読み解きはテキストが固定的なことが前提である。
外国文学では複数の翻訳が出版されていることが多いが、
だいたい同じ意味であることを前提に、異同を勘案せずに読み解きをすすめる。
全体構成の読み解きだから、少々の違いは無視できる。
で、論語の読み解きの場合はそれが通用しない。
一応テキストの定番らしきものは存在する。
ところがその漢文の書き下し方が、未だ一定でない。
「書き下し方(つまり意味解釈、外国語からの翻訳)を考えるには、当時の言葉を知らないといかんではないか」と言い出したのは、なんと中国人ではなく日本人で、伊藤仁斎という。江戸時代の人である。それに荻生徂徠が続き、徂徠の研究は独創的なものだったので、中国で出版されたりもした。
中国でも日本から遅れて語学的研究が始まり、今日までそれは続けられている。
真説「論語」
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も論語の全体構成をまず見るのではなく、「春秋」から当時の歴史状況を理解し、本文を検討してゆく方向である。検討の結果として「原初論語」を再現しようとする意図だったらしいのだが、記述は途中で中断されていて再開していない。ご本人「満身創痍」と書かれている。どなたか消息ご存知でしたら教えていただきたいものであるが、内容はともかく度胸が良い。切り捨てるところは問答無用で切り捨てる。
例えば、当時の木簡竹簡の状況。材料を用意するのに手間がかかり、かつ墨が発明されていない。漆で書かれていたらしい。書きにくい。となると、長い文章の記述は無理である。実際春秋の本文は極端に短い。だから論語も本来は極端に短かったはずである。しかし論語の中には短い文もあるが長い文もある。という状況で、真説氏は一気に切り捨てる。
「長文は基本的に後世の偽作である」
説得力が高い。高いのだが、論語の全体構成を読みたい私の意図とは遠く離れてしまう。かなりの文章が抹殺されてしまうからである。11-25の「子路。曾晳。冉有。公西華。侍坐。」で始まり、「歌でも歌って帰りましょう」となる有名な文章も、抹殺されてしまうのである。もはやそれは、論語ではない。間違いなく孔子の発言には近づくのだが。
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