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2018年9月21日金曜日

斜陽2

太宰はなぜが女性言葉が得意だった。「かず子がっかり」とか、一部に不自然なところはあるが、「斜陽」もまず上手に女性言葉で書かれている。

読み解きをする立場からはこの女性言葉がじつにやっかいで、女の言葉のごとく、ぐにゃぐにゃしていて意味不明である。いらだたしいのだが、残念ながらもっとも文学的な言葉とも言える。もっともナチュラルな重層性を持っているのである。

女性の言葉は男性の言葉より重層性がある、言い換えれば意味の明確性が低い。これはおそらく世界共通だろう。ロシア文学の「アンナ・カレーニナ」でも、女性同士はえらくグニャグニャした言葉で会話している。
しかしどうも、日本女性のグニャグニャぶりに比べれば、いくぶん明快であるようである。なぜ日本女性がかくもグニャグニャか。おそらく古典文学、平安女流文学によってグニャグニャに正統性が与えられ、昔から女性の識字率が高かったせいで、いやにグニャグニャがブラッシュアップされたのではないか。グニャグニャがブラッシュアップされてよりいっそうグニャグニャになる、男性には悪夢としか思えない光景である。そんな地獄のような環境に生息できるの男性は、太宰くらいのもので、よってこれほど重層的な物語はそんなに存在していないのである。

「斜陽」は名作である。ものすごい傑作である。しかし読み解けば読み解くほど、体調が悪くなる感覚があった。体の心が抜ける気がした。グニャグニャになる錯覚にとらわれながら、本邦の文芸における女性言葉の優位性を、思い知らされたのである。

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