追加である。
電車についての考察も必要である。
電車に初めて接するのは、
鳥居の中、劇中では赤い門の中、
お母さんが千尋に、電車の音がしていると伝えるときである。
次には飲食店ブロックから湯屋ブロックに渡る橋の上、
千尋は電車を見下ろして、ハクに注意される。
この時カメラワークが少々混乱というか、わかりにくくなっており間違えやすいのだが、
詳細に見てみると電車は飲食店ブロックから出ているのがわかる。
出てきた電車は湯屋ブロックにはいらず、向かって左脇を通る。
そして千尋が乗る駅は湯屋ブロックから少し離れた距離にある。
電車に乗ってみると、
「めめ」という積み荷が置いてある。
「めめ」とは飲食店ブロック最初のお店であり、
店には「めめ」「目」「生あります」などど不気味な文言が並んでいる。
湯屋および飲食店の商品は、
一部菜園で生産されるほかはよそから運び込まれるほか無いわけで、
「めめ」という商品はこの電車で運ばれてきた、
湯屋や飲食店ブロックに売ったあと、
一部売れ残りが千尋の乗った電車に載せられていた、とかんがえられる。
あるいは飲食店ブロックで調達された「めめ」が、
電車でほかの場所に運ばれている、でも良い。
いずれにせよ電車は商品を運ぶ手段であり、
実際に上の棚から荷物をおろす動きの描写がある。
神々が船で移動しているのは、
物語の最初で明示される。
お客は船で、では電車はなにを運ぶのか。
電車に乗っている黒い人は、
おそらく行商人、神々を支える存在なのであろう。
交易は元来、西のものを東に、東のものを西に移動させる行為である。
双方向的なものである。
劇中の交易は、電車は一方通行である。
不完全な交易である。
そして釜爺は言う。
「昔は帰りがあったんだが」
一方通行になった原因はなにか。
状況は物語の冒頭に示される。
鳥居に隣接してほこらがあり、
ほこらに隣接して大樹がある。
大樹の先端は、おそらく落雷であろうか、
折れてしまっている。
落雷で枝が折れた時期と、
電車が一方通行になった時期は、一致するはずである。
光合成は不十分になり、
この樹は地下から水分と養分を吸い上げるだけの存在になった。
そして電車は沼地を通る。
維管束の中を養分が流れる様が、
電車として描かれる。
それが宮崎の考える現代文明の姿である。
光合成の能力を失い、
大地の養分を浪費しているだけの存在。
振り返って全体の構成を考えてみよう。
この物語ははっきり、3部分に分割できる。
千尋が異世界に迷い込み、湯婆婆と契約するまでの部分。
湯屋で働き、功績と失敗をする部分。
電車に乗って銭婆婆のところに行く部分。
3部分がきれいに冒頭で表示される
最初の部分を象徴するのが赤い門=鳥居であり、
次の部分を象徴するのが湯屋=小さな石の祠であり、
最後の部分を象徴するのが、電車の走る沼沢地=先の折れた大木
かえすがえすも、
物語の始まり方の上手い作家である。
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