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2019年12月10日火曜日

戦争と平和、エピローグ第二編について

トルストイ作「戦争と平和」は以下のような章立てになっている。




四部+短めのエピローグであるが、短いと言っても全体が長大なのでそれでも結構な量になる。エピローグは二編あるが、うち第二編はおなじみの人物たちが登場しない。小説ではないのである。トルストイの歴史論になっている。最後の最後だから、トルストイの主張がここにまとめられているからと考えて差し支えない。エピローグ第二編のみ表に書き出してみた。



表にしてもダラダラとわかりにくい。原文はもっとわかりにくい。たかが歴史論程度でこれである。なるほどこの人は小説書かなきゃならなかったはずである。論説文が「ほぼ書けない」レベルなのである。信じがたいほどの下手である。今日の標準的な高校生のほうが論理が流れる書き方ができるのではないか。わかりにくいのを何度も読んでとりあえず理解できたと思うから、まとめておく。

1、古代社会では歴史を動かすのは神だった
2、その後信仰がなくなった
3、歴史学者は神の部分に「権力」を代入して説明している
4、ではその権力とはなにかというと、まともな説明はない。いったい歴史を動かしているのはなんだ
というのが設問である。

設問自体は鋭い。歴史学者の皆さんはなんと答えるだろう。あんまりこういうことを考えていないのではないだろうか。
トルストイはメンタルはベタベタクリスチャンのくせに、インテリだから知的、科学的に考えようとする。だから神のかわりになにを代入するか気になるところだったのだろう。

トルストイの結論では、権力はない(はっきりとは言わないがそういう意味である、以下やや断定的に説明する)。権力者の自由意志もない。人間の行動の全ては必然である。必然なのだが、必然だと認識できていないから自由意志があると思い込み、権力者が存在すると思い込んでいる、というものである。

トルストイは例えば、「命令は事件の原因ではない」と言い出す。なるほど命令は出されている。いくつかは実行される。その後事件が起こる。しかし実行されない命令も大量にある。大量の命令のうち実行されたものを事後的に発見して、「この命令がこの事件の原因だ」と言われる。しかしそれは事後的な処理にすぎない。因果関係ではない。相互関係にすぎない。つまり命令は事件の原因ではない。
また言う。単独の命令は存在しない。命令にはかならずそれに先立つ命令がある。命令の原因は命令であり、命令の結果は命令である。命令者は命令を下すのが仕事であって、実際に戦闘には参加しない。ナポレオンやロシア皇帝アレクサンドルが殺し合いはしない。命令を下すだけである。したがって彼らは戦争に参加していない。

こういう考え方では、ナポレオンは英雄にならない。というか受動的に法則に動かされているだけで、極論すれば責任もなくなる。すべては必然の法則で動かされているのである。ではインパールの牟田口は責任はないのか。責任あるような気がするの人が大半だろう。
とりあえずトルストイの主張と、かれが暗黙に想定する対立意見を表にした。



あっさり言ってしまえば、この両極端とも人間は完全には棄却できない。つまり両方の意見が存続し続ける。人間が人間であるかぎりそうである。
しかしトルストイは極端な考え方が好きだから、登場人物を当てはめて勧善懲悪ならぬ、勧正懲誤物語を作った。


しかしながら、なんぼピエールとクトゥーゾフを受動的キャラに描いても、やっぱり彼らはヒーローなのである。ナポレオンほどではないが、ヒーローなのである。

トルストイはようするに、混乱しているのである。極端な主張をしようとしてしきれていない。しかしその努力と根性たるや凄まじい。結局圧倒されてしまう。小説は結局の所、論理の整合性を探求する場所ではなく、正体不明の情熱をぶつける場所のようである。

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