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2013年8月18日日曜日

芸術作品の見方について

先日宮台真司氏の「風立ちぬ」感想を聞いた。
宮台氏は細田守を高く評価するなど、十分鋭い感性の持ち主である。
しかし「人物描写が不十分だ」などど言っていた氏の論評を聞きながら思った。
氏は芸術を論じる上での基礎が出来ていない。
(氏は風立ちぬに批判的だったが、その事自体はどうでもよい。
モナリザは大芸術だと思うが、私はモナリザが嫌いである)

基礎が出来ていないのは一人宮台氏の問題ではなく、
巷にあふれる論評の多くがそうであり、
そうであるならば、社会全体の問題である。
私見では根本原因は国語教育にあり、
私も随分反発してきたものだが、
今にして思えば国語教師も、大学の文学部教授も、基礎がわかっていなかった。

それは彼らの能力が足りないのではなく、
社会全体の智慧の蓄積が不十分だったのである。
それをこれから説明するのだが、
基礎と銘打つ以上、あっけないほどに簡単である。

聴覚世界は最低5分割するとわかりやすい。
1、数
2、固い言語(法律用語、学術用語、電化製品取扱説明書)
3、通常言語
4、芸術言語(女性言語はしばしばこの領域に踏み込む)
5、音楽
ちなみに本当は音楽は振動数の比で成り立っており、
5は1につながる、という円環構造になっているのだが、
図を作るのが面倒なのでこれで説明させていただく。

1、数字
1と1.1は別の数であり、1.1と1.11は別の数であり、1.11と1.111は別の数であり、1.111と1.1111は別の数であり、
数字それぞれは互いに排他的であって、どこまでいっても互いに侵食することがない。

2、固い言語
できるだけ数字のように、ことばそれぞれが明快に一つの意味を持つように構成された文章。
数字のように完璧にセパレート出来るわけではないので、しばしば誤解を生むし、
読みにくい文章になる。しかし出来るだけ明快になるように指向されている。
3、通常言語
文字通り通常の言語である。この文章は少々2寄りの3である。

4、芸術言語
出来るだけ言葉の意味同志が重なるように作られた文章。
明快に単一のものを指し示すことを、可能な限り回避する。
たとえば
花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
などは可能な限り意味を重ねて作られている歌である。

5、音楽
具体的な意味が全くなくなり、
芸術言語にあるような情緒性と、数的比率のみがある。

現代国語などで扱うのは、主に2ないし3の世界である。
それは構わない。仕事に使う領域なのだから。
まれに4を扱うが、うまく扱えない。マルバツが出来る世界ではないからだ。

文章を読む際にまず考えなければならないことは、
その文章が2なのか3なのか4なのか、ということである。
だいたいの目処がつかないままで取り組むので、わけがわからなくなる。
この5分割、中学生くらいで教えるべきだと思うのだが・・・

そして、映画もしかり。
ドキュメンタリー映画、記録映画は2である。
通常の娯楽映画は3と4の間である。
芸術映画は4を乱発する。

今回の風立ちぬは一見歴史系なので、
2と3の中間にあるように見えるところが、分かりにくい点である。
実際にはベタベタの4だ。
ベタベタの4であるならば、
菜穂子の人物描写が不十分、という批判は的はずれなのが分かるだろう。
なぜならば、あれほど詳細に戦闘機を描いたのだから。

(分かりにくい方は、以下を参照ください)
含むネタバレ 風立ちぬ・解説10

2013年8月16日金曜日

おおかみこどもの雨と雪・解説6

例えば3セット取り出して考えてみる

母が吐くと父は鳥をとってくる
息子が吐くと姉はさぎを取ってくる

父(狼姿)は鳥を獲ろうとして川に落ちて死ぬ
息子(狼姿)は鳥を獲ろうとして川で死にかかる

父と花のアパートには燕の巣
息子の家出の前に燕の巣が倒壊

以上3セットは
1、鳥が狼の命の象徴であること
2、鳥に去られた時、狼の命運が尽きること
3、鳥の巣つくられた時点で母と狼族の生活が始まり、
なくなった時点で生活が終わること
を表現しようとしている。

言うまでもなく神道では、鳥居、つまり鳥の止まる木を、
聖なる境界としている。
鳥居は日本および照葉樹林帯特有の習慣だから、
日本および照葉樹林帯に住む人々を表現したのが、狼族である。
では鳥を獲らないでも生活出来る母親の花はなにか。
狼族ではにない。つまり日本人および照葉樹林帯の人間ではない。
私の考えでは阿弥陀如来だが、あるいは他に解があるのかもしれない。

2013年8月15日木曜日

おおかみこどもの雨と雪・解説5

おおかみこどもの雨と雪は、
実はストーリーらしきストーリーがほとんど無い、
極端に薄い物語である。
12年以上に渡る長きを2時間で、駆け足で通り過ぎる。
だから話は薄くなって当然である。
通常ならばバラバラになるその薄さをつなぎとめる留糸が、
対句的表現である。いや厳密には対句ではないのだが、
説明が難しいのでまずはざっと見ていただきたい。

父は桃缶を妊娠中の妻に食べさせる
息子は桃を狐の先生に献上

母が吐くと父は鳥をとってくる
息子が吐くと姉はさぎを取ってくる

父(狼姿)は鳥を獲ろうとして川に落ちて死ぬ
息子(狼姿)は鳥を獲ろうとして川で死にかかる

父と花のアパートには燕の巣
息子の家出の前に燕の巣が倒壊

息子に脱脂綿で乳を含ませる
草平くんの耳の傷には脱脂綿がテーピングされている

娘が吐いて母(花)は獣医か小児科か迷う
息子は吐いて狼はいやだと言う

娘が落としそうななったビンを母はナイスキャッチする
韮崎家から木酢液のペットボトルをもらう

娘が倒しそうになったタンス(四角い箱)を母はからくも支える
韮崎家から冷蔵庫(四角い箱)をもらう

娘の先生(草平くん)に母が差し出すのは緑のジュース
息子の先生(狐)に母が差し出すのはピンクの桃

娘は子供の頃緑の離乳食を食べている
娘の先生は緑のジュース

雪は草平からみかんとパン(丸いものと平らなもの)をもらい 
花はきつねに桃と油揚げ(丸いものと平らなもの)を出す

雨が狐の先生に連れてゆかれた岩沢から見る湖には雲が映っている
花の駐車場の水たまりには雲が映っている

他にもあるだろうが、発見できたのは以上である。