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2019年9月17日火曜日

ツァーリ

Wikiの「ドストエフスキー」の項目が、
現在反ユダヤ主義の問題で埋め尽くされている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A8%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC


ドイツ語では、ほとんど触れられていない

https://de.wikipedia.org/wiki/Fjodor_Michailowitsch_Dostojewski

ロシア語でも同様

https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%94%D0%BE%D1%81%D1%82%D0%BE%D0%B5%D0%B2%D1%81%D0%BA%D0%B8%D0%B9,_%D0%A4%D1%91%D0%B4%D0%BE%D1%80_%D0%9C%D0%B8%D1%85%D0%B0%D0%B9%D0%BB%D0%BE%D0%B2%D0%B8%D1%87

英語でも同様

https://en.wikipedia.org/wiki/Fyodor_Dostoevsky


なんで日本語だけと?思う。
誰かが政治的意図でやったんだろうが、
自動翻訳が進歩した現代では全く無意味である。

もっともドストエフスキーが鼻持ちならんキリスト教至上主義であるのは事実で、
「悪霊」にはキリスト教徒でない人間は、魂がないとまで書いてある。
最初読んだ時は流石に反発した。
ああそうさ、私は一応仏教徒だから、魂はないさ。
しかし反発しても、彼の作家としての能力の高さは変わらない。
世界中の文学者が苦しめられた、圧倒的な能力である。

黒澤明が「白痴」の撮影中、上手くゆかなくて発作的に自殺しそうになった、という話がある。
「カラマーゾフ」を何度も読んだが、映画化できなかったという話もある。
黒澤は素朴で正直だから言っているが、
世界中の文学者が、ドストエフスキーを熱烈に愛し、
同時に熱烈に憎悪しているはずである。
彼は目標ではなく、人々を暴力的に押さえつける、文学上の強大なツァーリである。
だがみんな口には出さない。こんちくしょうと思いながら我慢している。

「悪霊」の読み解きコツコツ続けている。
実を言うと世の文学者、文学研究者を、
凶暴なツァーリから救済するためにしているという意識が少しある。
一時期社会主義にはまって、反政府活動をしていたドストさん、
結局自分が(世界文学界における)ツァーリになるんだから、なんのこっちゃである。

2019年9月13日金曜日

アメリカにおける真実

作家の村上春樹氏が、一時期アメリカの大学で文学を教えていた。
自分の作品、例えば「ノルウェイの森」を学生に読ませる。
学生一人ひとりに解釈を聞いてゆく。
色んな感じ方があって面白い。

ところが最後に学生たちが言い出す。
「で、正解はどれなんですか?」

村上は、いや文学ってのは正解とかそういうもんじゃなくて、
おのおの色んな事を感じてもらえばいいんだと言う。
すると学生が怒りだす。

「作者が正解わからないってことはないだろう!!」

なかなか大変である。
良く言えばアメリカ人は真実を求める気持ちが強いのだろう。
悪く言えば、幼稚である。
MMTの騒動みていて以上を思い出した。

2019年9月12日木曜日

勝ち組の錯視

MMTの左派っぷりが問題になっている。

だいたい西洋の思想は根底にキリスト教、あるいはそれを裏返したアンチキリスト教があり、その上にそれなりに優れた社会観察、分析があり、
その上に少々過激な社会変革ベクトルがある。三層構造になっている。

で、西洋人連中は自分たちの思想がキリストを中心にグルグル周り、
人類がかならずそうなると信じ込んでいる。
なぜなら彼らは「勝ち組」だから。
なんのかんの言って現在の世界の支配者は、
ヒンドゥーでもイスラムでも儒教でもなく、
キリスト教徒たちなのである。
そのことに対する客観的な視点を、西洋人は持ち得ない。
ちょうどお殿様が目黒もサンマをうまいと思い込むようなもので、
殿様に庶民生活を理解させようと思っても無理なのである。

で、さんざん文学受容のなかで繰り返されてきた歴史なのだが、
西洋のものを輸入する場合、

1、その内容にどの程度キリスト教的宗教心が含まれているか
2、その宗教心がどの程度事実を歪めているか、逆に言えば宗教心に歪められていない事実はどれか

を判別して再利用しなければならない。
明治維新から150年以上経過したのに、いまだにそれが実行できないのだから事態は深刻である。

MMTについて私は教科書も読んでいないような素人だから、
詳細に論じることはできないのだが、
物々交換否定論と租税貨幣論(無税国家不可能論)とJGP(労働価値説)の、
3つの結びつきの中に明らかに宗教的な、ドグマティックなものが含有されているように思えて仕方がない。

物々交換否定は、すなわち「貨幣とは神の意思である」
租税貨幣論(無税国家不可能論)は、すなわち「神の国を作らねばならない」
JGP(労働価値説)は、すなわち「労働によって神の国に参加できる」

「そんなことは学者は意図していない!!」

意図していないと思います。
でも彼らは勝ち組なので、そういう思考回路から脱却できない。

2019年9月6日金曜日

無税国家

世間では「無税国家は不可能」となっているようです。無税国家にしたから国家崩壊した事例でもあるのでしょうか、私は寡聞にして知りません。明快なサンプルもないのに断言する。トルストイの死の描写と同類です。せいぜい言えるのは「無税国家は有税国家より維持が難しい」くらいのはずです。難しいのはそれは事実ですが。

商品貨幣→金属貨幣→兌換紙幣→不換紙幣→電子信号と貨幣が進化するとして、

商品貨幣、例えば米の場合には徴税がなくても流通できます。食べれますから。
もっともこの通貨は発行が大変です。政府が大きな農家である必要あります。確かに難しい条件です。

金属貨幣の場合も同様です。政府が自前の鉱山もって、安定的に算出できれば無税国家は可能です。原材料に価値がある以上、コインにも価値があります。採掘費は当然コインで支払えます。ただ通貨私鋳を防止する警察が必要になりますから、商品貨幣よりさらに維持が難しいです。国家というか、政府が大きくなります。

兌換紙幣はさらに難しくなります。ようするに社会的道具立てがより大きくなる。
仮に徴税するとしても商品貨幣→金属貨幣→兌換紙幣→不換紙幣→電子信号と進化するにつれて維持は難しくなります。道具立てがたくさん必要になります。それを充実させてきたのが人類史です。だからsuicaに入った電子信号を皆信用している。電子信号のちからというより、道具立ての力です。

現代の貨幣制度でも、全銀システム以上のシステムを構築し、かつ警察を壊滅させなければ、無税でもやはり円が流通してゆきます。貨幣が電子信号となってから製造というか発行の手間は大幅に減りました。そのかわり道具立ては気が遠くなるほど充実させています。だから流通すると考えるのが自然です。無税だと耐久性はたしかに下がる。しかしその分さらに道具を充実させればよいだけのことです。ボトルネックであった発行の手間がない分、そちらに集中できます。

なに、ドルのほうがよい?国内で買い物できないんじゃ仕方がありません。やはり円が流通します。無税のほうがシステムとしては脆くなりますが、成立不能とは言い切れない。言い切る根拠がない。

根拠がないのになぜ言い切るか。おそらく主流派の「そんなことをすればハイパーインフレが」という恐怖と同じメンタリティーがMMTの中にもあって、それが「無税国家は存続不能」という形で現れるのであろうと思います。原因は同じ、表現形が違う。

原因は「貨幣」の特質にあります。貨幣は信用の道具ではありません。不信の道具です。だから貨幣の扱いには正体不明の恐怖が付着します。音楽の逆です。不信も信用の一種と言えなくもありませんが。




コミュニケーション・サークル【貨幣・言語・音楽】