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2015年11月8日日曜日

艦隊派と条約派



こういう財務省別働隊の主張は本体の意向を先取りして伝える。

つまり、「マスコミさん、増税に反対してください」という意味である。
つまり、財務省はすでに消費税増税をあきらめ、
むしろ増税の結果経済が破綻してしまうことを恐れている、という意味である。
財務省の病的発狂は、ほぼ治癒されたと思って良いだろう。
あとはいかにソフトにランディングさせるかだけである。
下手な戦犯探しはしないほうが吉である。

艦隊派と条約派の争いのような争いが、
おそらく財務省内であった。
内部の抗争では増税派が勝った。
しかし経済運営の現実の前に敗れた。




これもソフトランディングの努力である。

組織というのは大変なのである。
数十年前、日本は組織の組み立てに失敗して敗戦した。
面倒くさくも高コストなことだが、
国民に求められるのは我慢の二文字なのである。

2015年4月8日水曜日

太宰治「人間失格」解説

人間失格の主人公は天皇である。
すくなくとも第二の手記、第三の手記は歴史年表構成になっている。
(第一の手記は、神話などが入り混じって明快ではない)



少なくとも太宰は、
「誰かがこれを読んでくれる」
と思って書いた。
私見では、三島由紀夫は読めた痕跡がある。
(豊饒の海四部作は、人間失格的な構成を持つ)

太宰はそれを文中で表現している。
青文字で書いている、
コメとトラ、シノムニとアントの章である。
逆の読み方をしろ、と。

そろそろ太宰の意図を、世間一般が理解してあげるべきだと思う。
原爆投下と、御前会議での聖断は、
(若干不謹慎な言い方かもしれないが)
日本の歴史の、ピークである。
日本の歴史の最大のドラマが、あの数日間にある。

それを
原爆投下=堀木の優しい微笑
聖断=モルヒネの拒否

と表現した。

「ヨシ子は着換の衣類をいれてある風呂敷包を自分に手渡し、それから黙って帯の間から注射器と使い残りのあの薬品を差し出しました。やはり、強精剤だとばかり思っていたのでしょうか。

 「いや、もう要らない」

  実に、珍らしい事でした。すすめられて、それを拒否したのは、自分のそれまでの生涯に於いて、その時ただ一度、といっても過言でないくらいなのです。自分の不幸は、拒否の能力の無い者の不幸でした。すすめられて拒否すると、相手の心にも自分の心にも、永遠に修繕し得ない白々しいひび割れが出来るような恐怖におびやかされているのでした。けれども、自分はその時、あれほど半狂乱になって求めていたモルヒネを、実に自然に拒否しました。ヨシ子の謂わば「神の如き無智」に撃たれたのでしょうか。自分は、あの瞬間、すでに中毒でなくなっていたのではないでしょうか。」

このフレーズは、日本史上最大の瞬間であると同時に、
日本文学最大の瞬間であると思う。



2014年12月22日月曜日

銀河鉄道の夜・解読4

3回出てくる言葉を、
それぞれ「模型・現物・抽象」あるいは「大・中・小」で分類すると、
以下のようになる。



あんまり綺麗な図にならない。
無念である。
解読という意味ではこのへんがそろそろ限界である。
なにしろ未完成作品だから。

以下は私の妄想である。

この小説には「三角標」という言葉が13回も出てくる。
「鉄道」などの言葉が「3回」づつ出現することからも、
全文が「3」にこだわっているものであることは確実である。
そういえば鳥取りの人も狩猟の際に足をきっかり60度に開いている。
これはおそらく人間三角標である。
そして私見では、3という数字、および三角標はおそらく三位一体教義を表現している。
ざっと解釈を説明すれば、


1)天気輪の柱が変形して三角標になった。
本文中
「そしてジョバンニはすぐうしろの天気輪の柱がいつかぼんやりした三角標の形になって、
しばらく蛍のように、ぺかぺか消えたりともったりしているのを見ました」
という部分である。この直後ジョバンニは銀河鉄道に乗車している自分を発見する。


2)天気輪の柱は「法華経」で言う多宝塔である。


3)三角標はキリスト教で言う三位一体教義である。


4)ただし、この三位一体教義は、正教会での三位一体ではない。
正教会の(本来の)三位一体教義は、私の解釈では
父:脳
子:視覚
精霊:聴覚
である。
ニケア信条を読み解く 参照



一方カトリックの三位一体教義は、私の解釈では
(あるいは私の考える賢治の解釈では)
父:大(抽象)
子:中(現物)
精霊:小(模型)
である。

「フィリオクェ問題」参照


カトリックの三位一体教義ならば、「銀河鉄道の夜」に整合的である。


5)「銀河鉄道の夜」は北十字と南十字の描写に見られるように、
一見キリスト教に寄った作品である。
しかし天気輪の柱が変形して三角標になる、
つまり多宝塔が変形して三位一体教義になることかわわかるように、
あきらかに賢治の法華経信仰を普遍化してゆくものとして描かれている。


以上で「銀河鉄道の夜」解読を終わる。
想像以上にマニアックで濃い作品である。
人間コンピューター賢治にも、
あまりにも濃すぎてついに完成出来なかった。


しかしこういう作品を構想しようとすることじたい、
かれの極端な文章能力の高さを証明している。
感触的にはタルコフスキーや宮崎駿よりも堀辰雄よりも濃い。
私が似ている感触を持つのはドストエフスキーくらいである。



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