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2018年9月22日土曜日

斜陽3




なぜ東北にこれほどの才能が出現したのか。

石川啄木:1886
十年後に
宮沢賢治:1896
十三年後に
太宰治:1909


仮説を立ててみた。


1、文化の僻地
明治維新は文化輸入期である。
既存の旧文化が潤沢であるほど、新しい文化は導入しづらい。
秋田、岩手、青森にはいわゆる日本文化が十分にはなかった。
だから彼らは、西洋文化にいち早く対応できた。


2、鄙(ひな)の自信
田舎者と書くと怒られそうなので、鄙と書く。東京大阪に比べれば、東北は田舎である。東北人は一見地味で控えめで大人しい。しかしどうも日本有数の自信地方である。口には出さないが自分を信じる気持ちが大変強い。そういう田舎もの特有の気の強さがプラスに作用した。


3、賊軍
文化は常に政治の本流以外のところから出る。
例えば夏目漱石は江戸の名主さんの家系である。名主とはまず田舎の庄屋さんと思って間違いない。一般庶民ではない。よいお家である。夏目漱石の先祖は三方原で家康の身代わりになって死んでいる。そんな家系だから明治政府ははっきり気に食わない。そういうところから文化が発生する。
明治維新は、薩長の征服政権である。私はそれを肯定するが、東北が被害者であるとする見方もまた正しいと思う。そんな人々が、新しい文芸を生むのは、社会の生理的反応である

どの仮説もそれなりに正しそうである。

2018年9月21日金曜日

斜陽2

太宰はなぜが女性言葉が得意だった。「かず子がっかり」とか、一部に不自然なところはあるが、「斜陽」もまず上手に女性言葉で書かれている。

読み解きをする立場からはこの女性言葉がじつにやっかいで、女の言葉のごとく、ぐにゃぐにゃしていて意味不明である。いらだたしいのだが、残念ながらもっとも文学的な言葉とも言える。もっともナチュラルな重層性を持っているのである。

女性の言葉は男性の言葉より重層性がある、言い換えれば意味の明確性が低い。これはおそらく世界共通だろう。ロシア文学の「アンナ・カレーニナ」でも、女性同士はえらくグニャグニャした言葉で会話している。
しかしどうも、日本女性のグニャグニャぶりに比べれば、いくぶん明快であるようである。なぜ日本女性がかくもグニャグニャか。おそらく古典文学、平安女流文学によってグニャグニャに正統性が与えられ、昔から女性の識字率が高かったせいで、いやにグニャグニャがブラッシュアップされたのではないか。グニャグニャがブラッシュアップされてよりいっそうグニャグニャになる、男性には悪夢としか思えない光景である。そんな地獄のような環境に生息できるの男性は、太宰くらいのもので、よってこれほど重層的な物語はそんなに存在していないのである。

「斜陽」は名作である。ものすごい傑作である。しかし読み解けば読み解くほど、体調が悪くなる感覚があった。体の心が抜ける気がした。グニャグニャになる錯覚にとらわれながら、本邦の文芸における女性言葉の優位性を、思い知らされたのである。

2018年9月18日火曜日

斜陽

「斜陽」をアップした。

「斜陽」解説【太宰治】
https://matome.naver.jp/odai/2153720161167446001

疲れた。自分の読み解き史上最大に疲れた。平和の中でのうのうとパソコンいじっている自分のような人間には、重すぎる内容だった。解析していて逃げたくなった。

「斜陽」という言葉は実は「走れメロス」にも出てくる。夕日を追いかけて走る物語だから、出てきて当然である。シラーの詩から、全体を対句表現で仕上げれることに気がついた太宰は、「走れメロス」を書いた。その構成が自分でも気に入っていたのだろう。構成を考えるうち、物語とはなにか、よい物語とはなにか、を考え、練り上げ、最終的に「斜陽」にたどりついた。

Naverに掲載した表


これだけでは十分な説明ではない。
それぞれの節の内容は、それぞれ密接に対応している。
その対応が太宰最大の苦労だったはずだが、私も十分に読み解けていない。

しかし、疲れた。不十分な点が多いのだが、これ以上の解析は体力が持たない。「銀河鉄道」を書いた宮沢賢治、「斜陽」を書いた太宰治、いずれも体をやちゃっている。この形式そのものに、どうも人間の生命を吸い取る魔力みたいなものがあるのかもしれない。オカルトめくが。

数学者が大定理に挑んだあげくに、つぎつぎと発狂、廃人になるのと、少々似ていると思う。数学は精神をやるが、文学は体力をやるようである。