文化は天下の回り物だから、アメリカ文化が他国に淵源を持っていても不思議ではない。
しかし、ドイツ出自に一方的に偏っているのは事実だろう。
コンラッド「闇の奥」経由の、ニーベルングの指環作品群以外にも、
たとえばディズニーの城は、モデルはノイシュバンシュタインである。
ノイシュバンシュタイン城は、バイエルン国王ルートヴィッヒ二世の建築である。
彼はワーグナーの世界観にはまって、狂気の城建築マニアになって、国家財政を破綻に導いた。
しかしおかげで文化的影響力が強く、アメリカの子女はみな一度はディズニーの城を見る、
つまりノイシュバンシュタイン城を見る
つまり、ワーグナーの世界観を見るのである。
アメリカ人子女にとっての最大の教師は、ワーグナーなのである。
戦後仏教思想やらなんやらがアメリカではやったが、
あれはドイツに勝ってコンプレックスを解消して、
ようやく「ドイツ以外の世界」に目を向けることができるようになった、
という以上の意味が、ないのではないか。
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2018年4月20日金曜日
2014年12月22日月曜日
銀河鉄道の夜・解読4
3回出てくる言葉を、
それぞれ「模型・現物・抽象」あるいは「大・中・小」で分類すると、
以下のようになる。
あんまり綺麗な図にならない。
無念である。
解読という意味ではこのへんがそろそろ限界である。
なにしろ未完成作品だから。
以下は私の妄想である。
この小説には「三角標」という言葉が13回も出てくる。
「鉄道」などの言葉が「3回」づつ出現することからも、
全文が「3」にこだわっているものであることは確実である。
そういえば鳥取りの人も狩猟の際に足をきっかり60度に開いている。
これはおそらく人間三角標である。
そして私見では、3という数字、および三角標はおそらく三位一体教義を表現している。
ざっと解釈を説明すれば、
1)天気輪の柱が変形して三角標になった。
本文中
「そしてジョバンニはすぐうしろの天気輪の柱がいつかぼんやりした三角標の形になって、
しばらく蛍のように、ぺかぺか消えたりともったりしているのを見ました」
という部分である。この直後ジョバンニは銀河鉄道に乗車している自分を発見する。
2)天気輪の柱は「法華経」で言う多宝塔である。
3)三角標はキリスト教で言う三位一体教義である。
4)ただし、この三位一体教義は、正教会での三位一体ではない。
正教会の(本来の)三位一体教義は、私の解釈では
父:脳
子:視覚
精霊:聴覚
である。
ニケア信条を読み解く 参照
一方カトリックの三位一体教義は、私の解釈では
(あるいは私の考える賢治の解釈では)
父:大(抽象)
子:中(現物)
精霊:小(模型)
である。
「フィリオクェ問題」参照
カトリックの三位一体教義ならば、「銀河鉄道の夜」に整合的である。
5)「銀河鉄道の夜」は北十字と南十字の描写に見られるように、
一見キリスト教に寄った作品である。
しかし天気輪の柱が変形して三角標になる、
つまり多宝塔が変形して三位一体教義になることかわわかるように、
あきらかに賢治の法華経信仰を普遍化してゆくものとして描かれている。
以上で「銀河鉄道の夜」解読を終わる。
想像以上にマニアックで濃い作品である。
人間コンピューター賢治にも、
あまりにも濃すぎてついに完成出来なかった。
しかしこういう作品を構想しようとすることじたい、
かれの極端な文章能力の高さを証明している。
感触的にはタルコフスキーや宮崎駿よりも堀辰雄よりも濃い。
私が似ている感触を持つのはドストエフスキーくらいである。
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それぞれ「模型・現物・抽象」あるいは「大・中・小」で分類すると、
以下のようになる。
あんまり綺麗な図にならない。
無念である。
解読という意味ではこのへんがそろそろ限界である。
なにしろ未完成作品だから。
以下は私の妄想である。
この小説には「三角標」という言葉が13回も出てくる。
「鉄道」などの言葉が「3回」づつ出現することからも、
全文が「3」にこだわっているものであることは確実である。
そういえば鳥取りの人も狩猟の際に足をきっかり60度に開いている。
これはおそらく人間三角標である。
そして私見では、3という数字、および三角標はおそらく三位一体教義を表現している。
ざっと解釈を説明すれば、
1)天気輪の柱が変形して三角標になった。
本文中
「そしてジョバンニはすぐうしろの天気輪の柱がいつかぼんやりした三角標の形になって、
しばらく蛍のように、ぺかぺか消えたりともったりしているのを見ました」
という部分である。この直後ジョバンニは銀河鉄道に乗車している自分を発見する。
2)天気輪の柱は「法華経」で言う多宝塔である。
3)三角標はキリスト教で言う三位一体教義である。
4)ただし、この三位一体教義は、正教会での三位一体ではない。
正教会の(本来の)三位一体教義は、私の解釈では
父:脳
子:視覚
精霊:聴覚
である。
ニケア信条を読み解く 参照
一方カトリックの三位一体教義は、私の解釈では
(あるいは私の考える賢治の解釈では)
父:大(抽象)
子:中(現物)
精霊:小(模型)
である。
「フィリオクェ問題」参照
カトリックの三位一体教義ならば、「銀河鉄道の夜」に整合的である。
5)「銀河鉄道の夜」は北十字と南十字の描写に見られるように、
一見キリスト教に寄った作品である。
しかし天気輪の柱が変形して三角標になる、
つまり多宝塔が変形して三位一体教義になることかわわかるように、
あきらかに賢治の法華経信仰を普遍化してゆくものとして描かれている。
以上で「銀河鉄道の夜」解読を終わる。
想像以上にマニアックで濃い作品である。
人間コンピューター賢治にも、
あまりにも濃すぎてついに完成出来なかった。
しかしこういう作品を構想しようとすることじたい、
かれの極端な文章能力の高さを証明している。
感触的にはタルコフスキーや宮崎駿よりも堀辰雄よりも濃い。
私が似ている感触を持つのはドストエフスキーくらいである。
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2014年5月12日月曜日
造船王ノア
時代的に船の発明は馬の制御に先立つ。
馬というものは、はなかなか制御できなくて、
まずは戦車(要するに馬車)という形態で、
次に乗馬することができるようになったのだが、
乗馬できるようになったのはかなり後で、
殷周交代の牧野の戦いではすべて戦車、
騎乗できるようになったのは春秋時代以降である。
それ以降馬の制御が軍事力、すなわち権力に直接結びつくようになり、
射程距離が長い銃火器の発明までそれは続いたのだが、
馬の登場以前の最先端テクノロジーは、
船の製作であった。
だから、メソポタミア下流域で最初に文明というか、
王権が発生している。
下流域文明はすぐに中流域、上流域の連中に征服される。
最初は船を制御できた連中が権力を握ったが、
次に馬を制御できた連中に征服された、という意味なのであろう。
権力の変化は交通手段のテクノロジーの発展による変化であった。
逆に言えば、
馬が制御できる以前の文明では、
船が最新テクノロジーで、
良い船を作れる人間がすなわち王者であった。
ところで船の原初形態は丸木舟である。
やがて発展して、板を張り合わせたものになるのだが、
「箱舟」は名前からして、板を張り合わせたものと類推できる。
ノア(という人はおそらく実在しないのだが)が箱舟を作ったとき、
それは最先端のテクノロジーであったはずである。
板を組み合わせて、大きな大きな船を作れるようになったのである。
板の製造、接着など、さまざまな新開発技術は、
当時の他の部族を圧倒したはずである。
交易効率が格段に違うから、
富の蓄積により大きな権力を身につけた。
ノアはその船に全ての種族を乗せた。
ということは、ノアはテクノロジーによって王となり、
全ての生物の中間始祖を主張できる権威を身につけた、
という意味なのである。
箱舟神話は、
ノアという義人の物語ではなく、
王権の物語であったのである。
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馬というものは、はなかなか制御できなくて、
まずは戦車(要するに馬車)という形態で、
次に乗馬することができるようになったのだが、
乗馬できるようになったのはかなり後で、
殷周交代の牧野の戦いではすべて戦車、
騎乗できるようになったのは春秋時代以降である。
それ以降馬の制御が軍事力、すなわち権力に直接結びつくようになり、
射程距離が長い銃火器の発明までそれは続いたのだが、
馬の登場以前の最先端テクノロジーは、
船の製作であった。
だから、メソポタミア下流域で最初に文明というか、
王権が発生している。
下流域文明はすぐに中流域、上流域の連中に征服される。
最初は船を制御できた連中が権力を握ったが、
次に馬を制御できた連中に征服された、という意味なのであろう。
権力の変化は交通手段のテクノロジーの発展による変化であった。
逆に言えば、
馬が制御できる以前の文明では、
船が最新テクノロジーで、
良い船を作れる人間がすなわち王者であった。
ところで船の原初形態は丸木舟である。
やがて発展して、板を張り合わせたものになるのだが、
「箱舟」は名前からして、板を張り合わせたものと類推できる。
ノア(という人はおそらく実在しないのだが)が箱舟を作ったとき、
それは最先端のテクノロジーであったはずである。
板を組み合わせて、大きな大きな船を作れるようになったのである。
板の製造、接着など、さまざまな新開発技術は、
当時の他の部族を圧倒したはずである。
交易効率が格段に違うから、
富の蓄積により大きな権力を身につけた。
ノアはその船に全ての種族を乗せた。
ということは、ノアはテクノロジーによって王となり、
全ての生物の中間始祖を主張できる権威を身につけた、
という意味なのである。
箱舟神話は、
ノアという義人の物語ではなく、
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