作中文学作品に関することが5回語られる。
うち4回はロシア文学である。
1、冒頭の棚に母が座っていたシーン。
チエホフの「6号室」が話題になる。
「6号室」は、チエホフの短編で、
精神科の医者が患者と仲良く知的な会話をしてしまい、
次第に「頭が狂った」とみなされ、病室に入れられて死ぬ、
という話である。
母にちょっかいをかけた医者は、
「植物にも記憶がある」ということを言ったりしたので、
母に頭を疑われる。
「あなた、ちょっと」
「いや大丈夫、私は医者だ」
「6号室は?」
「あれはチエホフの作り話だ」
2、母が印刷工場で非難されるシーン。
「悪霊」のマリア・チモフェーブナそっくりと言われる。
「悪霊」はロシアに革命をおこそうとした人々の動きを描写した小説である。
マリアは頭の狂った女性であるが、
狂人ゆえに正しいことを発言してしまう癖がある。
「6号室」、「悪霊」
ともに
「狂っているが正しいことを言う」
「正しいことを言う人が狂っているとみなされる」
という意味では共通している。
3、前述のプーシキンの手紙。
4、主人公が妻と語る2回のシーンの内、
後半のモノクロバージョン
「名前はドストエフスキーか?」
という。
これは嫌味で言っているので、特に意味はないと思われる。
ただし、ドストエフスキーは反体制運動をしていた人であり、
主人公はその場面で、
「われわれもブルジョア化したか」と、
当時の体制的な言葉で語っている。
かなり強い非難の声であるのと同時に、
主人公が(同様のシーンのカラーバージョンと異なって)、
体制的態度を持っていることが示されている。
5、印刷所でのシーン。
非難された母がシャワー室に逃げ込む。
非難した女上司はシャワー室を空けようとして、あけられず、
諦めてどこか楽しそうに立ち去る。
その際口にする言葉が、
「人生半ばにして我暗き森に迷い」である。
これはダンテの「神曲」地獄編の冒頭のセリフであり、
少し文学を知っているものなら誰でも思い出すセリフである。
宮崎駿「風立ちぬ」の、
主人公とカプローニが出会う平原が、
ダンテ「神曲」の煉獄をイメージしていると、
鈴木Pが言っていた。
つまりタルコフスキー「鏡」と宮崎駿「鏡」は、
ダンテの神曲という意味で共通している。
思い起こしていただきたいのだが、
まず「鏡」作中のモノクロの沼地のシーンは、
「腐海」を渡るシーンであった。
ナウシカの「腐海」を連想させずにはおれない。
http://yomitoki2.blogspot.jp/2014/03/1.html
そして「風立ちぬ」作中で「ピラミッド」という言葉が出てくるが、
まさに同じ用法でピラミッドという言葉が、
タルコフスキー「ノスタルジア」作中で出てくる。
そして「風立ちぬ」、というより宮崎駿自身が、
どれほどタフコフスキーから影響を受けているか指し示す「風」の映像がある。
以下リンクをクリックいただきたい。
映像小さくて見にくいが、
風に草が揺れる様を見ていただきたい。
「鏡」1分50秒から
「風立ちぬ」の風のシーン、それ以上に、震災のシーンに酷似しているのが理解できるだろう。
タルコフスキーが黒澤明から大きく影響を受けているのは、
有名な話である。
黒澤もタルコフスキーから大きく影響を受けている。
http://yomitoki2.blogspot.jp/2014/01/blog-post_3.html
宮崎駿は黒澤明から大きく影響を受けている。
http://yomitoki2.blogspot.jp/2014/01/blog-post_7236.html
そして「神曲」「腐海」「ピラミッド」「風」から明らかなように、
宮崎はタルコフスキーからも大きく影響を受けているのである。
特に「風立ちぬ」は最も影響を受けた作品と言えるのではないか。
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2014年4月9日水曜日
2013年12月14日土曜日
シュワの墓所について
アニメ版ナウシカは、
コミック版ナウシカの、
ごく一部に過ぎない。
そしてコミック版ナウシカの本質は、
キリスト教批判であり、キリスト教克服である。
ペリー来航で西洋文明に触れた日本人は、
大きなショックを受けた。
西洋文明を理解し、消化しようと努力を重ねるが、
彼我の能力差はあまりにも大きい。
深刻なコンプレックスを伴う苦闘の中で、
徐々に明らかになってきたことは、
巨大なる西洋文明の本質は、
科学技術ではなく、
科学技術の母体となったキリスト教であり、
聖書であるということである。
だいたい太宰治、坂口安吾のあたりから相手の正体は明らかになっていた。
太宰は「如是我聞」という文章でそのことについて触れており、
坂口は太宰死去に際に「不良少年とキリスト」という文章を発表している。
キリスト教との対峙はその後も続き、
遠藤周作の浄土真宗的キリスト教もそうだし、
漫画では諸星大二郎「生命の木 ぱらいそさいくだ」もその系列である。
宮崎駿もその系列に連なる。
コミック版ナウシカは、非常にバイブルを重要視して、
そこに強い批判を加えている。
(そのことについて、
クリスチャンであり、宮崎ファンでもある、
立花隆、佐藤優が本格的に議論しようとせず、
避けて通ろうとしているのは、まことに残念である)
巨大な生きた石の塊、「シュワの墓所」は、
バイブルのことである。
宮崎はこのコミック版ナウシカを、
「ヨハネの黙示録」を元に組み立てている。
大地の浄化に必要とされる1000年という期間は、
千年王国に対応する。
「ヨハネの黙示録」では千年王国出現の直前に、
「この世の支配者たちの上に君臨されるかた」が出現する。
その人物は「血染めの衣」をまとっている。
ナウシカの服がオームの血、のちにシュワの墓所の血で染まることに対応している。
旧約聖書の冒頭の創世記は、
天地の始まりを説き、
新約聖書の終結のヨハネの黙示録は、
天地のこれからを説く。
全ての時間は、バイブル二冊の中に封じ込まれている。
人間に許されるのはただ、
バイブルの解釈だけである。
全ては計算された出来事であり、
生きているのはバイブルのみであり、
全ての生物は生命のなかばをバイブルに奪われたままになっている。
ナウシカは、キリスト教が生んだ科学技術の産物である巨神兵、すなわち核兵器を用いて、
シュワの墓所を破壊する。
これが知性主義の結末であるというのだ。
キリスト教とナウシカ、両者の根源的な対立点を述べよう。
両者は生と死をどのように捉えるかで決定的な相違がある。
キリスト教では、死は敗北であり、悪いものであり、生と対立するものである。
ナウシカにとって、死は生と相互依存的なものである。
死があるからこそ生があり、両者は不可分である。
「ヨハネの黙示録」の最終章である第22章19に、
「また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる」
とある。
ここで言う「いのちの木」とは、創世記に記されている、知恵の木とともにエデンの園に生えていた「生命の樹」であろう。
知恵の樹の実を食べてアダムとイブは知恵を得た。
生命の樹の実を食べれば永遠の生命を得られたのだが、
神はそれを恐れてアダムとイブを楽園から追放した。
「ヨハネの黙示録」は、そのエデンに回帰しようとする物語である。
しかしナウシカは、知恵の樹も、生命の樹も、エデンも拒否した。
太宰や坂口は、ナウシカに会ったら、なんと語りかけただろうか?
コミック版ナウシカの、
ごく一部に過ぎない。
そしてコミック版ナウシカの本質は、
キリスト教批判であり、キリスト教克服である。
ペリー来航で西洋文明に触れた日本人は、
大きなショックを受けた。
西洋文明を理解し、消化しようと努力を重ねるが、
彼我の能力差はあまりにも大きい。
深刻なコンプレックスを伴う苦闘の中で、
徐々に明らかになってきたことは、
巨大なる西洋文明の本質は、
科学技術ではなく、
科学技術の母体となったキリスト教であり、
聖書であるということである。
だいたい太宰治、坂口安吾のあたりから相手の正体は明らかになっていた。
太宰は「如是我聞」という文章でそのことについて触れており、
坂口は太宰死去に際に「不良少年とキリスト」という文章を発表している。
キリスト教との対峙はその後も続き、
遠藤周作の浄土真宗的キリスト教もそうだし、
漫画では諸星大二郎「生命の木 ぱらいそさいくだ」もその系列である。
宮崎駿もその系列に連なる。
コミック版ナウシカは、非常にバイブルを重要視して、
そこに強い批判を加えている。
(そのことについて、
クリスチャンであり、宮崎ファンでもある、
立花隆、佐藤優が本格的に議論しようとせず、
避けて通ろうとしているのは、まことに残念である)
巨大な生きた石の塊、「シュワの墓所」は、
バイブルのことである。
宮崎はこのコミック版ナウシカを、
「ヨハネの黙示録」を元に組み立てている。
大地の浄化に必要とされる1000年という期間は、
千年王国に対応する。
「ヨハネの黙示録」では千年王国出現の直前に、
「この世の支配者たちの上に君臨されるかた」が出現する。
その人物は「血染めの衣」をまとっている。
ナウシカの服がオームの血、のちにシュワの墓所の血で染まることに対応している。
旧約聖書の冒頭の創世記は、
天地の始まりを説き、
新約聖書の終結のヨハネの黙示録は、
天地のこれからを説く。
全ての時間は、バイブル二冊の中に封じ込まれている。
人間に許されるのはただ、
バイブルの解釈だけである。
全ては計算された出来事であり、
生きているのはバイブルのみであり、
全ての生物は生命のなかばをバイブルに奪われたままになっている。
ナウシカは、キリスト教が生んだ科学技術の産物である巨神兵、すなわち核兵器を用いて、
シュワの墓所を破壊する。
これが知性主義の結末であるというのだ。
キリスト教とナウシカ、両者の根源的な対立点を述べよう。
両者は生と死をどのように捉えるかで決定的な相違がある。
キリスト教では、死は敗北であり、悪いものであり、生と対立するものである。
ナウシカにとって、死は生と相互依存的なものである。
死があるからこそ生があり、両者は不可分である。
「ヨハネの黙示録」の最終章である第22章19に、
「また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる」
とある。
ここで言う「いのちの木」とは、創世記に記されている、知恵の木とともにエデンの園に生えていた「生命の樹」であろう。
知恵の樹の実を食べてアダムとイブは知恵を得た。
生命の樹の実を食べれば永遠の生命を得られたのだが、
神はそれを恐れてアダムとイブを楽園から追放した。
「ヨハネの黙示録」は、そのエデンに回帰しようとする物語である。
しかしナウシカは、知恵の樹も、生命の樹も、エデンも拒否した。
太宰や坂口は、ナウシカに会ったら、なんと語りかけただろうか?
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