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2021年8月23日月曜日

作家と記憶力

 前回動画で手塚の記憶力が凄いというのがわかった。黒澤明も凄い。


https://note.com/fufufufujitani/n/n6039e0dd7a98?magazine_key=m13e8d289d960


ご参照ください。今みたいなディスプレイ並べた環境ナシで、複数本のフィルムを一気に編集できる。宮崎駿も凄い。動画今見当たらないが、、、

彼らは映像作家だから凄いわけではない。文章作家の志賀直哉も凄い。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%97%E5%A4%9C%E8%A1%8C%E8%B7%AF


「謙作が大山の地に立ったときの大自然の描写は、志賀がこの作品を書く数十年前に大山を訪れた時の記憶だけで書いたと言われる、日本文学史上白眉とされるものである。」

読んだ感じでは、トルストイも凄い。太宰は並。三島は普通に優秀。シェイクスピアはよくわからない。確実に記憶に問題ある人物一人いて、ドストエフスキーである。


以前に書いたが、ドストエフスキーはてんかんの発作があり、発作後はしばらく記憶喪失状態だった。重要な点を忘れてしまって作品書いてしまって、後で「構成を台無しにしてしまった」と悶絶していたようである。気の毒だが、だからこそキャラ配置に凝って、おそらく作品の組み立て間違いにくくしてある。

というわけで記憶力は作家に必須の能力ではないが、作家には記憶力が優れた人物が多い。

2021年8月22日日曜日

スポーツ観戦と記憶:【天才過ぎる】原稿を描かずにアメリカに行ってしまった手塚治虫。前代未聞の国際電話で原稿を仕上げる事を決意する。【岡田斗司夫/切り抜き】


手塚が「自分の書いた全作品、全コマ記憶している」という話である。

それで、こういう記憶力持った人物がスポーツ観戦するとどうなるんだろうな、と思う。てゆうか監督できるんじゃないか。運動神経よければ名選手になれるんじゃないか。イニエスタなんかいかにも記憶力高そうな顔している。

昔ジーコが「私は一度運転した道路は忘れない」と言っていた。「ホームチームが有利なのは、スタジアムの風景を暗記しているからだ」とも言っていた。スポーツも実は、記憶科目なのではないか。

江夏豊が「王、長島と対戦した時の配球を思い出しながら解説できる」という話も聞いたことがある。実際の対戦から20年経っても、1球1球配球の意味を説明しながら再現できる。超人的な記憶力だから、それゆえに、記憶力に復讐される。突然場外ホームランを打たれる。驚いて飛び起きる。全身ぐっしょり汗をかいている。よく見る夢だったそうである。引退から何十年たっても、記憶力が良すぎて、現役時代の恐怖がいつでも再現される。

つまりおそらく、江夏は「野球物語」ストーリテラーとしては、手塚レベルの天才だったはずだ。だから、細かく聞いてくれる人が居たからだが、「江夏の21球」が成立した。

物語作家の偏差値はだいたい記憶力に比例する。私は劣等生だから章立て表作るが。

2021年8月20日金曜日

物語としてのスポーツ

 スポーツは時系列上に存在するから、物語の一種である。しかし鑑賞しやすいわけではない。戦術が高度になればなるほど、鑑賞しにくくなっている。


恥を承知で言えば、私の動態視力では、井上尚弥の試合はもはや楽しくない。突然相手のパンチに井上の首がねじれ、しかしなぜか相手がダウンしている。数回見なければなにが起こったか理解できない。その理解の難しさは、すなわち現実の理解の難しさである。昔のダウンした、ダウンしかえした、の二転三転ボクシングとは遠い世界になったが、それと比例して現実社会も複雑になり、知的になっている。井上尚弥のボクシングはだから、ストレス解消には(私のような鑑賞ヘボには)まったくならない。ただの勉強である。


スポーツ以外では、囲碁将棋もそうなっている。10年以上前から、Aiに解析させながら終盤戦を鑑賞するようになった。今は意地悪く「先手は間違えた」「後手は間違えない」と論評しなが観戦する。ということはつまり、昔よりも一般のファンは、戦われている内容を理解できなくなっているのである。なぜって一般人がウンウン考える時間が減ったから。


スポーツを見ても将棋を見ても、どんどん理解が難しくなってゆく。物語もそうだろう。大昔には、物語は世界理解へのとっかかりになっていたのだろう。今日では世界理解への妨げになっているかもしれない。なぜって、複雑な物語でなくては意味をなさないほど世界が複雑になり、かつ複雑な物語は複雑であるがゆえに理解が難しいから。