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2014年1月29日水曜日

風立ちぬ・解説23

ヨハネの黙示録の簡単な説明

「風立ちぬ」でも「コミック版ナウシカ」でも、
宮崎駿はヨハネの黙示録を取り上げている。

聖書の中で、非キリスト教徒にとってもっとも問題のある文章は、
「ヨハネの黙示録」だからだ。

以下私の理解できている範囲内での解説。

イエス自身の考えは措いておく。
ローマ帝国がキリスト教を国教にしたのは、
1、ひとつの宗教で国家をまとめるため
2、強力な中近東文化に対抗するため
の2点の理由からである。

今日ローマが世界の中心であったかのような錯覚を持つのは、
歴史を西洋人が書いているからで、
モンゴル帝国まで、下手をすると産業革命までは、
人類の歴史の中心は中近東であった。
文化程度もずば抜けていた。
それに対抗するために、
ローマはキリスト教を国家の中心にすえた。
逆にいえばそのために、
キリスト教の「正典」を選ばなければならなかった。

初期キリスト教では、仏教で慢性的にそのような状況であったのおなじく、
多種多様な経典がやたらめったら製造されていた。
なかにはキリスト教とは名ばかりのものもあった。

ローマ帝国では、二ケア会議などの公会議を開いて、それらを分別して、
これぞキリスト教の本来の文章である、という決定をした。
仏教ではこういう決定をしていない。
なぜキリスト教では決定しなければならなかったというと、
最初から政治的要求にもとづく布教だったからである。

帝国内の各地方でまちまちの教義を信奉していたのでは、
国内はまとまらないし、
国外への対抗力も持ち得ない。

だから正統的テキストをまとめて、
従わないものは国外追放にした。
(そのうち一派は流れ流れて中国まで来たほどである)

しかし、ここで冷静に考えると、
いくらテキストをまとめて統一性を持たせても、
イエスの言行録、弟子の手紙や言行録では、
外部の敵に対して戦闘意欲は沸かないのである。
ペルシャ人に右頬を叩かれたら、左頬を差し出すのか。
ローマ帝国崩壊は必定ではないか。
本来外的に対抗するためにテキスト分別をしているのに、
採択されたテキストは品がよすぎるものばかり、
これではかえってまずいのではないか。

それで、公会議のメンバーたちは、
言行録の末尾に、
戦闘意欲を掻き立てるテキストを忍び込ませて新約聖書とした。
そのテキストが「ヨハネの黙示録」である。


この文章、はっきり言って新約聖書全体の中で浮きまくっている。
それまでの文章と全然関係が無い。
古今和歌集を読んでいたら、突然
「ラピュタは天空の城であり、かつて恐怖で地球を支配していた」と始まるような、
だいたいそんな感じである。

内容は一言で言うと、
「最終的に私たちは勝つ、そして敵は全部死ぬ」
である。
下品なこと極まりない。
おそらくまじめな公会議出席者たちにとっては、
この文章採択は苦渋の決断だったであろう。
背後にはローマ皇帝の強い影響力があったであろう。

というわけで、
かなり大人な事情で新約聖書に入れてもらえた文章なのだが、
明快に未来のビジョンを示す文章はこれしかないのだから、
どうしても影響力を持ってしまう。
宮崎の批判は正しいし、
キリスト教文化圏でも、普通に批判されている。
非クリスチャンの私としては、
新約聖書から削除していただけると、大変安心できる文章である。

ローマ法王さま、是非決断いただけないだろうかという意図を宮崎監督がもっているかどうかまでは、
定かではない。


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2014年1月27日月曜日

パウロ神学と日本アニメ

おそらくイエスという人物が実際にやりたかったのは、
ユダヤ教改革と、ユダヤの王政復古であろう。
しかし死後弟子たちが、
「イエスの生涯には別の意味がある」と主張しだした。
今日のキリスト教はその主張を基に組み立てられている。

いわく、
「アダムとイブはエデンの園で蛇にそそのかされて知恵の実を食べた。
彼らは知恵をつけるとともに、性に目覚めた。
これが人間の「原罪」である。
イエスが地上に降臨したのは、
人間をこの「原罪」から救うためである」

この教義から以下の考えが導き出される

1、性をしらぬ子供は汚れなき存在である
2、性に目覚めた大人は原罪を背負った罪深い存在である
3、子供と大人は性の点で完全に二分される

ここでもしも
大人と子供には完全な区別がなく、
大人も子供のような格好をしてよい、となったらどうなるか。
キリスト教神学が成立しなくなってしまう。

日本アニメがやっているのは、まさにこのことである。

キリスト教は「原罪」つまり性の目覚めを前提として教義を組み立てているから、
大人と子供を峻別しなければならない宿命にある。
したがって、大人向けの「かわいい」コンテンツを製造することができない。
西洋文化の弱点とも言いうるし、
日本にとって大きな市場とも言えるだろう。
ジャパンはクールであるべきではなく、
かわいくあるべきなのである。


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2014年1月20日月曜日

死食

スイカに塩を振ると甘みが増すように、
生に死を振りかけると、生の味わいが増すようである。
死は最高の生のスパイスらしい。

タイ人は死体が好きである。
普通の女の子が、死体の写真を見ながら、普通に食事をする。
以前、バンコクの交通事故の事故処理ボランティアさんをテレビ番組を見たことがある。
毎晩スタンバっていて、連絡があると事故現場に直行する。
「人命救済に情熱がありそうには見えないけど、
この人たちなんでこんなことをしているのか」
と疑問に思いながら見ていたが、
今にして思えばあのボランティアのおじさんたちは、
死体フェチ欲求を満たす為に活動していたのであろう。

東南アジア奥地のある部族では、
高位の坊さんが死ぬと、丸焼きにして村全体で肉を食べる。
食べると高貴な精神を受け継げる、という能書きらしい。
昔写真を見たことがあるが、そんな能書きよりも、
上体を起こした状態で黒焦げになっている死体の皮膚から、
指で皮膚をつまんで口に入れている子供たちの、
金属面のような無表情な顔と、
まるでポッコリ穴が開いたような目の暗さが、
強く印象に残っている。

宇都宮および浜松市民には申し訳ないが、
餃子というもの、とくに中国で正月にかならず食べる水餃子は、
私には、胎児に見えてしょうがない。

キリスト教では、
死体が貼り付けられたフィギアを、
ネックレスにして胸に垂らして、
ことあるごとにそれに口をつける。
「とりて食え、わが肉なり」
「とりて食え、わが血なり」
その死体由来のものであると宣言されたパンとぶどう酒を摂取する行為が、
聖餐と呼ばれている。

以上のような視点から、
本邦における特攻隊物語の流行を考察すべきだと思う。
「風立ちぬ」のゼロ戦のパイロットの、
微妙な表情と微妙な腕の上げ方ひとつで、
ああ、これから特攻にゆかれるのだなとわかる私達。

その時、えもいえぬ「うずき」のようなものを感じるとしても、
別に恥ずかしくもなく、タブーでもない。
人類普遍のスパイス欲求にたいする、
日本人なりの、充足の方法論なのである。

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2014年1月11日土曜日

映画雑感・三大キリスト教映画

キリスト教映画
ミッション8ミニッツという映画を見た。


http://www.amazon.co.jp/%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%EF%BC%9A8%E3%83%9F%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%84-%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%82%A4-DVD%E3%82%BB%E3%83%83%E3%83%88-%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB/dp/B005MH1KIC

大変優れていた。
私の中で、三大キリスト教映画を位置を占めている。

「ベン・ハー」
これはキリストが登場するが、顔は見せない。
それでも見終わった後クリスチャンになりたくなるほど、
良い映画だった。
(もののけ姫におけるハンセン氏病快癒の奇跡は、
明らかにベンハーの影響だろう)




「サクリファイス」
タルコフスキーの遺作。
終盤、キリスト教の三位一体教義を、
見事に表現している。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BD%8D%E4%B8%80%E4%BD%93


父と子と精霊の三位が、
交わりそうで交わらず、
しかし、世界が再生される。




三つ目がこの
「ミッション8ミニッツ」である。


主人公はイエスである。
イエスだから、父と連絡を取りたがる。
精霊(携帯メール)を使う。
理不尽な状況に置かれたとき、
人はだれしも諦める。
主人公も諦めかかる。
しかし、あるとき忽然として、
巨大な勇気を発揮する。


「たしかに無理な状況だ、
だがそれでも諦めるべきじゃない」


私はクリスチャンではないが、
イエスは好きである。
それは彼がこのような、
とほうもない勇気を持っているからである。


西洋文化とわれわれ日本人が言うとき、
ゴッホやベートーヴェンがまず連想される。
彼らのアグレッシブな創作態度の根底には、
おそらくイエスという人のキャラクターがある。
ブッダではどう転んでも、
絵の具を描きなぐったり、楽譜を書きなぐったりはしない。


この作品の監督、ダンカン・ジョーンズというひとで、
デビットボウイの息子さんだそうだ。
注目していきたい。


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2014年1月8日水曜日

映画雑感・仁義なき東京物語

深作欣二監督「仁義なき戦い」の特徴を列挙する。

1、舞台は広島県(呉市および広島市)
2、全て荒々しいことばの発音。一本調子。
3、下から見上げるようなアングル
4、山森親分、夫婦仲が大変良い
5、親と子(舎弟)の、家族の物語である



小津安二郎「尾道物語」の特徴を列挙する

1、舞台は広島県(尾道市)と東京
2、全てやたら上品なせりふ。一本調子。
3、下から見上げるようなアングル
4、周吉と妻、夫婦仲が大変良い
5、親と子(含む義理の娘)の、家族の物語である

したがって、仁義なきシリーズは、
東京物語を下敷きにした映画だと言える。

2014年1月7日火曜日

映画雑感・継承

宮崎駿は1993年、Youtubeにもアップされているが、
黒澤明と対談をおこなった。
黒澤の最後の映画「まあだだよ」は、
1993年の作品である。


そして、1997年に、「もののけ姫」が出来た。
黒澤映画を少々でも見た人は同意くださると思うが、
もののけは黒澤映画の後継である。


オカルトな表現になるが、
対談のときに、なにかが黒澤から宮崎に渡されたのだろう。


たとえば「もののけ姫」の以下のシーン






あるいは「千と千尋の神隠し」の以下のシーン








は黒澤の得意なアングルである。
(「乱」より)









「もののけ」と「千と千尋」は、
言うなれば、半分黒澤が作った。
次の「ハウル」「ポニョ」には、
黒澤の影響はない。







同様に久石の音楽も、
もののけで格段によくなった。
荒々しい打楽器あり、精緻なオーケストレーションあり。
言うなればもののけと千と千尋は、
半分黒澤映画の音楽である。
荒々しい早坂文雄と、
精密な武満徹、
かれらの影響を受けながら、必死でつくったのが、
この二本の音楽なのである。
だからすばらしい。
(武満以上にオーケストレーション上手い作曲家、歴史上何人居るだろうか?
その意味でここで久石は、地獄のような辛酸を舐めたはずである)
そして音楽も、次の「ハウル」と「ポニョ」には黒澤の影響は無い。





真似とか影響とか言うと悪く思われがちだが、
文化というものは全て真似である。
宮崎が2作影響を受けて作品をつくるほどそれほど、
黒澤は大きな存在であり、
宮崎は力量が高い、ということである。




疑う向きがあるなら、
ビデオカメラ持って、
黒澤なり宮崎なりの真似をしてみていただければ分かる。

2014年1月3日金曜日

映画雑感・サクリファイスと黒澤の「夢」

若い頃は映画ファンだった。
当時はDVDなんてものはなく、
ビデオテープで映画を見ていた。
見まくった挙句にたどり着いたのが、
タルコフスキーだった。

タルコフスキー最後の作品「サクリファイス」を見たのは、
学生時代、地方の映画館でだった。
(ノスタルジアも、サクリファイスも、地方の映画館で見れたのである。
のんきな時代である。
他の作品はビデオで見た)

サクリファイスはキリスト教映画だった。
マタイ受難曲が流れ、
父と子と精霊の三位一体教義を美しく映像化したシーンを見て、
私は十分に満足しきってしまった。

最後にタルコフスキーの言葉が出る。
短い言葉だが、すでに末期ガンであった彼の、
遺言のような、絶叫のような言葉であった。

「この映画を息子アンドリューシャに捧げる。
希望と確信を持って

アンドレ・タルコフスキー」

そして私は映画ファンをやめた。
すでに彼が死去していたことは知っていた。
彼はソ連の映画監督であった。
資本主義社会ではこんな監督が生存不可能であることは、
十分承知していた。
「このレベルの作品がもう出現しないなら、ほかに楽しいことを探したほうが早い」

しかし結局二十年の時を経て、
ふたたび映画ファンに戻れたようである。
日本のアニメ監督の仕事のおかげである。
(宮崎も、押井も、タルコフスキーの影響を強く受けている)


年末あるデザイナーさんとお話していて、
その人が好きな映画として挙げていたので、懐かしくなり、
正月に久しぶりに「惑星ソラリス」を見た。

ふと気がついた。
黒澤明の「夢」あれはほとんど、
タルコフスキーのパクリではないかしら。

タルコフスキーの死去は1986年
黒澤の「夢」は1990年の作品である。
黒澤のほうがずっと先輩である。
普通先輩が後輩をまるごとパクる、というのは考えにくい。
しかしたとえば「惑星ソラリス」の水草のシーン



「夢」の最終章「水車のある村」の最後のシーン




まったく同じではないか?
発見してかなり動揺してしまった。

これほどの著名な作家が後輩をマルパクリとは、恥を知らないか?
と興奮しても仕方が無いので、
冷静になって一覧表にしてみた。

「夢」は8章から成る。

1)「日照り雨」に相当するタルコフスキーのシーンは思い浮かばない
2)「桃畑」の鈴を持った少女は、青い服でソラリスに登場する
3)「雪あらし」凍った女性という意味ではソラリスの妻役と共通
4)「トンネル」ストーカーに出てくる意味深い犬に共通
5)「鴉」画家を描いている。「アンドレイ・ルブリョフ」に共通。
6)「赤富士」思い浮かばない
7)「鬼哭」思い浮かばない
8)「水車のある村」上記のように水草のシーンがソラリスに酷似

このように類似がたくさんあるのである。

だれが見ても、6と7は出来が悪い。
なんでこの話を入れたのか理解不能であった。

日照り雨は狐の嫁入りの話だから結婚式の話、
水車のある村は葬式の話だから、
映画全体としては人間の一生を描いたものだ。

じゃあなんで原発と核汚染の話が必要だったのか?

タルクフスキーの遺作「サクリファイス」は、
核戦争によって壊滅した世界を救済しようとする話である。
主人公は「日本の木」を子供と育てており、
最後は着物を着て、尺八音楽を流しながら家に火をつける。

そういえばタルコフスキーは、チェルノブイリ事故のついてもコメントしていた。
「チェルノブイリという言葉は、ヨハネの黙示録にある苦よもぎ、という意味だ」
チェルノブイリ事後は1986年4月
彼の死去は同年12月である。


というわけで、私の組み立てた仮説は以下である。

1)黒澤はタルコフスキーの友人だったから彼の死を悼んだ。
2)のみならず、彼の映画、「サクリファイス」のメッセージを、強く受け止めた。
3)おりしもチェルノブイリの事故があった。
4)コッポラ、ルーカス、スピルバーグ、スコセッシによびかけて、
タルコフスキーの追悼映画を作った。それが「夢」であった。
全編タルコフスキーへのオマージュに満ちている。
しかしそのことは黒澤は口にはしなかった。

「夢」はパクリではなく、オマージュだった、
そう考えれば、赤富士、鬼哭の内容も納得できる。
この仮説が正しいとすれば、
黒澤も、コッポラも、ルーカスも、スピルバーグも、スコセッシも、
立派なもんだ。

今こういう人材が居れば、
反日映画をアンジェリーナジョリーが作るってこともなかったんだろうな。
ハリウッドの主要な人材全部黒澤ファンだから、結果的に親日になっていた。
黒澤一人のおかげで日本は凄く助かっていたのだな。

それにしても黒澤の晩年、日本の映画村から総スカンをくらっていたが、
あれはなんだったのだろう。もったいないことをしたもんだ。

2014年1月1日水曜日

財務省問題とニクソンショック

消費税が上がるそうである。
大変困ったことであるが、それはおいておいて、
今財務省内でおこっているであろうことを、読み解く。


三橋貴明 1969年生まれ
上念司 1969年生まれ
渡邉哲也 1969年生まれ
いずれもリフレ派の評論家であるが、
同年生まれで3人も居る。
(厳密には三橋氏はリフレ派ではないそうだ。
しかしだいたいの意味で捉えていただければわかると思うので、
以下そのままゆく)

私は68年生まれだが、
考え方としてはだいたい近い。
(無論経済学の知識は彼らの1/1000くらいである)


で、どうしてここに集中するのか。
それより上の世代では、リフレは少数である。
下の世代では、リフレは多数とまでは言い切れないが、
上の世代よりははるかに多い。
思うに、ニクソンショックが決定的に影響力を持つ。

1971年、ニクソンがドルと金の兌換を停止した。
それ以降、紙幣と金は切り離されたままである。
上記3人が物心ついたときには、
すでに金と紙幣が関係ない世界に生きていたのである。
だが本位制時代の考え方は残っていた。

だから上記3人の世代は、
現在の世界を「言語で説明しようとする」。
その下の世代になると、もはやあたりまえだから、
あまり論じなくなる。


ここらあたりが、生まれたときから不換紙幣時代という、
最初の世代なのである。
ということは、
財務省内部でも、
1969年生まれくらいを境に、
経済にたいする意見が大きく異なっているはずである。


それより上の世代は、
「財政均衡至上主義」
「国債発行はなるべく抑えたい」
「通貨の価値を高めたい」
という考えがマジョリティーのはずだし、
それより下の世代は、
「財政均衡よりも景気回復が重要」
「国債は通貨と基本的にはかわらない」
「通貨の価値を気にするのは意味がない」
と考えている人が、マジョリティーのはずである。
財務省内で以上2派閥、というか2世代が、
大きく戦っているはずである。

といっても年上と年下なので、
かならず旧世代が勝つのだが、
旧世代の人々は、
大変居心地の悪い思いをしながら、
仕事をしているはずである。
なぜならすでに、新世代が数的にはマジョリティーだから。


同じようなことが戦前にもおこった。
戦艦が大事なのか、航空機が大事なのか、という議論である。

旧世代に人々は航空機に適応できず、
新世代の人々は航空機をやりすぎた。
(真珠湾奇襲は、航空機崇拝をやりすぎた例だと思っている)

こういう対立がおこっていると、
組織というものは、ダメになる。
不安感、焦りがどうしても拭えなくなる。
それで冷静な議論が出来なくなる。
対立を解消するには共通の目的を持つことだ。
むちゃでもなんでも、組織を維持する為にどこかに行こうとする。
大日本帝国海軍と陸軍は、
対中戦争、対米戦争に頭をつっこんで、
崩壊していった。
消費税増税は、対米戦争ほどのダメージが無いが、
対中戦争程度のダメージはある。


1969年生まれが次官になるころ、
1969+55歳で、だいたい2024年、くらいから財務省は落ち着くんだろうなとおもう。
落ち着けば冷静な経済運営が出来る。

逆に言えば、あと11年くらいは、財務省は不安定さを持つ。
焦って消費税増税を強行するようなことを、してしまう。
こまったものである。
11年くらいの辛抱である。

(とはいうものの、なんのかんの言ってエリートである。
あと3年くらいで大勢は決すると思っている)