2026年4月14日火曜日

中国共産党中央政治局委員 李書磊(りしょらい)

 昔「拳児」という漫画に、李書文という武術家が登場していた。清~中華民国のころの人である。無茶苦茶強かったらしい。

しかし今回取り上げるのは名前が少し違って、李書磊という人物である。李書文の「文」の字が「磊」、豪放磊落の磊に変わって、より一層強そうになっている。しかし写真で見ると、


全く強そうではない。ただ頭は良さそうである。それもそのはず、子どもの頃は神童と呼ばれ、なんと14歳で北京大学に入学している。専攻は文学。卒業後順当に学者になったのだが、官僚としても出世して現在は中国共産党中央政治局委員である。日本で言えば閣僚級、権力的にはそれよりずっと上である。文学研究者が政治家として活動している。それが現在の習近平体制の中国である。

ハイレベルな文学を持つ国、文化は実は少ない。文学、文化を十分政治に活用できているのは、英語圏と、ロシア、イランのみである。インドとイタリアは個人としては傑物を輩出するが民族として実行力、意志力に乏しいため考える必要がない。中国はただいま文化大革命のマイナスから復興中である。日本は少し変わっている。一般庶民のレベルは恐らく世界最高、インテリの文学レベルはよろしくない。詳しくは、

心の理論(Theory of Mind)1・サリーとアン

参照いただきたい。

それで、現在ニュースに登場する世界の指導者の文学力を見ると、

1,ロシアのラブロフ外務大臣、彼は詩人でもある。

2,イギリスのボリス・ジョンソン元首相。ホメロス「イーリアス」を原語で暗唱できる。

3,イランの政治家たち、彼らは基本文学的素養が高いと見るべき。イラン映画を鑑賞すると体感できる。

イラン映画のご紹介

4,(故人だが)安倍晋三。本人「映画監督やったら私はけっこう成功できたのじゃないか」とか言っていた。物語理解力に自信があった。

という分布になっている。アメリカが没落する理由もだいたいご理解いただけると思う。トランプはプロレス好きで、プロレスは演劇の一種だからトランプ自身に素質はある。しかし周りの人間が資質に乏しい。ヴァンスは文学的だが、まだ弱い。

「ヒルビリー・エレジー」あらすじ解説【J.D.ヴァンス】

ホワイトハウスはだから現状、ロシア、中国、イランに振り回されている。文学力で敗北しているのである。もっともそれ以上にやっかいなのはイギリスのボリス・ジョンソンかもしれない。トランプのストレスの過半数は彼が一人で作っているような気が、時々する。

話を戻す。中国は元来政治的洞察は非常に得意だった国である。過去形なのは毛沢東の文化大革命で文化そのものを後退させて、自分で自分のメリットを殺してしまったからだ。そもそも毛沢東自身がかなり優れた文人だったので、自分の他に文化人が必要なかったとも言える。

しかし近年は文学が国家戦略に必要だと感じたようで、中国政府として取り組みをしている。そのための人材が李書磊である。こういう人物が閣僚に居る以上、残念ながら安倍晋三なき日本よりも現時点で中国のほうが文学力、つまり外交力および戦略力が上であると見た方がよい。

だいたい日本人は戦前からさほど進歩しておらず、敵対する勢力に対しては悪口、罵詈雑言を浴びせるだけで、相手の長所、優位性を客観的に分析しようとしない。客観的に分析しないので対応策が見つけられない。対応策見つけられないので戦えば必ず敗ける。つまり罵詈雑言とは敗けるための努力である。実にくだらない。まずは罵詈雑言をやめましょう。相手を認めることです。ロシアは強く、イランも強く、今現在は中国も強いのです。

その李書磊の文章を探していたのだが、あまりネット上に存在していないのだが、かろうじて見つけた。

https://www.sdx.sh.cn/info/2411/84881.htm

Geminiで翻訳した。非常に良い文章で含意が多い。是非慎重に読んでいただきたい。分かりやすい文章だが、十分文学になっている。

宦読(かんどく)人生

古来、「学んで優なれば則ち仕(つか)う」と言われ、官に就く者は皆、詩書を嗜む者であった。これは実に素晴らしいことであり、称賛に値する。しかし、私が真に称賛したいのは「書を読んで官に就く」ことではなく、「官に就いて書を読」むことである。

書を読んでから官に就くというのは、どこか読書を「科挙の門を叩く石(道具)」として利用している感があり、読書の価値も、官吏という職業の価値も貶めてしまう。対して、官に就いてから書を嗜むことこそが、一種の風雅であり、大きな器の表れであり、真の修養といえるのだ。

官吏とは、おそらくこの世で最も深く俗世に関わり、最も多くの人間を観察する職業であろう。その職にありながら、古今東西の経史子集(あらゆる文献)を博覧するならば、どれほどの知恵と悟りを得られることだろうか。かつての官吏が千里の任地へ赴き、清廉潔白に、壁一面の書巻に囲まれる。昼は公務に奔走し、夜は灯火の下で読書して真理を噛み締める。それは人生の最高境地に極めて近い。

こうした境地を語ることは、いささかロマン主義的に過ぎるかもしれない。官界とは実に人を摩耗させる場所であり、複雑で危険な人間関係の葛藤に陥らざるを得ず、日々悩み、煩わされるのが常である。しかし、官界には往々にして、その煩わしさを引き受けつつ克服してしまう高潔な人がおり、その煩わしさの傍らで清らかな心を持ち学問を問う、道を極めた者がいる。

聞くところによれば、曾国藩は生涯、半日を執務に、半日を読書に充て、激しい戦時下にあってもこの例を廃さなかったという。これは一つの模範と言える。曾氏が読んだのは治国や兵法に関する本ばかりではなく、哲学に心を寄せ、詩詞をこよなく愛した。以前、彼が亡き弟を悼んで詠んだ「帰去来兮、夜月楼台花萼影;行不得也、満天風雨鹧鸪声」という対句を目にしたことがある。情愛が深く、趣が豊かで、この短い一聯を見ただけでも、彼がいかに文章や民間の詞曲に深い造詣を持っていたかが分かり、感慨に耽らされる。

実のところ、官界の是非(しがらみ)の中に身を置くほど、読書によって雑念を払い、心を養うことが必要になるのだ。読書を実用に役立てることは二の次である。読書の至高の境地は「心を養う」ことにあり、「道を悟る」ことにあり、人間性への理解と共感に到達することにある。宇宙への洞察と帰依に、そして個人の人格の豊かさ、力強さ、そして余裕を成し遂げることにあるのだ。

中国の古典文学や哲学を紐解けば、中国の主流文化は、実は官吏たちによって創り出されたものであることに気づく。この事実は、古代の「宦読人生」に対し、無限の郷愁を抱かせる。

官に就くことは「大俗(極めて俗的)」であり、書を読むことは「大雅(極めて雅)」である。俗なる官吏の立場から見れば、この「大雅」は「大俗」に対する一種の救済である。一方で、雅なる読書の立場から見れば、この「大俗」こそが「大雅」を成し遂げさせる背景となっている。

中国文化史において、書斎に閉じこもりきりで死んでいった学者は、往々にして視野の狭い「陋儒(ろうじゅ)」に終わるが、各地を官吏として巡った者たちは、しばしば文化的な英雄となった。国を治め天下を平らげるという事業が、図らずも学問や文章に不可欠な「フィールドワーク」となったのだ。これもまた、歴史と運命の妙と言えるだろう。

かつて、ある高級ホテルのプレジデンシャル・スイートを見学した際、そこは宝石のように輝き、豪華の極みであった。しかし見終わった後、私は敬意を抱くことができなかった。理由は単純で、そこに「本」がなかったからだ。

いかに高い官職に就こうとも、本を読まなければただの俗吏に過ぎない。逆に、読書と思索の種を抱き続けていれば、官職の有無や大小など何の問題でもない。

私が憧れるのは、学問を志す者が実社会での経験や実践の志を失わず、実践する者が学問や道を求める心を失わないことである。生きとし生けるものが、この塵まみれの俗世での修行を通じて悟りを開き、人間の円満と完成に到達することを願ってやまない。(終わり)

いかがだったろうか。「普通の内容だな」と思った方は、是非もう一度お読みいただきたい。組み立てが上手すぎ、表現が繊細すぎて優れていることが分かりにくい文章だが、曾国藩の「帰去来兮」の引用だけでも、著者が一筋縄の人物で無いことが理解できる。「帰去来兮」は「帰りなんいざ」と読む。陶淵明の「帰去来兮辞」の冒頭である。現代中国人は割と宋明の詩を好むようだが、彼は南北朝、唐の詩も頭に入っている。著作で詩経を論じたこともあるらしいが私は読んでいない。20代のころ2年間、世俗の交わりを断ってひたすら古典の読書に没頭していたらしく、中国文明を自分の中に集約させている。だから官僚の中でもトップクラスに居ながら、官僚社会からドロップアウトした陶淵明を視野に入れられる。毛沢東時代の勧善懲悪の幼稚な路線からは、文化として大幅に進歩しているのがおわかりいただけるだろう。

つまりここで表現されているのは、文化大革命からの完全な脱却、中国の士大夫文化の復興である。おそらくアメリカの政治状況を観察し、伝統文化に立脚しない文明のあり方はやがて行き詰まると考え、現状の経済至上主義から抜け出して、伝統的中国の良さを取り戻したいと考えていると思われる。

その内容を肩に力を入れず、上記の如く優しくソフトな文章で表現できている。つまり、実力がある。

彼こそは尊敬すべき敵であり、愛すべきライバルである。素晴らしい出会いに感謝しつつ、我々も負けじと努力すべきなのである。

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