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2014年8月29日金曜日

タルコフスキー「鏡」・解読19

「鏡」の解釈について、訂正である。
前に


(第一部)
 1、草原と若い母と旅の医者(幼年時代)A-1
2、母の印刷工場時代(少年時代)B-1
3、別れた妻との会話・カラー(成人時代)C-1
(第二部)
 4、戦争の時代の記録映画(幼年時代)A-2
5、イグナートの留守番(成人時代)B-2
6、兵役訓練(少年時代)C-2
(第三部)
 7、別れた妻との会話・モノクロ(成人時代)C-3
8、母とたずねた田舎の家での営業(少年時代)B-3
9、草原と老いた母と主人公(幼年時代)A-3




となる構成にしたがって、私なりに読み解くと




1、侵攻を喪失したロシアに、ヒトラーが接近した。ヒトラーは去ったが、国土は焼かれた
2、その後、圧制の時代になった。一言半句の間違いが命取りになる時代。
 3、圧制も終わり、通常の生活の中でも、過去のスペイン内戦介入の残滓は引きずっている


4、スペイン内戦介入から始まる、全ユーラシアの戦乱の時代
 5、思えばタタールの侵入以来のロシアの宿命はまさにそこにあった。全ての苦難を引き受けてきた
6、戦争で傷ついた教官が、両親を封鎖で亡くした少年に軍事訓練をほどこす。
 苦しみの連鎖。少年たちは心の鳥(希望)を握り締めてしまう


7、一見平穏に見える現在の生活も、内実は非難と疲労で成り立っている。
 涙の中から宗教への希求が立ち上がる。
 8、強制されたとはいえ、最悪だったのは、スターリンの粛清の時代である。
だが、最悪の悲劇の中にも、意味は存在する。他者の苦しみを請け負うという意味が。
 母なる大地の苦しみに、父なる神も寄り添う。子である人民も寄り添う。
 9、歴史は克服され、ロシアの焦土化も回避される。
 握り締めた希望は飛び立ち、主人公自身も鳥となり、希望を体現する



と書いたが、鳥は明らかに、聖霊である。
キリスト教絵画では聖霊は鳥として描かれる。
だから希望というより、聖霊とみなしたほうが良い。

そして聖霊とはすなわち、耳に訴えかけるもの、
言葉である。
ニケア信条を読み解く
http://yomitoki2.blogspot.jp/2010/02/blog-post.html


6章で少年は軍事訓練の後、言葉を握りしめた。
8章で鳥が宙に浮く母の前を横切る
9章で握りしめた鳥は飛び立ち(すなわち言葉が飛び立ち)
、主人公も鳥の声で鳴く(すなわち言葉を取り戻す)。


ここで重要なのが、
最後の子どもの主人公が鳥の声で鳴く、というシーンである。
ギリシャ正教では聖霊は父からのみ発する。
カトリックでは聖霊は父からも子からも発する。
タルコフスキーはカトリック思想の持ち主だという証言があるらしいが、
それはこの鳥の扱い、つまり聖霊の扱いから明らかなのである。

2014年8月2日土曜日

風立ちぬ・解説27

映画「風立ちぬ」の参照する文学作品は、3つある。
前回触れたダンテの神曲・煉獄編
堀辰雄の「風立ちぬ」
そして作中カストロプの言う「魔の山」である。

魔の山はサナトリウム小説と言う意味で、
堀辰雄「風立ちぬ」の元になった小説である。

堀の小説「美しい村」がフーガの章を持つ教会ソナタ形式であり、
マンの名作「トニオ・クレーガー」がソナタ形式であることからも、
この時期の堀がトーマス・マンを尊敬し、目標としていたことは間違いない。

「魔の山」で主人公は、
友人を見舞う為にサナトリウムに行き、
そこで自身も結核に罹患していると診断を受け、
数年間をそこで過ごし、
やがて快癒し、山を下りる。
その間様々な人間と出会い、語らいながら、
自身の人間性を高めてゆく。
そのうちの代表的な人物は「セテムブリーニ」というイタリア出身の文士である。

神曲:主人公はウェルギリウスに導かれる
魔の山:主人公はセテムブリーニに導かれる
映画「風立ちぬ」:主人公はカプローニに導かれる

となっており、導く人間は全てイタリア人である。
堀の「風立ちぬ」はだれにも導かれないが、
「魔の山」も「神曲」あるいは二つの「風立ちぬ」との関連を、
十分考察する必要がありそうである。

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