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2019年12月13日金曜日

論語について

「論語」コツコツやっている。頭と時間と気力に限界あるからペースがやたら遅い。まともに読めるようになるまでおそらく数年、全部頭に入るまで10年、読み解きとなると生きているうちにできるかどうかわからない。なんでそんな迂遠なことをしてるかというと、物凄く精神が落ち着くのである。ではなんでそんなに精神が落ち着くのか。内容が素晴らしいからではない。内容がないからである。中身が空っぽだから落ち着くのである。言い換えれば、気合と根性さえ充実していれば自由に読める。なんとでも解釈できる。

だいたい教祖なんてそんなもんで、釈迦の場合は第一回仏典結集が入滅百年後である。それも文字情報の突き合わせではなく、口誦の突き合わせである。でもってその後もしばらく文章化されなかったわけだから、どれが釈迦本来の教えであるか、確かなお情報はないのである。
だからこそ、つまり「これこれが教祖の教えである」という情報が少ないからこそ後世の仏教徒は次から次へと新たに経典を開発作成できたわけである。生前多弁すぎ、かつ文字情報等を残しすぎ、結局生身を感じさせることになって神格化に失敗した宗教家もかなり存在したのではないか。つまり釈迦は、文字社会でなく、さのみ情報が残らなかったことが後世有名になった原因だと思われる。
なんだか釈迦に尊敬が足りないようでもある。しかし読み解き作業は神格化をしたらダメなのである。作業上神格化禁止なのである。釈迦もキリストもムハンマドも、ただのおっさんなのである。ゲーテもドストエフスキーもそうであるように。
孔子も同様にそこらへんのおっさんである。味はある。頭も良い。でも聖人ではない、そう思っていなければ実はなんにも読み解けない。もっともバカにしたら読み溶けるというものでもない。

孔子が生きたのは古代社会である。資料が非常に少ない。少ない資料を読み解くと、どうしても妄想比率が高まる。論語の読み解きの歴史は、伊藤仁斎(1627生)からはじまって、武内義雄(1886生)くらいでどうも限界点まで行っている。私は伊藤も武内もまだ読んでいないが、武内に刺激を受けた和辻哲郎の「孔子」を読んだ。

https://www.amazon.co.jp/dp/B009MDOMUU/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_6fZ8DbP5GQCNB

名作である。タダである。血沸き肉踊る論考である。つまり、やや妄想に近くなっている。ある一定の情報量から導き出される読みの総量は一定であるはずである。情報が倍になれば読みもその分深くできる。情報が増えなければ読みはいずれ限界に近づく。東洋社会では論語はS級の書物だから、だいたい戦前には読み解きが限界値を迎えていたようである。
それでもなお、読み解きを進める猛者は存在したし、今も存在する。数年前から知っているサイトだが、2009年を最後に更新が途絶えている。もしかしたら著者は逝去されたのかもしれない。

真説「孔子」
https://threeshiko.exblog.jp/

真説「論語」
https://twoshikou.exblog.jp/

真説「春秋」
https://oneshikou.exblog.jp/

妄想爆裂である。しかし私は尊敬する。この勇気。この度胸。そしてこの洞察。
以下真説氏の説を随時アップしてゆく。

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