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2022年7月31日日曜日

受動意識仮説と物語

こちらご覧いただくのが早いのだが、

 

受動意識仮説では、意識は受動的な役割しか果たさない、とする。 神経が指を曲げる情報を出した後に、意識は「よし指を曲げよう」と考える。あたかも意識自身が指を曲げ始めることができるかのように。 つまり、脳内には無意識の小人が何人も存在しており、それらの合議で行動が決定されるのだが、決定された行動の作業中にようやく意識が、「よし行動しよう」と考えている、ということである。前後逆なのである。ほぼ錯覚である。意識はあくまでも事後的なのである。意識はワンマン社長ではなかった、部下のいいなり社長だった。でもワンマン社長だと思いこんでいる。 

 

では意識はなんのためにあるか。おそらくエピソード記憶のためにある。エピソード記憶に関してはこちら。  


https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E3%82%A8%E3%83%94%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%89%E8%A8%98%E6%86%B6


エピソード記憶に関する情報が少なくて、私の論考もそこで止まっているのだが、ここがおそらく、物語論の基礎になるべき部分であろう。

 

エピソード記憶とはつまり、物語化による世界理解である。エゴは、エピソード記憶によって、言い換えれば物語によって成り立っている。 嫌なことにどうやら文化によって、受動意識仮説の受容は差があるようである。前野氏がアメリカ人に受動意識仮説を陳述すると、拒否反応だった。インド人に言うと、あっさり受け入れられた。意識に関する意識が文化で大きく異なるのである。

 

となると物語に関する意識も大きく異なる可能性が高い。ということは、世界共通の「物語論」は現状では成立不能の可能性がある。脳科学がより発展してエピソード記憶に関する多くの知識が集積したのち、はじめて物語論の基礎が確立する。それまでは各文化で勝手に、自分の文化の規定する意識から導き出された物語論を考えてゆくほかないのだろう、残念な結論だが。

2021年9月6日月曜日

架空の上限値

 「闇の奥」

https://note.com/fufufufujitani/n/n3e0c750e44c8


のような作品は、当時のアフリカのリアルな惨状を描写し、その裏で神話物語を描いている。表裏合わせて意味になる。

だから物語が現実から飛翔しているように感じられるが、その実神話は、自分たちの神話、自分たちのアイデンティティーなのである。つまり現実からはさほど飛翔していない。神話を上限値として現実に着地している。


似たような例では、「君の名は」

https://note.com/fufufufujitani/n/n5518c0062fb9


表面ではややとっぴな取替物語である。しかし裏にはアマテラス・スサノオ神話があり、裏もさのみ飛翔しない。表面の物語と裏の物語、飛翔度は実は同じくらいである。

ながなが説明したのは、物語は確かに架空のものだが、その架空度というか現実からの飛翔度は上限値があり、そこを外れすぎてしまうとメジャーなものにはなりにくい。

SFというジャンルの栄枯盛衰がこのあたりの事情を端的に表現している。日本でもかつてSFが流行った。今は流行らない。中国では今流行っている。今現在「科学の進歩神話」を信じられる人々の間でのみ有効な物語であり、「科学の進歩神話」が生活から遠ざかると無効になる物語なのである。架空の上限値を突破してしまうのである。


物語を支配するこの架空の上限値が、物語に構成を発生させる第一原因だと思っている。

2021年9月5日日曜日

リアルへの物語の回帰

 例えば漱石の「こころ」


https://note.com/fufufufujitani/n/n6b55283380ba

物語の別の層に、明治歴史物語がひそんでいる。

例えば太宰の「人間失格」

https://note.com/fufufufujitani/n/n1ca6e61dfbf8

別の層に天皇=日本の物語がひそんでいる。


市井の人間を描いているように見えながら、歴史をひそませている。

描かれている主人公の振る舞いは、あからさまに架空である。

逆にひそんでいる歴史物語は、現実に即している。


つまり物語の架空性は、増加していない。物語が重層的になって加算されたのは、現実性であって架空性ではない。裏に歴史物語を加えることによって、物語はスポーツ観戦に近づいている。リアルに近づいている。

物語にはリアルに近づこうとする力が働いているようである。