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2021年8月26日木曜日

記憶の連鎖

 記憶力の優れた人が居て、見たものを物語化できるとする。初期段階ではそれは、「噂話」「バカ話」の類である。それが様々な部族、氏族、社会でどんどん積み上がってゆく。


すると社会の構成員には、2種類のインプットが存在しはじめる。


一つは現実そのもの

今一つは物語である。


現実は、実はいにしえよりさほど変化がない。変化するのは物語である。今日我々はかなり定型化した物語の中に生きているのと思われるのだが、原始社会ではおばちゃんの長話のみが大量に存在し、その大量の長話しの海から、徐々に物語の形式化が進んでいったと思われる。

しかしこの時点では、物語をブラッシュアップしているのか、文法をブラッシュアップしているのかわからない。「~語族」と物語の関係が今ひとつ明らかでない。


昔小泉文夫が「一つの民族は一つの歌しか持ち得ない」と喝破したことがあった。一つの歌がその民族のアイデンティティになる。他に歌があってもそれは最初の歌のバリエーションでしかない。その民族(でも部族でも、呼称はなんでもOK)の自画像というかIDカードとして文化はある。


ならば、物語もそうだろう。部族の始祖神話は、その部族特有のものであって、そも部族のIDカードになる。どうせ本当の先祖なんぞ誰にもわからない。

2021年8月24日火曜日

物語世界の誕生

 もしも視覚記憶が度外れて優秀で、サッカーの試合を1つまるごと記憶できる人が居たらどうだろう。その人はその試合の物語を完璧に語れることになる。


もっとも、90分の試合を言語で完璧に語るには、10倍程度の時間が必要になる。実用に耐えない。ビジュアル情報なしで一試合語れるのは、10分程度が限界だろう。そうでなければ、聴衆が飽きてしまう。となると100倍濃縮しなければならない。99%を削らなければならない。99%削った物語が魅力的で語り継がれるものになるか。絶対にならない。例えばこちらのテキスト速報


https://soccer.yahoo.co.jp/japan/game/live/2021080303


実際に動画を持っている人が、研究分析するのに役には立つ。章立て表のようなものである。だが章立て表がそうであるように、第三者が見て面白いものではない。よって、もしも「U24 日本スペイン戦」を物語にするには、動画と章立て表見ながら、別の仕事をしなければならない。それはより一層大胆に情報を削除し、必要とあらば架空の情報を付け加える作業である。


そうして事実を改変して作られる物語世界は、実際の試合から相違したものになる。当然である。物語は事実ではない。物語は現実ではない。しかし事実と全く関係がないわけでもない。

2021年8月23日月曜日

作家と記憶力

 前回動画で手塚の記憶力が凄いというのがわかった。黒澤明も凄い。


https://note.com/fufufufujitani/n/n6039e0dd7a98?magazine_key=m13e8d289d960


ご参照ください。今みたいなディスプレイ並べた環境ナシで、複数本のフィルムを一気に編集できる。宮崎駿も凄い。動画今見当たらないが、、、

彼らは映像作家だから凄いわけではない。文章作家の志賀直哉も凄い。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%97%E5%A4%9C%E8%A1%8C%E8%B7%AF


「謙作が大山の地に立ったときの大自然の描写は、志賀がこの作品を書く数十年前に大山を訪れた時の記憶だけで書いたと言われる、日本文学史上白眉とされるものである。」

読んだ感じでは、トルストイも凄い。太宰は並。三島は普通に優秀。シェイクスピアはよくわからない。確実に記憶に問題ある人物一人いて、ドストエフスキーである。


以前に書いたが、ドストエフスキーはてんかんの発作があり、発作後はしばらく記憶喪失状態だった。重要な点を忘れてしまって作品書いてしまって、後で「構成を台無しにしてしまった」と悶絶していたようである。気の毒だが、だからこそキャラ配置に凝って、おそらく作品の組み立て間違いにくくしてある。

というわけで記憶力は作家に必須の能力ではないが、作家には記憶力が優れた人物が多い。