宮崎駿の上手さは冒頭にある。
ラピュタの冒頭なぞ、何回見ても驚嘆する。
完璧である。
ムスカ、シータ、盗賊の3者が効率よく登場するはじまりのシーン。
すったもんだの挙句、最後にシータが手を滑らせて、
暗い雲の中に消えてゆき、オープニングクレジットに入る。
名曲「君をのせて」のメロディーが流れる中、
かつて飛行文明が栄え、
しかしなんらかの理由で人々は文明を捨て地上に降り立ったことが、
銅版画のような画で示される。
メロディーが引き続きながらクレジットは終了、
再び暗い雲野中のシータの落下シーンにもどり、
「君をのせて」の旋律はチェロからバイオリンに引き渡されて、
小節線をまたぐその瞬間、胸の飛行石が光り始める。
(ご丁寧にもバイオリンにはリタルダンドがかかる。少しためをつくる。
背景としてティンパニがトレモロで煽り立てる。
全ては飛行石発光の、劇的な効果を引き立てるための演出である)
これほど効率的で、充実して、印象的な映画の開始を、私は知らない。
映像と音の奇跡的な結合である。
この数分間だけでも、宮崎駿と久石譲は映画史上に名を残したであろう。
「千と千尋の神隠し」はラピュタに比べればいくぶん地味である。
そもそもタイトルが表記されるだけでオープニングクレジットが無い。
しかしラピュタであそこまで完成されたことが出来る人間が、
普通のオープニングをつくるはずが無い。
必ずや深い意味を含ませている、という気持ちで、
詳細に見る必要がある。
千尋は冒頭で、車の後部座席に横になって、花を持っている。
普通人間が横になって胸に花があると、
死んでいるという意味になる。
実際湯屋にいるのは、
例えばひよこの神様、つまり死んですぐに殺されたヒヨコであり、
ハク、つまり埋められて死んでしまった川の神様である。
湯屋は死の世界である。
千尋は仮死状態ないし一度死んで湯屋の世界に行ったのである。
その死の世界の入り口は、
樹木と鳥居とほこらで示される。
鳥居と樹木に挟まって、小さな石の家がたくさんある。
小さな石の家は、多くが傾いている。
「あの家のようなものはなに?」
「ほこら、神様のおうちよ」
という会話があった。
鳥居を脇に通りすぎて荻野一家は、大きな赤い建物に到達する。
赤くて、門になってる建築物といえば、つまり鳥居である。
あの赤い建物は変容した鳥居だったのである。
そこを抜けて平原にでるのだが、
草原での家は、多くが傾いている。
それら家々は、先ほど見たほこらなのである。
千尋一家はいつのまにかサイズダウンして、
ほこらの小さな世界に入り込んでしまったのである。
そして赤い門を前に千尋は、
まず花束を握りしめたまま車の外に飛び出し、
次に握りしめていた花束を車の中において、そして父のところに駆け出す。
死の世界で死者が活動し始めた瞬間である。
やがて物語が終わり、ハクと別れて、千尋は再びトンネルをくぐる。
見返す門の建物は、赤い色が落ち、地肌の茶色になっている。
ちょうど冒頭で見た鳥居が、赤い塗料が落ち、
木の地肌の茶色であったように。
死の世界の活性化が終わり、同時に死の世界の旅は終わり、
千尋は生の世界での活動を再開したのである。
千と千尋を文明論であると書いてきたが、
大きな大きな文明論は、
小さな小さなほこらの世界で語られる。
マクロとミクロの世界の物語、それをラピュタのように効率的に、
しかし今回は地味で控えめで穏やかに、
このオープニングで宮崎は宣言しているのである。
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