ページ

2014年12月22日月曜日

銀河鉄道の夜・解読4

3回出てくる言葉を、
それぞれ「模型・現物・抽象」あるいは「大・中・小」で分類すると、
以下のようになる。



あんまり綺麗な図にならない。
無念である。
解読という意味ではこのへんがそろそろ限界である。
なにしろ未完成作品だから。

以下は私の妄想である。

この小説には「三角標」という言葉が13回も出てくる。
「鉄道」などの言葉が「3回」づつ出現することからも、
全文が「3」にこだわっているものであることは確実である。
そういえば鳥取りの人も狩猟の際に足をきっかり60度に開いている。
これはおそらく人間三角標である。
そして私見では、3という数字、および三角標はおそらく三位一体教義を表現している。
ざっと解釈を説明すれば、


1)天気輪の柱が変形して三角標になった。
本文中
「そしてジョバンニはすぐうしろの天気輪の柱がいつかぼんやりした三角標の形になって、
しばらく蛍のように、ぺかぺか消えたりともったりしているのを見ました」
という部分である。この直後ジョバンニは銀河鉄道に乗車している自分を発見する。


2)天気輪の柱は「法華経」で言う多宝塔である。


3)三角標はキリスト教で言う三位一体教義である。


4)ただし、この三位一体教義は、正教会での三位一体ではない。
正教会の(本来の)三位一体教義は、私の解釈では
父:脳
子:視覚
精霊:聴覚
である。
ニケア信条を読み解く 参照



一方カトリックの三位一体教義は、私の解釈では
(あるいは私の考える賢治の解釈では)
父:大(抽象)
子:中(現物)
精霊:小(模型)
である。

「フィリオクェ問題」参照


カトリックの三位一体教義ならば、「銀河鉄道の夜」に整合的である。


5)「銀河鉄道の夜」は北十字と南十字の描写に見られるように、
一見キリスト教に寄った作品である。
しかし天気輪の柱が変形して三角標になる、
つまり多宝塔が変形して三位一体教義になることかわわかるように、
あきらかに賢治の法華経信仰を普遍化してゆくものとして描かれている。


以上で「銀河鉄道の夜」解読を終わる。
想像以上にマニアックで濃い作品である。
人間コンピューター賢治にも、
あまりにも濃すぎてついに完成出来なかった。


しかしこういう作品を構想しようとすることじたい、
かれの極端な文章能力の高さを証明している。
感触的にはタルコフスキーや宮崎駿よりも堀辰雄よりも濃い。
私が似ている感触を持つのはドストエフスキーくらいである。



にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村



映画(全般) ブログランキングへ





2014年12月20日土曜日

銀河鉄道の夜・解読3

前回述べたごとく「3回出現する言葉」に注目すると、
以下のような表ができる。
ただし末尾のように分類しきれないものも残る。
未完成品だから仕方が無い。













順に説明する。

1)川
一、午后の授業 (授業で説明される模型の
天の河)
七、北十字とプリオシン海岸 (実際に手に触れる天の川)
9-11 カンパネルラ溺死と父帰還の予感 (カンパネルラが溺れた川)

2)レンズ(前回説明済み)

3)紙
二、活版所 (活版所の人から渡されるメモ)
九、ジョバンニの切符 (十字を書いてある切符)
9-11 カンパネルラ溺死と父帰還の予感 (カンパネルラの父が受け取った手紙)

4)鉄道(前回説明済み)

5)工事
三、家 (模型の鉄道工事)
七、北十字とプリオシン海岸 (発掘工事)
9-6 ソ連の発破と双子の星  (架橋工事)

6)赤い玉
三、家 (ジョバンニが家で食べるお姉さんが作った料理のトマト)
9-3 リンゴ (燈台守に貰うリンゴ)
9-7 蠍の炎 (さそり座のアンタレス)

7)船
四、ケンタウル祭の夜 (からすうりの船(灯篭流し)
9-2 タイタニック死者の乗車 (タイタニックとおぼしき船)
9-11 カンパネルラ溺死と父帰還の予感 (ザネリとカンパネルラの乗った船)

8)溺死
9-2 タイタニック死者の乗車 (タイタニック乗客の溺死)
9-7 蠍の炎 (井戸に落ちたさそりの溺死)
9-11 カンパネルラ溺死と父帰還の予感 (カンパネルラ溺死)

9)光と影
四、ケンタウル祭の夜 (街灯とジョバンニの影)
七、北十字とプリオシン海岸 (海岸への階段での二人の影)
八、鳥を捕る人 (甲虫の光と影)

10)平面化
七、北十字とプリオシン海岸 (牛の化石の発掘。みかけ上牛が平面化している)
八、鳥を捕る人 (鳥を採集すると平面化してお菓子になる)
9-7 蠍の炎 (さそりが平面化してさそり座になる)

11)牛
七、北十字とプリオシン海岸 (牛の化石)
9-8 ほんとうの神様 (おうし座(ふたごの星)
9-10 牛乳の入手 (母牛と子牛)

12)狩猟
八、鳥を捕る人 (ともかくも鳥の狩猟)
9-5 新世界交響楽 インディアン (弓矢による狩猟)
9-7 蠍の炎 (イタチによるさそりの狩猟)


以上が「3回出現する言葉」で私が発見できたものである。

以下「それらしい言葉なのだが3回ではないもの」を説明する。


まず2回出現するもの

ゆるい服
二、活版所 (ゆるい服の人、ジョバンニの職場のボスらしき人)
9-4 かささぎ 孔雀 渡り鳥 ゆるい服の人(鳥の交通整理)


ミルク
一、午后の授業 (天の川をミルクに例える)
9-10 牛乳の入手 (お母さんのためのミルク)

お菓子
二、活版所 (お母さんのための角砂糖)
八、鳥を捕る人 (鳥の菓子)



4回出現するもの

母のところに行く
9-8 ほんとうの神様 (タイタニックの死者が母の所へ行く)
9-9 石炭袋とカンパネルラの消滅 (カンパネルラが母の所へ行く)
9-10 牛乳の入手 (子牛が母牛の所へ行く)
9-11 カンパネルラ溺死と父帰還の予感 (ジョバンニが牛乳を持って母の所へ行く)



もうひと頑張りで全て3回にそろえられそうだが、
あくまで未完成なのである。
しかしここまで緻密に組み立てただけでも、たいしたもんなのである。

さてそこで再び鉄道を考える。


4)鉄道
三、家 (模型の鉄道)
五、天気輪の柱 (現実の鉄道)
六、銀河ステーション (銀河鉄道)

鉄道は3回登場する。
家でジョバンニはカンパネルラ宅での鉄道模型遊びについて言及する。
天気輪の柱でジョバンニは遠くの列車を見る。
銀河ステーションでジョバンニは銀河鉄道に乗り込む。

模型、現実、抽象の3種類の鉄道が登場する。
小、中、大の3種類と言っても良い。

あるいは川

1)川
一、午后の授業 (授業で説明される模型の天の河)
七、北十字とプリオシン海岸 (実際に手に触れる天の川)
9-11 カンパネルラ溺死と父帰還の予感 (カンパネルラが溺れた川)

模型の川、天の川、実際の川である。
小、大、中、の3種類ある。

つまり作品中の3回出現イメージは、
模型、現実、抽象、
いいかえれば、
小、中、大の3種類で統一されているのではないかと思われる。

2014年12月19日金曜日

銀河鉄道の夜・解読2

銀河鉄道の夜は、完成していない。
第四稿まで推敲されたが、結局完成されないまま、
原稿の欠落や矛盾を抱えたまま出版されている。
そのため、きれいな構造を見出すことが難しい。
構造が見えたとしても、
それは推敲途中の構造であり、
作者の最終目標ではない可能性が捨てきれないから、
このページで過去にやってきたような、
確実な情報としては伝えづらい。
その上で、読み解けた部分を説明してゆきたい。

当然ながら銀河鉄道の夜は、
星空を旅する物語である。
読み解きには星空の参照が欠かせないが、
その点については既に十分な研究がある。

プリオシン海岸



天文に疎い私としては、
この方面で書き加えるべき知見は特に無い。

それで従来どおり物語の構造を見てゆこう。

まず章立てである。
9章に分かれているが、
9章目の「ジョバンニの切符」が規模が大きすぎる。
それで「ジョバンニの切符」のみを、
11に分ける。

一、午后の授業
二、活版所
三、家
四、ケンタウル祭の夜
五、天気輪の柱
六、銀河ステーション
七、北十字とプリオシン海岸
八、鳥を捕る人
九、ジョバンニの切符
9-2 タイタニック死者の乗車
9-3 リンゴ
9-4 かささぎ 孔雀 渡り鳥
9-5 新世界交響楽 インディアン
9-6 ソ連の発破と双子の星
9-7 蠍の炎
9-8 ほんとうの神様
9-9 石炭袋とカンパネルラの消滅
9-10 牛乳の入手
9-11 カンパネルラ溺死と父帰還の予感

その上で、例えば鉄道について注目してみる


三、家 (模型の鉄道)
五、天気輪の柱 (現実の鉄道)
六、銀河ステーション (銀河鉄道)

鉄道は3回登場する。
家でジョバンニはカンパネルラ宅での鉄道模型遊びについて言及する。
天気輪の柱でジョバンニは遠くの列車を見る。
銀河ステーションでジョバンニは銀河鉄道に乗り込む。

次にレンズに注目する

一、午后の授業 天の川のレンズ
二、活版所 虫眼鏡くん
九、ジョバンニの切符 アルビオン観測所のレンズ

レンズも3回登場する。
午後の授業で、先生は天の川はレンズ状になっていると説明する
活版所でジョバンニは、「よう虫眼鏡くん」と馬鹿にされる
ジョバンニの切符で、アルビオン観測所にレンズがある

どうも「3回」というのがかなり重要なようだ。

「鏡」あるいは「千と千尋の神隠し」想起いただきたい。
いずれも「3」で仕立てられた物語であるが、
そのような物語の場合、
そのことが作品冒頭で暗示されている。

で、銀河鉄道本文を検討すると、
「3」という数字が頻出する。

二、活版所より
「町を三つ曲がってある大きな活版所に入って」
「入り口から三番目の高いテーブルに座った人」

三、家より
「三つ並んだ入り口の左側には」
「ああ三時ごろ帰ったよ」

四、ケンタウル祭の夜より
「三本の足のついた小さな望遠鏡」

五、天気輪の柱より
「青い琴の星が三つにも四つにもなって」

六、銀河ステーションより
「天気輪の柱がいつしかぼんやりとした三角標の形になって」

というわけで、
銀河鉄道の夜の中には、
同一のものが三回出現する、と仮定して読み解きをすすめる。


にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村




映画(全般) ブログランキングへ

2014年12月1日月曜日

銀河鉄道の夜・解読1

どうも日本アニメ系の人々にとって、
歴史上最重要の作品は、
宮沢賢治「銀河鉄道の夜」のようである。

私は昔から宮沢が嫌いなのでろくに読んでいなかった。
今回ようやく少しまとめて読んで、
なるほどこれは大きな作家だと理解できた。
45過ぎて遅い話である。

銀河鉄道の夜を解読するにあたって、
まずは宮沢賢治について考えたい。

賢治は童話作家である。
似た存在は、宮崎駿以外に居ない。
つまり、童話を書いているのだが、童話をかくのに相応しくないほどに、
頭の性能が高く、過剰に充実した作品を作っている。
宮崎の場合は、知識、教養、および動画作画能力である。
宮沢賢治の場合は、文章の密度である。

宮沢の文章は読みにくい。
それは単純に、文章教養が高いからである。
その素地はおそらく、
仏教によってつくられた。
賢治の実家は熱心な浄土真宗の信者で、
後にかれは日蓮宗に鞍替えするのだが、
重要なことは、子どもの頃から仏典に親しんでおり、
成人後もやはり仏典を教養の中心にすえている、ということである。
中島敦における漢文が、
宮沢賢治における仏典なのである。
坂口安吾も仏教を勉強しているが、
あれは成人後の勉強であり、
しかも「勉強」なのである。
宮沢賢治は「信者」である。
脳みそへのしみこみ方は、次元が違うはずである。

例えば「二十六夜」中の、
賢治がでっちあげたお経を見よ

「爾の時に疾翔大力、爾迦夷に告げて曰いはく、諦に聴け、諦に聴け、善之を思念せよ、我今汝に、梟鵄諸の悪禽、離苦解脱の道を述べん、と。
爾迦夷、則、両翼を開張し、虔く頸を垂れて、座を離れ、低く飛揚して、疾翔大力を讃嘆すること三匝にして、徐座に復し、拝跪して唯願ふらく、疾翔大力、疾翔大力、たゞ我等が為ために、これを説きたまへ。たゞ我等が為ために、之を説き給へと」

でっちあげにしては大変出来が良い。
彼は帝大卒でもなければ、洋行帰りでもないので、
土俗的なムードで見られることが多いのだが、
実体はなんのことはない、
仏教経典によって言語中枢を鍛え上げられた、
人間コンピューターのような面がある。

コンピューターという言い方が賢治を讃えることになるのか貶すことになるのか、
私にはわからないが、
いずれにせよ文章をつらねてゆく性能として、
極端に高いものがある、ということが賢治作品解読の基本認識になる。


にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村


映画(全般) ブログランキングへ

2014年11月28日金曜日

小津安二郎「秋刀魚の味」解読


小津の最後の作品、「秋刀魚の味」は、
おそらく彼の最高傑作ではないかと思う。
小津嫌いの私でも認めざるを得ないほどに、優れている。

この作品を傑作たらしめているのは、
バーでの場面である。
この場面のみ解読する。
それだけでおそらく、
小津映画の全てを解読したことになるであろうことを期待している。

以下役名ではなく、俳優名で説明する。

笠智衆はラーメン屋で偶然昔の部下、加東大介に再会する。
「艦長、お久しぶりです」
笠智衆は朝風という駆逐艦の館長、加東は乗組員だった。

二人はバーで酒を飲みながら旧交を温める。
「艦長、どうして日本は負けちゃったんですかねえ」
「さあねえ、だけど負けて逆によかったじゃないか」

そこにバーのマダム、岸田今日子が帰ってくる。
岸田は笠智衆の亡き妻ににている、という劇中設定になっている。
岸田は髪が濡れ、頭にタオルを巻いている。

「あらいらっしゃい。わたし銭湯行っていたのよ。
お酌しましょうか?
いつものあれ、かけましょうか?」

あれとは、軍艦マーチのレコードである。
岸田がレコードをかけると、
加東は体を揺らし、敬礼をする。
「艦長もやってくださいよ」
笠智衆もつきあって敬礼する。
岸田もつきあって敬礼する。
加東は調子にのって、狭いバーの店内で行進しはじめる。

するとどうだろう、
画面には確かに狭いバーの店内しか映していないのに、
視聴者の脳内に別の映像が浮かび上がってくるのである。
広大な海洋に波を切って進む、連合艦隊が。

それは、どんな特撮映画もかなわない、美しい連合艦隊の姿である。
あたりまえである、おのおのが頭に描くもっとも美しい姿なのだから、
他人の描く絵がかなうわけがない。
芸術の要点が想像力の喚起だとすれば、
映画の、最高に芸術的になった瞬間だろうと思う。

さて、解読である。
駆逐艦朝風は1944年に、魚雷攻撃を受けて沈没している。
当時の習慣として、船が沈没して艦長が生存したとは考えがたい。
笠智衆は死者である可能性が大きい。
それと話している加東も、やはり死者であろう。

そう考えれば、岸田今日子を銭湯帰りという設定にした理由も了解できる。
彼女はたったいま、十数年間浸かっていた水の中から上がってきたのである。

小津安二郎は、兵隊として招集もされたし、
除隊後も映画製作のために外地にも行き、
終戦はシンガポールで迎えている。
戦争を全身で体験した人物である。

コミカルな軍艦マーチのバーのシーンの裏には、
連合艦隊の雄姿シーンが隠れており、そのさらに裏には、
死者に対する合掌のような、祈りのシーンが隠れている。




2014年10月30日木曜日

風立ちぬ・解説28

神曲煉獄編、魔の山、堀「風立ちぬ」と宮崎「風立ちぬ」の、
共通要素の一覧である。










もはや、いちいち細かい説明はしない。
この映画が傑作であるという証明は、
この一覧だけで十分である。


ダンテのこだわった「7」という数字は、
聖書由来のものであるが、
淵源をたどればメソポタミア文明にゆきつく。
メソポタミアは海から上がってきた7人の賢人が、
7つの都市を建設してから始まった、
という伝説があるらしい。
宮崎駿がそこまで意識したものかどうかは不明である。


文化とは連続である。
物語を要素に分解して、
「これでどんな物語も自由に創造できる」
とよろこんでいた時代もあった。
(お気づきだろうか、
物語を要素分解して、組み合わせを変えて再創造というのは、
遺伝子組み換え作業に酷似している)


だがそれは創造ではなく、
順列組み合わせの羅列でしかない。
人や民族や国と同じく、
物語も時間の上に連続して存在するものであり、
南北朝の楠→大阪の陣の真田→太平洋戦争の神風
のように、連続してひとを動かすものである。


そのような物語の連続性を描写しつつ、
宮崎終生の主題である、
テクノロジーと人間の相克を描いたのが本作である。
宮崎駿「風立ちぬ」の解読をこれにてひとまず終了する。



にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ

にほんブログ村



映画(全般) ブログランキングへ











2014年10月10日金曜日

こぶとり爺さん

内田樹が、
「こぶとり爺さん」の話は
「不条理な話」だと解説している本を読んだ。
私の見解では、不適切な解説である。


Wikiの解説
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%B6%E3%81%A8%E3%82%8A%E3%81%98%E3%81%84%E3%81%95%E3%82%93
も不適切に思われる。


この話は
「異人交易はタイムラグが発生する、
しかし最終的にはスクエアになる」
という内容である。


だいたい、日本の昔話に鬼やら動物やら山姥やらが出てきたら、
異人交易のネタである確率が高いと思って間違いない。


いわゆる「読む」「深読みする」と呼ばれているいう行為は、
マニュアルもなければ問題集もなく、
実を言うと完全な正解も無い。
それでもより確からしい答えを探らなければならないのだが、
完全な正解がないゆえに、
ばかばかしくなって途中で止める人が多いようである。
気持ちは分かる。
私もほぼ毎日ばかばかしくなる。
しかし私には他に能が無いので、仕方なくやっている。

2014年9月25日木曜日

西アメリカ帝国Ⅱ





西アメリカ帝国
http://yomitoki2.blogspot.jp/2014/05/blog-post.html
の続きである。


GHQは日本支配を永続させる為に、
教育と、マスコミと、司法を制御した。
このうち司法は、佐藤優の粘りによって権威を完全に失墜した。
マスコミは産経以外はほぼアメリカの初期設定どおりに動いていたが、
今回の朝日従軍慰安婦の件で日本支配の機能はほぼ破壊された。
(あるいは見方を変えれば、朝日はアメリカに捨てられた)
そして、アメリカ国務省の発言が、微妙に変化してきた。
日本の力を解放させようという方向に向かっている。
「ダレスの恫喝」に代表されるように、
日本封じ込めの主体は国務省(ようするにアメリカの外務省)だった。
状況は徐々に「西アメリカ帝国」確立に向かっている。
もっとも、アメリカの世界経済における相対的地位の低下から考えると、
この方針転換は遅すぎた。
いまでもプーチンと無用な軋轢を生産して、
結果、中近東に対するプレゼンスを喪失している。
これはひとえに、
アメリカがまだ自分の力の相対的な衰えをまだ十分自覚できていないことの現れである。
そして、最終的な着地点は、
アメリカは「中央アメリカ帝国」になり、
日本は「西アメリカ帝国」になり、
ドイツが「東アメリカ帝国」になる。
日本、ドイツが安全保障の大きな部分を分担することになる。

その着地点に出来るだけスムーズに移行することが、
これからの日本の課題になる。
重要なポイントと思うもののみ列挙してみよう。
1、日本とドイツとの距離を近づけてはいけない。
アメリカに「結託して復讐されるのでは」という恐怖感を抱かせることになる。
2、従軍慰安婦はまだ大丈夫。
南京大虐殺、および原爆投下をあまり言い募るのはまずい。
これもアメリカの恐怖感を増幅させる。
(日本人は報復しようという気持ちはないのだが、
人間は自分と同じように他者が行動すると思ってしまう生き物である)
3、韓国とは適切な距離感を持つ
アメリカは大日本帝国の復活を望まないし、
同時に現在の韓国をよりよい方向に持って行く力を失っている。
したがって当面様子を見なければならない。
4、中国とも適切な距離感を持つ
これも同じ理由である。
日本と中国が親密になり、
同時に日本とロシアが親密になれば、
アメリカとしては日本に水爆を落とすしか分岐がなくなる。
5、安倍外交の活動量を維持する
アメリカの外交方針を決めるのは国務省である。
つまりアメリカ外務省である。
アメリカの外務省のひとびとの心に響くのは、
日本の外交活動である。
プロというものは、そういうものである。
外交活動は、経済活動、軍事活動よりも、
プロには、はるかに強い印象を与えうる。


以下蛇足。
実は安倍外交の活動量は、
消費税増税を阻止するためではないかと疑っている。
日本の経済力をどの程度にするかは、
アメリカにとっての死活問題である。
大きくしすぎると自分が食われる。
だから消費税という経済発展クラッシャー税を増やすことによって、
日本に経済成長のブレーキをかけさせていた。


安倍政権の作戦は、

国務省に認められる活動をすることによって、
「頼りになる味方だ」と認識してもらって、
消費税増税を延期させてもらう、という作戦ではないかと思っている。
甘利さんや麻生さんが、
「海外の市場の反応が」とかグニュグニュ言っているのは、
本当は「アメリカ意向が」と言いたいのではないかと思っている。
そして安倍さんの外交努力によって、
アメリカの意向も消費税凍結容認の方向に変わっていっているように、
私には見える。




にほんブログ村

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ


映画(全般) ブログランキングへ

2014年9月8日月曜日

勤労少女まどか






劇中明かされる「魔法少女になった動機」は、
明かされる順序に従って段々と魔法少女業務との関連が密接になってゆき、
最終的にほぼ完全に一致する。




これは、段々と勤勉になってゆく物語である。
勤労が自己目的化してゆく物語である。

2014年8月29日金曜日

タルコフスキー「鏡」・解読19

「鏡」の解釈について、訂正である。
前に


(第一部)
 1、草原と若い母と旅の医者(幼年時代)A-1
2、母の印刷工場時代(少年時代)B-1
3、別れた妻との会話・カラー(成人時代)C-1
(第二部)
 4、戦争の時代の記録映画(幼年時代)A-2
5、イグナートの留守番(成人時代)B-2
6、兵役訓練(少年時代)C-2
(第三部)
 7、別れた妻との会話・モノクロ(成人時代)C-3
8、母とたずねた田舎の家での営業(少年時代)B-3
9、草原と老いた母と主人公(幼年時代)A-3




となる構成にしたがって、私なりに読み解くと




1、侵攻を喪失したロシアに、ヒトラーが接近した。ヒトラーは去ったが、国土は焼かれた
2、その後、圧制の時代になった。一言半句の間違いが命取りになる時代。
 3、圧制も終わり、通常の生活の中でも、過去のスペイン内戦介入の残滓は引きずっている


4、スペイン内戦介入から始まる、全ユーラシアの戦乱の時代
 5、思えばタタールの侵入以来のロシアの宿命はまさにそこにあった。全ての苦難を引き受けてきた
6、戦争で傷ついた教官が、両親を封鎖で亡くした少年に軍事訓練をほどこす。
 苦しみの連鎖。少年たちは心の鳥(希望)を握り締めてしまう


7、一見平穏に見える現在の生活も、内実は非難と疲労で成り立っている。
 涙の中から宗教への希求が立ち上がる。
 8、強制されたとはいえ、最悪だったのは、スターリンの粛清の時代である。
だが、最悪の悲劇の中にも、意味は存在する。他者の苦しみを請け負うという意味が。
 母なる大地の苦しみに、父なる神も寄り添う。子である人民も寄り添う。
 9、歴史は克服され、ロシアの焦土化も回避される。
 握り締めた希望は飛び立ち、主人公自身も鳥となり、希望を体現する



と書いたが、鳥は明らかに、聖霊である。
キリスト教絵画では聖霊は鳥として描かれる。
だから希望というより、聖霊とみなしたほうが良い。

そして聖霊とはすなわち、耳に訴えかけるもの、
言葉である。
ニケア信条を読み解く
http://yomitoki2.blogspot.jp/2010/02/blog-post.html


6章で少年は軍事訓練の後、言葉を握りしめた。
8章で鳥が宙に浮く母の前を横切る
9章で握りしめた鳥は飛び立ち(すなわち言葉が飛び立ち)
、主人公も鳥の声で鳴く(すなわち言葉を取り戻す)。


ここで重要なのが、
最後の子どもの主人公が鳥の声で鳴く、というシーンである。
ギリシャ正教では聖霊は父からのみ発する。
カトリックでは聖霊は父からも子からも発する。
タルコフスキーはカトリック思想の持ち主だという証言があるらしいが、
それはこの鳥の扱い、つまり聖霊の扱いから明らかなのである。

2014年8月2日土曜日

風立ちぬ・解説27

映画「風立ちぬ」の参照する文学作品は、3つある。
前回触れたダンテの神曲・煉獄編
堀辰雄の「風立ちぬ」
そして作中カストロプの言う「魔の山」である。

魔の山はサナトリウム小説と言う意味で、
堀辰雄「風立ちぬ」の元になった小説である。

堀の小説「美しい村」がフーガの章を持つ教会ソナタ形式であり、
マンの名作「トニオ・クレーガー」がソナタ形式であることからも、
この時期の堀がトーマス・マンを尊敬し、目標としていたことは間違いない。

「魔の山」で主人公は、
友人を見舞う為にサナトリウムに行き、
そこで自身も結核に罹患していると診断を受け、
数年間をそこで過ごし、
やがて快癒し、山を下りる。
その間様々な人間と出会い、語らいながら、
自身の人間性を高めてゆく。
そのうちの代表的な人物は「セテムブリーニ」というイタリア出身の文士である。

神曲:主人公はウェルギリウスに導かれる
魔の山:主人公はセテムブリーニに導かれる
映画「風立ちぬ」:主人公はカプローニに導かれる

となっており、導く人間は全てイタリア人である。
堀の「風立ちぬ」はだれにも導かれないが、
「魔の山」も「神曲」あるいは二つの「風立ちぬ」との関連を、
十分考察する必要がありそうである。

にほんブログ村

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ


映画(全般) ブログランキングへ

2014年7月30日水曜日

風立ちぬ・解説26

鈴木Pの「最後の平原はダンテ神曲の煉獄である」という発言から、
全体を見直してみる。

ダンテの神曲「煉獄編」は、
地獄編、天国編と同じく33章からなるが、
主題になっているのは7つの大罪の罪科のつぐないである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%9B%B2
より

第一冠 高慢者 - 生前、高慢の性を持った者が重い石を背負い、腰を折り曲げる。ダンテ自身はここに来ることになるだろうと述べている。
第二冠 嫉妬者 - 嫉妬に身を焦がした者が、瞼を縫い止められ、盲人のごとくなる。
第三冠 憤怒者 - 憤怒を悔悟した者が、朦朦たる煙の中で祈りを発する。
第四冠 怠惰者 - 怠惰に日々を過ごした者が、ひたすらこの冠を走り回り、煉獄山を周回する。
第五冠 貪欲者 - 生前欲深かった者が、五体を地に伏して嘆き悲しみ、欲望を消滅させる。
第六冠 暴食者 - 暴食に明け暮れた者が、決して口に入らぬ果実を前に食欲を節制する。
第七冠 愛欲者 - 不純な色欲に耽った者が互いに走りきたり、抱擁を交わして罪を悔い改める。

山頂 地上楽園 - 常春の楽園。煉獄で最も天国に近い所で、かつて人間が黄金時代に住んでいた場所という。


鈴木Pの言う平原は、山頂のことであろう。
そして風立ちぬは、
場所も章立ても7つに分かれている。


7という数字について、私はヨハネの黙示録の影響と考えていたが、

直接的には「煉獄編」の影響と考えたほうが確からしいだろう。

そこでさらに、以前考察した「タバコを7回すう」「鉄道に7回乗る」などを当てはめてみる。



七つの大罪がそれぞれ七回出現する、マニアックな構造になっている。
鉄道など菜穂子搭乗と混ざって私は考えていたのだが、
次郎の物語だから行動は全て次郎のものである。

なんでここまで細かく考えなきゃいけないのかと思われる向きもあるだろうが、
宮崎駿は普通に人類史上有数の芸術家である。
バッハやベートーヴェン同様、細かく解析できる作品を、作れるひとなのである。

タルコフスキー「鏡」の解析想起いただきたい。
ダンテの神曲、「地獄編」を参照しているが、
タルコフスキーは「3」にこだわって映画を組み立てた。

http://yomitoki2.blogspot.jp/search/label/%E9%8F%A1

宮崎は同じ神曲だが、煉獄編の主題である七つの大罪である「7」にこだわって、
映画を組み立てたのである。

にほんブログ村

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ


映画(全般) ブログランキングへ







2014年7月27日日曜日

去勢と識字率


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%98%E5%AD%97
より
「1443年に朝鮮通信使一行に参加して日本に来た申叔舟は「日本人は男女身分に関わらず全員が字を読み書きする」と記録し、
また幕末期に来日したヴァーシリー・ゴローニンは「日本には読み書き出来ない人間や、祖国の法律を知らない人間は一人もゐない」と述べている」


*********


日本は昔から識字率が極端に高い。
特に注目すべきは、女性の識字率が高いことである。
こんな国は、世界に無い。


鎌倉以降の日本社会は直系家族で、
直系家族は女性の識字率向上がダイレクトに全体の識字率の向上に影響する社会だから、
日本の識字率の高さの原因は、
「なぜ女性の識字率が高かったのか」という疑問に答えれば、
ほぼ解決する。


「直系家族だったから識字率が高かった」という、
エマニュエル・トッドの説明は説明になっていない。
コリアは直系家族であるが、日韓併合までは識字率は低かった。
直系家族は一旦識字率が上がり始めたら、どんどん上がりやすい社会であるのは確かだろう。
しかし、識字率が上がり始めるかどうかは、又別の要因が介在するはずである。


「平家物語」によって識字率が向上したというのも、
説明になっていない。
日本の女性の識字率の高さは、
遅くとも平安時代には確認できるからである。
王朝女流文学の作品を見よ。


清少納言、紫式部、和泉式部など、
平安時代の宮廷は才女を矢継ぎ早に生産している。
文化というものは上から下にながれるものだから、
平安時代の上流階級の文化、
すなわち女性は読み書きできるのが偉い、という価値観が、
1443年までには十分浸透していたと思われる。


ではなぜ彼女たちが才媛だったか。
彼女たちは、女官なのである。
今日の言い方では官僚なのである。
宮殿があればそこではたらく官僚があるのは当たり前である。


通常、ユーラシアの国々では、
宮殿、特に後宮では宦官を雇用する。
女性も雇用はするが、
事務、運営の主役を担うのは去勢された男性である。
宦官というと馬鹿にされがちだが、
中国では宮廷運営には時に通常の官僚を圧倒するほどの実力を持った集団だった。
しかし、日本には宦官が存在しなかった。

他国では去勢された男性がこなしていた事務仕事を、
日本では女性がこなしていた。
こなしていたせいで、
事務をこなすだけでなく、
力余って王朝のかな文学まで発展させて、
以後女性も読み書きできるのが当然という社会の風潮になったのである。


宦官の存在の前提には、
去勢技術の発達がある。
騎馬民族には必須の技術なのである。
種馬を除くオスの馬は、去勢するのが基本である。
そうでなくては気が荒くなって、事故が頻発してしまう。


ところが日本は騎馬民族でなく、家畜文明として十分発達していないせいで、
去勢技術が無かった。

去勢技術が無かったせいで宦官が無く、
宦官が無かったせいで女官が後宮の仕事を仕切り、
女官が仕事を仕切ったせいで文字教養のある知的な女性が育ち、
文字教養のある知的な女性が上流階級の女性とされたおかげで、
全体の識字率が上昇したのである。


以上の理屈を簡略に述べると、
いささか失礼で、
いささか危険な表現になるため、
あえて長々と述べた次第である。


「馬の睾丸を抜いていたから、ユーラシアの女性は文字の学習が遅れた」
となるのである。

2014年7月23日水曜日

アナと雪の女王 解説

「アナと雪の女王」のような子供向けの話、童話、民話、御伽噺というものは、
単純なだけにいかようにも作れてしまうので、
どの話も似通ったものになりがちで、
「大西物語」のような明快な物語の発展、継承のルートを特定するのになじまない。
なじまないが今回の作品はかなり確実に、
宮崎アニメを継承、発展していると言える。
だいたいの時系列でまとめてみる。



元ネタとなっているのは、
トトロ、もののけ、千と千尋、ハウルである。
以下簡単に説明する

1、姉妹の物語であるところは「となりのトトロ」に相似
2、ヒロインの髪の色が変わるところは「ハウルの動く城」に相似
3、姉妹の片方が失われて、片方がそれを探すのは「となりのトトロ」に相似
4、幼少期の記憶の片隅にある、オラフ(雪だるま)に再会する。
幼少期の記憶に再会するのは「千と千尋の神隠し」に相似
(トロールとの再会も同様)
5、アナを送り届けて一度アレンデールから離れたクリストフが、
吹雪を見てアレンデールに引き返す様子、
およびその途中でトナカイのスヴェンと離れるさまは、もののけのアシタカとヤックルに相似
6、アナに手に魔力が徐々に浸透するさまはアシタカの手に呪いが浸透する様に相似
7、凍りついたアナがエルサの愛で徐々に解凍されてるくさまは、
荒廃した山がシシ神の死で徐々に若草が芽吹いてゆく様に酷似
8、最終的にエルサが超自然の力と共存できるようになったのは、トトロに相似

一つや二つでは「影響を受けた」と言いにくいが、
この数ならばほぼ確実に言えると思われる。
ディズニーは宮崎アニメを十分に研究し、消化し、
自家薬籠中のものとした。
七人の侍と荒野の七人、
ジャングル大帝とライオンキング、
甲殻機動隊とマトリックスのようなことが起こっている。

受動的だったディズニーのヒロインを、能動的なものに変える作業を、
宮崎アニメを下敷きにおこなったのだろう。
加えて本作品は、
姉妹の間に女性特有の微妙な緊張関係があるのを、表現できている。
これは宮崎アニメにはなかった。
女の子には千と千尋やトトロより、リアルで感情移入しやすい作品に見えるはずである。
男の子には不満足な作品かもしれないが、
映画の成功失敗のカギは大抵の場合女性消費者が握っている。

音楽も出来が良い。特に二重唱。
音楽は、実は日本映画の最弱点なのだが、
ジブリは久石の能力で、高品質な音楽の供給を受け続けれる幸運にあずかれた。
しかし久石も、二重唱のようなポリフォニックな曲は厳しいだろう。

個人的に宮崎アニメの成功の秘密は、
幼少期にトトロをテレビで見て、作風を十分すりこませることにあったと思っている。
その意味では、これは苦しくなった。
世界中の子どもが、この作品を何度もすりこまれることは、
ほぼ確実だからである。
トトロから25年、能動的な女の子のアニメという、ジブリが独占してきた大きな市場が、
ごっそり持っていかれそうな気配である。

弱点も無いわけではない

1、トロールが歌うシーン、ミュージカル映画では群舞のシーンということになると思うが、弱い
2、オラフは大変良いキャラクターだが、顔が可愛くない
3、クリストフが嵐の中を引き返すシーン、動画として弱い。
4、アナの解凍シーンも、もののけの緑の回復シーンに比べれば弱い
5、「愛」で全てを片付ける安易さ

しかし上気5点、いずれも致命的なものではない。








2014年6月5日木曜日

風立ちぬ・解説25

以前書いた飛行機と菜穂子の関係を再掲すると、

「菜穂子が油を吐いたとき、次郎は死を観念したに相違ない。
当時の日本のエンジン開発能力では、結核で油を吐いたらまず墜落なのである。
でもそのエンジンでも結果を残さなければならないから、祝言を挙げた。
機体そのものは花のように美しく、何度も口付けをして、愛した」

である。
広く言えば女性と戦争を結びつける、
和事と荒事を結びつける物語技法は、
古くから存在した。
西洋ではイーリアスが典型であり、
女性関係のトラブルからトロイの大戦争に発展してしまう。

中国では不思議なことに見当たらないのだが、
日本では例えば平家物語。
物語冒頭の「祇王」という白拍子の話が、
全編をコントロールしている。
平清盛が祇王という白拍子の愛人を、
粗略に扱ってしまい、祇王は山の奥に庵を結んで、
ただ西方極楽へ行くことだけを祈念しつづける。
平家の悲劇は、この女性へのつらい仕打ちが原因なのである。

あるいは「仮名手本忠臣蔵」。
鶴屋南北が忠臣蔵を上演したときには、
「東海道四谷怪談」と場面を交互に入れ替えて上演したらしい。
つまり、忠臣蔵と四谷怪談を合一しようとしたのである。
忠臣蔵は男の面子がつぶされる話、
四谷怪談は女の顔がつぶされる話、
同じと言えば同じである。

画像

だから戸板返しのシーンがある。
男世界も女世界も、
一枚の板の裏表であるという主張であろう。


さらに現代では、
「艦隊これくしょん」もある。
艦娘と一緒に戦い、あげくに「ケッコンカッコカリ」というシステムがある。
要は「結婚(仮)」という意味だと思われるが、
ゲームの目的が戦争の勝利なのか結婚なのかさっぱりわからない。
かなり強引に荒事と和事を合体させている。
そういう意味では、
「風立ちぬ」と「艦これ」は同じ趣旨のものである。


にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村




映画(全般) ブログランキングへ

2014年6月4日水曜日

風立ちぬ・解説24

そろそろ「風立ちぬ」の解説を再開したい。
堀辰雄の「風立ちぬ」のアウトラインまでを説明した。

堀の「風立ちぬ」のもっとも優れた点、
それは主客の合一が見られる点である。

主人公が風景を見ている。
風景が心にしみる。
なぜしみるか。
それは主人公の背後から同じ風景を、
婚約者が見ているからである。


「そうだ、おれはどうしてそいつに気がつかなかったのだろう?
あのとき自然なんぞをあんなに美しいと思ったのはおれじゃないのだ。
それはおれ達だったのだ。
まぁ言ってみれば、節子の魂がおれの眼を通して、
そしてただおれの流儀で、
夢みていただけなのだ」

仏教的とも言えるエゴの喪失、主体客体の合一が、
同時に宮崎駿の「風立ちぬ」のクライマックスになる。
それは主人公が菜穂子の隣でタバコを吸うシーンである。

「上手くいきそうだよ、
5匁くらい軽くなりそうだ」
「そう、よかった」
「30本で150匁だ」
「多すぎますわ、二人分だったらその半分でいいわ」

なんで肺結核で寝ている女性がリベットについて、
「二人分だったら」といわなきゃいけないのか。
ここで、菜穂子は堀の作る飛行機に完全に一体化しているのである。

http://yomitoki2.blogspot.jp/2013/09/13.html

で見るとおり、タバコは女性と別れるイベントの象徴である。
しかし、ここでは女性と別れない。
菜穂子が菜穂子のまま、飛行機と一体化するのである。


にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村




映画(全般) ブログランキングへ

2014年6月3日火曜日

賊軍史観

あまりにも奇抜な史観なので、
誰にも信用してもらえないだろうが、
実を言うと書いてる本人自身が信用していない。
しかし思いついたので書く。

「対米戦争はなかった」
「あったのは戊辰戦争の官軍と賊軍の戦いだけである」
「官軍と賊軍の戦いは、つい最近まで続けられたが、安倍首相の登場でひと段落ついた」

説明1)
昭和初期の日本の政治の登場人物、
限界まで絞り込むと、
石原莞爾
東条英機
山本五十六
の3人になる。
主演級はこの3人。
他は助演男優である。
主演の3名はいずれも、戊辰では賊軍に属していた地域の人々である。

説明2)
そもそも太平洋戦争の戦死者の、
過半数は餓死である。
かなりの人数が、戦争もせずにただ飢えと病に死んでいった。
要するに、敵を殺していないのである。
対外戦争と呼ぶにはあまりにも奇怪な現象である。
内戦のとばっちりでアメリカに戦線布告したと考えたほうが、
数字の上からは整合的である。

説明3)
田中角栄およびその弟子筋は、
基本的に賊軍の人々が多い。
金丸信(山梨)竹下登〔島根)小沢一郎(岩手)。
民主党も、実質は小沢の選挙能力で政権を取った。
小沢の権勢は、さきほどの選挙の大敗まで続いた。

説明4)
理研(理化学研究所)も、賊軍の組織である。
名物所長大河内正敏は、
知恵伊豆(松平伊豆守信綱)の末裔である。
大河内のころの理研に、田中角栄がなぜか出入りしていたのは有名な話である。
今日官軍の世になって、理研の屋台骨が揺らいでいるのは、
大きく見れば賊軍の敗退である。



にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村


映画(全般) ブログランキングへ

2014年6月2日月曜日

タルコフスキー「鏡」・解読18

翻って、第一部冒頭の母と医者との会話を考える。
植物にも意識がある、という医者の主張も、
ダンテの神曲由来のものである。
「地獄編」の中で、
自殺者が樹木になって苦しむ描写がある。

ところで
作中の医者はなんとなくドイツ系の雰囲気で、
作中自殺したのはヒトラーである。
冒頭のシーンはヒトラーのソ連侵攻を暗示していたのである。

では第一部の少年時代の描写、
母の印刷工場でのシーンはどうだろう。
一瞬だが、ポスターにスターリンの顔が映っているのが見て取れる。
ということは、鏡像としてそこに対応する、
第三部知人宅での頼みごとのシーンの鳥の首を切る行為は、
スターリンの虐殺を暗示しているとわかる。
同国人を殺傷するという、望まない行為を強制された時代であった。
全編のクライマックス、空中浮揚のシーンに続くことから、
スターリン批判、スターリンの同国人虐殺が、
この映画の隠された主題であると判断できる。

ソ連は、あるいはロシアは、
かつてモンゴルタタールの侵入を受け、
スペイン内戦に関与し、
ヒトラーの侵入を受け、
中ソ国境紛争に巻き込まれた。
内にあってはスターリンという虐殺王の支配を受けた。

しかし、その歴史は克服された。
母と、父と苦難を共有し、
主人公が鳥になることで。

全体の構成再び見てみよう。

(第一部)
1、草原と若い母と旅の医者(幼年時代)A-1
2、母の印刷工場時代(少年時代)B-1
3、別れた妻との会話・カラー(成人時代)C-1

(第二部)
4、戦争の時代の記録映画(幼年時代)A-2
5、イグナートの留守番(成人時代)B-2
6、兵役訓練(少年時代)C-2

(第三部)
7、別れた妻との会話・モノクロ(成人時代)C-3
8、母とたずねた田舎の家での営業(少年時代)B-3
9、草原と老いた母と主人公(幼年時代)A-3

となる構成にしたがって、私なりに読み解くと

1、侵攻を喪失したロシアに、ヒトラーが接近した。ヒトラーは去ったが、国土は焼かれた
2、その後、圧制の時代になった。一言半句の間違いが命取りになる時代。
3、圧制も終わり、通常の生活の中でも、過去のスペイン内戦介入の残滓は引きずっている

4、スペイン内戦介入から始まる、全ユーラシアの戦乱の時代
5、思えばタタールの侵入以来のロシアの宿命はまさにそこにあった。全ての苦難を引き受けてきた
6、戦争で傷ついた教官が、両親を封鎖で亡くした少年に軍事訓練をほどこす。
苦しみの連鎖。少年たちは心の鳥(希望)を握り締めてしまう

7、一見平穏に見える現在の生活も、内実は非難と疲労で成り立っている。
涙の中から宗教への希求が立ち上がる。
8、強制されたとはいえ、最悪だったのは、スターリンの粛清の時代である。
だが、最悪の悲劇の中にも、意味は存在する。他者の苦しみを請け負うという意味が。
母なる大地の苦しみに、父なる神も寄り添う。子である人民も寄り添う。
9、歴史は克服され、ロシアの焦土化も回避される。
握り締めた希望は飛び立ち、主人公自身も鳥となり、希望を体現する


以上で「鏡」解説は終わりである。
映画史上屈指の難物といいえる作品だが、
ほぼアウトラインは描写できたのではないかと思う。

全編でダンテの神曲の影響が強い。
影響の最たるものは3という数である。
全編は3分割され、
それぞれさらに3分割される。
第一部と第三部は鏡像になっている。
地獄のような二十世紀ソ連にあっても、
なおも天上界を希求する姿勢の見える作品、ともいえる。
空中浮揚から希望へと続くストーリー構成は、
サクリファイスに大変近い。

「鏡」に対しては、
黒澤明の、
「脈絡が無いのが思い出なのだから、この映画は考えずに鑑賞すればよいのである」
という説明が有名である。
キリスト教の信仰や、スターリン批判を含んだ映画は確かに、
下手に細かく解説するとまずかったのかもしれない。
もうソ連で映画を作れなくなってしまう。

もっとも、本当に理解できずに、それでも感性だけは強いので、
感性だけで強引に鑑賞してしまったという可能性も捨てきれないのが、
黒澤の恐ろしいところである。

実際には、ガチガチの構成の作品である。
構成力のみで作られている印象さえ受ける。


同じように「神曲」の影響の強い作品、
「風立ちぬ」のDVDがそろそろ発売だから、
そちらの解析に移らなければならない。

「鏡」の冒頭に吹く風、あれはヒトラーの侵攻であった。
「風立ちぬ」の震災の描写はそれにそっくりだが、
象徴している内容も、似ている。


にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村


映画(全般) ブログランキングへ

2014年6月1日日曜日

タルコフスキー「鏡」・解読17

第三部を検討する。

第二部最終シーン、父の再帰の後、
第三部冒頭は成人時代の描写になる。
ここで妻は、第一部と打って変わって、
大変不機嫌で、大変疲れており、主人公も機嫌が悪い。
息子イグナートは火遊びをし、
主人公はそんな息子を酷評する。
しかし妻は火遊びに、モーゼの柴の予言をかいまみる。

その後幼年時代の風景が続く。

まずお手伝いが鏡を見る。
次に主人公はマッチに火をつける。
このシーンとのイグナートの火遊びとの対比は明らかである。

続いて幼年の主人公は誰かの手によって扉を開けてもらい、
納屋の中に入る。
窓ガラスが割れて、鶏が飛び出す。
この節は、幼年の主人公が火を覚えて、
納屋に入って火をつけてしまったことを暗示する。
第一部にある納屋の火事のシーン、
その火事の原因は主人公がマッチを覚え、
かつ納屋に入ってしまったことにある。

続くシーンは少年時代、親戚の家での頼みごとである。
少年の主人公は鏡の向こうに自分自身を見、
そして又初恋の少女が火をくべている姿を見る。
(と考えると、少年を納屋に入れたのは、
その直前に鏡を見ていたお手伝いである)

母が無理強いをされて鶏の首を切るとき、
ごく小さな音量で、
オープニングクレジットと同じ、BWV614が流れる。
正月を迎える音楽である。
続けて空中浮揚のシーン。
ここが全編のクライマックスである。
ここで母が罪を背負ったことで、
そして第一部と違い母の苦しみを息子が共有し、父もそこに寄り添ったことで、
ソ連の苦難の歴史は書き換えられる。

具体的には、納屋の火事はなくなる。
(無論火事を戦争に例えている)
空中浮揚する母の上を、小鳥が飛ぶ。

この小鳥は火、水、鏡にならぶ全編中重要なアイテムである。
最初に出てきたのは第二部(中間部)少年時代の兵役訓練の後である。
雪の坂で反抗した少年の頭に小鳥が止まる。
少年はそれを掴む。

そして母の空中浮揚で飛び、
続く幼年時代の茂みのシーン(ここまでに3回出現しているシーンである)の4回目に、
小鳥が茂みを横切る。

幼年時代の描写になり、
納屋の中の少年は放火をしていない。牛乳を抱えており、鏡を見ている。
続くシーンで少年は、なにかが燃えていると伝えるのだが、
実際に燃えているのは寝室のストーブであり、
納屋の火事は回避されている。

ワンシーンのみ、成人時代のシーンになる。
主人公は病臥している。
扁桃腺という言葉がでてくることからもわかるように、
第一部の母との電話の続きである。
イグナートにプーシキンを朗読させた、
ロシア皇帝とお手伝いがつきそっている。
主人公は「なにもかもうまくゆく」と言って、
ベッドで倒れている小鳥を握り、空に飛び立たせる。
これが3度目の鳥の飛翔である。
幼年時代、少年時代、成人時代、
時代を貫いて小鳥が飛んだことになる。

最後に幼年時代。
母と父が草原に寝ている。
父が言う。
「どちらが欲しい?息子か娘か?」
母は笑いながら涙を流す。
これから味わう困難を見通すかのように。

そして(老いた姿の)母に子どもたちが連れられて歩く姿を、
若い母は見る。
ヨハネ受難曲の冒頭合唱が流れる中、
少年は大きな声で、鳥のように鳴く。
そう主人公は鳥になったのである。


にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村


映画(全般) ブログランキングへ

2014年5月28日水曜日

タルコフスキー「鏡」・解読16

中間部は前回見たように、
ソ連の第二次大戦前後の歴史をなぞっている。
その最終節として、失踪した父の再帰が写される。
父は軍服を着ている。
ここで軍事が終わったということである。
父も子たちも涙を流している。
つらい歴史であった。

中間部の印象的なシーン、
少年のころの軍事訓練、
退役軍人の教官は頭を負傷しており、
脳膜が露出して呼吸とともに息づいている。
これはダンテの神曲、「地獄編」より
第八券、第九の嚢、
離反を生み出した罪で内臓が露出して苦しむシーンに基づいている。

文化大革命のシーン、
毛沢東の胸像が多数並べられているが、
これもダンテの神曲「地獄編」
最下層の地獄の手まで、巨大な悪魔が鎖につながれて、上半身を露出している姿に基づく。
ここでは毛沢東は悪魔であり、
その直前にヒットラーの死体の映像が流れるが、
ヒットラーが死んでもなお、新しい悪魔が生産されているという意味である。
地獄編の参照から類推されることは、
この中間部はソ連の味わった地獄を表現しており、
作者は自身の少年時代の母子関係を、それに重ねているということである。

だが、それでも父は再帰する。
再帰のシーンではマタイ受難曲、地震のレチタチーヴォが流れ、
大いなる犠牲の元に、復活と救済が予告されるのである。

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村


映画(全般) ブログランキングへ

2014年5月14日水曜日

半島国家の初期化

細胞が簡単に初期化するという仮説を立てただけでこれほど大げさに騒がれるのは、
みんな細胞は簡単には初期化しないと思っている、ということである。
初期化するのか、しないのか私には分からないが、
今までやりかたが見つからなかったくらいそれくらい、条件的に難しいことは間違いない。

かつて司馬遼太郎が、
「組織は発生当時の性質を引き継ぐ」
という仮説を立てた。
細胞が初期化しづらいなら、
人間組織のような大きなものが初期化しないのは、
当たりまえである。

司馬の論拠は、江戸時代の藩にある。
「幕府成立時の藩主の振る舞いが、鳥羽伏見に反映している」
藤堂高虎は大阪を裏切って徳川にすりよった人物だが、
藤堂家は鳥羽伏見では徳川を裏切って幕府についた。
裏切りによって徳川政権成立を支えた藩は、
裏切りによって徳川政権崩壊を支える。
藤堂藩は裏切りが一貫しているし、
そういう藩が多い、というのが司馬の説である。

私なりに考えても、
毛利は関ヶ原で西軍につき、事情あって戦闘に加われなかったが、
とにかく負けた。負けて領地を減らされた。
それで260年間、毎年正月に言い続けた。
「殿、今年こそは徳川征伐をいたしましょう」
「いやまだ待て。準備が整っていない。今年は見送ろう」
こんな儀式でも260年続ければ現実化する。
徳川政権にたいする被害者意識と復讐によって作られた藩は、
徳川政権にたいする被害者意識と復讐を実現する。
毛利は被害者意識と復讐が一貫していたのである。

大日本帝国の初期条件はペリー来航である。
アメリカの艦隊に対抗する為に、新しく国家組織がつくられた。
その国家組織滅亡の過程を見れば、
司馬の仮説は正しいのではないかと思われる。
まるでゴキブリがゴキブリホイホイに引き込まれるように、
フラフラと、理性を失って対米戦争に引き込まれている。
連中が馬鹿であったというのは簡単で、事実でもあろうが、
なぜかその瞬間ものすごく馬鹿になってしまったというのが、
より正しい表現であろう。
アメリカ艦隊に戦うためにつくられた国家は、
アメリカ艦隊との戦いに吸い込まれてゆくのである。
大日本帝国はアメリカ艦隊との戦いということで、一貫していたのである。

さらに、物凄く近い例では日本銀行がある。
日本銀行はもともと、インフレ対策として設立された組織である。
だから断固としてインフレに対抗し続けた。
デフレになってもインフレに対抗しつづけた。
その初期条件の縛りを抜け出すのに、
20年くらいかかった。
経済状況の悪化で、死ななくても良い人がおそらく数万人単位で死んだ。
でも20年間、抜け出せなかった。
インフレを克服されるためにつくられた中央銀行は、
インフレでなくなっても、妄想の中のインフレを克服しつづける。
日銀はインフレと戦い続けるという意味で、一貫していたのである。
それほどまでに、組織の初期条件は恐ろしいのである。

さて、大韓民国は、第二次大戦後、アメリカによって作られた国家である。
作った目的は、日本の軍事的伸張を封じ込めることにある。
だから李承晩のような人物を大統領に担ぎ上げた。
いわば日本と敵対するために製作された国家である。
さらに言えば、反日教育を、260年ではないが、
半世紀も続けてきた国家である。

さてここで、司馬の仮説を当てはめて考えてみよう。
組織は初期化できない、という仮説を。
初期条件で一貫しつづける、という仮説を。
私はこのままでゆけば必ず、日韓間に戦争が起こると思うのである。

「新しい組織にすればいいじゃないか。
例えば北と統一国家をつくれば、新しい国家になって、
初期条件の縛りは解消されるはずだ」

そう、確かに理論上はその通りである。
しかし、
二千万人の飢えた民を抱え中国と直接国境を接する道と、
日本と戦争をする道、
どちらが韓国国民にとって得か。
私が韓国国民なら、一瞬のためらいもなく後者の道を選ぶ。

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村


映画(全般) ブログランキングへ

2014年5月12日月曜日

造船王ノア

時代的に船の発明は馬の制御に先立つ。
馬というものは、はなかなか制御できなくて、
まずは戦車(要するに馬車)という形態で、
次に乗馬することができるようになったのだが、
乗馬できるようになったのはかなり後で、
殷周交代の牧野の戦いではすべて戦車、
騎乗できるようになったのは春秋時代以降である。

それ以降馬の制御が軍事力、すなわち権力に直接結びつくようになり、
射程距離が長い銃火器の発明までそれは続いたのだが、
馬の登場以前の最先端テクノロジーは、
船の製作であった。

だから、メソポタミア下流域で最初に文明というか、
王権が発生している。
下流域文明はすぐに中流域、上流域の連中に征服される。
最初は船を制御できた連中が権力を握ったが、
次に馬を制御できた連中に征服された、という意味なのであろう。
権力の変化は交通手段のテクノロジーの発展による変化であった。

逆に言えば、
馬が制御できる以前の文明では、
船が最新テクノロジーで、
良い船を作れる人間がすなわち王者であった。

ところで船の原初形態は丸木舟である。
やがて発展して、板を張り合わせたものになるのだが、
「箱舟」は名前からして、板を張り合わせたものと類推できる。
ノア(という人はおそらく実在しないのだが)が箱舟を作ったとき、
それは最先端のテクノロジーであったはずである。
板を組み合わせて、大きな大きな船を作れるようになったのである。
板の製造、接着など、さまざまな新開発技術は、
当時の他の部族を圧倒したはずである。
交易効率が格段に違うから、
富の蓄積により大きな権力を身につけた。

ノアはその船に全ての種族を乗せた。
ということは、ノアはテクノロジーによって王となり、
全ての生物の中間始祖を主張できる権威を身につけた、
という意味なのである。

箱舟神話は、
ノアという義人の物語ではなく、
王権の物語であったのである。

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村




映画(全般) ブログランキングへ

2014年5月8日木曜日

昭和初期の大日本帝国陸軍




こういうニュースが出るたびに、
日本国内では、
「中国は横暴だ」
「中国政府はうそつきだ」
などど怒りの声が巻き起こる。

しかしおそらく、習近平も衝突なんぞ望んでいないのである。
逆に、習近平に敵意を抱く勢力が、
習近平の面子とつぶすために勝手に暴走している、というのが実体であろう。

「では人民解放軍を制止すればよいのでは?」

制止できないから、面子がつぶされるのである。

昭和初期の大日本帝国陸軍を連想していただけると理解しやすい。
中国は大変危険な状態にあると言えるし、
危険度はどんどん上昇しているように、私には見える。


にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村


映画(全般) ブログランキングへ

2014年5月6日火曜日

西アメリカ帝国

ローマはギリシャ世界、
旧アレクサンダー帝国に該当する地域を征服した。
しかし東方からの軍事圧力の高まりにより、
首都をローマからコンスタンチノープルに移動せざるをえなかった。

しかしそれでは今度は西方世界の防御がおろそかになる。
結局、ローマ帝国は東西に分割された。
国力の勢いの衰えとともに、
そのような措置をとらざるをえなくなったのである。

西ローマ帝国のほうはゲルマン人の侵入により、
1000年もたたぬうちにあっけなく終焉したが、
東ローマ帝国のほうは、その後1000年持った。
これひとえに文化力の差であろうと思われる。
(公用語も分割当初はラテン語だったが、その後ギリシャ語に変更したらしい)
ローマが偉大とも言えるが、
アレキサンダー、あるいはギリシャ文明が偉大とも言える。

さてアメリカである。
アメリカの国力の世界全体における比率は相対的にジワジワ低下してゆく。
中国が、経済的にも政治的にも今後紆余曲折あろうが、
比率はジワジワ上昇してゆく。
ほうっておけば、覇権国は中国になる。

米中同盟という言葉もあるが、
これは事実上、無理である。
アメリカがそう簡単に、
一極集中、世界の覇権国の地位を放擲できるはずがない。
中国と同盟を結ぶということは、
ゆくゆくは中国に従属してゆく、という意味である。
中国人は従属者の収奪にかけては物凄い腕がある。
アメリカの中心に居る、
アングロサクソンやユダヤの大富豪にとっては、
それは許容できない事態である。
自らの財産を無制限に収奪される、ということだから。

と考えると、
近未来、5~20年後くらいにアメリカの採択できる選択肢は、
実は一つしかない。

ほぼ完全に従属状態にあった日本を、
国家間の上下関係が破綻しない程度に、
独立させ、再軍備させ、ことによると核武装させ、
中国の台頭を封じ込めることである。
いままでは属領日本であったのを、
西アメリカ帝国にするのである。

ただし、現状アメリカの危機感はそこまで大きくないから、
実現には時間がかかる。



にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村


映画(全般) ブログランキングへ

2014年5月5日月曜日

タルコフスキー「鏡」・解読15

全体の構造についてもう少し言及する。
「鏡」は3部形式である。


(第一部)
1、草原と若い母と旅の医者(幼年時代)A-1

2、母の印刷工場時代(少年時代)B-1

3、別れた妻との会話・カラー(成人時代)C-1

(第二部)
4、戦争の時代の記録映画(幼年時代)A-2

5、イグナートの留守番(成人時代)B-2

6、兵役訓練(少年時代)C-2

(第三部)
7、別れた妻との会話・モノクロ(成人時代)C-3

8、母とたずねた田舎の家での営業(少年時代)B-3

9、草原と老いた母と主人公(幼年時代)A-3


第一部と第三部を比較する。

(第一部)
1、草原と若い母と旅の医者(幼年時代)A-1

2、母の印刷工場時代(少年時代)B-1

3、別れた妻との会話・カラー(成人時代)C-1

(第三部)
7、別れた妻との会話・モノクロ(成人時代)C-3

8、母とたずねた田舎の家での営業(少年時代)B-3

9、草原と老いた母と主人公(幼年時代)A-3

以上まとめると

(第一部)
A-B-C
(第三部)
C-B-A

となって、まさに「鏡」になっている。


これが仮に

(第一部)
A-B-C
(第三部)
A-B-C

となると、おそらくソナタ形式か、三部形式だと類推できるのだが、
本作ではソナタ形式は採択していない。

さて中間部にあたる第二部をもう少し細かく分析してみる。




青が青年時代
オレンジが少年時代である。
なにも色がついていないのが記録映画の部分である。

記録映画の部分、一部なんの画像かはっきりわからない部分があるが、
だいたい時系列で並んでいるのが理解できる。

スペイン内戦はソ連は介入した内戦であり、
そこがだいたい主人公(監督本人)の幼年時代とダブる。
その後第二次大戦、核実験、文革までを記録映画は描写する。



にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村


映画(全般) ブログランキングへ

2014年4月30日水曜日

タルコフスキー「鏡」・解読14

さてここで全体の構造を見直してみる。
成人時代の対句が1セット
幼年時代も、
少年時代も1セットある。
それらは前後に配置されている。
例えば、以下のような構造が見出せる。


1、草原と若い母と旅の医者(幼年時代)A-1

2、母の印刷工場時代(少年時代)B-1

3、別れた妻との会話・カラー(成人時代)C-1


4、戦争の時代の記録映画(幼年時代)A-2

5、イグナートの留守番(成人時代)B-2

6、兵役訓練(少年時代)C-2


7、別れた妻との会話・モノクロ(成人時代)C-3

8、母とたずねた田舎の家での営業(少年時代)B-3

9、草原と老いた母と主人公(幼年時代)A-3



実際には戦争の時代の記録映画は6(C-2)の終わりごろまで、
断続的に展開するのだが、まずはこの構造でおおまかに捕らえる。

すると、以前述べた「鏡」の根底にはダンテの神曲がある、
との仮説が一層説得力をもって浮かび上がってくる。

「『神曲』は、
地獄篇 (Inferno)
煉獄篇 (Purgatorio)
天国篇 (Paradiso)

の三部から構成されており、各篇はそれぞれ34歌、33歌、33歌の計100歌から成る。
このうち地獄篇の最初の第一歌は、これから歌う三界全体の構想をあらわした、いわば総序となっているので、
各篇は3の倍数である33歌から構成されていることになる。」

(Wikiより)

映画「鏡」は3の3倍である9章から成り立っている。



にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村




映画(全般) ブログランキングへ

2014年4月26日土曜日

タルコフスキー「鏡」・解読13

前回妻との会話、カラーとモノクロバージョンの比較で、
うまく対句が発見できた。
他の場所でも考えてみる。

モノクロとカラーの対比、という意味では、
主人公の少年時代の話題が目に付く。

1、印刷工場での母の話(モノクロ)
2、田舎の知人の家に頼みごとに行く話(カラー)
ただし1は主人公は登場しない。
この二つで対句表現を探ってみる。


1、誤植が問題になると思ったが大丈夫だった
2、頼みを聞いてもらえるか不安だったが大丈夫だった

1、ウォッカを与えられる
2、コップに入った飲み物を与えられる

1、大丈夫と思ったが結局非難を受けつらい思いをする
2、大丈夫と思ったが結局鳥を捌かされてつらい思いをする

1、雨に頭が濡れる、シャワーで洗う
2、ぬかるみで足が汚れる マットレスで拭う

1、文字の問題。言葉で不快になる。
2、金の問題。暴力で不快になる。

1、蒸発した夫、子どものことを言及される
2、義父について言及する(イワノフの継娘です)

とこれも対句になっているのがわかる。
となると冒頭と最後の、
主人公の幼年時代も対句になっているのではないか。
いずれも田舎の家のシーンだが、
最後のほうは母が老婆の姿で、つまり現在の姿で登場するのが特徴的である。


1、母が見知らぬ医者と寝転がる
2、母が蒸発した亭主と寝転がる

1、医者は植物にも意識があると言う
2、亭主と娘は植物を咥えている

1、子どもは寝ている
2、子どもは起きている

1、母は若い妻の姿
2、母は年老いた現在の姿

1、母は棚に腰掛けている。棚は折れる
2、母(老婆)は切り株に腰掛けている。

少年時代に比べて、さほど綺麗な対応といえないが、
やはり対句になっている。


にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村




映画(全般) ブログランキングへ

2014年4月24日木曜日

在日問題2



「チスル」という映画、済州島虐殺を描いたものである。
こういう映画がとうとう韓国から出だした。

(ただし、本土と距離のある済州島だから描けた、とも言える。
保導連盟事件は、まだまだ難しいだろう)

大変美しい映像である。
ちなみに、監督はタルコフスキーの崇拝者らしい。


にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村




映画(全般) ブログランキングへ

2014年4月23日水曜日

タルコフスキー「鏡」・解読12

別れた夫婦の対話1(カラー)
別れた夫婦の対話2(モノクロ)
の二つの章をときほぐしてゆく。

以下1、2と表現する。

1、君は母に似ていると主人公が言う
2、お母さんは私に似ていると妻が言う。

1、再婚を妻に勧める
2、再婚するかもと妻に言われて不機嫌になる

1、イグナートを一時預かってくれといわれる
2、イグナートを引き取ろうとして断られる

1、イグナートにお酒はだめだと父親らしく指導
2、イグナートに同居を断られ、腹を立てて馬鹿にする

と、前者は肯定的、後者は否定的に描かれる。
ここまでは対句になっているが、
1にはスペイン人の話題が引き続く。

スペイン内乱はソ連が介入した戦争である。
ソ連の介入はうまく行かず、
結局引き上げるのだが、
引き上げる際にスペイン人を連れてきた、
その人たちが劇中で話しているスペイン人である、
という設定である。

スペイン内乱は1936-1939年である。
その後様々な歴史的記録映画が流れるが、
第二次世界大戦、ヒットラーの死、腐海おを渡るシーンとめぐって、
最後は文化大革命とダマンスキー島事件(中ソ国境をめぐる紛争)で終わる。

スペインはユーラシアの西の果てであり、
ダマンスキーは東の果てである。
紛争は時系列で並べられている。
時間とともに西から東にゆくのである。

となると、
前回少し触れたイグナートの留守番との対比が明らかになる。

イグナートの留守番は、
成人時代のちょうど中間に位置する章である。
内容は、

1、別れた妻が出かけようとしてバッグの中身を落とす
2、イグナートは中身を拾うのを手伝おうとして、コインを集める
3、突然静電気に手をひっこめる、
「前にも似たようなことがあったかも・・いやなかった」と言う。
4、妻は出掛け際に「お母さんが来たらかならず引き止めて」と言う。
5、イグナートがしらない間に緑服のおばさんと老婆のメイドが入り込んでいる。
「ぼうやにもお茶を、いいこと」とメイドに命令したおばさん(ロシア皇帝)は、
プーシキンの手紙をイグナートに朗読させる
6、プーシキンの手紙には、
「ロシアがモンゴルからキリスト教を守った。
これ以外のロシアの歴史を望まない」とある。
7、呼び鈴がなって母が来る。しかしドアを開けた母は、
「家を間違えたようね」と言って帰る。
8、居間にもどるとおばさんは居ない。父から電話がかかってくる
9、「お父さんはお前の年には初恋をしていた」と言う

以後初恋の人のシーンに移動してゆく。

ここでの中心は言うまでも泣くプーシキンの手紙である。
「東から来たタタールの戦役をロシアは吸収した」とある。
西から東と移動してゆくソ連の戦役と対比されている。
ソ連の戦役は、
悲劇を吸収していないのである。
だからスペイン人が悲劇に襲われ、
ダマンスキー島でいざこざが起きる。

「カラマーゾフの兄弟」

想起いただきたい。

ロシア的キリスト教メンタリティーでは、おそらく以下のようになる。

「イエスは自身を犠牲にして人類を救済した。
ゆえにイエスに倣う私たちも自身を犠牲にする気持ちを持たなければならない。

モンゴルの侵入に耐えた行為はロシアの自己犠牲であった。
第二次世界大戦前後のソ連の行為は自己犠牲ではなかった。
我々は自己犠牲を引き受けなければならない」

プーシキンの手紙と、
記録映画の映像を見れば、このような解釈になる。

そして、

別れた夫婦の対話1(カラー)
別れた夫婦の対話2(モノクロ)
の意味も明らかになる。

カラーのほうは、主人公の人間関係は良好である。
しかし、スペイン人が苦しんでいる。

モノクロのほうは関係は最悪である。
(別れたおくさんなどは、終始体調悪そうである)
でも、スペイン人の悲劇は付着しない。

身の回りの人間関係の悪化を、
ただの悪化と見ずに、
「誰かの悲劇の身代わりになった行為である」
と考えるロシア的思想である。



にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村




映画(全般) ブログランキングへ

2014年4月22日火曜日

タルコフスキー「鏡」・解読11

前回無意識に使ってしまった用語だが、
この映画全体も3時代に分割できる

1、幼年時代

2、少年時代

3、成人時代

以上が細切れになって組み合わされている。
以下簡単に説明

1、幼年時代

冒頭の母と医者の会話、納屋の火事
映画終盤のモノクロシーケンス(風の吹く屋外テーブルなど)
老母との会話、

2、少年時代
(主人公は出てこないが)印刷工場での母
ダビンチ画集を見る主人公、父の再帰、
近所の家での頼みごと(母の鶏の首切り)

3、成人時代
病気で母との電話
別れた夫婦の対話1(カラー)
イグナートの留守番
別れた夫婦の対話2(モノクロ)
病床の主人公

それ以外に記録映画が挟み込まれるが、
今は考慮しない。

一見してはっきり対句になっているのは、、
3、成人時代に別れた夫婦の会話の2回である。

はじめはカラーで、妻は主人公に好意的であり、
結果主人公はイグナートと同居できる。

2回目はモノクロで、妻は主人公に批判的
結果イグナートとは同居できない。
この二つは明らかに対比でつくられている。

同じように対比になっているのが、
病気で母との電話と(扁桃腺で3日話していない)
病床の主人公(扁桃腺は原因でない)である。

その2セットと対句をつなぐのが、
イグナートの留守番のシーンで、
ここに突然出てくるおばさんが、
病床の主人公のシーンでも出てくる。

ちなみに、
時系列で言えば

病気で母との電話(ベッドの主人公)

別れた夫婦の対話1(カラー)
別れた夫婦の対話2(モノクロ)

イグナートの留守番
病床の主人公

となるはずで、

イグナートの留守番が、
カラーの続きなのかモノクロの続きなのかは判然としないのだが、
しかしイグナートの留守番はカラーで撮影されており、
実際に主人公の家に居るのだから、
カラーバージョンの続きと考えるのが良いだろう。


この
別れた夫婦の対話1(カラー)
別れた夫婦の対話2(モノクロ)
の対句表現は大変特徴的で、
あきらかにこの映画の内容を解き明かす鍵を握っている。


にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村




映画(全般) ブログランキングへ

2014年4月21日月曜日

タルコフスキー「鏡」・解読10

オープニング以降も、ダンテの神曲にならって、
「3」は頻発する。


例えば「転倒」
1、母と医者が話しているシーン、
棚に腰掛けて話しているが、棚が折れて転倒する。

2、兵役訓練で教官に逆らった子どもが、
雪の坂を歩いて上る時に転倒する

3、少年時代、失踪していた父が戻ってきたとき、
走っている最中に転倒する

と3回転倒している。



あるいは「開かない」
1、医者が母に話しかける内容。
「釘がないか?蓋が開かない」

2、母が印刷工場でシャワー室に入り、
中から鍵を閉めて開かなくする

3、モノクロ映像、幼児時代。
ドアを開こうとして開かない。
中から開き、母と犬が居る。



「植物」
1、冒頭で医者は言う。
「植物にも意識があると思ったことは」

2、幼児時代。老母の姿をした母に
「燃えている」という時、妹が草をくわえている。

3、父と母が草原で寝転んで、父が
「どちらが欲しい?男か女か」
と言っているシーン、父は草をくわえている。



「血」
1、医者が立ち去る際に、耳の後ろから血を出している

2、初恋の少女、唇が荒れて血が出ている

3、少年時代、母が頼みごとをしにゆく近所の家で、
鏡を見る。唇が荒れて血が出ている。



「落下」
1、幼児時代、猫の頭に白い砂糖をふりかける主人公

2、母が髪を洗うシーン、白い天上が落下する

3、記録映画、白い紙吹雪が落下する



「心配」
1、幼児時代、燃える納屋を見て子供が居るのではと心配する声

2、印刷工場、母は誤植があったのではと心配する

3、兵役訓練、模造弾が爆発するのではと心配する戦傷教官



「「老母」
1、母が髪を洗った直後、母が老母になって出現する

2、成人時代、留守を守るイグナートに老母が尋ねてくるが、
「家を間違えたようだね」と言って帰る

3、幼年時代、老母の母に向かって「燃えている」と言う。



「医者」
1、冒頭母に話しかける男は職業は医者

2、近所の家で、継父のイワノフは医者であったと言う

3、病床、医者が主人公の容態を説明する


他にも膨大にあるので以降省略。
また後ほど一覧で提示する。
(最初「鏡」というくらいだから対句対句でくると思っていたが、
よく調べたら三連であった)


にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村


映画(全般) ブログランキングへ

2014年4月20日日曜日

タルコフスキー「鏡」・解読9

さてダンテの「神曲」からの影響というか引用は、
「鏡」のそこかしこに見て取れる。
その最大のものは、3という数字である。
ダンテの神曲は、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%9B%B2
3行詩の連続の形態である。

以下Wikiより引用

『神曲』は、
地獄篇 (Inferno)
煉獄篇 (Purgatorio)
天国篇 (Paradiso)

の三部から構成されており、各篇はそれぞれ34歌、33歌、33歌の計100歌から成る。
このうち地獄篇の最初の第一歌は、これから歌う三界全体の構想をあらわした、いわば総序となっているので、
各篇は3の倍数である33歌から構成されていることになる。

また詩行全体にわたって、三行を一連とする「三行韻詩」あるいは「三韻句法」(テルツァ・リーマ)の詩型が用いられている。
各行は11音節から成り、3行が一まとまりとなって、三行連句の脚韻が aba bcb cdc と次々に韻を踏んでいって鎖状に連なるという押韻形式である。
各歌の末尾のみ3+1行で、 xyx yzy z という韻によって締めくくられる。
したがって、各歌は3n+1行から成る。このように、『神曲』は細部から全体の構成まで作品の隅々において、聖なる数「3」が貫かれており、幾何学的構成美を見せている。
ダンテはローマカトリックの教義、「三位一体」についての神学を文学的表現として昇華しようと企図した。
すなわち、聖数「3」と完全数「10」を基調として、 1,3,9(32),10(32+1),100(102,33×3+1) の数字を『神曲』全体に行き渡らせることで「三位一体」を作品全体で体現したのである。

引用終わり


映画の冒頭を思い出してほしい。
最初にイグナートがテレビをつける。
次のシーンはモノクロで、高校生の吃音の治療。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1_(%E6%98%A0%E7%94%BB)


にあるように、女医の言葉と高校生の言葉が「鏡」になっているが、
同時に3という数字が象徴的に登場するシーンである。

少年はまず女医の眉間を見て、前に倒れる。
女医が後頭部に手を当てると、後ろに倒れる。
次に手を緊張させる。

3である。

手を緊張させた状態で女医は言う。
「3つ数えると緊張は解け、話せるようになる」

そして「1,2,3」
緊張は解け、どもらず話せるようになった状態で、
オープニングクレジットに移動。


以上はオープニングでの「3」の使用である。

「千と千尋の神隠し」の考察

をご覧いただきたいのだが、
(全てではないが)すぐれた作品の多くは、
冒頭部分に作品全体の本質を提示する。
タルコフスキーもここで、
「鏡」という側面と
同時に3、つまり「神曲」の後継作品であるという側面を、
効率的に提示している。


にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村


映画(全般) ブログランキングへ