そろそろ「風立ちぬ」の解説を再開したい。
堀辰雄の「風立ちぬ」のアウトラインまでを説明した。
堀の「風立ちぬ」のもっとも優れた点、
それは主客の合一が見られる点である。
主人公が風景を見ている。
風景が心にしみる。
なぜしみるか。
それは主人公の背後から同じ風景を、
婚約者が見ているからである。
「そうだ、おれはどうしてそいつに気がつかなかったのだろう?
あのとき自然なんぞをあんなに美しいと思ったのはおれじゃないのだ。
それはおれ達だったのだ。
まぁ言ってみれば、節子の魂がおれの眼を通して、
そしてただおれの流儀で、
夢みていただけなのだ」
仏教的とも言えるエゴの喪失、主体客体の合一が、
同時に宮崎駿の「風立ちぬ」のクライマックスになる。
それは主人公が菜穂子の隣でタバコを吸うシーンである。
「上手くいきそうだよ、
5匁くらい軽くなりそうだ」
「そう、よかった」
「30本で150匁だ」
「多すぎますわ、二人分だったらその半分でいいわ」
なんで肺結核で寝ている女性がリベットについて、
「二人分だったら」といわなきゃいけないのか。
ここで、菜穂子は堀の作る飛行機に完全に一体化しているのである。
http://yomitoki2.blogspot.jp/2013/09/13.html
で見るとおり、タバコは女性と別れるイベントの象徴である。
しかし、ここでは女性と別れない。
菜穂子が菜穂子のまま、飛行機と一体化するのである。
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