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2014年6月1日日曜日

タルコフスキー「鏡」・解読17

第三部を検討する。

第二部最終シーン、父の再帰の後、
第三部冒頭は成人時代の描写になる。
ここで妻は、第一部と打って変わって、
大変不機嫌で、大変疲れており、主人公も機嫌が悪い。
息子イグナートは火遊びをし、
主人公はそんな息子を酷評する。
しかし妻は火遊びに、モーゼの柴の予言をかいまみる。

その後幼年時代の風景が続く。

まずお手伝いが鏡を見る。
次に主人公はマッチに火をつける。
このシーンとのイグナートの火遊びとの対比は明らかである。

続いて幼年の主人公は誰かの手によって扉を開けてもらい、
納屋の中に入る。
窓ガラスが割れて、鶏が飛び出す。
この節は、幼年の主人公が火を覚えて、
納屋に入って火をつけてしまったことを暗示する。
第一部にある納屋の火事のシーン、
その火事の原因は主人公がマッチを覚え、
かつ納屋に入ってしまったことにある。

続くシーンは少年時代、親戚の家での頼みごとである。
少年の主人公は鏡の向こうに自分自身を見、
そして又初恋の少女が火をくべている姿を見る。
(と考えると、少年を納屋に入れたのは、
その直前に鏡を見ていたお手伝いである)

母が無理強いをされて鶏の首を切るとき、
ごく小さな音量で、
オープニングクレジットと同じ、BWV614が流れる。
正月を迎える音楽である。
続けて空中浮揚のシーン。
ここが全編のクライマックスである。
ここで母が罪を背負ったことで、
そして第一部と違い母の苦しみを息子が共有し、父もそこに寄り添ったことで、
ソ連の苦難の歴史は書き換えられる。

具体的には、納屋の火事はなくなる。
(無論火事を戦争に例えている)
空中浮揚する母の上を、小鳥が飛ぶ。

この小鳥は火、水、鏡にならぶ全編中重要なアイテムである。
最初に出てきたのは第二部(中間部)少年時代の兵役訓練の後である。
雪の坂で反抗した少年の頭に小鳥が止まる。
少年はそれを掴む。

そして母の空中浮揚で飛び、
続く幼年時代の茂みのシーン(ここまでに3回出現しているシーンである)の4回目に、
小鳥が茂みを横切る。

幼年時代の描写になり、
納屋の中の少年は放火をしていない。牛乳を抱えており、鏡を見ている。
続くシーンで少年は、なにかが燃えていると伝えるのだが、
実際に燃えているのは寝室のストーブであり、
納屋の火事は回避されている。

ワンシーンのみ、成人時代のシーンになる。
主人公は病臥している。
扁桃腺という言葉がでてくることからもわかるように、
第一部の母との電話の続きである。
イグナートにプーシキンを朗読させた、
ロシア皇帝とお手伝いがつきそっている。
主人公は「なにもかもうまくゆく」と言って、
ベッドで倒れている小鳥を握り、空に飛び立たせる。
これが3度目の鳥の飛翔である。
幼年時代、少年時代、成人時代、
時代を貫いて小鳥が飛んだことになる。

最後に幼年時代。
母と父が草原に寝ている。
父が言う。
「どちらが欲しい?息子か娘か?」
母は笑いながら涙を流す。
これから味わう困難を見通すかのように。

そして(老いた姿の)母に子どもたちが連れられて歩く姿を、
若い母は見る。
ヨハネ受難曲の冒頭合唱が流れる中、
少年は大きな声で、鳥のように鳴く。
そう主人公は鳥になったのである。


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2014年5月28日水曜日

タルコフスキー「鏡」・解読16

中間部は前回見たように、
ソ連の第二次大戦前後の歴史をなぞっている。
その最終節として、失踪した父の再帰が写される。
父は軍服を着ている。
ここで軍事が終わったということである。
父も子たちも涙を流している。
つらい歴史であった。

中間部の印象的なシーン、
少年のころの軍事訓練、
退役軍人の教官は頭を負傷しており、
脳膜が露出して呼吸とともに息づいている。
これはダンテの神曲、「地獄編」より
第八券、第九の嚢、
離反を生み出した罪で内臓が露出して苦しむシーンに基づいている。

文化大革命のシーン、
毛沢東の胸像が多数並べられているが、
これもダンテの神曲「地獄編」
最下層の地獄の手まで、巨大な悪魔が鎖につながれて、上半身を露出している姿に基づく。
ここでは毛沢東は悪魔であり、
その直前にヒットラーの死体の映像が流れるが、
ヒットラーが死んでもなお、新しい悪魔が生産されているという意味である。
地獄編の参照から類推されることは、
この中間部はソ連の味わった地獄を表現しており、
作者は自身の少年時代の母子関係を、それに重ねているということである。

だが、それでも父は再帰する。
再帰のシーンではマタイ受難曲、地震のレチタチーヴォが流れ、
大いなる犠牲の元に、復活と救済が予告されるのである。

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2014年5月14日水曜日

半島国家の初期化

細胞が簡単に初期化するという仮説を立てただけでこれほど大げさに騒がれるのは、
みんな細胞は簡単には初期化しないと思っている、ということである。
初期化するのか、しないのか私には分からないが、
今までやりかたが見つからなかったくらいそれくらい、条件的に難しいことは間違いない。

かつて司馬遼太郎が、
「組織は発生当時の性質を引き継ぐ」
という仮説を立てた。
細胞が初期化しづらいなら、
人間組織のような大きなものが初期化しないのは、
当たりまえである。

司馬の論拠は、江戸時代の藩にある。
「幕府成立時の藩主の振る舞いが、鳥羽伏見に反映している」
藤堂高虎は大阪を裏切って徳川にすりよった人物だが、
藤堂家は鳥羽伏見では徳川を裏切って幕府についた。
裏切りによって徳川政権成立を支えた藩は、
裏切りによって徳川政権崩壊を支える。
藤堂藩は裏切りが一貫しているし、
そういう藩が多い、というのが司馬の説である。

私なりに考えても、
毛利は関ヶ原で西軍につき、事情あって戦闘に加われなかったが、
とにかく負けた。負けて領地を減らされた。
それで260年間、毎年正月に言い続けた。
「殿、今年こそは徳川征伐をいたしましょう」
「いやまだ待て。準備が整っていない。今年は見送ろう」
こんな儀式でも260年続ければ現実化する。
徳川政権にたいする被害者意識と復讐によって作られた藩は、
徳川政権にたいする被害者意識と復讐を実現する。
毛利は被害者意識と復讐が一貫していたのである。

大日本帝国の初期条件はペリー来航である。
アメリカの艦隊に対抗する為に、新しく国家組織がつくられた。
その国家組織滅亡の過程を見れば、
司馬の仮説は正しいのではないかと思われる。
まるでゴキブリがゴキブリホイホイに引き込まれるように、
フラフラと、理性を失って対米戦争に引き込まれている。
連中が馬鹿であったというのは簡単で、事実でもあろうが、
なぜかその瞬間ものすごく馬鹿になってしまったというのが、
より正しい表現であろう。
アメリカ艦隊に戦うためにつくられた国家は、
アメリカ艦隊との戦いに吸い込まれてゆくのである。
大日本帝国はアメリカ艦隊との戦いということで、一貫していたのである。

さらに、物凄く近い例では日本銀行がある。
日本銀行はもともと、インフレ対策として設立された組織である。
だから断固としてインフレに対抗し続けた。
デフレになってもインフレに対抗しつづけた。
その初期条件の縛りを抜け出すのに、
20年くらいかかった。
経済状況の悪化で、死ななくても良い人がおそらく数万人単位で死んだ。
でも20年間、抜け出せなかった。
インフレを克服されるためにつくられた中央銀行は、
インフレでなくなっても、妄想の中のインフレを克服しつづける。
日銀はインフレと戦い続けるという意味で、一貫していたのである。
それほどまでに、組織の初期条件は恐ろしいのである。

さて、大韓民国は、第二次大戦後、アメリカによって作られた国家である。
作った目的は、日本の軍事的伸張を封じ込めることにある。
だから李承晩のような人物を大統領に担ぎ上げた。
いわば日本と敵対するために製作された国家である。
さらに言えば、反日教育を、260年ではないが、
半世紀も続けてきた国家である。

さてここで、司馬の仮説を当てはめて考えてみよう。
組織は初期化できない、という仮説を。
初期条件で一貫しつづける、という仮説を。
私はこのままでゆけば必ず、日韓間に戦争が起こると思うのである。

「新しい組織にすればいいじゃないか。
例えば北と統一国家をつくれば、新しい国家になって、
初期条件の縛りは解消されるはずだ」

そう、確かに理論上はその通りである。
しかし、
二千万人の飢えた民を抱え中国と直接国境を接する道と、
日本と戦争をする道、
どちらが韓国国民にとって得か。
私が韓国国民なら、一瞬のためらいもなく後者の道を選ぶ。

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