今まで見てきたように、経済問題の責任を考えると、どうしても軍事と医学の責任と似通ってくる。
再現性がなく、社会全体に影響を及ぼし、理屈自体は無限に立てられるが、観測が実際に難しい。そういう問題は「責任」を考えること自体難しいのだ。政治も同じであって、政治家の責任、責任と連呼されるが、実際にはどこからどこまで政治家の責任かあきらかな例は乏しい。
軍事で考えてみよう。戦争は相手の裏をかけば一気に有利になる。それは誰でも知っている。
しかしもしも大学に軍事学の大家が居るとして、その方は大家なのだから、大抵の軍事理論を知っている。軍事理論が全て、さのみ信頼できるものでないことも知っている。その大家に作戦のお伺いを立てる。すると大家は、なにしろ博学だから、常識的な作戦を提言するだろう。全ての作戦の平均が、常識的な作戦だからである。となると、大家の立てる作戦は相手の裏をかけない。そして相手は、「敵は大家が作戦を立てるから、かならず常識的な作戦をたてるであろう。裏をかいてやろう」とする。となると、大家に作戦立案を委任した時点で、実はすでに不利になっているのである。なぜなら、大家は博識だからである。もしも軍事学の大家を使って戦争に勝利したいならば、やりかたは一つしか無い。大家に作戦を立てさせ、その裏をかく作戦を参謀本部が立案することである。つまり大家をダシにする。誰よりも優秀で誰よりも努力した人間の利用価値が、ダシとしての価値なのである。
人間はなんのために勉強するのか、悩んでしまうような結論である。勉強はしばしばマイナスになる。再現性がなく、観測も難しい系の勉強はきわめてしばしば、必然的に凡庸を生産してしまう。勉強しなほうがマシなのである。勉強したから負けるのである。
筆者は主に文学解析をし、たまに経済問題を考える程度の人間である。文学については、勉強はしていないが研究は結構やってきた。だから明快に言える。下手な勉強は確実に実力を損なう。勉強すれば賢くなるというのは神話である。再現性のある系、証明可能な系では勉強量と実力は基本的に比例する。再現性がない、証明不能の場合には、勉強で凡庸さを獲得する確率のほうが高い。しらずしらずのうちに、知力が社会に飲み込まれてしまうのである。
今漱石を半分くらい読み解いたが、いわゆる大家たちの論評はどれもこれもひどいものである。小説の内容にたいする基本的な理解ができていない。自分が漱石と同等の文学的才能の持ち主と勘違いしているのだろう。苦労して読んだ形跡がまるでない。おそらく読めていないことさえ気づいていない。そしてなんにも中身が読めていないのに、大量の評論を書き連ねている。
そのような評論を全部読んで咀嚼するとどうなるか。読む前よりも読んだあとの方が、漱石からは遠ざかるのである。間違いなく「評論界」には近づく。しかし文学からは遠ざかる。それは意味のある努力なのか。それを本当に勉強と呼んでよいのか。蓮見なり柄谷なりの評論を読む学生たちは、ある意味被害者なのである。でもその学生がまた教育者になり、そして又学生を指導し、間違いは拡大再生産されてゆく。
経済も同じである。「神が日本に下した呪い」と成り下がった経済学者たちは、若いころ間違いなく優秀で、間違いなく勉強熱心だった。好き嫌いをせずに目の前の情報を手当たり次第に口に放り込んで咀嚼していった。蓮見、柄谷を口に放り込む人と同じように。その結果凡庸にして、「裏をかかれる存在」になってしまった。彼らは先生たちを信用しなければよかったのだ。だが彼らが経済学者になったのは、先生たちを信用したからだ。
かなりどんづまった状況であることがご理解いただけたと思う。