記憶力の優れた人が居て、見たものを物語化できるとする。初期段階ではそれは、「噂話」「バカ話」の類である。それが様々な部族、氏族、社会でどんどん積み上がってゆく。
すると社会の構成員には、2種類のインプットが存在しはじめる。
一つは現実そのもの
今一つは物語である。
現実は、実はいにしえよりさほど変化がない。変化するのは物語である。今日我々はかなり定型化した物語の中に生きているのと思われるのだが、原始社会ではおばちゃんの長話のみが大量に存在し、その大量の長話しの海から、徐々に物語の形式化が進んでいったと思われる。
しかしこの時点では、物語をブラッシュアップしているのか、文法をブラッシュアップしているのかわからない。「~語族」と物語の関係が今ひとつ明らかでない。
昔小泉文夫が「一つの民族は一つの歌しか持ち得ない」と喝破したことがあった。一つの歌がその民族のアイデンティティになる。他に歌があってもそれは最初の歌のバリエーションでしかない。その民族(でも部族でも、呼称はなんでもOK)の自画像というかIDカードとして文化はある。
ならば、物語もそうだろう。部族の始祖神話は、その部族特有のものであって、そも部族のIDカードになる。どうせ本当の先祖なんぞ誰にもわからない。