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2021年8月22日日曜日
スポーツ観戦と記憶:【天才過ぎる】原稿を描かずにアメリカに行ってしまった手塚治虫。前代未聞の国際電話で原稿を仕上げる事を決意する。【岡田斗司夫/切り抜き】
2021年8月20日金曜日
物語としてのスポーツ
スポーツは時系列上に存在するから、物語の一種である。しかし鑑賞しやすいわけではない。戦術が高度になればなるほど、鑑賞しにくくなっている。
恥を承知で言えば、私の動態視力では、井上尚弥の試合はもはや楽しくない。突然相手のパンチに井上の首がねじれ、しかしなぜか相手がダウンしている。数回見なければなにが起こったか理解できない。その理解の難しさは、すなわち現実の理解の難しさである。昔のダウンした、ダウンしかえした、の二転三転ボクシングとは遠い世界になったが、それと比例して現実社会も複雑になり、知的になっている。井上尚弥のボクシングはだから、ストレス解消には(私のような鑑賞ヘボには)まったくならない。ただの勉強である。
スポーツ以外では、囲碁将棋もそうなっている。10年以上前から、Aiに解析させながら終盤戦を鑑賞するようになった。今は意地悪く「先手は間違えた」「後手は間違えない」と論評しなが観戦する。ということはつまり、昔よりも一般のファンは、戦われている内容を理解できなくなっているのである。なぜって一般人がウンウン考える時間が減ったから。
スポーツを見ても将棋を見ても、どんどん理解が難しくなってゆく。物語もそうだろう。大昔には、物語は世界理解へのとっかかりになっていたのだろう。今日では世界理解への妨げになっているかもしれない。なぜって、複雑な物語でなくては意味をなさないほど世界が複雑になり、かつ複雑な物語は複雑であるがゆえに理解が難しいから。
2021年8月19日木曜日
野球の便利さ
ダラダラとスポーツ話になるが、オリンピック中ソフトボールや野球をみて、実は感心した。子供の頃からテレビ観戦するのは野球だったから、こちらに知識がある。そのことを差し引いても、野球のほうが理解しやすい。
フォファボールで出塁→バント成功→凡退、しかしランナー3塁へ進塁→三振、2アウト→カウント2-3、という感じでドラマがじわじわと盛り上がる。盛り上がった上でのタイムリーヒットは、快感である。ソロホームランをあるにはあるが、ドラマの組み立てとしては野球はやはり優れている。
これがサッカーだと、突然点が入る。うっかりしていると見逃す。点が入るには入るだけの原因があるようなのだが、素人が画面見てドラマとしての盛り上がりを体感するのは難しい。あっさり点が入り、あっさり点を取られ、他大部分は一進一退の退屈な攻防である。
サッカー解説者もずいぶん進歩したから、昔よりは楽しみやすい環境になっているはずである。海外のサッカーの戦術の研究も進んでいる。でもやはり野球のほうが楽しみやすい。このカベをサッカーは乗り越えられるのか。難しいと思う。守備と攻撃で装備が違うことが、野球のわかりやすさの最大要因である。サッカーは無理である。
もしかしテレビ画面に、「両チーム累計走行距離」「保持率」など各種数値がリアルタイムで表示されれば、もう少しなんとかなるかもしれない。