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2013年10月6日日曜日

千と千尋の神隠し 考察3

引き続き名前についての考察。

「ちひろ」が名前を奪われて「セン」になる。
訓読みが音読みになる。

音読にというのは、ようするに中国音である。
時代によっても場所によっても発音はかなりまちまちで、
日本語にも呉音漢音唐音宋音と様々な時代の音読みが混在しているのだが、
細かいところは省略して、ようするに中国音である。

訓読みというのは、意味である。
特定の漢字ないし漢字熟語に対応するやまとことばを、
その漢字の読みとして使う用法である。
例えば「名」という漢字を、アメリカ人が「ネイム」と読んだ場合、
それはアメリカ風の訓読みになる。

ちなみに中国とは実態のある呼称ではない。
四方に周辺民族がおり、それら周辺民族が互いに交易をする。
交易する場所は当然ながら中心地帯で、
そこに市が立ち、市はやがて大きくなり都市国家に成長し、
都市国家は戦争により統合されてゆき最終的には帝国になった、それが中国である。
様々な民族の中心にあるから中国であって、
周辺がなくなれば中心もなくなる。
周辺の民族は様々な言語を持つ。
当然ながらそれらの意思疎通は大変困難である。
そこで、象形文字を使って意思疎通をする。
その象形文字は、後に漢字という呼ばれ方をするのだが、
例えば同じ「千」という漢字でも、
周辺にいる限りにおいては、どのような読み方をしても構わない。
日本人なら「ち」と訓読みし、アメリカ人なら「サウザント」と訓読みするであろう。
しかし中国にいる限りは、象形文字に付着する音を使うことが多い。
この場合「セン」である。

音読みをされた「セン」という名前はつまり、中国化された名前である。
名前をうばわれるということはつまり、
中国化する、民族としての独自性を失うという意味を持つ。

西戎北狄もの千尋も名前を奪われたし、
東夷南蛮のハクも名前を奪われた。
ともに中国人になったのである。
湯婆婆のところで働くとは、そういう意味を持つのである。

湯婆婆の会社は、
「油屋」である。
なんと発音するのかは劇中では不明である。
発音の選択肢としては
(音読み+音読み)ユオク
(訓読み+訓読み)あぶらや
(音読み+訓読み)ユや
(訓読み+音読み)あぶらオク
の4種類ある。
通常旅館の屋号で「油屋」と使う場合には、
「あぶらや」と読む場合が多いようである。
しかしこの作品の中では、
油屋の油と屋の字の間に、丸に湯というマークが記されている。
湯はゆが訓読み。トウが音読みである。
屋号の頭の字の音読みと、商品の訓読みが同じ音だということに注目してほしい。
明らかに音読みと訓読みを意識させる作りになっている。

湯婆婆の姉は銭婆。
いずれも「訓読み+音読み」である。
どうもこれは徹底した音訓の物語である。

話変わってハクである。
ニギハヤミコハクヌシというのが正式名称のようである。
漢字で書くと饒速水琥珀主である。
これも問題のある名前で、
琥珀は音読み、他は訓読みである。
なんのことはない、主要な登場人物はみな音読み訓読み入れ混ぜている!!

ちなみに釜爺も訓読み+音読みである。
ものすごい一貫性である。

だから千尋はセンになった。
「ち」という名前になるわけには、いかないのである。
一貫性がなくなる。
周辺民族と中心文明の物語を、
音読みと訓読み組み合わせで描く、
まことに教養が深い。


ちなみにだが、
饒速日命(ニギハヤヒ)という神がかつて居て、
それは天皇家に先立つ大和の王権が祭っていた神なのである。
饒は豊饒の饒であり、たくさんという意味。
ようするにガンガン日が登って作物大量育成という意味である。
ハクは少し字が違って、
饒速水、水がたくさんあるのである。
川の神様だから当然である。
琥珀は古くから日本にある宝石で、
縄文時代から交易がされている。
日本での交易は海や川などの水上が主体で、
おそらく琥珀川は琥珀の交易に使われた川なのであろう。
饒速水琥珀主で
「水がたくさん流れる川で琥珀の交易やって大儲け」
という意味になるのかしら。
いうなれば、湯婆婆のような中国風の交易文明のありたかとは違う、
日本風の交易文明のあり方を体現していた存在がハクだった。
中国風の文明のありかた、すなわちグローバリゼーションである。
ハクが湯婆婆の弟子になったように
日本はグローバリゼションの弟子になることをここ最近やっていたが、
ハクのように
「どんどん顔色が悪くなっていった」。
それをやめて、
本来の名前を取り戻そう、そいいう意味もこの映画にはあるのである。
見ればわかるように、湯婆婆は外人顔、ハクは日本顔である。


さらにちなみに、
琥珀は古くから日本で交易されていたのに、
やまとことばの名前が無い。
かつては別の名前があったのだろうが、文献に残っていない。
そう「どうしても自分の名前を思い出せない」のである。

2013年9月25日水曜日

聴覚世界

http://yomitoki2.blogspot.jp/2013/08/blog-post_18.html

に書いたことの続きである。図にしてみた。


芸術言語で記載された内容は、正解が無い。
正解とは理論言語で表記するという意味であり、
違う場所にある芸術言語と理論言語を自由に行き来することは、
元来不可能だからである。


和歌を完全に理論言語で表現出来るならば、
音楽を通常言語で語れるはずであり、
関数を和歌で表現できるはずである。
だがそれは無理である。


ちなみに、現在および未来の経済政策も、
この図ひとつである程度考えられる。
IT化によって社会に循環する情報は増大した。
だいたい以下の図の感じで増大したのである。


見てわかるように、
言語、音楽はIT化によって大量にコミニュケーション量が増大したが、
数字系コミニュケーションはさほど増大していない。

Youtube使っとる10代の連中には想像もつかんだろうが、
私が若かりし日には、音楽を聞こうと思ったら、レコードなんて高かったから、
FMエアチェックなんてものをして、要するにラジオを録音して聞いていたものであるが、
今はどんな音楽でも無制限に聞ける。
音楽情報の流通は、爆発的に増大しているのである。
しかし、いいねもリツイートも、しないひとには縁がない。
確かに年々盛んになっているが、音楽、言語ほどの増殖に勢いは無いのである。


音楽、言語の増殖を担ってきた旧来型メディアの
テレビ、映画、出版社はすっかり斜陽産業になっている。
数字=貨幣情報がITによって増殖できるようになっているならば、
本来銀行も斜陽産業になっているはずである。それがそうなっていないのは、
中央銀行→市中銀行と流れる法定貨幣のシステムに、取って代わるようなシステムがまだ出現していなからである。


具体的には、
Amazonなどのポイントが貨幣化するなり
「いいね!」が貨幣化するなりの道のりではないかと思うのだが、
こういう流れは二十年くらいかつ浮かびかつ消えて、
久しく実現化したる試しなしである。


考えれば、例えば日本でも江戸中期には全国的に寺子屋が広がって、
言語のほうは大量に拡大していったが、
紙幣は地方政府の藩札こそあったものの、
その拡大は言語にくらべれば遅々たるものであった。
大規模な紙幣の広がりは、明治維新を待たなければならない。
言語の広がりより、数字の広がりのほうが遅れるのである。


その原因として考えられるのは、

1、そもそも人間は数字よりも言語が得意、
というより国語嫌いより数学嫌いのほうが多い


2、貨幣は背後に強権が必要になる。Googleくらいの大きな会社ならば強権に近いものを持っていると思うし、実際ベルギーやモンゴルよりは権力ありそうなのだが、警察権持っていないのは致命的である。国家が中央銀行を守るように、IT企業の貨幣的活動を守るようにならなきゃ、なかなか実現難しい。

あたりだろうか。

いずれにせよ信用創造の主役が交代するまでは相当なタイムラグが有る。
その間はリフレ政策でしのいでゆくしか無い、ということがこの図から分かるのである。
かなり大規模な政策転換だから、あと20年くらいかかりそうな雰囲気である。

2013年9月23日月曜日

「千と千尋の神隠し」考察2

「千と千尋の神隠し」は、
バブル崩壊で苦しむ日本の再生を願った、
宮崎駿なりの文明論的日本再生マニュアルである。


文明論としての構造はそこここらに見つけることができるが、
まずはネット上でよく言われる名前問題。
千尋のフルネームは「荻野千尋」である。
これを湯婆婆との契約書では、
意図的にかどうか知らないが、
荻の火の代わりに犬と書く。
だから名前を完全には奪われなかったのだ、とする解釈が、
ネット上で広く流布している。
間違っては居ない。
しかしもう少し掘り下げて考えてみる。


古代中国の文明では、
中国人自身は世界の中心に居る中華、あるいは中夏と表現される。
そこをとりまく異民族は、
東夷
北狄
西戎
南蛮
である。
東夷は、魏志倭人伝の正式名称
「三国志魏書東夷伝倭人の条」を見ればわかるように、
東に住む住民である。
北狄は北方狩猟民
西戎は西方遊牧民
南蛮は南方の住民である。
(このうち東と南は比較的水の多い地域に住む)


さてところで北狄の狄の字に草冠をつけると、
荻になる。
千尋は間違って火のかわりに犬の字を書いたが、
西戎は別名犬戎とも言う。
つまり荻野千尋は元来、西戎ないし北狄である。
実際最初に原っぱで沢山の石の像の、
カエルやら人やら、不気味な姿が立っているが、
これらは基本的に中央アジア遊牧民の建てる石人に類似している。


さて、千尋の異世界での仕事のメインは、
オクサレサマとハクの救済、
つまり川の救済である。
ところが、
東夷および南蛮の世界では、
川は神様であり、かならず龍の姿で描かれる。

というわけで、
「千と千尋の神隠し」は、
西戎北狄が、東夷南蛮と再会する物語ともいうことが出来るのである。