって締めくくられる。
したがって、各歌は3n+1行から成る。このように、『神曲』は細部から全体の構成まで作品の隅々において、聖なる数「3」が貫かれており、幾何学的構成美を見せている。
ダンテはローマカトリックの教義、「三位一体」についての神学を文学的表現として昇華しようと企図した。
すなわち、聖数「3」と完全数「10」を基調として、 1,3,9(32),10(32+1),100(102,33×3+1) の数字を『神曲』全体に行き渡らせることで「三位一体」を作品全体で体現したのである。

引用終わり


映画の冒頭を思い出してほしい。
最初にイグナートがテレビをつける。
次のシーンはモノクロで、高校生の吃音の治療。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1_(%E6%98%A0%E7%94%BB)


にあるように、女医の言葉と高校生の言葉が「鏡」になっているが、
同時に3という数字が象徴的に登場するシーンである。

少年はまず女医の眉間を見て、前に倒れる。
女医が後頭部に手を当てると、後ろに倒れる。
次に手を緊張させる。

3である。

手を緊張させた状態で女医は言う。
「3つ数えると緊張は解け、話せるようになる」

そして「1,2,3」
緊張は解け、どもらず話せるようになった状態で、
オープニングクレジットに移動。


以上はオープニングでの「3」の使用である。

「千と千尋の神隠し」の考察

をご覧いただきたいのだが、
(全てではないが)すぐれた作品の多くは、
冒頭部分に作品全体の本質を提示する。
タルコフスキーもここで、
「鏡」という側面と
同時に3、つまり「神曲」の後継作品であるという側面を、
効率的に提示している。


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2014年4月9日水曜日

タルコフスキー「鏡」・解読8

作中文学作品に関することが5回語られる。
うち4回はロシア文学である。

1、冒頭の棚に母が座っていたシーン。
チエホフの「6号室」が話題になる。

「6号室」は、チエホフの短編で、
精神科の医者が患者と仲良く知的な会話をしてしまい、
次第に「頭が狂った」とみなされ、病室に入れられて死ぬ、
という話である。
母にちょっかいをかけた医者は、
「植物にも記憶がある」ということを言ったりしたので、
母に頭を疑われる。
「あなた、ちょっと」
「いや大丈夫、私は医者だ」
「6号室は?」
「あれはチエホフの作り話だ」


2、母が印刷工場で非難されるシーン。
「悪霊」のマリア・チモフェーブナそっくりと言われる。
「悪霊」はロシアに革命をおこそうとした人々の動きを描写した小説である。
マリアは頭の狂った女性であるが、
狂人ゆえに正しいことを発言してしまう癖がある。

「6号室」、「悪霊」
ともに
「狂っているが正しいことを言う」
「正しいことを言う人が狂っているとみなされる」
という意味では共通している。

3、前述のプーシキンの手紙。

4、主人公が妻と語る2回のシーンの内、
後半のモノクロバージョン
「名前はドストエフスキーか?」
という。
これは嫌味で言っているので、特に意味はないと思われる。
ただし、ドストエフスキーは反体制運動をしていた人であり、
主人公はその場面で、
「われわれもブルジョア化したか」と、
当時の体制的な言葉で語っている。
かなり強い非難の声であるのと同時に、
主人公が(同様のシーンのカラーバージョンと異なって)、
体制的態度を持っていることが示されている。


5、印刷所でのシーン。
非難された母がシャワー室に逃げ込む。
非難した女上司はシャワー室を空けようとして、あけられず、
諦めてどこか楽しそうに立ち去る。
その際口にする言葉が、
「人生半ばにして我暗き森に迷い」である。

これはダンテの「神曲」地獄編の冒頭のセリフであり、
少し文学を知っているものなら誰でも思い出すセリフである。

宮崎駿「風立ちぬ」の、
主人公とカプローニが出会う平原が、
ダンテ「神曲」の煉獄をイメージしていると、
鈴木Pが言っていた。
つまりタルコフスキー「鏡」と宮崎駿「鏡」は、
ダンテの神曲という意味で共通している。

思い起こしていただきたいのだが、
まず「鏡」作中のモノクロの沼地のシーンは、
「腐海」を渡るシーンであった。
ナウシカの「腐海」を連想させずにはおれない。

http://yomitoki2.blogspot.jp/2014/03/1.html

そして「風立ちぬ」作中で「ピラミッド」という言葉が出てくるが、
まさに同じ用法でピラミッドという言葉が、
タルコフスキー「ノスタルジア」作中で出てくる。

そして「風立ちぬ」、というより宮崎駿自身が、
どれほどタフコフスキーから影響を受けているか指し示す「風」の映像がある。
以下リンクをクリックいただきたい。
映像小さくて見にくいが、
風に草が揺れる様を見ていただきたい。



「鏡」1分50秒から





「風立ちぬ」の風のシーン、それ以上に、震災のシーンに酷似しているのが理解できるだろう。


タルコフスキーが黒澤明から大きく影響を受けているのは、
有名な話である。

黒澤もタルコフスキーから大きく影響を受けている。

http://yomitoki2.blogspot.jp/2014/01/blog-post_3.html

宮崎駿は黒澤明から大きく影響を受けている。

http://yomitoki2.blogspot.jp/2014/01/blog-post_7236.html


そして「神曲」「腐海」「ピラミッド」「風」から明らかなように、
宮崎はタルコフスキーからも大きく影響を受けているのである。
特に「風立ちぬ」は最も影響を受けた作品と言えるのではないか。





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2014年4月7日月曜日

アジア情勢


アバウトな表である。
一人当たりGDPはWikiから拾ってきたのだが、
人口の推計はどこから引っ張ってきたのか忘れた。
おそらく相当間違っているが、調べなおすの面倒くさいのでこのまま。

今後のことを考えるご参考としてご覧いただきたい。

2050年までのアジアの人口推計と現在の一人当たりGDP


1、北朝鮮はさすがに貧しい
2、旧大日本帝国領で戦後アメリカについたところ(台湾と韓国)はほぼ同じ発展
3、シンガポール、ブルネイのリッチさは目につく。ただし後背地の無い都市国家。
4、インドネシア、フィリピン、ベトナム、ミャンマー、カンボジア、ラオス、がほぼ同じ貧しさ
5、タイは中国と同じレベルの豊かさ。だからタイでも中国でも暴動が絶えない。(台湾、韓国も昔はもっと激しかった)
6、中国の人口は2030年ころ頭打ち。東南アジアは最低でも2050まで増え続ける。
ただし既に発展しているタイとシンガポールは頭打ちになる。


これらのことから以上のことがだいたい言えるのではないか。

1、中国の軍事的脅威は、とりあえず2030年ごろ、つまりこれから15年程度がヤマ。それ以降は圧迫が若干弱まる。
2、東南アジア全般、今が所得が低すぎるので伸びる余地が膨大にある。
3、フィリピンの経済成長さえ確保できれば、対中国軍事脅威は大幅に削減可能。
現状、フィリピン、ベトアムの経済力が低すぎ、
軍事量も低いので中国の拡張を誘発させている。
現在の所得高から考えて、フィリピンの経済成長はさほど難しいことではない。
4、ベトナム、カンボジア、ラオス、ミャンマーは、中心のタイに引っ張られて発展してゆくだろう。
治安さえ維持できれば、わりと放置でよいかもしれない。ただしここでも中国軍進出は怖い。


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2014年4月4日金曜日

タイ雑感2

今回の赤と黄色の争いは、
とりあえず赤が勝ちそうである。
ざっくり言えば、赤は民主派、黄色は王党派である。

タイの現国王は大変なカリスマで、
実際に物凄い名君なのだが、
国王の威信を宣伝したのはアメリカだ、
国王のカリスマはアメリカが作った、という説がある。

前代の王は第二次大戦後に謎の死を遂げて、
(実行犯は辻政信、という説もある)
若くして即位した。
その後政務に励んで、タイを良い国にしたのは事実だが、
それを大きく喧伝したのはアメリカCIAというのがもっぱらの噂である。
アメリカの東南アジアにおける影響力保持の為らしい。

日本の天皇家が戦前そうであったように、
タイ王室も結構な財閥で、
有象無象がまとわりついている。
それらが色々悪さをするのだが、
国王陛下お一人では無論、
悪人退治の手が廻らない。

そこへ登場したのがタクシンである。
ホリエモンが
「タイのタクシンは田中角栄に似ている」と言ったが、
これは全くそのとおり。
政策実行能力は、大変高い。
それで選挙には強さを誇ったが、結局司法にやられる。
ロッキードパートⅡであった。
タクシンは結局国を追われて、タイに帰ってこれなくなった。

ロッキードパートⅡ以降は赤と黄色がくんずほずれずしながら、
今までタイを運営してきたのだが、
最近、黄色が弱まり過ぎた。
選挙で弱い、というより絶対に勝ち目がなくなった。
勢力挽回のチャンスがほとんどなくなった。

こんなときの定番はクーデターであるが、
国王陛下ご病気の最中では、
クーデターの後事態を収拾出来る人が存在しない。
ということはクーデターをやりづらい。

(日本とは、クーデターという言葉のニュアンスがかなり違うのである。
数年前まで、タイのクーデーターはほぼ日本の総選挙くらいの軽いイベントで、
クーデター慣れしすぎて半日くらいで全てが完了していたくらいである。
但し、それも事後の国王陛下の収集があってのことである。
国王の偉大さはこのことからも了解できる)

方策のなくなった黄色は、とりあえずデモをするのだが、
デモの主張は最悪なことに、「選挙で代表を選ぶな」というものだった。
「賢人会議を開催しろ」と。

繰りかえすが、黄色のバックにアメリカが居るのでは、と囁かれている。
わたしなどは、なんぼなんでも、そこまであからさまに民主主義を否定されると、
アメリカもやばいのではないか、といらぬ心配をしていた次第である。

おそらく水面下で、いろんな話し合いがなされたのだろう。
黄色もアメリカも、いろんな思惑があったのであろう。
そして、映画のようなコミカルな事態に発展した。

黄色のデモ隊がアメリカ大使館を取り囲み、
「いらん口を出すな!!」
「俺達には俺達のやりかたがある!!」
と叫んだ、というのだ。

アメリカ国務省の面々の苦悩が手に取るようによくわかる。
ああ、馬鹿な連中をバックアップするんじゃなかった。
今まで上手くいっていたのは要するに、
国王一人が優秀なだけだったのだ。

アメリカに出来る最善の事は、
いますぐ黄色から赤に乗り換えることなのだが、
長い付き合いだったから、切り替えにくいのかもしれない。
しかしなんとかせにゃ、
ロシア、中国にガンガンやられてしまう、という状況ではある。


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2014年4月3日木曜日

タルコフスキー「鏡」・解読7

主人公の少年時代の思いでのシーン、
隣に居る少年が、回れ右の号令に反抗して、
360度回転するシーンがある。

これは、革命とは回転することであるから、
結局元に戻る、という意味である。
明快な反革命、反体制思想である。
しかしストレートには表明できないから、このような表現になった。

ちなみに、この少年は主人公でもなければイグナートでもない。
顔も違うし、服も違う。
服の違いはこのややこしい映画を読み解く重要要素であって、
タルコフスキーは服への配慮が大変素晴らしく、
整合的である。

主人公の少年時代の演技と、
主人公の子ども(イグナート)の演技は、
一人の少年が担当しているが、
イグナートの場合には、格子柄のシャツの上にセーターを着ている。
別の場面ではそのうえにジャンパーをはおり、頭に帽子を載せているが、
格子のシャツということは変わらない。

冒頭のテレビをつける少年も、格子のシャツであることから、
イグナートであるとわかる。


レオナルドの画集を開くシーンが2回ある。
両方とも主人公の少年時代である。
服の衿を見ればわかる。両方共コートを着ている。
うち一回はイグナートのシーンに近接しているので間違いやすいが、
主人公と見るのが妥当である。

オープニングクレジット終了直後、
美しい田舎の風景のシーン、
母はワンピースの上にカーディガンをひっかけている。
ところで作中、ワンピースのみのシーンもあり(子どもの水浴び)、
カーディガンをひっかけるシーン(主人公の寝起き)もある。
時系列ぐじゃぐじゃだが、
再現してワンピースのみ→ひっかける→冒頭のシーン
と並べ替えて理解するのが正しい。

タランティーノの「パルプ・フィクション」みたいなもんである。


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