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2013年9月1日日曜日

日本アニメ映画芸術爆発の原因

おおかみこども、風立ちぬ、それ以前ならば押井の攻殻、あるいはもののけ、なんでこんなに素晴らしい作品が生み出されるのか、私は本当のことを言うと理解できていない。

ルネサンスの芸術には、メディチ家というパトロンが居た。メディチ家はようするに、王様である。バッハ、モーツアルト、ベートヴェンは、生活のかなりの部分を教会や貴族に依存していた。ドストエフスキーやトルストイは、そもそも貴族である。
今日本には貴族は居ない。お金持ちがパトロンになってアニメを作らせている、わけでもない。なんでこんなに名作が生まれるのか理由がわからん。とりあえず仮説を立ててみた。

1、日本至高説。日本の大衆社会が大変高水準なものになっている。高度な芸術をやすやすと理解できる、かつての貴族階級の如き教養程度が高く文化的な大衆が大量に存在している。
(これは、私自身もその高水準な大衆とやらに加われるから、大変心地よい仮説である)

2、脱落アニメーター説。アニメや漫画のプロになろうとする若者は、わんさか居る。そして毎年毎年、その過酷な競争と劣悪な環境に敗れて、その業界から去る若者はわんさか居る。かれらはプロとしては続けられなかったかもしれないが、若干年でもプロの飯を食ったわけで、そいいう連中は消費者としては超一流になる。良い仕事を確実に正当に評価出来る元プロが、アニメ業界にはおそらく数万以上の単位で存在する。かれらが消費の中心となり、クオリティの高い商品の生産を促している。

3、国風文化説。映画はアメリカのものであった。アメリカが優れていた、というより戦争直後は世界のGDPの50%をアメリカ一国で占めていたのだから、みんなアメリカ文化にあこがれて当然であった。しかしその比率は20%までに落ちた。もはやハリウッドは、年がら年中人類が絶滅の危機に陥り、年がら年中危機から間一髪で救われるという、ワンパターンな作品しか作れなくなっている。それってそもそも危機じゃあないんじゃない?まるで映画だ、という意味を成さない文句はさておき、アメリカ映画へのあこがれ、逆に言えばアメリカ文化の圧迫が日本からなくなった。唐王朝が衰退して日本に国風文化が発達したように、アメリカが衰退して第二次国風文化が芽生えつつあるのである。

以上3説、どれももっともらしく思える。どれもあてはまるのかもしれない。よくわからない。

一般的に言って、多民族社会というのは文化生産能力は人口に割りに低くなる。ローマ帝国とギリシャ都市国家の文化力を比較せよ。最初のうちはローマも元気はあったが、帝国として肥大しすぎると、コロセウムの見世物、つまり今のハリウッド映画みたいなのしか作れなくなった。(唐王朝は?いやあれは後漢滅亡から400年かけて鮮卑中国人なる民族が成立したと見るべきだろう。)

文化とは民族のアイデンティティを決定するものであり、多民族社会に文化は生まれにくい。アイデンティティがぶつかり合ったら、社会が崩壊するのだから、文化生産にブレーキをかけざるをえなくなるから。

おおかみこどもの雨と雪・解説7

構造はまだ解析中なので一旦お休み。
画風についての解説である。

細田監督は富山出身である。
おとなりの石川県能登の出身の画家が、
長谷川等伯である。




http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/65/Hasegawa_Tohaku%2C_Pine_Trees.jpg/1024px-Hasegawa_Tohaku%2C_Pine_Trees.jpg

図は「松林図屏風」と言って、百済観音とならんで「国宝中の国宝」と位置づけられている作品である。ちなにみ言えば、百済観音も、絵画と彫刻という違いはあれど、松林図屏風のように柔らかく、瞹瞹たる表現で人気があるから、これらは日本人の根源的な好みを反映しているのではないかと思われる。


元来日本は降水量に恵まれた風土だが、北陸の石川、富山のあたりは、四季を問わず特に湿気が多い。湿気が多い環境のなかから生まれた画家が、古くは長谷川等伯であり、あたらしくは細田守である。

例えばジブリの作品が、線をくっきりと書き、濃く、強く、立体的であるのに比較して、細田は線を細く、淡く、柔らかく描く。その背後には、明快に長谷川等伯の美意識がある。


あるいは黒澤との比較では、黒澤はレンズの絞りをギリギリまで絞り込んで、近くから遠くまでピントが合った(被写界深度が深い)、シャープな画像を好んだ。そのため画面は密度が高く、劇的だが、時として少々どぎつすぎる傾向もある。対して細田のは、構図感覚は黒澤に近いが、被写界深度は浅めである。構図による遠近法より、空気により遠近法を好む。全てを明快に見せようとはせず、あいまいな暗示によって悟らせようとする。


以上をまとめれば細田は、黒澤、宮崎よりもより湿潤であり、より日本的と言える作風を持つ。そしてそれはおそらく、北陸の風土と北陸の文化の伝統が根底にあると思われるのである。


2013年8月20日火曜日

カラマーゾフの兄弟をよみとく 追加2

蛇足でダラダラ書く。
カラマーゾフの兄弟は、全13章ある。
単純計算で中心は第7章になる。

第7章のタイトルは「アリョーシャ」。
ゾシマの死体が腐臭を発するなかで、
アリョーシャは「カナの婚礼」の夢を見る。
新約聖書ヨハネ伝の一節を、夢の中で再現し、
イエスの姿と、死んだはずのゾシマの姿を見る。
夢から覚めたアリューシャは、
外に走りだして、大地につっぷして涙を注ぎ、
立ち上がった時に「一人前の男になっていた」。


中間すっとばして結論を述べる。
西洋文明には2つの源泉がある。
ヘブライズムとヘレニズム。
言い換えれば聖書文明と、ギリシャ文明である。
聖書文明の代表的存在は無論イエスキリストである。
ではギリシャ文明の代表は。
ドストエフスキーがここで代表として取り上げたのは、
ソフォクレスの「オイディプス」である。
運命により、知らずして父を殺し、知らずして母と性交してしまい、
のちにその事実を知り、絶望の余り自らの目を潰してしまう王の話である。

カラマーゾフはそのまんま、父殺しの物語である。
そしてアリューシャがつっぷして涙を注いだのは、母なる大地である。
無論ここは、母なる大地と性交して射精した、という意味である。
だから一人前の男になった。
その性交の直前に、父のように慕っていたゾシマのなきがらに側におり、
夢にイエスとゾシマを見る。

マクロな意味でのカラマーゾフの主題、というか達成課題は、
ヘブライズムとヘレニズム、2つの文明の融合である。
同様のことはゲーテがファイストでやろうとしたのだが、
ファウストはぶっちゃけ成功していない。バラバラ感丸出しである。
対してドストエフスキーは成功した。
だが成功しすぎたせいで、このような構造が余り評価されていないのかもしれないから、
難しいものである。


さらに蛇足を。
映画の名作「ゴットファーザー」は、「カラマーゾフの兄弟」のパクリである。
父は死ぬ。長男は血の気が多い、次男は陰気、三男は堅実に生存して次の物語に続く。
ご丁寧にスメルジャコフ役として、トムヘーゲンという養子まで用意している。
だから名作なのだ、とも言える。

ゴットファーザーでの暗殺シーン、
バルジーニは銃で撃たれて階段を転げ落ちる。
明らかに「戦艦ポチョムキン」のパクリである。
それが証拠に、パーツⅢではコルネオーレ一族が階段を転げ落ちて、
マフィア世界の王座を転落する。
権力からの転落を、階段からの転落として表現している。

ということで、「ゴットファーザー」は、
文学の最高傑作「カラマーゾフの兄弟」と、
映画史最初の芸術映画「戦艦ポチョムキン」を、
ドッキングさせた、非常に大きな構想を持った作品なのである。

似ている、ヘブライズムとヘレニズムをドッキングさせた「カラマーゾフの兄弟」に、
あるいは、荒事と和事をドッキングさせて、
終幕に「堀越二郎と堀辰雄に敬意を込めて」としるして、
そのドッキングを暗示した「風立ちぬ」に似ているのである。