「闇の奥」
https://note.com/fufufufujitani/n/n3e0c750e44c8
のような作品は、当時のアフリカのリアルな惨状を描写し、その裏で神話物語を描いている。表裏合わせて意味になる。
だから物語が現実から飛翔しているように感じられるが、その実神話は、自分たちの神話、自分たちのアイデンティティーなのである。つまり現実からはさほど飛翔していない。神話を上限値として現実に着地している。
似たような例では、「君の名は」
https://note.com/fufufufujitani/n/n5518c0062fb9
表面ではややとっぴな取替物語である。しかし裏にはアマテラス・スサノオ神話があり、裏もさのみ飛翔しない。表面の物語と裏の物語、飛翔度は実は同じくらいである。
ながなが説明したのは、物語は確かに架空のものだが、その架空度というか現実からの飛翔度は上限値があり、そこを外れすぎてしまうとメジャーなものにはなりにくい。
SFというジャンルの栄枯盛衰がこのあたりの事情を端的に表現している。日本でもかつてSFが流行った。今は流行らない。中国では今流行っている。今現在「科学の進歩神話」を信じられる人々の間でのみ有効な物語であり、「科学の進歩神話」が生活から遠ざかると無効になる物語なのである。架空の上限値を突破してしまうのである。
物語を支配するこの架空の上限値が、物語に構成を発生させる第一原因だと思っている。
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