普通文学の研究をする人は、まずその作家の全作品を読み、周辺の作家(たとえば太宰なら井伏や坂口安吾や川端や志賀)をできるだけ読み、作家の人生を調べ上げ、全集をさらに数回読んだりする。すばらしい努力量である。私には出来ない。敬服に値する。
しかし全員がそれをやりだすと、特定作品を深く読み込む人がいなくなる。実際あんまりいないようだ。観測できるのは、今は下火になったが一時期のロシア文学者と、現在の英米文学者である。英米文学研究者はさすがに人材が豊富なようで、少数ながらそういう人が居る。
遺憾なことに国文学かいわいにはほとんど生息していない。ひとつには、周辺の事象や作家を調査するのがあまりにも容易なので、そちらの調査に嵌ってゆくのだろう。それはそれで、悪いことではない。
周辺事象の調査は永遠に価値ある知見だが、深堀はより深く掘った人間が出現した時点で、研究としての価値がなくなる。むなしいといえばむなしい。マジョリティーになることは、おそらく一生ないだろうと思いながらやっている。
しかし喜びがあるから続けられるのである。やめられなくなるほどの楽しみがある。それはその作品を読めることである。
深堀り派以外の人間でも読むことは読める。しかし、その作家のすばらしさ、その作品のすばらしさは、深堀しなければ十分には理解できない。当たり前である。逆にいえば、全集何度も読む、といった作業は、実はたいして面白くないはずである。作業量的に、さのみ深くは読めないからである。そんなことをしていたら人生終わってしまう。
つまり、二者択一なのである。広く浅く読むか、狭く深く読むか。人間の能力は有限である。両方やるには人生80年では足りないのである。
社会にはどちらの人間も必要だと思う。しかし現実には深堀り派はほとんど生息していない。おそらく学校でまったく教えられないからである。たいてい、先生も、その先生も、そのまた先生も、「深堀する」ということじたい知らない。優秀な弟子ほど先生に忠実だから、深堀派は不利である。
それでもなんとか深堀派が増えればよいなと思う。深堀は良い。大量に作品を読まなくてもよい。怠け者の道である。同じ作品を深く読むだけだから、記憶力があれば空いた時間に手ぶらで研究ができる。なければ章立て表つくって見るだけでも研究にはなる。アマチュアには最適である。
今日の日本には文学科出身のひとは大量に存在しているはずである(私は違うが)。作家の周辺事情の研究にうんざりした人も多いのではないか。私はゴシップ研究家ではないと思った人も居るのではないか。そんな方はネタはなんでもよいから、時間はいくらかかってもよいから、好きな作品を、深く読むことをお勧めする。10回程度読み込めば、その作品の理解度は人類のトップ1%くらいにはなれる。同じ作品を30回読むひとはほとんどおらず、100回よめばライバルは数人程度である。マイナー分野の喜びである。碩学といわれるひとも、たいてい深くは読んでいないのである。
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