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2016年4月18日月曜日

「豊饒の海」追記10

第二巻「奔馬」で佐和という名前の中年男が出てくる。佐和とはすなわち沢という意味である。つまり水族である。飯沼勲に大変大きな影響を与える。危険な右翼である。
そして第四巻「天人五衰」に古沢という大学生が出てくる。安永の家庭教師である。安永に左翼革命思想を吹き込む。安永が本多に告げ口したものだから、古沢は首になる。
どうして本多は古沢を首にしたのか。それは「奔馬」の時とは本多の状態が変わったからである。奔馬の時は本多は、貧乏ではなかったが金持ちでもなかった。「天人五衰」では彼は、大金持ちになっているのである。だから安永が革命思想に目覚めると、殺されるのは自分である。だから革命思想を吹き込む古沢を、首にしなければならなかった。
もっとも、そんなことをしてもやっぱり安永は本多を潰してしまおうとするのであり、結局本多の思い通りにはならない。というより、よりいっそう質が悪くなる。飯沼は弱い者いじめをするようなキャラではなかったが、安永は百子をいじり倒し、本多を鉄の棒で殴る。目的を失ったエネルギーの劣悪さが描かれている。
これは、三島が戦後左翼に抱いた感想そのものである、と同時にヴォータンとジークフリートの関係を、上手に模写している。ヴォータンは自分の孫であるジークフリーに、権力の象徴である槍をおられて、すごすご逃げ帰る。そして結局ヴォータンの野望はジークフリートの死によって完全に潰え、本多の野望も安永の失明によって完全に潰える。金を追求しても、最後はヴォータン、本多のようになるのである。


「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。」


三島由紀夫の言葉である。もっとも三島は、日本を信じる気持ちが少々小さい。自信ががなさすぎる。


「ねえ、つくる、ひとつだけ覚えておいて。君は色彩をかいてなんかいない。(中略)君はどこまでも立派な、カラフルな多崎つくる君だよ。そして素敵な駅を作り続けている」


日本は大きさの割に海岸線が長い、多崎な国である。そしてものづくりが好きだ。そして鉄道は最も発達している国である。村上春樹のこの言葉は、三島に優しく語りかけているように、私には思える。


「大丈夫、大丈夫、大丈夫だったでしょう? 全然ニュートラルでも、中間色でもないでしょう? レイプ狂といういわれなき誹謗も晴れました。みんなわかってくれています」


多崎つくるは高校時代、仲良し5人組の一人だった。ちなみに、満州国のスローガンは、「五族共和」である。そんな本がベストセラーになるのだから、三島も草葉の陰で、安堵していると思う。


書いててやや感情的になってきた。以下も感情的である。


「魔法少女まどかマギカ」を見終わって、「ああ、この作品を太宰、安吾に見せてやりたい」と思った。彼らが取り組んだ西洋文明と日本という問題を、現代のアニメで、いともやすやすと表現出来ている。脚本も優れているし、ついている音楽は劇付随音楽としてはワーグナー以来の出来である。(個人的には、ロータもマンシーニも武満も久石も、まどかの音楽にかなわないと思う)。連中は酒と麻薬と覚醒剤で、ドロドロになりながら書いて、死んでいった。その努力は無駄にならなかった。きっちり後をつぐ人が出ている。
三島もしかり。渾身で書いた作品を、きっちり読んで理解してくれる後継者が居る。後継者は、三島以上に世界的に売れている。素晴らしいことである。


「今の日本文学は」とか、「そもそも日本文化には」とか、文句を垂れる連中は大勢居る。ふざけるんじゃない。読めもしないくせに大きい顔して文句を垂れるな。村上春樹もいれば、村上龍も、少し世代は上だが筒井康隆も居る。若い人で才能あるのは、もっと沢山居るだろう(私は詳しくないが)。奇跡の国の奇跡の時代に生きて、感謝の気持ちが持てないのなら、始めっから小説なんぞ読まなきゃいい。







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