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2016年4月15日金曜日

「豊饒の海」追記7

作品は単独では存在しない。かならず前後に親族を持つ。持たない作品は駄作だから勘案する必要がない。


私達は進化論を知っている。古代の化石たちを知っている。どのような生命が繁栄し、どのような生物が滅んだかしっている。一時期繁栄した恐竜は絶滅した。しかし恐竜は記憶に残っているだけ幸福な方で、膨大な数の種が、化石ににものこらず、忘れ去られたままになっているはずである。しかし、それら全てを勘案する必要は無い。究極的に言えば、人類がどのように進化、発展してきたかが興味の90%であって、恐竜を含む全ての絶滅種の知識は、それへの補助線にすぎない。文芸も又同様である。
重要な作品は存在する。さほど重要でない作品も存在する。ここで言う重要とは、人類社会にとって重要という意味である。特定個人にとっての重要性はここでは関係無い。そして重要な作品は、十分解明されなければならない。重要でない作品を解明してももちろん良いのだが、解明されなくてもさほどの損失にはならない。重要さの指標は、もちろん発行部数である。そして、どのていど派生作品を生んだか、である。


ワーグナーは、重要な存在である。オペラの部門では絶対的な存在であり、専用の劇場まで存在する。良くも悪くもドイツ文化の頂点である。そして、実は現代の映画など映像作品の根源にあるのが、ワーグナーである。映画を絵だけから分析したがる映画批評家は、反省しなければならない。そして、実をいうと、ストーリーをまともに分析した映画批評も、実はほとんど存在していない。映画は統合的な芸術である。絵画、演劇、文芸、そして音楽が含まれる。






ワーグナーの重要性を理解し、まじめに取り組んだ作家が、三島由紀夫である。五味康祐という剣豪小説を書いた人も、ワグネリアンでまじめに取り組んでいるらしいが、作品は遺憾ながら読んでいない。さほど後世に影響を与えていないからである。三島は違う。私は三島が好きではないが、保守、右派が日本に存在しつづけるかぎり、読まれ続ける存在である。ならば、ワーグナーもそれなりに研究されなければならない。しかし、多くの読書人がワーグナーと三島の関係を軽視しすぎた。


軽視しなかった人も居る。三島を好む、右派、保守からかならずしも支持されているとは言えないが、村上春樹である。たとえば羊をめぐる冒険は、三島由紀夫に死の日から始まる。つまり、「豊饒の海」の完結の瞬間から始まるのである。作中のテレビには三島の姿が映されている。音声が壊れて声が聴こえない。そして、別のシーンでは二羽の鳥が飛び立つ。
二羽の鳥とは、「ニーベルングの指環」にでてくる、ヴォータンのはなった見張り役である。自分の孫ジークフリートの運命がどうなるか、ヴォータンが気になって二羽の鳥を派遣したのである。悪い予感はあたって、ジークフリートはあえなく殺される。そして、二羽の鳥が空に飛び立つ。ヴォータンの時代の終焉を告げに、飛び立つのである。「羊」における頭の中に入ってくる羊は、ほぼ「指環」の指環そのものと考えて矛盾が無い。


すでに、「村上春樹の隣には三島由紀夫がいつもいる」という本が出版されている。
http://www.amazon.co.jp/dp/B00K1U9MJY/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1
適切な見解である。しかし注意しなければならないのは、村上は単に三島を意識したのみならず、三島を読み込み、豊饒の背後に指環があるという洞察を持っているということである。良い本であるし、同感である部分が多いのだが、読み込みの精度が村上や三島から、大きく劣っているというのが、偽らざる感想である。
著者は、まず村上や三島の作品を、もっと詳細に読み込まなくてはならない。著者はどう見ても私の数十倍の読書量を持つ人物である。詳細な読み込みの世界があると認識し、そして章立て表、人物評を作成しながら読みこめば、私などどとは比でない速度で解明できるのは明らかである。
その上で、村上の背後に三島が居るならば、三島の背後になにが居るか洞察しなければならない。著者の言うように、村上春樹は三島の正統的な後継者である。ワーグナーの音楽で映画を作った人物と、小澤征爾と対談集を出す人物。


逆に言おう。三島と村上が、世界で読まれるのは当たり前である。世界は白人が支配している。ワーグナーは白人の文化の一つの頂点である。それを下敷きにした日本の作家は、それを下敷きにしない日本の作家より、世界の人々にとって理解しやすいはずである。三島も、村上も、いわば他人の土俵で相撲をとった力士なのである。ジブリの宮﨑駿もそうである。だからもっとも「ニーベルングの指環」的な「千と千尋の神隠し」はベルリン映画祭でグランプリを取れた。三島も村上も、ワーグナーが著名であるかぎり、世界中で読まれ続けるのである。
日本の本当に恐ろしいところは、この吸収能力である。強靭な歯で噛み砕くのではなく、なにかベッタリと胃液のようなものをかけて、ゆっくりゆっくり消化し、やがで完全に吸収する。ドイツで「ニーベルングの指環」を下敷きに、どれほどの作品が再生産されているのか、私は知識がないが、しかしあまりされていないだろうなと思う。日本ではしっかり生産されているのである。文芸でも、アニメでも。



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