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2016年4月20日水曜日

「豊饒の海」追記12

作品を読むには、細部の検討まもちろんだが、全体のフレームを読む必要がある。ところが高校の現代国語で扱うのが全体のフレーム、構成ではなく、この言葉がどこにかかるか、みたいな細部ばかりである。そして、全体が読めない人間が大量生産され、自国の文学さえ楽しめなくなる。これはもはや、犯罪である。元来文芸が発達いた国である。国語が得意だろうが苦手だろうが、文学作品くらいだれでも楽しめるはずである。でも楽しめない人が多い。現代国語に毒されているのである。


「鏡子の家」という作品が三島にある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%AE%B6
に解釈が色々載っている。かなりひどい。
最後に七匹の犬をつれて主人が戻る。七匹の犬とは北斗七星である。北斗七星は北極星を守る存在である。北極星の中国名は天皇星である。つまり不在だった主人は天皇である。それが、この作品の理解の第一歩である。

「音楽」という作品もある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3%E6%A5%BD_%28%E5%B0%8F%E8%AA%AC%29
麗子の兄との近親相姦。これはアダムとイブの近親相姦を下敷きにしている。その麗子が兄の子を抱いて、聖母マリアのような顔になる。つまりこれは、旧約聖書創世記と、新約聖書をドッキングさせた作品なのである。間のショートカットが大胆だが、三島なりにキリスト教世界を日本の日常に翻案した作品である。


物語とは、主語と述語の順列組み合わせではない。物語は過去に存在し、発展しながら現在まで生き残った人類文化である。ある程度以上の見識を持った文学者は、かならず過去の作品に取り組み、吸収し、解体し、再構築し、読者に届ける。
作品全体の構成から見れば、この物語の進化の樹形図と、その図の上における位置が明快に見える。それを手がかりに、細部を読み解いてゆくのが正しい読み解きである。


「豊饒の海」は上記2作品より手がかかっている。それだけ読み解きには手がかかったが、これは別に特殊技能ではない。手間さえ厭わなければ、だれでも読み解けるし、理解して楽しむことができる。それが多く人々に広がれば、日本文化はもっと良くなるだろうに、「現代国語」が邪魔しているように、私には思える。

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